それともまさかヨモツオオカミ

第10話

 非日常が日常となってしばらく経つと、どんなことでも慣れてしまうものだ。物心ついたときから見えた怪物は七海にとって当たり前の存在だった。それと同じように、彼女の存在もまた、七海の日常に溶け込んでいた。たとえそれが不可解なことであろうと、繰り返されるとどんどん感覚は麻痺してくる。まるでそれが正しいとでもいうように脳は錯覚して、彼女の存在や行いが当然であると感じはじめる。七海はもう一人だった頃にどう過ごしていたのかあまりよく思い出せない。朝起きたときに彼女が隣に寝ていることに慣れ過ぎて、もう一人ぼっちには戻れないとさえ思う。

 彼女は変わらず七海の〝慰め〟を求めていたが、ここのところ少しずつ内容が変化してきている。それを少し寂しいと感じてしまうほど彼女との営みは生活の一部になっていた。すべすべの肌を撫でる自分の手を見て七海は、幾度となく繰り返した後悔を今日も飽きることなく反芻する。すべてを無かったことにしたいと思うのに、彼女との日常が失われると思うと胸が締め付けられるように痛む。彼女は目に見えて健康体になっただけでなく、平常心を保つ時間が日に日に長くなっている。子宮と付属器にかけられた呪いは少しずつその力を弱め、最近では一緒に眠ることはあっても身体を求められることはない。同じベッドに眠るのはただの習慣で、これ以上の行為は無くなっていた。当然それでいいはずなのに、なぜか七海の胸にはぽっかりと大穴が開いてしまっていた。こんなことは間違っていると頭では理解している。それでも心のどこかで、七海だけを求めて縋るように手を伸ばす彼女の姿を求めている。笑顔が増えて明るくなった彼女は、七海が良く知るころの彼女そのもののように見える。あの日と違うのは少し幼かった顔立ちが大人の女性へと変貌を遂げているところくらいだ。中身はどうだろう。空白の四年間を埋めてやりたいと尽力してきたが、結局そこはほとんど真っ黒に塗りつぶされたままだ。彼女の過去は、七海と彼女の道が違えた日より以前だけなのだ。

 深夜三時。今日は自分のベッドで寝るといって自室で床に就いたはずの彼女が七海の寝室の扉を開けた。ふらふらと左右に揺れながら七海へと近づいていく。月明りに照らされて見えたパフスリーブのネグリジェはここ最近の彼女のお気に入りだ。少女趣味的なものを好んで着ている。高専の頃の彼女もそうだったかもしれない。七海が知らないだけで、パジャマはきっと可愛らしいものだったに違いない。ついに彼女は七海の枕元へと跪き、瞳を濡らしてうっとりと彼を見つめた。こうなると七海はもう動けない。額に汗をかいているのがわかる。身体がじっとり濡れて気持ちが悪い。今すぐにでも立ち上がりたいのに、彼女から目が離せない。

「ななみ、くるしいの……。たすけて」

 生温かい吐息が七海の輪郭をなぞる。花のような甘い香りが充満して、頭がくらくらしてきた。アヘンの中毒者もこんな気分かもしれない。何か言おうと七海が口を開けたとき、彼女はそっと立ちあがった。そしてレースがたっぷりとあしらわれたネグリジェの裾を持ち上げて下半身を露わにし、だらだらと蜜を流す秘部を見せつけ七海を誘った。小さくなっていたはずの淫紋が全身へと広がっているのが見えた。こうなるともう、抗うことは無意味だ。
七海は身体を起こし、跪いて彼女のつま先へ口付けを落とす。真っ白い足の指一本一本が愛おしい。皮膚の下に張り巡らされた血管は青白く浮き、細かい筋肉の痙攣が彼女の肉体を操るように動かしているのだとわかる。彼女を支える白い骨を割った中では無数の新しい細胞が作られて、全身を巡り生命を保っている。七海の与えた食事が彼女の血肉となり、命を明日へと繋いでいく。

 七海は思う。彼女の本質はあの日から何も変わってない。変わってしまったのは自分なのだ、と。

 二人が袂を分かつことになったあの日。別々の道を歩んでいるつもりだった。遠く離れて二度と会うことは無いと覚悟を決めたずなのに、捨てきれない彼女への信仰が二人を再会させた。彼女は七海の望んだ姿になっただろうか。
七海は彼女の望み通り、これからもずっと、側にいる。