翌朝、もう嵐は止んでいた。あのあと二人はすぐに眠りに落ち、何事もなく目覚めた。七海は寝るだけならば一人のベッドの方が気楽だと思ったが言わないでおいた。自分以外の誰かがいることで多少の寝づらさがあったはずなのに、なぜか満たされたものも感じたからだ。
そしてまた夜。今日もあの温かさに触れたいと彼女は七海の寝室の扉をノックする。どうぞと言っても入って来ないので扉を開けると、そこにはもじもじしながらうつむき、恥ずかしそうに頬を染めた彼女が立っていた。昨夜とはまるで違う雰囲気に七海は面食らう。
「今日も、七海と、一緒に寝たい、なあ……」
それは〝いつもの〟彼女なのになぜか七海の胸中には猜疑心が広がっていく。学生時代の凛とした姿はよく覚えているけれど、空白の四年間の彼女のことは何一つ知らない。助け出してすぐは混乱していたが、最近は年相応の女性として落ち着きつつある。しかし、どの彼女もかつて十代だったころのあの子と同一人物とは思えない。
一体どれが本当の姿なのだろう。
「一回だけの約束だから、それはできません」
当然だが彼女の申し出を許可することはできない。彼女が七海から離れず寝苦しかったし、妙齢の女性が異性と同じベッドで眠るというのは不健全な気がする。例え信頼関係があったとしても、同衾は簡単に許してはいけない行為ではないだろうか。だって何かあってからでは遅い。もちろん七海から何かしようというわけは無く、これから先も彼女とは間違いなど起こり得ない。絶対にそうではないのに、それを口に出してしまうと変わってしまうモノがあるように感じてしまい、強く言い出せないでいた。
「お願い。おんなじ布団で寝るだけだから!」
そんな七海の揺らぎを感じ取ったのか、彼女は手を合わせて深々と頭を下げた。さらにこのまま押し通そうと地団駄を踏む。もちろん答えは決まっている。
「駄目です」
「独りじゃ怖い。今日で最後にするから」
そう。こんなこと、許されていいわけが無い。昨日が特別だっただけだ。嵐を怖がる彼女を安心させるために必要なことだった。しかし今日は違う。なぜなら天気はいいし、彼女は普段通りで何も怖れていない。ここで折れてしまえばこの先もきっとわがままを通そうとするだろう。同居にはルールが必要だ。寝室は不可侵領域で例外は無いのだとわかってもらわなければ。思えば七海は彼女の身体に触れるハードルが下がりすぎていた。しばらくは子どものようだったから、頭を撫でたり背中を擦ったり、安心感を与えるために意図的に触れるようにしていた。肌と肌が触れ合うことで情緒的な安定を与えることができると考えていたからだ。それに着替えや排泄、風呂の見守りなど身の回りの世話をするために彼女の裸体を何度も見ている。今は身の回りのことは一人でできるので四六時中そばに居る必要はないが、かつての彼女はセルフケアをできない程弱り果てていた。こうしたことから、七海と彼女の距離は精神的にも肉体的にも非常に近いものとなっていた。それはまるで親子のような関係だ。彼女は七海を保護者以上に想って明らかな好意を向けていたようだが、七海はそれを肉親へ向ける愛情に近いものとして受け取っていた。娘か妹のように接してきた七海は彼女の複雑な感情に気づけなかったのだろうか。
振り返ると自他の境界が曖昧になってしまっていたと七海は思った。もっと客観的な立場から現状を俯瞰すべきだったのだ。過去のことを悔やんでも時間を戻すことはできないし、未来を想像して憂いても現状の解決にはならない。そんなことはわかっていたはずなのに、彼女の身に起こったことがあまりにも衝撃的で何かのせいにしたかった。例えば彼女を一人残して自分が立ち去らなければよかっただとか、一度でも連絡すればよかっただとか、何度も考えたのはそんなことだ。彼女が七海に求めているものは何だろう。命を救ってもらい、安心できる住まいと美味しい食事を与えられている。これ以上必要なものがあるだろうか。彼女がずっと抱いている願い。何度も口にしているのに叶えられていない望みがある。七海も幾度となく聞いているはずなのに、その言葉を真正面から受け止めたことは無い。理解できないのか認めたくないのか。七海は無意識のうちに彼女から向けられる明らかな好意から目を背けていた。
一緒に眠るのは今日でおしまいにして、もう一晩だけ一緒に寝ても何が変わるというわけじゃない。昨日は特別で、今日が最後ならいいだろう。
「明日から一人で眠れますか」
「ありがとう! 七海だいすき」
わざとらしく眉を顰めているのに、七海の目は優しく弧を描いていた。ふっと漏れた息も慈愛に満ち溢れている。彼女へ向ける気持ちのなかに愛が無いとはとても言えない。それに七海本人だけが気付いていない。
今日も彼女はベッドへ入る許可を得て、いつものように自分の気持ちを正直に伝えた。命の恩人で生活の面倒まで見て貰っている相手を好きだと思うのは何らおかしくない。七海はそう結論付けて、要求されたわけでは無いが彼女に腕枕をしてやった。すぐさま嬉しそうにくっついてきて、胸元をさする小さな手が可愛らしい。彼女の為に買ったハーブのシャンプーが仄かに香る。七海とは違う柔らかいぽちゃぽちゃとした肌に触れ、醜かったころの彼女を思い出していた。彼女のために自分がやったことは間違いでは無かったと思いたい。死ぬほど辛いことがあっても、どんなにめちゃくちゃになっても、再びこんな風に笑うことができるのだから。二人で身を寄せ合っていると呪いなんてないように思えた。七海の気持ちが少しずつ緩んでいく。きっと今までが悪い夢で、朝起きた時には何もかもが変わって普通の人生を歩んでいける。そんな馬鹿みたいな妄想をしているうちに、いつのまにか七海は眠ってしまった。