ザリッとコンクリートを踏みしめる音がした。一同が驚いて振り返る。
「ゼェッ……、ハァ……、みんな、こんな、とこに、おったん……!」
「あれ、ナナミンの彼女サンだ」
ようやく七海班を捕捉した女が肩で息をしていると、虎杖が目を丸くして言った。一度高専で目にしたことはあるが、七海はあまりプライベートな話をしないし、女をあの日以降見かけなかった。中腰でゼエゼエと息を切らし、大粒の汗をだらだら流している様子から察するに、随分と七海のことを探していたのだろうと虎杖は思った。風の噂で二人はあのあと結婚したと聞いているし、この混乱の最中、一目会いたかったのかもしれない。
「やっと、見つけた……! なんで、こんな、ビルの上に……ハァー。なんか知らんけどエレベーター動かんから、階段、しんどぉー」
「待機のはず。なぜ出てきた」
女に背を向けたまま七海が言う。その瞬間から明確に七海の態度が変わり、誰もがわかるほど冷たい空気が流れはじめる。普段の七海も決してご機嫌だとは言えない表情をしているが、顔を見なくとも眉間に寄った深い皺と下がった口角、鋭い目つきをしているとわかった。そんな凍てついた空気をものともせず、女はずかずかと歩いて七海に近づいていく。関係者各位の緊張もどこ吹く風女は自分のペースを一切崩そうとしない。何かとんでもないことが起こるのではないか。ただでさえ五条悟封印の件で動揺しているいま、謎の関西弁女が登場するイベントも発生してさらなる混乱が生じてしまっては身が持たない。七海を慕う猪野でさえ女の存在を知っているだけで、実際に会ったことは無く、この状況を見守るしかなかった。二人のやりとりを見たことがあるのは虎杖ただ一人。肌を刺すようなヒリついた空気に気づいていないのか無視しているのか、女は腕を組みしたり顔で言う。
「フッフッフッ。ついに私の出番が来たってワケ。あ~ァ。もっと早く私が出てたらここまで混乱せんかったのになあ。上ももうちょいウマいこと使てくれな困るわ」
「前線に出るなと言いましたよね」
首だけ後ろを向いた七海の眼光鋭さに女以外の一同は大いに慄いた。怒気を帯びた表情の七海とは裏腹に、視線の先の女は知らん顔である。それどころか急に一同の名を呼び「えらいことになったなあ。おつかれさ~ん」と呑気に挨拶まではじめる始末だ。このビルの屋上だけにまた新たな帳が下りたのではないかと思うほど、重苦しい空気が満ちている。結婚しているのだから愛し合っているはずなのに、二人はまるで嚙み合っていない。前代未聞の緊急事態でこれが今生の別れになるかもしれない夫婦が醸し出す雰囲気とは思えず、猪野は帽子をさらに深くかぶった。あの女性がこれほどまでに張りつめた空気を感じていないなんてことがあるのだろうかと、七海と女を視線だけで交互に追う。周囲の心配と緊張感をよそに、七海と女の会話はさらに続く。
「朝ランのおかげでめっちゃ足速なったから大丈夫や。戦況の把握が最優先やろ。関西で猛威を振るった私の術式が大活躍するときがきたってワケ」
「ふざけてないで仕事をしたらさっさと戻ってください」
「わかってるって。もう。母親のようにうるさいなァ七海は」
女がやれやれ顔で首を左右に振る。七海は表情を変えず前を向いた。早く去れと背中で語る。まるで気にしていない女は七海から視線をはずし、ギャラリーへ向かって声をかける。
「君ら、ちょっと手ぇ出して」
そう言うとウエストに付けたミリタリーポーチから小さな小袋を取り出した。
「エネルギー切れ起こす前に飴ちゃん舐めとき」
呆気にとられながらもつい手を出してしまった猪野、虎杖、伏黒に二つずつ配られたそれは、花言葉が書かれたレトロなデザインの包みのキャンディだった。
「うわぁ、これが関西の文化アメちゃん配り!」
「……ありがとうございます」
いいものが見られたと目を輝かせる虎杖の隣で伏黒が目を点にしながらも、なんとかお礼の言葉を紡ぎ出す。猪野はぺこりと頭を下げ、手のひらの上に乗っかった飴の包みをまじまじと見つめていた。昭和を感じさせる色使いの小袋にスモモミルク味と書かれている。スモモミルクとは、一体どんな味なのだろう。いや違う。今この場で飴を配る意味がわからない。女の突拍子もない行動にペースを乱されっぱなしの三人は、早くも正常な判断ができなくなっていた。女は続いて七海にもアメちゃんを差し出す。
「七海もどうぞ」
「大層な装備に飴玉を詰め込んでいるとは。本当に何をしに来たんだ」
文句を言いながらも手を出す七海をニコニコしながら女が見つめる。三つ配られたところを見ると、七海はその他大勢のギャラリーより飴一個分贔屓されているらしい。パッケージには美しい花が描かれ、裏面には花言葉も書かれている。七月三日は七海の誕生日だ。誕生花はアグロステンマで花言葉は気持ちがなびくらしいが、七海の気持ちは簡単になびきそうにない。十月三十一日は今日。誕生花はキキョウで花言葉は変わらぬ愛と七海らしい。もう一つは四月一日で、二人が初めて出会った日だった。誕生花はオダマキ。花言葉は必ず勝利すると書かれていて、なんとも縁起がいい。よくもまあこれだけ用意できたものだと七海が呆れて大きなため息をつくと、女はニヤリと笑って七海を下から覗き込む。
「実はそのアメちゃんな、私のヒミツの拡張術式が籠められてんねん」
「え! マジ!?」
「嘘をつくな」
女はすかさずツッコミをいれる七海を無視して、元気よく驚きのリアクションをとる虎杖に向かって何度も大きく頷いた。イタドリくんよくやった、グッジョブと聞こえた気がした。
「愛する者にも秘密にしてたとっておきやで」
「……どんな術なんですか」
胡散臭さしかないと思いつつも、伏黒は一応聞いてみた。聞いてほしそうにチラチラ視線を送ってくるので、聞かざるを得なかったと言った方が正しい。待ってましたと言わんばかりに女は胸を張り、手を腰に当てて、足を肩幅に開き前のめりになった。大きく息を吸い、勿体ぶったように静かに息を吐く。それから、さあ言うぞと一同を見回して──。
「それは……! 糖分が含まれたアメちゃんを舐めるとチョット元気が出る!」
えっへんと大威張りで女が言ったあとすぐ、虎杖と猪野が大きくコケる反応を示す。
「イタドリくんイノくん、見事なズッコケをありがとう!」
一度も教えたわけでは無いのに完璧なズッコケをかます二人に向かって盛大な拍手を女が送る。七海と伏黒は完全に表情を失っていた。女の術式は呪力を籠めた飴をレーダー上に表示すること、その飴を食べると一度だけ怪我を治癒することの二点だという。ただ致命傷には効果がなく、切り傷や擦り傷を治す程度でそこまで強力な作用はないから、オマケの効果だと笑っている。女曰く、今までその飴を食べた人は百鬼夜行まで誰もいなかったらしい。役目を終えた飴が戻ってきたときは女が自らおやつに食べていたが、そもそも戦闘で失われることが多く、女が食べるときには術式発動から時間が経ちすぎており、効果が消えて普通のアメちゃんに戻っていたのだと言う。なんともまあ都合のいい術式だと厭味ったらしく七海が言うと、女は「せやろ!」と言って自慢げに笑った。一言も褒めていない。
『いただきます』
四人は女の説明を完全に怪しいと思いながらも、あまりにもしつこくすすめてくるので飴を一つ口に入れた。七海の妻で共闘する仲間なので、まあそこまで悪いことにはならないだろうと楽観的な考えもあった。スモモミルク味とはどんなものだろう。なるほど、甘酸っぱくて美味しい。それになぜか、初めて食べるのに懐かしい味がする。
「百鬼夜行の時に生え際が後退してた先輩との別れ際にアメちゃんあげてんけど、終わったあと三センチくらい前に向かって生えてきてるのみて初めて治癒効果に気づいてさ」
「……マジ?」
「いやこれはマジ。先輩、奇跡的に無傷やったからハゲ治ったんかな。泣きながら喜んでたわ。あとは別の後輩はダンボール開けるときにカッターで切った傷が塞がってたから、遅発性の反転術式みたいなもんやな。どう、みんな。なんか感じる?」
立派に胸を張りドヤ顔をキメる女をがっかりさせては可哀想だと思いつつも、甘くておいしいただのアメちゃんである以外何も感じるところはなく、一同は全員首を横に振った。
「いや、全然」
「今のところ特に何も無いですね」
女は過去一番のズッコケを披露して、観客の反応を伺う。全員目が点である。ぶつくさと「東京モンは反応薄いなー」と言ってみてもノーリアクションだ。まあいい。とにかく今は前代未聞の呪術テロをなんとかしなければならない。封印された五条悟を解放するという大仕事もある。光の速さで気を取り直した女が言う。
「今はノーダメージやしな。後で発動するかもやから楽しみにしてて。七海は抜け毛がマシになるかもなー」
「もういいからさっさと持ち場に戻ってください」
ずっと冷たい物言いのままの七海をものともせず、女はオマケの効果よりもGPS的な使い方をすることがメインだと説明を続けた。目を瞑れば瞼の裏にうっすらとドラゴンレーダーみたいなものが出てきて、飴がどこにあるかわかるというものだ。あくまで飴を表示しているだけなので捨てるとその場を表示し続けるし、破損するとレーダーから消えてしまう。目を閉じないと見えないところがイマイチ使い勝手が悪いと言いつつ「うまいこと使てや」とにんまり笑い、ひとりひとり順番に硬い握手を交わして茶を濁す。虎杖は力強く、伏黒は遠慮がちに、猪野は少し尻込みしながら女の手を握った。次は七海の番だ。もちろん、七海は自ら手を出さない。女の手は空を切り、多少和んだ場の空気が再び凍てつき、ぴしりと音を立てそうなほどだ。女が一歩前へ出る。七海は微動だにしない。さらに女が進む。それでも七海は動かない。離婚の危機ではなかろうかとギャラリーが怯えるなか、女は七海のネクタイを引っ掴んで無理矢理腰を折らせ、自身は背伸びをした。頭突きでもする勢いで二人の顔が近づいたと思った次の瞬間、唇同士がぶつかった。
「……やめてください子どもの前で」
「ふふふ。元気になったやろ?」
ハア、と盛大な溜め息のあと、頭を抱えて首を横に振った。虎杖と伏黒は顔を見合せ、目を丸くした。猪野は後ずさりをして臨戦態勢をとる。さすがにここで二人がおっぱじめるわけはないだろうと思いつつも、最悪の事態を想定しておく。
「なるわけないでしょう」
「あっ、髪伸びたんちゃう?」
「ふざけてないで真面目にやれ」
「ずっと真面目やもん。さて。では私は仕事がありますのでみなさんお達者で」
女が呑気な声で言い、くるりと踵を返す。わざとらしく両手両足を同時に出してギクシャクと歩き出した。
「命の危険を感じたら必ず撤退して家入さんの所へ戻るように」
「わかってる。七海もむちゃくちゃせんといてや。ほなさいなら!」
女がピラピラと手を振り去っていく。タタン、タタンとリズムよく階段を駆け下りる音を聞き、七海は一抹の不安を覚えた。移動手段は基本的に徒歩。この広い渋谷で呪霊と遭遇せず飴を配り切ることができるのだろうか。生きていて欲しいと願うのはやめておこう。まるで死地に赴くみたいではないか。ナンダカンダしぶといであろう女の生命力を信じるしかないと、七海は気持ちを切り替えた。まだまだやるべきことが山ほどある。
「……七海サンの奥さん、元気っすね」
「わかりやすい関西弁をわざとらしく話していたので君たちにサービスしているつもりなんでしょう」
ほなさいならと実際に言っているのを初めて聞いたと七海が猪野に言うと、虎杖と伏黒がようやく笑った。緊張で硬くなっていた気持ちがほんの少し、ほぐれたような気がする。一同はもう一度気合を入れなおした。ここからが正念場だ。
一方女は、鼻歌を歌いながら機嫌よく駆けていた。七海が後輩に愛されているようで嬉しかったし、招集がかかってすぐ飛び出した七海にきちんと挨拶できなかったことを悔いていたから、なんとか会えてよかったと思う。最期になるかもしれないのに気持ちは軽い。
さっさと終わらせて、おなかいっぱになるまで美味しいものを食べよう。
この世界はウマいものだらけだ。
一人で食べてもいいが、二人で食べるともっといい。
それが愛する人なら、尚更いい。
女は晴れ晴れとした気持ちで他の術師の待機場所へと向かった。
それはそうと、媒介が飴でなくてもよいというのは、皆には秘密である。