それからの日々も今までと変わらない。変化が無いことを穏やかだと表現するのは間違いでは無いのに、七海の自宅で毎夜変わらず起こっていることは異常以外の何物でもない。空気の流れが遅くなったような気がしたら、それは始まる。空気がじっとりと湿り気を帯び、彼女の表情が虚ろになったらそれが合図だ。いつも七海は彼女のお願いを黙って聞いてやることに決めていた。駄目だと言っても聞かないから、拒むだけ時間が無駄になる。一緒に寝てほしいというだけの日もあれば、身体を差し出すよう要求されることもある。奉仕を求められれば気が済むまで慰めてやり、彼女が満足して眠るのを待つ。終わった後は身なりを整えて清潔なベッドに寝かせると目を瞑ったままうっとりと微笑む。それから可愛い声で「ななみ、おやすみ」と言うのだ。その健やかな寝顔を見るとこれまでの何もかもが幻のように感じてしまう。
七海が高専を去った日。
ボロボロになった彼女を発見した日。
歩けるようになった日。
初めて彼女の女性器に触れた日。
朝が来たとき昨夜のことを覚えていてふさぎ込んでいることもあれば、彼女のために買った花柄のエプロンをつけて鼻歌を歌いながら朝食を用意していることもある。その度に七海は自分自身に言い聞かせた。何事にも翻弄されてはいけない。平穏な日々を送れるように心がけることが必要だ。誰のせいでもなく、こうなる運命だったのだ、と。過去を変えられないことなどわかっているのに、全部なかったことになってほしいと何度も神に祈った。
彼女がこうなってしまったのはただ運が悪かっただけだろうか。七海の行動が彼女の人生に与えた影響はあるだろうか。どこでボタンを掛け違えたのだろう。過去に戻れるならば、どこからやり直せばよいのだろう。いつも同じ考えが頭の中をぐるぐると回るだけで、答えなんて出やしないことはわかっている。それでも考えずにはいられない。七海と、彼女の人生について。
七海の人生にはいくつかの転機があった。その度に自ら最善だと信じた道を歩んできたつもりでいる。それでも、後悔せずにはいられない。彼女を残して去った後、誰か彼女の支えになる者は居ただろうか。命が生まれて終わることだけがどんな生物にも等しくおとずれることは理解しているつもりだ。産まれる場所や周りの人間は選べない。誕生して間もなく終わることさえあるのに、こうして明日を望める人間は恵まれていると言える。今この瞬間、呪い殺されている者もいれば、食べものが無く飢えて死ぬ子どもさえいるのだから。産まれたら死ぬ。単純な話だ。人々は地を這う蟻を踏みつけて生きているけれど、その命を思って涙することは無い。ニュースで誰かが亡くなったと聞けばその家族に思いを馳せて泣くのだろうが、しばらくしたら忘れてしまう。でも、友人が。恋人が。家族がもしも、死んでしまったら。悲しみに暮れてしばらくは前を向くことさえできなくなる。誰しもが命はすべて平等だと教えられたはずだ。しかし現実は発生して消えることだけが平等で、そのほかの全ては不平等なのだ。感情は脳が作ったまやかしで、生存のための電気信号に過ぎないはずだ。
それなのにどうして、彼女のことになるとこんなにもかき乱されるのだろう!
七海が高専を後にした日から、彼女のことを頭から追い出したつもりだった。呪いなんてものは忘れて一般社会で手っ取り早く金を稼ぎ、自由を手にするつもりだった。適当に好きなことをしたら、いつどうなってもいいと考えていたはずだった。出戻った時に行方不明になっていると聞かされたとき、仕方がないと諦めたはずだった。必死にそう思い込むことで蓋をしていたのに、あの日密林の工場で彼女を見つけたときから全てが元通りだ。愛や恋なんて陳腐な言葉では言い表せない重く深く濃くてどろどろした感情を彼女に抱いていることを内なる自分が突きつけてくる。どうすればそれを浄化できるのかわからず苦しいのに、この泥土に沈んでいるとなぜか心地よく、手放したくないとも思う。良くなってほしい。自立できるまで。この思いに偽りは無い。けれど七海の手から離れていくところを想像すると繋ぎ止めたくなる。幼児のようになってしまった彼女の世話をしているときに満たされた後ろめたい欲望。一度知ってしまうと病みつきだ。全幅の信頼を持って七海を慕い、生活のすべてを委ねられたときの充足感。心にこびりついてしまって取れない。これはどう考えても悪いものだとわかるのに、このままにしておきたいと密かに願っている。いつか七海の手を離れてしまうとき、彼は人としての形を保てるのだろうか。
「七海、おはよう」
「今日は早起きですね。朝食も用意されている。無理をしないで。まだ本調子じゃないでしょう」
「毎日、少しずつ良くなってるってわかるの。七海のおかげだよ」
「私は何もしてない。君の力です」
「そんなことない。七海が助けてくれなかったら、私あのまま死んでたもん」
にこやかな表情を横目に見て七海は無意識のうちに握りしてめていた拳を解いた。今日の彼女はずいぶんと調子が良さそうだ。七海と色違いのエプロンを着けて鼻歌交じりにトーストとサラダが乗ったプレートをテーブルに置く。換気のために開けられた窓から爽やかな風が吹き込みカーテンを揺らしている。リビングにはコーヒーの良い香りが漂っていて、テレビドラマに出てくる休日そのものだ。七海のマグカップと彼女用の小ぶりなタンブラーに淹れたての温かいコーヒーがなみなみと注がれ、白い湯気がふわふわと立ち上った。彼女は口をすぼめてふうふうと息を吐きながらタンブラーに口をつけ、目を細めている。
「あつっ」
「また舌を火傷しますよ」
「皮がむけちゃったらヤダな」
いたずらっぽく微笑む彼女は花のように可憐なのに、ちらりと見える赤い舌先が夜の姿を彷彿とさせて七海の鼓動は急速に速まった。それは七海の身体中を調べあげるように這う、真っ赤な舌と全く同じものだった。花柄のタンブラーを包み込む白くて小さな手は、すさまじい力で七海を押さえつけ彼の尊厳を奪う。緩く弧を描く穏やかな目は、夜になると妖しく光り男を惑わせる。すっかり肉付きが良くなった身体は昼間に見ると健康的で美しいのに、暗闇ではしっとりと汗ばみいやらしい。彼女のすべてがちぐはぐでかみ合っていない。何もかもが間違いであればいいと何度考えたことだろう。死ぬよりも辛いことが想像に容易い世界で生きている自分を七海は嗤った。なぜ呪いを祓っているのだろう。祓っても祓っても次から次へと湧いてくる。助けても治しても、元に戻れるわけではない。
――一体誰のために。何のために。
ぼんやりしながらコーヒーを口元へと運ぶ。彼女はいまだフウフウと息を吹きかけてコーヒーを冷ましていた。たゆたう湯気にさえ呆れられているような気がした七海は、音を立てないように気を付けながらマグカップを置いた。
前日の晩、彼女に付き合っていつもより二時間も遅く床に就いた七海の頭は少しぼんやりしていた。一緒に寝たいから始まり、ひとしきり彼女の他愛も無いおしゃべりに付き合った。今夜はもしかしたら、また正気を失うかもしれないと七海が考えていると、寒いだとか、寂しいだとか適当な理由を着けて七海の腕の中に転がり込んできた。鼻先を七海の胸元に擦り付け、小さな呻き声をあげている。次第に呼吸がゆっくりと規則的になってきたと思ったら、いつのまにか静かに眠っていた。七海が抱いている身体は彼女と再会したあの日に触れた身体とは全く違う。温かく清潔でいい香りがして、女性らしいふくよかさを取り戻している。一度はばっさりと短く切った髪も今は少しずつ伸びて艶を取り戻した。彼女のために買った小さなドレッサーの前で髪を梳かす姿が美しい。それらは七海が時間をかけて彼女に与えたものばかりだ。消えかけていた命を繋ぎ、励まし、再び人間らしい生活をさせてやりたい一心でやってきたはずなのに、別れの日とはまるで別人のようになってしまったと感じる時がある。空白の四年間に受けた精神と肉体への傷がまだ癒えていないのはわかっている。幾重にもかかった呪いを少しずつ解呪していったものの、臓器に直接刻まれた呪いが根深く、未だに彼女を縛り続けている。彼女を内側から支配して、淫魔のように変えてしまうのだ。それがいつ訪れていつ終わるのかは誰にもわからず、いつもちらつく彼女の裏側を恐れて暮らしている。特に夜は緊張感が増す。ドアを閉める音やベッドが軋む小さな音でさえ、心臓がどきりと跳ねて冷や汗が流れる。一緒に暮らし始めてからずっと、七海は彼女が熟睡したことを確認しないと眠れなくなっていた。
朝から夜になって眠るとまた次の日がやってくる。食べて出して眠る。この営みこそ生命が存在する証だ。こういった当たり前の日常を繰り返すことの難しさについて、この業界の人間なら誰もがよくわかるだろう。誰かが怪我をしたとか、亡くなったとか、そういった話は珍しくない。掲示板には関係者の訃報が常に貼り付けられている。会社を辞めて再び呪いと対峙する道を選んだとき、平穏な暮らしに戻れないことは覚悟していたはずだった。それでもこの生活は想像の範疇を超えている。この世に生まれ落ちて物心ついたときから周りにあった穢らわしいモノたち。それが自分にしか視えないと気付いた時の孤独。同じものが視えるという者と出会ったときには助かったと思ったのに。やっと孤独と恐怖から逃れられると感じたのに、未だそれらに付き纏われている。
彼女はどうだろう。七海に救いを見出しているには違いない。でもそれは本当に〝彼女自身〟が望んでいるかはわからない。壊れた人間を直しても、全部元通りとはいかないのだ。潰れた穴へとネジを差し込んでもぴたりとはまらないように、彼女には欠けてしまった大切な何かがあって、もう二度とそれを埋めることはできない。頭ではわかっているが、心が受け入れることを拒否している。何もかもうまくいく。大丈夫。何度も口にしてきたけれど、本心でそう思えたことは一度も無かった。
今日も七海の寝室の扉は開かれる。無くしたものを探す彼女を慰めるため、今夜も七海は手を差し伸べてやるつもりだ。