天守閣を望むビアガーデン

第2話

 時刻は午後六時を回ったところ。大阪の夏は暑い。そろそろ夕焼け空へと変わって欲しいところだが、まだ外は明るく汗ばむほどの気温を保ったままだ。約束の駅で下車した七海は、木陰のベンチで休みながらスマートフォンを確認する。連絡はまだない。

 昨夜久しぶりに再会した二人は思い出話に花が咲き、かなり遅くまで呑んでいた。大阪の街を案内するという女について行った先は小綺麗な立ち飲み屋で、美味しい刺身と魚料理をアテに数杯飲んだ。三件目にも行くんだと言ってきかない女に手を引かれ、カジュアルなイタリアンバルでハモンセラーノやチーズと共にワインをいくらか。まだまだ飲めると四件目は落ち着いた雰囲気の和食居酒屋でだし巻き卵やどて煮などと共に日本酒を少し。元より酒に強い七海であったが、彼女もまたなかなかに酒豪だった。さすがに七海のペースにはついていけず、途中で烏龍茶だのオレンジジュースだのを挟み始めた辺りでお開きとなった。時計を見ることも忘れていた七海はしまったと後悔したが、女はここからすぐのところに住んでいるので全く問題ないと言ったあとに間髪入れず「明日も夜ヒマやろ?」と次の日の約束まで取り付けた。帰り際も自宅へ送ると申し出たのに「七海土地勘ないやん」とケタケタ笑いながら七海をホテルまで送り届け、さっさと自分でタクシーを呼び止め、ナンダカンダと理由を付けてタクシー代も受け取らず、あれよあれよという間に一人で帰ってしまった。騒々しい女が去った後、ぽつり残された七海はしばらくその場から動けなかった。どうもこの女は七海のペースを狂わせる。

 約束の時間から十五分ほど過ぎたころ、仕事着だった昨日とはうってかわってフォーマルな服装の女が遠くから大きな声を出して走ってきた。右手でゴメンとポーズをとり、眉を下げて取ってつけたような謝罪をする。

「おまたせー。ちょっと向かい風が強くてさぁー」
「いま来た方向からだと追い風が吹いていますが」

 七海は呆れたと言わんばかりに大きなため息をつく。もちろん女には全く響いていない。

「連絡するよりダッシュの方が早いやろ! って思ってめっちゃ急いできたのに」

 悪びれることなく拗ねたように口を尖らせてうつむき加減で言う、その態度が憎たらしい。なぜかこちらの心が狭いかのような口ぶりに七海は眉を顰めてみせた。そんな七海の様子を女はわざとらしくチラリと伺った。目を瞑ったり開けたりと忙しない。何か言って欲しそうな態度をされると、何も言ってやりたくなくなるのは人間の性だろうか。それとも、七海がいじわるなのだろうか。昨日から幾度となく繰り出される大振りな反応は、腹立たしいを通り越してなんだかおかしくなってきた。むくれていた七海もついに噴き出し笑いをして、しまったと口元を押さえるが時すでに遅し。そんな七海の態度をみて更に女は調子づくのだから困ったものである。

 気を取り直して今晩のディナーに思いを馳せる。綺麗に整備された公園内を散策しながら予約してあるという店へ向かう二人は、昨夜の料理や酒について話していた。お好み焼きから始まり魚料理、イタリアン、和食と四件のはしご酒。たらふく食べてたらふく飲んだにも関わらず、朝起きるとお腹が減っているという不思議。七海が最後の店のだし巻き卵が絶品だったと言うと、先ほどまで隣を歩いていた女が忽然と姿を消していた。「オーイ」と聞こえてきたほうに視線をやると、お堀の周りの柵にもたれ掛かって女が七海を呼んでいる。中央の城は深い堀と堅牢な石垣で包囲されていて、御多分に漏れずこの城の堀にも水がはってある。女は水堀の中に何かを見つけたようで、指し示しながら子どものようにはしゃいでいた。こちらへ来いと手招きしている。

「なんです?」
「コイがおる!」

 柵から身を乗り出して指さす女の肩越しに水堀を覗き込む。よく見えず一歩踏み出すと、ゆるくまとめられた髪のむこうの生白い首筋を見て、七海はごくりと息を飲んだ。ふわりと拭いた風が運ぶ汗と石鹸が入り交じったエロティックな芳香は、まるで媚薬のように七海の鼓動を早める。このまま肩を抱き寄せたら、女は頬を染めるだろうか─。

「めっちゃでっかい……! 何食べてるんやろ」

 前言撤回。ムードもへったくれもない。七海は昔の想い人の無防備な姿に心揺さぶられているというのに、当の本人はそんなこと露知らず一番大きな鯉はどれかだとか、食べられるのかだとかブツブツ言いながら真剣に探している。黒。赤。金。なおも堀の中を注視する女を見て、七海はついコケそうになってしまったが、下唇を噛んでこらえた。なるほど人はこういうときにズッコケるのだと妙に納得もしながら。

 美しく整備された公園内は木々が茂り、季節の草花が植えられている。日が落ちてきたせいか、午前中のゲリラ豪雨のせいか、辺りには湿った空気が充満していた。犬の散歩やランニングをする人。観光客。デート中のカップル。部活動の学生たち。様々な人々がそれぞれの思惑で行き交うこの場所を二人で歩く。我々は彼らにどう見られているのだろう、と七海は思った。しばらく無言で歩きながら感慨に耽る七海を知ってか知らずか、唐突に女は腕を組みながら妙に低い声を出した。

「世界に誇る名城を君は知っているか……」

 凛々しく作り込まれた表情は、初対面であればなんと真面目そうな人物だと騙されるだろう。よくもまあ瞬間的に気分を上げたり下げたりできるものだと七海は感心した。先ほどまで鯉の調理法について検索し、ネットで仕入れたての知識を七海に披露して得意げな表情をしていたかと思えば、遅刻の言い訳に向かい風が強かっただの、足腰の悪いおばあちゃんを背負って横断歩道を渡っていただの、産気づいた妊婦の世話をしていただのと申し述べていたその口で、今度は歴史を語ろうというのだろうか。まあいい望むところだと、女の演技に乗ってやることにした七海は、わずかに首を傾げながら聞いた。

「教えてください」
「よかろう。あれを見よ」

 女は静かに頷き、厳かに南の方角を指さした。どうやら城の歴史を語る長老キャラでいくつもりらしい。

「あの城は、確か、大阪城……」
「さよう。今は鉄筋コンクリートじゃが、当時は贅の限りを尽くし天守閣には金箔がはられていたんじゃ。ふぉっふぉっふぉっ……」

 エア顎髭を撫で付け、女は得意そうにしている。確かに外観からはわからないが、今は大規模な改修がなされて観光客向けの資料館になっている。武将たちの兜をかぶる武将体験一回五百円も人気だという。

「これが……。当時では城下町を含め世界最大規模といわれた……。最初に建てられた城は戦乱の最中に焼け落ち、埋め立てられた後に再建築されたという、あの有名な城なんですね」
「えっ、やけに詳しいな」

 七海が一気に言い切ると女は途端にしどろもどろになり、視線は左右を泳ぎ、手を後ろに組んでもじもじさせた。キャラの作り込みが甘いとツッコミそうになった自分に七海は驚いた。しかしよく考えてみれば東京ではめちゃくちゃな先輩に日々ツッコミを入れているし、もしかしたらそういう立ち位置に在るのではないかとさえ思えてくる。

「昔、歴史小説で読んだことがある」
「ほな先言うてー!」

 もはや見慣れた女のズッコケる姿。抑揚の無い声に仏頂面の七海。二人の関係は昔から何も変わっていないと思うと七海は呆れながらもなんだかこの空気が愛おしく、また女に気づかれないようにうつむき、笑いを噛み殺すのだった。

 さて、話を今夜のことに戻そう。大阪城を嬉し楽しと周遊しているが、今日はただ観光にきたわけではない。近年この辺りは再開発が進み美しく整備されていて、カフェやレストランなどができ、おひとりさまも若者も、果てはファミリーもご老人も全人類が楽しめるオシャレな人気スポットとなったのだ。その中でも城が一望できるというビアガーデンが人気を博している。ライトアップされた城を見ながら美味しい料理とお酒が呑めるというその店は、コースもお手軽なものからリッチなものまで揃えられているのでどんな層にも対応可能。銘柄牛もブランド野菜も高級海鮮もなんでもアリ。ちょっといいコースはスパークリングワインまで飲み放題。素晴らしい。

「って、ネットに書いてた」
「アナタも好きですね」
「いえいえ七海サンこそ」

 この流れでは「ちょっとだけよ」が正しいだろうと七海は思ったが、女は嬉しくてたまらないというように笑っている。よほど楽しみらしく、その足り取りは軽い。シーフードもブランド牛の希少部位もあるしお酒は飲み放題だと浮かれて話す女の背中を見て七海は可愛らしいな、と思った。少しずつぶり返してくるあの日の感情を誤魔化しきれなくなってきている。今日だってまるでデートみたいだ。二人をただの元同級生だと知らない人が見れば、きっと恋人同士だと思うだろう。

「昨日は無事帰れたんですか」
「全然ダイジョーブ! 私今日休みやったし」
「休みなのに何故遅刻を?」
「ヴッ……! それは環状線が一周遅れてたからやってさっき言うたやん」

 また別の言い訳をする女を白い目で見ていると「まあ色々あるねん、コッチでもさ」と言って、さっと目を伏せた。その仕草からお前には関係ないと言われているようで、七海は不愉快そうに眉間に皺を寄せる。それ以降女は静かになってしまい、七海の前へ出て歩いた。隣にやかましい女がいないことを寂しく思うが、七海には呼び戻して手を取る資格はない。二人はそこまで親しい間柄ではない、ただの元同級生だからだ。予約の七時までまだ少し時間がある。日が落ちて暗くなりつつある公園を歩く。女は七海の数メートル先でふらふらしていた。七海が止まるように呼びとめると、女はくるりと軽やかに振り返ってみせた。すぐそばの石造りのベンチに座るよう呼びかける。

「蚊に噛まれるから嫌や」

 大袈裟にツンとそっぽを向いて、知らん顔をした。無視して大股で歩みを進めようと脚を上げた次の瞬間、七海は女の腕を掴んだ。驚いてバランスを崩しそうになるが、腐っても術師。ぐっと持ち直し、振り返ってこう言った。

「キャー痴漢! ……って叫ぶで」

 ニヤリと不敵な笑みを浮かべて女は七海の腕を振りほどく。すると小さな舌打ちが聞こえた。

「足を見せて」

 そう言って再び女の腕を掴むと、今度は抵抗しなかった。素直に七海について行きベンチにストンと腰を落とす。バツが悪そうに下を向く女の足元に七海はひざまづいて、オープントゥのヒールを脱がせた。かかとの靴擦れに七海が優しく触れる。唐突な傷口への刺激にぴくりと身体が震え、女は恥ずかしさからベンチの上で三角座りになってその膝に顔を埋めた。擦れた皮膚がめくれてうっすらと滲む血液が白い肌とのコントラストを強めている。かつて夕暮れの校舎のすみで見た傷だらけの女を思い出す。膝を抱えてすすり泣き、先輩に慰められていた。怪我はすぐに治ったのに、泣き止まない。先輩と目が合って咄嗟に踵を返したのは、邪な感情を悟られたくなかったからだ。そのあと七海は女の涙に心奪われた自分に嗜虐思考があるのかと少し悩んだ。でもそれは違って、見たことが無い女の感情を目の当たりにして動揺したんだろうと結論づけた。しかし今もまた傷ついた女を見て、七海は反射的に官能的だと思ってしまった。すぐにその考えを頭の中から抹消して、違うんだと言い聞かせる。こんな劣情を気取られるわけにはいかない。不可解な感情を吐き出すよう大きなため息を吐いて、呆れたようにこう言った。

「下着が丸見えです」
「……タダちゃうからな」

 慌てて女は足をおろしスカートを押さえるが時すでに遅し。ピンクベージュのレースショーツ。布の面積は狭く、プライベートな部分がはみ出してしまいそうだ。これはこの女の趣味だろうか。普段の態度からは想像できない女性らしい装いを見てしまい、七海は狼狽えていた。しかし何でもない顔をしてジャケットの内ポケットから肌色の被覆剤を二枚出し、女の踵にそっと貼ってやった。

「えぇ~? フツーこんなん持ってる? しかもええヤツ。七海ってお母さんみたい」
「こんなこともあろうかと」
「さすが色男はこーゆーことがしょっちゅうあるワケね」
「職業柄持ってませんか、フツー」

 からかうような口調で七海に言われ、女はふてくされて足を組み頬ずえをついた。顔が真っ赤になっている。分かりやすい照れ隠しを七海は微笑ましく思った。

「お姫様抱っこで行きましょうか」
「ファイヤーマンズキャリーで」
「いちいちボケなくていい」

 本日何回目かの七海の盛大なため息だったが、女は気にすることなく自ら立ち上がり「置いていくで!」と言いながら小走りで目的地へと向かった。もう痛みは無いようだ。リズムをとりながら軽やかに走る女を見て、七海は顔が火照るのを感じていた。こんな姿を見られなくてよかったと、うつむいて道端の小石を蹴った。

「ご予約の方ですね。お待ちしておりました」

 快活な若い女性スタッフに店の奥へと案内された。平日にもかかわらず客はそこそこ入っており、あちこちから賑やかな声が聞こえてくる。特にこのソファー席は人気らしく、カップルや男女のグループが会話を弾ませながら食事を楽しんでいた。女はソファーに腰掛け夜空を見上げた。女の向かい側に七海が座りメニューを広げる。七海は生ビール、女はクラフトビールを頼み乾杯した。手を合わせ『いただきます』をしたら、いよいよビールが飲める。冷えたグラスに注がれた黄金の液体。ホップの苦味とスッキリした後味。爽やかな炭酸が次々と喉を流れてゆき、汗をかいたグラスは沈みかけた夕陽を鮮やかに映し出す。二人は目を合わせてにこやかに笑いあった。

「やっぱり仕事終わりのビールは最高やな!」
「アナタ今日休みだったのでは」

 また適当なことを言っている女を尻目に、七海は木製トレイを彩る季節の野菜やシーフードをせっせとグリルに並べた。オマール海老。殻付きホタテ。淡路の玉ねぎ。万願寺とうがらし。それらをテキパキと手際よく焼き上げていく。ジュウジュウパチパチ焼ける音と共に、食欲をそそるいい香りがしてきた。取り皿に程よく焼き色がついた野菜とシーフードをきれいに並べると、女に食べるよう促した。

「七海ってバーベキュー奉行?」
「アナタに美味しいものを食べてほしいだけです」
「お母さんも食べや?」
「誰がお母さんだ」

 またくだらないことを言っていると七海は呆れ顔だが、女は大きな口をあけて笑っている。このやり取りも慣れてきたもので、心地よささえ感じ始めていた。女が大きな口を開けてズッキーニを齧る。目を丸くして「初めて食べた美味しいなこれ」と言いながら、残りを口に放り込む。頬を膨らませてもぐもぐと口を動かしながら、七海に向かってサムズアップしている。クラフビールを流し込むと、女の喉がごくりごくりと動いた。プハッとグラスから口を離し、フゥっと息を吐く。バーベキューのせいで暑いのか先ほどのように頬は朱に染まっている。髪を耳にかけると昨日は無かった耳飾りが揺れた。ぼんやりする七海を不思議そうに首をかしげて見つめる。七海はお母さんだな
んてとんでもないと思った。まるでデートのようだとずっと気がそぞろであるというのに。

 七海は学生の頃、地方へ遠征した時のことを思い出していた。今日のように蒸し暑い日だった。呪いを追いかけ疲れた七海達は木陰で休んでいた。コンビニや自販機などなく喉はカラカラ。七海が飲みかけのスポーツドリンクを取り出した時、女がどうしても一口だけ欲しいと言ったので仕方なくペットボトルを手渡すと、信じられないことにほとんど飲まれてしまった。文句を言うと女は自分の鞄からほぼ空っぽのお茶を取り出し渡してきた。七海はそれを全て飲み干し、空のペットボトルを女に投げた。すると軽やかに避けられて奥に座る灰原に当たり、二人とも大笑い。七海は歯を食いしばって怒りを静めたが、その後見つけたコンビニでジャンケンに負け、二人にアイスを奢らされるはめになった。懐かしくも甘酸っぱい青春の思い出だった。全く、いつまでもこの女に振り回されている。

「ちょっと貸して」

 女はトングを七海から奪い取った。どれにしようかと迷いながらも九条ネギ、大山ブロッコリーを並べた。ブランド野菜と呼ばれるものたちはボリュームもあり艶やかで食べごたえがありそうだ。そして次に国産牛の希少部位に取りかかる。ヒウチ。カイノミ。シャトーブリアン。見事にサシが入った美しい肉たち。そっとトングで取って網にのせる。ジュッと音がなり少しずつ油が溶けてゆく。表面がつやつやしてきたところで裏返す。網目がついて、よく焼けている。もう食べられそうだ。

「最高の焼き加減。さすが私」
「アナタもどうぞ。楽しみにしてたんでしょう」
「私も七海に美味しいもの食べて欲しいねん。さあさあ遠慮なく!」

 女は得意げな表情で自画自賛しながら、七海の取り皿に入れていく。それはもう焼けてる、食べ頃だと言いながら二人はせっせと焼いては食べて、お酒も呑んで、食事を存分に楽しんだ。美味しいものを食べて幸せそうに笑う姿を見て、どちらも心の中で今回出会えたことの喜びを噛み締めていた。毎年のように夏は繁忙期でヘトヘトまで働いていたけれど、明日も当たり前のように仕事があるけれど、今日みたいな日が一日でもあれば、また次に会う日まで頑張ることができそうだ。

 何杯目かのスパークリングワインを女が頼んだ時、ラストオーダーになったとスタッフに告げられた。七海はウイスキーの水割りを頼んだ。時刻は八時半を過ぎたころ。相変わらず顔色が変わらない女を見やると、珍しく放心していた。

「明日、新幹線何時?」
「え、ああ、十三時二十分です」

 そう、と小さく返事が返ってくる。女の生返事に明日の約束は無いのかと七海は残念に思った。

「美味しかったな。そろそろ出よっか」

 そういうと女は勢いよく立ち上がった。しかし酔っているのかその後の足取りは重い。

「飲みすぎたんじゃないですか」
「いやいや、ちょっと寂しいなって思ってるだけ!」

 こちらを振り向くことなく言いながら、出口に向かう。レジの前で「今日はワリカンやで」と言われたが、七海は現金を持っていかなったのでクレジットカードを出した。女はアカンだの同期やろだのごちゃごちゃ言いながらスラックスのヒップポケットにお金を無理矢理ねじ込もうとしたが、何度も手を払われるし終いには手首を捩じ切られんばかりに掴み上げられ、ついには受け取ってもらうことが出来なかった。この女にできるだけ貸しを作っておく。そして、また近々返してもらう。これっきりで終わりにしたくないからだ。

 二人は最寄り駅につき、別れの挨拶を交わす。昨夜ははしご酒に次ぐはしご酒だったが、今夜はこのまま解散らしい。何でも女にはこれから予定があるのだという。こんな時間からいったい誰と。どこで。何を。残念ながら七海にそれを聞く権利はない。この女のなんでもない。ただの同期だからだ。七海は女がタクシーに乗り込む姿を見送った。車内でスマホを取り出し誰かに電話をかけている。すぐ先の信号で車が止まったとき、電話をしながら女は振り返って七海へ手を振った。

─ま・た・ね!

 口パクのあと、女はニカッと白い歯を出して笑った。またね。そうか。これは次の約束だ。七海の心中は寂しくなったり安堵したりと忙しい。この女と再会してから、ずっと胸がうるさく鳴る。前を向き電話を続ける女が乗るタクシーが遠く離れていく。これからどこに向かうのだろう。もしかして女には決まった相手がいるのかもしれない。えもいわれぬ焦燥感が七海の腹の底に沸き起こった。

 七海は明日、東京へ帰る。