淫靡で不実な君はアプサラス

第8話

 家入から渡された呪符を貼ると落ち着くようで、今では寝る前に貼ってくれと自ら申し出るようになった。寝室に入ってくることもなくなり、これがあるとよく眠れる、気分がいいのだと言う。少しずつ彼女は良くなっている。そう確信したある日のこと。
 その日七海は半日以上早く上がることができた。頼りになる後輩が頑張ってくれたおかげだ。自宅からそう遠くない現場だったので、彼女に連絡を入れずに帰路につく。今日は十八時ごろになると伝えたから、きっと驚くはずだ。七海は彼女の好きなカスタードプリンを買って玄関の前まで来た。鍵を探そうとポケットへ手を突っ込んだとき、今まで感じたことのない異質な雰囲気が自宅からしていることに気付く。その時肌に触れた違和感を言葉で言い表すことは難しい。胸騒ぎがして、七海は極力音を立てないようにそっと扉を開けた。玄関には見慣れない男物の靴が乱雑に脱ぎ捨てられており、廊下には点々と今朝彼女が着ていた服が落ちている。

――これはまずい!

 そう思うが早いか、七海は彼女の部屋の扉を思いきり蹴飛ばした。派手な音を立ててドアが開く。見えたものは、最悪の光景だが、しかし七海の想像通りでもあった。見知らぬ裸の男が彼女の腰を掴み、後ろから犯している。彼女の催淫術のようなものにやられているのか、間男は七海の方を振り返りもせず夢中で激しく彼女を責め立て続けた。彼女も七海に気付いているはずなのにされるがままに揺さぶられ、嬌声をあげている。間男が彼女の尻をぴしりと打つ。するとびくびくと身体を震わせ彼女は果てた。ぐちゃぐちゃと汚い音が部屋に響き、七海は怒りでどうにかなってしまいそうだった。ずんずん進んで間男を引き剥がすと、血管を浮かせて勃起したグロテスクな陰茎がぶるんと彼女の中から飛び出てきた。殺したい。耐えなければ。こんなもので彼女を穢すなと切り裂いてやりたい気持ちになる。しかし、相手はどうやら一般人だ。殴るわけにもいかず七海は拳を握り、奥歯を噛みしめた。口の中から血の味がする。胃から黄水があがり嘔吐しそうだ。身体はわなわなと震え、感情のコントロールができない。冷静さを欠いている自覚はあるが、どうすれば落ち着くことができるのかわからず、油断すると爆発して殴りかかりそうな自分を必死で抑えつけた。
 目の前の男は彼女と離れたことで正気を取り戻したのか、一気に青ざめ震えていた。辺りを見回し、自分が服を着ていないことに気づき、足を閉じて股間を隠した。見たこともない若い男だ。どこでどうやって知り合ったのか、彼女をこれからどうするつもりだったのか拷問にかけながら問い詰めたい。

「出ていけ」

 震える拳をなんとか諫め、間男に言い放つ。ガタガタと歯を鳴らして震えている男は首がとれそうなほど何度も頷き、裸で出て行こうとした。七海は男の背中に向かって服を投げつけた。小さな声で「すみません」と繰り返しながら服を着るこの男はきっと、何も知らずにやってきたのだと思う。恐らく彼女が何らかの方法でたぶらかしたのだろう。
 彼女はにっこりと微笑みながら一部始終をベッドの上から見ていた。機嫌良さそうに髪をくるくると指でいじりながら鼻歌を歌っている。腹に刻み込まれた淫紋はギラギラと輝き、まだ足りないと訴えているようだ。
 そうこうしているうちに玄関扉の閉まった音がして、不憫な男は出て行った。

「七海おかえり~」
「こんなことしてはいけないと教えたはず」

 七海は彼女に駆け寄り、身体に異常がないか目視で確認した。幸い見たところ怪我は無さそうだ。強い力を放ちギラつく淫紋以外は。きっと触れてしまったら、先ほどの男同様狂ってしまうに違いない。側にいるだけでも変な気分になってくるような感じがして、七海は一歩後ずさる。彼女は悪びれる様子も無く、腹を慈しむように擦りながら答えた。

「あの人がしてくれるって言ったから」
「こういうことは、誰彼構わずすることじゃない。わかりますか」

 彼女の目を見てはいけない。直感的にそう思った七海は床に向かって言った。見たものを惑わせる何かが秘められている。いつも子どものように無邪気に振る舞っている彼女が、今はやけに淫らに見えてしまう。何か甘い花のような香りが寝室に広がっている。一度離れた方がいいとわかっているのに、七海の足は言うことを聞かない。動けない七海に向かって彼女がにじり寄る。

「じゃあ七海がしてくれる?」

 そう言いながら七海の手を取り、手のひらに口付けた。触れるとわかる。彼女の術中にあることが。どうしようもない劣情がむくむくと湧いてきて、目の前の女で発散したくてたまらない。先ほどの間男と同じことをしようと考えている自分を七海は嫌悪した。犯したいという衝動と、助けたいという理性が激しくぶつかり合い、頭が割れそうだ。七海が頭を抱えてその場にうずくまっていると、彼女も同じように頭を抱えて唸り声を出した。どうやら彼女も自分自身の行動に苦しんでいるようで嫌だ嫌だと言いながら首を振っている。ずるずるとベッドから降りて床に寝転び、やり場のない衝動を逃そうとじたばたと悶えた。髪を引っ張って叫んだと思えば、自分自身をきつく抱きしめて床に頭をこすり付けながら泣いた。彼女は肩で息をしながら七海から遠ざかり、部屋の端の方で小さくなり自らの前腕に歯を立てて血を流している。身の置き所が無いのか手足をばたつかせて暴れるので、ベッドの角に腕や足をめちゃくちゃにぶつけている。七海は這いつくばりながら、なんとか彼女の元へと寄った。自分の内側から迫りくる濁った欲望を抑え付けようと苦しんでいる彼女を安心させてやりたい一心だが、こっちにこないでと泣き喚くのでその場で膝をついた。
彼女が叫ぶ。

「自分が、自分じゃないみたい! 私、どうなってるの!」
「絶対によくなるから、信じてください」

 いたたまれなくなった七海は彼女の拒否を振り切って半ば無理矢理抱きしめた。彼女の身体は信じられないくらい熱い。恐怖で震え、皮膚は汗で湿っている。七海の何倍もの速さで心臓は拍動していて、早く早くと急かされているようだ。彼女は口を開けてハアハアと息をしながら、七海の手を自らの陰部に導いていく。

「ここ触って。お願い」

 それだけはいけない。でも、これで彼女が楽になるなら。

「もう絶対、私以外に身体を触らせてはいけない。いいですか」
「わかった。七海だけ。お願い。死んじゃう」

 七海の指が彼女の陰唇に添えられた。ぐちゃぐちゃに蜜を溢れさせている。そっと指を入れると簡単に埋まっていった。中のひだが生き物のようにうねうねと動いて七海の指を絡めとる。自分の思い通りに事が運んだ彼女は恍惚の表情を浮かべ、七海に掴まりながらいやらしく腰をくねらせた。一本では満足できないのか、耳元で「もっと、もっとちょうだい」と囁いて七海を誘惑する。声も呪力を帯びているのか、彼女の甘ったるい声が染みこんで七海の脳脊髄液を砂糖水のような甘ったるい液体に変えた。脳の大切な部分に直接作用するような周波数が聴神経をさわさわと撫でた。吐息さえも美味しそうに聞こえてしまい、彼女のすべてを食べてしまいたい気持ちになる。七海は必死で彼女の願いを聞き入れようとした。もっと、気持ちよくしてやらなければならない。彼女がそれを望んでいる。七海はもう一本指を突っ込み、ぐっと奥に差し込んだ。すると全身を痙攣させて絶頂に達し、嬉しそうに悲鳴をあげた。そしてビシャッと派手な音を立てて尿を漏らしたのだった。

「きもちよすぎてでちゃったぁ。ななみのことよごしちゃったぁ。あはは!」

 満足げに笑う彼女が愛おしい。可哀想だ。こんなになって。人の温もりに飢えるように改造させてしまい、自分ではどうしようもない衝動に苦しんでいる。七海のスーツも床も水浸しだ。微かなアンモニア臭が鼻につき、七海は虚しいような、情けないような気持ちでいっぱいになった。そんなことは関係ないと彼女の中は更に締め付けを強め、七海を逃すまいと絡めとろうとしている。自らGスポットに当てて何度も潮を吹き快感を余すところなく自分のものにしながら、もっと、もっととせがむ。ついにするすると彼女の白い手が七海の股間に伸びた。張り裂けそうなほど勃起した陰茎を撫で擦り「これほしいなぁ」と猫なで声を出している。

「それだけはだめです。わかってください」

 七海はなんとか、彼女に犯されていない部分の脳から出した言葉を吐いた。まだ理性が多少なりとも残っているらしい。脳と呪力の関係はまだ詳しく解明されていないが、これ以上はだめだと無意識のうちに自衛したのだろう。まだ堕ちない七海を不服そうに見つめた彼女は、また派手に絶頂したあとぐったりと床に伏せた。それから突然もとに戻って、わんわんと大声で泣きながら七海に何度も謝った。七海は大丈夫だと繰り返し言って聞かせ、根気よく彼女を慰めた。彼女は気を失うように眠りに就いたと思えば、酷く怯えながら起きてきて激しく泣いた。その度に慰め、大丈夫だと言い聞かせていたら、気づいたときには空は白み始め、時刻は午前五時を回っていた。

 あの後結局眠れないまま七海は仕事へ出た。彼女を残すには一抹の不安があったが、すっかり普段通りになって朝食を平らげた。夜の出来事を忘れてしまったのかと思うほどいつもの彼女だったので何も起こらなかったのではないかとさえ思ってしまう。きっとあれは、悪い夢。彼女が見せた淫夢なのだと。しかし寝室の扉を開けると片付けきれなかったリネン類が放置されており、現実に起こったことだと気付かされる。一人で片づけをしていると、申し訳なさそうな顔をしながら彼女が入ってきて二人で洗濯をした。あんな呪いさえ無ければ、二人は普通の恋人同士に見えるだろう。
 それからというもの、彼女は毎夜豹変して七海の精をねだった。今日だけだから。苦しくて死んじゃう。助けて七海。身体は熱くびっしょりと汗をかきながら息を荒げ、本当に死んでしまいそうに見える。その度に七海は彼女が満足いくまで付き合ってやり、眠れないときは一緒に眠った。ぐずぐず鼻を鳴らしながら「七海のが欲しいよ」と何度も訴えてくるが、それを許したことは無い。二人の関係を決定的に変えてしまうその行いだけはできないと彼女に言い聞かせ、なんとか約束を守らせてきた。
 それも今日でお終いかもしれない。
 七海は彼女の隠された姿を見てしまった。幾重にも重なった呪いをひとつひとつ丁寧に解き、力を弱め、元の彼女を取り戻すべく力を尽くしてきたつもりだ。それでも、原始的な衝動と結びつく強力な呪いはなんと禍々しく穢らわしいものだろう。

 いつものように同じベッドで眠りに就こうと布団に潜ったとき、彼女はいつもと変わらない声でいつもの行為を要求してきた。なし崩し的に始めてしまったこの密事は、時には明け方にまで及ぶこともあり七海は最近疲れ切っていた。それでも彼女が少しでも楽になるのならばと、盲目的に行うことで生産性の無い不徳の行為から目を背け続けている。
 七海と彼女の関係は今や健全ではない。いや、もしかしたら、最初からそうではなかったのかもしれない。七海が高専を去ったとき、彼女との関わりを絶ったはずだった。それでもいつも胸の奥底から呼びかけてくる。涙を溜めた瞳を潤ませ「私を置いて行かないで」と。何事にも一生懸命で努力を惜しまず、誰にでも等しく優しい。誰からも愛され求められる。何色にも染まらない、気高く強かな女性。しかしそれらすべては七海の幻想だ。思い出を美化して彼女は正しい女性だったと思い込んでいるに過ぎない。その方が七海にとって都合がいい。彼女を置いていっても、一人でやっていける。それにあれほど愛されているし周りに助けられながら生きていくに違いない。そう思いたいからだ。
 しかし実際の彼女は七海が去ってから激しく荒れ、全ての事柄にやる気を失い自堕落な生活を送っていた。食事も風呂も何もかも捨てて汚い恰好で部屋に転がるだけ。当てられた仕事は途中で放棄し、そもそも現場に現れないこともあった。酒を飲んで廊下で寝たり、警察に保護され高専までパトカーがやってきたこともある。そんな姿を七海は知らない。
 思い出はどうしたって風化してしまうし、何度も反芻するたびに都合よく改竄されていく。現に七海は、あの廃墟で彼女を発見したときすぐにわからなかった。名前を聞いても声を聞いても、すぐに彼女と結びつかなかったのだ。何度も頭の中で都合よく思い返した姿と異なってはいたものの、声も名前も呪力も、七海のよく知る彼女のままだったのに。
 到底手が届くわけはないと思っていたのに、今や彼女の何もかもが七海の手の中にある。寝食を共にして一人では生きていけないかつての女神を甲斐甲斐しく世話するうちに、全てを手に入れたように錯覚してしまった。幾重にも重なる茨のような呪いで身動きが取れない。誰でも無い、七海が自分自身にかけてしまった呪いは彼の眼には映らないのだ。今日こうなってしまったのは、こんなになるまで誰にも言わずに秘密の営みを重ね、彼女の欲望を肥大させ続けた七海のせいだ。純粋に良くなってほしいという気持ちがあるのは間違いない。でも同じくらいに重い邪な考えが七海にはあった。深層ある同期を置いて去った罪の意識から逃れたかった。そして七海の中の理想の彼女を再現させたい。すべてが混ざって七海が彼女に対して抱く思いは、ぐしゃぐしゃになっている。純粋に彼女を想う気持ちだけを取り出して大切にしたいのに、それがどこにいったのかわからない。どろどろに溶けて形を成していないそれを七海はずっと探し求めている。
――まだ間に合うだろうか。

「七海。お願い」
「触るだけ。いいですね」
「ちょうだい。我慢できない。死んじゃう」
「こんなことで死にません。いつもみたいにしてあげますから」
「もう嫌だ。七海のが欲しい」
「それはしない約束でしょう」

 触るだけ。性器の挿入は無い。彼女が満足したら終わり。いつものことだ。わかっている。七海は慣れた手つきで迫りくる彼女をベッドへ横たえ、頭を撫でて頬に口付けスキンシップをはかる。まずは落ち着かせなければ。それからゆっくりと下着をずらす。そしていつもの秘密の行いをしようとした、その時だった。

「じゃあ今日は私が、これで、七海を気持ちよくしてあげる。いいでしょ!」

 突然彼女は凄まじい力で七海を跳ねのけた。真っ赤な顔をして側頭部に血管を浮かせ、低い声を出して唸った。一見苦しそうに見えたものの、どうやら絶頂に達するときと同じく全身を震わせて凄まじい快楽に浸っているようだ。彼女は七海の大腿に跨り、自身の股座を押し付けた。その感覚が今までと違う。彼女の股の間から、男根のように飛び出た熱く硬い肉の塊が触れる。

「落ち着いて。ほら、深呼吸を――」
「は、は、で、でちゃった! ななみのまえで、これでちゃったぁ!」

 彼女の手が七海の頬を鷲掴んだと同時に、口の中に焼けるような舌が侵入してきた。ずるずると音を立てて七海の口を吸い、涎を垂らしながらぐいぐいと腰を振る。その度に彼女から飛び出たペニスのようなものが七海の太ももに当たり頭が混乱する。
 一体何が起こっているのか。
 とうとう人ならざるものと成った彼女は、やっとすべてを解放したせいか清々しい表情で笑い、七海を濡れた瞳で見下ろしていた。しきりに自分の股間を気にして、時折手で触れたり扱いたりしながら具合を確かめる様子が獣じみている。どうやらそれは肥大化した陰核で、男性器と同じ役割を持っているようだった。てかてかと光る皮膚は粘膜でできていて、ペニスのように亀頭は無く全体的に丸みを帯びている。大きさは十センチほどで、血液が充満しているのか赤黒い。彼女とは完全に繋がっていて、先端からどろどろとした透明の粘液を止めどなく分泌させている。それを七海に擦り付けながら我を忘れて快感を貪っていた。涎を垂らして快感を貪り、ずりずりと股を擦り付けては震え、泣きながら何度も達する。恐ろしい光景だった。
 普段から非現実的な異形と対峙しているのに、七海は咄嗟に動くことができないでいた。彼女の顔と身体をした何かが自分の上に乗っかっている事実は認識しているのに、何かの間違いであってほしいと願うことしかできない。七海は彼女に犯されそうになっている自分を遠くから見ているような気がしていた。これは、悪い夢だ。そうでないと今までの全部が説明できないではないか。彼女はひどい状態から立ち直り、普通の女性としての道を歩もうとしている。それなのに、これは一体、どういうことなのだろう。大丈夫。すべて上手くいく。何も心配しなくていい。七海が彼女に繰り返し伝えてきた慰めの言葉が、彼の頭の中で何度も繰り返された。まるで自分に言い聞かせるように何度もつぶやき、七海は彼女が肥大した陰核を自ら扱く様子をぼうっと眺めた。

「あっ。あっ。でちゃう。なにっ。でちゃうっ!」

 彼女が叫んだと同時に、先端から精液のような白濁が辺り一面に飛び散った。男性のそれとは違いものすごい量だ。栗の花のような生臭い匂いは同じで、達した後の虚脱感も一緒らしい。七海の身体から滑り落ちた彼女は、ベッドでぐったりと横になりながら陰核をビクンビクンと震わせていた。自分の行いをよく理解できていないのか不思議そうに陰部を見つめ、陰核が震えると彼女も驚いたように肩をぴくつかせる。幼い子どもが動くおもちゃの反応を確かめるような姿を見て、七海はとてつもない徒労感に襲われていた。割れた腹筋の筋に沿って彼女が出した粘液がどろりと滑り落ちていき、人生最悪の気分だ。虚しさに浸ってこのままぼんやりとしていたいが、何とかこの場を収めなければならないと、重く怠い身体を起こす。

「これで、すっきりしたでしょう。もう寝よう。朝がくれば全部上手くいく」
「だめ。まだたりない。もっと、もっとだしたいっ」

 まだ治まらぬ情動が彼女の内側から溢れそうだ。先ほど同様勃起した陰核を扱き上げながら再度七海に迫る。破裂しそうな欲を必死の様子で吐き出そうとして、また七海を力ずくで押し倒した。今度は簡単に振りほどけそうな力加減なのに、七海はされるがままに倒され床に転がり目を瞑る。こんな状況にもかかわらず何故か虚しく勃起した七海のペニスに彼女は陰核を擦り付け、ねちょねちょとわざとらしく音を立てて必死に煽ろうとした。さっき出した体液と今出ている先走りとが混じり合い、生臭い匂いが部屋中に充満している。むせ返るような淫猥な匂いが寝室全体を包み込み、薄暗い照明と風も無いのにはためくカーテンが異様な雰囲気を醸し出している。

――ここは、地獄かもしれない。

「ゆっくり深呼吸して。すぐに落ち着きますから」

 まるで自分に言い聞かせるようにそう言うと、彼女の背中をそっと撫でる。するとぼたぼたと大粒の涙が流れ落ち、歯を食いしばって低い唸り声を出し始めた。彼女もこの不可解な現象に苦しみ、助けてほしいと願っているに違いない。下腹部にあった子宮を模した淫紋はいつの間にか更に卑猥に形を変え、胸の方まで広がりを見せている。ますます支配を強めようとする根深い呪いが心底憎い。早く解放してやりたいのに未だ解呪できず彼女の根底にはびこり、心も身体も捕らえて離さない。いっそこのまま切り裂いてやろうかとさえ考えてしまう。そうしたら何もかも終わって、彼女は楽になれるのではないか。

「やだっ! このおちんぽ、ななみにいれるっ! びゅーびゅーって、また、だしたいのっ」

 そんな七海の葛藤をよそに、呪力を自己増幅させて、ついには全身に淫紋を刻んだ彼女が陰核をさらに肥大させて迫る。鬼人の如く凄まじい力で七海をひっくり返して背中を抑えつけ、尻の割れ目に陰核を密着させた。背中に食い込む彼女の爪痕から生温かい血がだらだらと流れた。激しく抵抗したら彼女を傷つけてしまうかもしれない。七海に一瞬の迷いが生じたときを見逃さず、彼女の形をした悪魔は、硬くなった陰核をぬるりと尻の割れ目に滑り込ませる。

「う、や、やめて。それはいけません」

 腰を押し付けながら強引に七海の尻の穴に食い込ませようと躍起になっている彼女をなんとか振りほどこうと試みるが、上手く力が入らない。いつもの如く彼女の術中にあるせいなのか、混乱した状況を上手く理解できていないのかはわからなかった。全部がめちゃくちゃなこの状況の打開策を考えようとしても、頭の中はまとまらないままだ。
 七海はいま、普段は非力で頼りない女に力ずくで捻じ伏せられようとしている。仕事ではいつだって冷静でいられるのに、彼女のこととなると理性が仕事をしなかった。それは愛ゆえなのかもしれない。そうだとしたら、七海が彼女へ向ける愛こそが呪いの本体ではないか。
 七海は彼の中で神格化されたあの日の彼女が堕ちてしまった事実を未だ受け入れられないでいた。これは何かの間違いだ。悪い夢に違いないと、心の奥底で彼女の現状を否定し続けているのだ。こんな理不尽なことが彼女の身に起こっていいはずはなく、今の彼女はかつての女神と別人だと考えている。その反面、自分の側で生活させることで彼女をあの日のように戻すんだと半ば意地のようにもなっていた。大丈夫。心配ない。何もかもうまくいく。彼が繰り返し彼女に伝えてきた言葉は、自分自身に言い聞かせていたに違いない。

「離して、ください」

 彼女の下敷きにされたままぐねぐねと蠢き、なんとかやめさせようと弱々しい抵抗をしてみせる。しかしすればするほど身動きがとれなくなってしまう。蟻地獄にでも囚われているのか、七海の身体はどんなにもがいても浮上することはできなかった。それを見て彼女は壊れた人形のように笑っていた。七海の記憶の中にある彼女からは程遠い雌の匂いを辺り一面に撒き散らし、男を自分の思うがままに操っている現状を心から悦んでいるのだ。狂気を孕んだ表情で声をあげて笑い続ける表情は邪悪そのものだ。幸い、彼女に背を向けている七海からは見えない。こんな姿を見てしまったとき、七海はどんな顔をするのだろう。

「うごいちゃだめ。ななみの、穴に、これ、いれる、のっ!」

 ついに先端が七海の肛門をゆっくりとこじ開けて侵入してきた。足をばたつかせて抵抗したとき、彼女の背中を蹴ってしまい一瞬たじろいだと同時に、更に数センチ深くにめり込んでくる。

「がッ……グウ、い、痛い!」

 皮膚が切り裂かれたときと同じ鋭い痛みが走って思わず七海は声をあげた。腰を捻って逃れようとするが無駄な足搔きだ。全身が痺れて上手く動けない。彼女は全く慣らされていない尻の穴を更に広げ、無理矢理押し込もうと必死になって腰を振っている。しばらく好きなようにさせていたら落ち着くかもしれないと、抵抗を諦めて七海は脱力した。すると彼女は陰核を引き抜き、震えながらまた白濁を飛び散らせた。七海の背部にビチビチとかかって、辺りをも汚す。寝室いっぱいに生乾きの洗濯物のような湿気た匂いが充満していて、それが彼女を見つけた密林の廃墟の匂いを彷彿とさせ吐き気を催してきた。あの日から数か月。一進一退を繰り返している。きっとこれも一時的なものに違いない。今何とかすれば、また彼女は前に進めるはずだ。七海は都合よく考えることでなんとかこの場をやり過ごそうとした。そうするしか方法はない。もう何も考えたくない。
 出しても出しても満足しないのか、七海を拘束したままま先ほどと同じ動きを繰り返している。七海が彼女の下でもがいている間にも、少しずつ彼女のものが七海の尻を割り開いてくる。粘液が潤滑剤代わりとなり先端が七海の中に完全に入ってしまったあと、もう逃れることはできなかった。彼女の陰核は七海の中で更に膨らみ、根元にくびれを作って抜けないようになった。めりめりと進む彼女の陰核すべてが肛門括約筋を通過したとき、そのままあっさりもっと奥深くまで入ってしまった。あまりの激痛に七海は叫んでしまいそうになったが、咄嗟に口を押えて耐え抜いた。ここで声を出したら、きっと彼女が怯えてしまう。ひどいことをしたとまた混乱して泣き出し、力の制御がもっと難しくなるだろう。力を抜けば楽になるはずだと、七海は全身の力を再びゆっくりと緩めた。きっと彼女も、こうして耐えてきたのだ。七海の力が緩んだことがわかった彼女は無遠慮に最奥まで突っ込んでは一気に引き抜くことを繰り返し、本能のままにだらしない喘ぎ声を出した。何か言っているが言葉になっていないのか異国の言葉なのか、意味が全く理解できない。バチバチと皮膚が当たって弾けている音を聞きながら、七海は耐えがたい激痛に歯を食いしばり脂汗を浮かせて受け入れた。これはきっと罰だ。七海が彼女を置いて立ち去ったから、彼女は誰かにひどいことをされて、それで、こんなことになってしまった。彼女もこんなふうに犯されたのだろうか。やめてくれと泣き叫んだだろう。あるいは心を殺して受け入れたかもしれない。その苦痛が何年も続き、身体も精神もぼろぼろにされたまま生き残ってしまった。この世界に神様がいるならば一発じゃすまないぞと、七海は形の無い何かを責めることでなんとか自我を保ち続けた。彼女が無茶苦茶に突き上げるたびに肛門が裂けるような感覚が繰り返されるし、腹の奥に突き刺さる硬い肉棒が腸壁を突き破りそうで恐ろしい。早く終わってくれと祈っても、夢中になってしがみつき、必死で快感を得ようとする彼女には届かないし、もちろん神様だって聞いちゃいない。祈りなんてものは無意味だと、異形が見えたときからわかりきっているのに、人は追い詰められると何かに縋ろうとしてしまうのだとわかり、七海の胸の中は虚しさでいっぱいになった。
 七海の尻からだらだらと流れる液体は皮膚が裂けたせいで出た血液なのか、彼女が分泌した粘液なのか、七海の腸壁から出る腸液なのか、もう何もわからなかった。抽送運動には慣れてきたが、低く唸ったと思えば肉を食いちぎらんばかりに背中に歯を立ててくるので、それをやめさせるだけで精一杯だ。本当の怪物に成り下がってしまった彼女の姿が見えない後背位で良かった。きっと今の彼女を見てしまったら、七海はもう立ち直れないだろう。

「あっ、おちんぽ、でるっ! ななみに、なかだし、しちゃう!」

 唐突に彼女が叫び、七海の背中に爪を立てて思いきり直腸の一番奥に押し付けた。すぐに腹の中に異物が入ってくる感覚がしてきて、圧迫感と排泄欲が湧き上がる。彼女はびくびく震えながら、億へ奥へとぐっと肉棒を突っ込み、絞り切ろうと死に物狂いだ。七海が辺りを見回すと、大量の汚物に塗れた寝室の床が見えた。これが自分の中に吐き出されていると思うとぞっとする。彼女が何度もこんなことをされて、狂ってしまったことを考えると本当に不憫でならない。なぜ美しく気高かった彼女がこんなことになってしまったのだろう。七海は繰り返し自分を責めることしかできなかった。

「いっぱいでた! ななみ、きもちいいでしょ? わたしの、これ、きにいったぁ?」
「……もう、気がすみましたか」

 ずるりと肉棒が抜かれたら、一緒に少しだけ粘液が吐き出された。ここまできて恥ずかしいだとか言うつもりは無いが、事前準備もなしに尻に入れられたので粘液に糞便が混じっている。想像通りだが血液も付着していた。そのまま残りも出てくるかと思ったが、馬鹿になったと思った肛門の筋肉は、栓が無くなると再び本来の役割を果たしているのかこれ以上排泄物が出てくることは無かった。しかし、腹の中がいっぱいで、今すぐどこかに出してしまいたい。七海の下腹部はぽっこりと膨らみ、生温い。腹の痛みを軽減させようと七海はゆっくりと手でさすった。その姿がまるで子を宿しているかのように思えて滑稽だった。中身は彼女から出た液体で、生命体では無い。馬鹿みたいなことを考えてしまったと、七海は自分を嗤った。男が子を宿すことなどできはしない。早くこの体液を出してしまいたい。しばらく腹をさすってみたものの堪えがたい便意に襲われ、七海は粘液塗れでどろどろのままよろよろと立ち上がる。力を入れた時に尻の穴に裂けるような痛みが走り驚いたが、挿入されていた時のような異物感は無くなり我慢できない程ではない。なんとかトイレに行こうと、七海は彼女がいる方へ振り向いた。恐ろしい姿を見たくないとの思いからずっと彼女の顔から目を逸らしていたけれど、そこには内股座りをした裸の女性が無垢な表情で七海をじっと見つめているだけだった。陰核は元の大きさに戻り、いつもの彼女の身体になっている。淫紋は縮小し、下腹部に小さなハート模様が一つ刻まれているだけだった。解放された欲望が発散されたせいか、何も知らない幼子のように見える。裸の七海と自分自身を不思議がっているのか、きょろきょろして、手を握って、開いて、頬にぺたりと手を当てて首を傾げた。それから七海の背中の方を指差して言う。

「ななみ、いたそう。血がでてるね」
「別にどうってことない。少し待っていてください。すぐ戻ります」

 よろよろと扉へ向かうと、彼女がペタペタと足音をたててついてきた。

「いっしょに行く」
「トイレに行くだけですから」
「おしっこ?」
「いえ、あの……」
「うんちだあ!」

 アハハと笑って、恥ずかしそうに両手で顔を覆った。指の隙間からこっそりと盗み見ているのがわかる。自身にもついているぬめぬめした液体を不思議そうに手で捏ねまわして匂いを嗅いで、「オエー! くさぁい!」と言って顔を歪めている。これは何だと尋ねるので七海は答えに困ってしまった。今の彼女に何と言えば理解してくれるのかわからない。そもそも彼女は度々人格が入れ替わるかのように態度を変えているが、すべての記憶は繋がっているのだろうか。何も覚えていなそうな幼い振る舞いをすることもあれば、今日みたいに欲望を爆発させ迫ってくることもある。かと思えば現状を理解し、日々リハビリに励んだり料理をしてみたりと、普通の人と変わらないように見えるときもある。いったい本物の彼女はどれだろう。
 七海が答えないでいると、彼女はきょとんとした顔つきで彼を見上げた。その表情を見て何か大切なものがバラバラになっていく感覚がした。彼女を見つけたあの時から、何も良くなっていないじゃないか。

「ななみも、ばっちくなってるね。おふろにはいれば?」
「そのつもりです」

 彼女は「フーン」と興味なさげに言うと、何か思い出したのか辺りを見回した。べっとりと白濁で汚れた室内を見て何を思っているのだろう。とりあえずは一人でも大丈夫そうだと、彼女を寝室へ残して七海は慌ててトイレへと駆け込んだ。座った瞬間に腹の中のものが一気に押し出されて、汚い音が個室内に響く。彼女に聞かれているかもしれないが、一度出てしまえば止めることができず、最後まで出し切ってしまい早く楽になりたい。腹にぐっと強い力を入れると、まだまだ彼女の出したものと自分の排泄物が混じってどろどろと止めどなく出てくる。言いようのない臭いが充満しはじめ、七海は何度も空えずきをした。そのまま胃の中身を出してしまいたいのに上手く吐けず、みっともなくオエオエと声が出ただけだ。ぽっこりと膨らんでいた下腹部がペタンと凹んだとき、排泄欲が満たされたせいか奇妙な幸福感が湧き上がってきた。この快感に似た感覚を知ってはいけない気がして、七海は気づいていないふりをした。
 寝室に戻ると彼女は静かに涙を流していた。七海が戻ったら、大粒の涙がぼたぼたと溢れてきた。顔を覆って俯き、何度も「ごめんなさい。もう死にたい」と言う彼女にかける正しい言葉は何だろう。七海はいっそ死んだ方が楽だったのかもしれないと考えたことのある自分を隠して、いつものように「大丈夫」「何も問題ない」「全部上手くいく」と繰り返して彼女を慰めた。我ながら陳腐な言葉だと思う、と七海は心の中で自嘲した。しかしそれ以外に何を言っていいのかわからない。ただ彼女には死んでほしくないし、幸せになってほしい。もうこれ以上辛い思いをしてほしくないと願っているのに解決方法が未だに見つけられず、こうやって二人して途方に暮れるだけの日々だ。彼女が七海に縋り許しを乞う。涙ながらに訴える姿に胸が締め付けられる思いがする。彼女の苦しみをお終いにしてやりたい。一体いつになったらこの呪いと決別できるのだろう。
 彼女に風呂を促すと大人しくバスルームへと入っていった。その間に汚れた寝室を掃除する。床や壁、リネンを汚す粘液を丁寧に拭きとっていくと、見える汚れはなくなった。シーツを替えて洗濯機へと放り込み、深夜であるがお構いなしに乾燥までセットした。明日になればきっと、何もかも洗い流されて綺麗になっているはずだ。部屋に染み付いたひどい臭いは簡単にとれそうになく、窓を開けてしばらく換気することにした。今日はソファで寝るしかない。彼女は自分の部屋で独り、眠れるだろうか。
 風呂を終えた彼女が濡れた髪のままとぼとぼと歩いてきた。彼女が座ると革のソファが少し沈んだ。七海は黙って彼女の好きなぶどうのジュースを差し出した。以前二人でショッピングモールに行ったとき、彼女が欲しいと駄々をこねて買わされた女児向けアニメのキャラクターのプラスチックコップに短いストローが刺さっている。それを見た彼女が一瞬傷ついたような顔をした気がして、七海は申し訳ない気持ちになった。普通の女性はこんなものは好まないだろう。

「明日、高専に行って、家入さんに診てもらおう」

 チュウチュウとストローが液体を吸い上げた音がしたあと喉がごくりと鳴り、紫色の液体が彼女の体内へと入っていく。時計の秒針の音しかしない室内で、ガラステーブルにコップを置くコツンという音がやけに大きく聞こえる。まるで場面転換したかのように、彼女を取り巻く雰囲気が変わった。憔悴しきった彼女が頭を抱えながら言う。

「ごめんなさい。ずっと、七海に迷惑かけてる。なんでこんなことになっちゃうのかな」
「少し混乱しているだけです。絶対に何もかも上手くいく。だから心配しないで今日はゆっくり休めばいい」
「頭が割れそう。吐き気がする」
「薬を飲めばすぐによくなる」

 そう言って七海はいくつかの薬が入った袋を渡した。寝る前に飲むいつもの薬と鎮痛薬だ。彼女は袋にまとめられた薬を手のひらに取り出し、じっと見つめたまま動かない。どうかしたのかと七海が尋ねようとしたとき、ポタリと涙が彼女のパジャマに落ちた。

「わ、わたし……。ごめんなさい。ごめんなさい……」
「何も謝る事なんて無い。君がただ、そばに居てくれればそれでいい」
「自分が何をしてるか、幽体離脱してるみたいに、わかるの。それが辛い……」

 絞り出すような声が七海の胸を刺す。やはり彼女を自分の側に引き止めているのはエゴではないかと考えてしまう。生きているだけでいいなんてことは、どう考えても綺麗事だ。ではあのまま彼女は逝くべきだったのか。何度も消してきた考えが浮かんでくる。つくづく因果な仕事だと思う。
 呪術師は、ある意味一般人よりも死ににくい。特に彼女は呪力操作に長けていた。玩具を作り出すための実験体となり、繰り返し蹂躙され、何度絶望しただろう。原始的な欲求を極限まで増長させられているので色々なことが我慢できない。無理矢理自我を奪い言いなりにさせるため、彼女はバラバラになってしまっている。

 昼下がりの医務室。今日は誰もいないらしく、家入は暇そうにパソコンへ向かっていた。二人が入ってきたことを確認すると椅子をくるりと回転させる。七海に手を引かれ俯きながらとぼとぼ歩いてくる彼女を見て、おおよその見当がついた。七海と彼女が二人並んで丸椅子に座った事を確認すると、家入は本物の医者らしく何も言わずに聴診器を彼女の胸に当てた。目を閉じて彼女の胸の音に集中している。一体どんな音が聞こえるのだろう。彼女の生命の音を聞いてみたい。間違いなく生きているという確信が欲しい。何にも悩まされること無く健やかに過ごしてほしいと祈りながら、七海は家入の言葉を待つ。

「この呪いは厄介だが永久に支配できるものじゃない。ずいぶん良くなってる。心配するな」

 ふわりと笑う家入に彼女が抱き着き、ワンワン声をあげて泣いた。明け方に少しだけふった雨のせいか、いつもの医薬品の臭いが更に濃く感じる。そんな医務室をいつもなら好ましくないと思うのに、今日は気持ちがほっと緩む。窓の隙間から入り込む風がカーテンを揺らし、陽の光が彼女の頬をくすぐった。きらきらと眩しい陽光を受ける美しい横顔に七海は息を呑んだ。十代の頃の彼女が重なる。

 とても綺麗だ。

 彼女が自分を取り戻したら、どこか遠くに旅に出よう。あの日別れてからのことなんか全部忘れて、水上コテージでのんびりするんだ。日がな一日寝て過ごしてもいいし、地元のマーケットで好きなものを買って食べるのもいい。水平線に沈む太陽を眺めながら明日の心配なんかせずに、楽しいことだけを考えよう。彼女が望むなら何だってしてやりたい。
いつでも。どこでも。どんなことでも。

 しばらくぐすぐすと泣きながら家入に慰められていた彼女は、様子を見に来た五条の豆大福につられてフラフラと出て行ってしまった。「美味しいお茶もあるんだよねえ」と五条が言うと彼女はこしあんじゃないと嫌だ、と笑いながら言った。二人の間には時の流れを感じさせない自然さがあり、七海はなんだかやるせない気持ちになった。昨夜のことが全部嘘みたいだ。七海が復帰するとき想像していた彼女の姿がそこにあった。後を追おうと立ち上がった七海の背に家入が困ったような声を出して話しかける。

「疲れているな。だからやめておけと言っただろう」
「乗り掛かった船です。自立できるようになるまで一緒に暮らします」
「相変わらずだよ。お前は」

 七海の肩に冷たい手がポンと置かれ、今度は七海が家入の背中を見送った。冷静になれと言われたような気もするし、彼女のことを頼むと託された気もする。どちらも今の七海に必要なことだ。この行いが間違っているとか正しいとか、もはやそんなことはどうでもいい。脅迫的な衝動が七海を突き動かし、彼女の全てを受け入れよと己に言い聞かせるのだ。