怪しく笑う君はエキドナ

第5話

 少しの不安と大いなる期待のなか、二人暮らしが始まった。七海は日中、時折夜間も不在にすることはあったものの、彼女は自宅内であればなんとか一人で生活できるようだった。トイレに行ったり風呂に入ったり、それから食事をとったり。準備があれば身の回りのことはある程度できるまでに回復しているとわかり、七海は嬉しい気持ちになった。もちろん全く世話がいらないということはない。例えば、たまにトイレへ間に合わず失敗がある。子どもならお漏らしをしてもその量はたかが知れているが、成人女性となるとトイレ一帯が水浸しだ。またそれを自分で片付けようとして被害は更に拡大してしまう。その度にぐずぐず泣いて落ち込んで慰めるのが大変だった。風呂に一人で入れるのの、髪を乾かしたり、風呂の片づけをしたり、洗濯をしたりという入浴に付帯する細々としたことはできない。他にも食器を洗おうとして割ってしまったり、飲み物をコップにうまく入れられなかったり、食べこぼしをしたりと細かいことを挙げるときりがない。それでも彼女はなんとか七海の役に立ちたいと一生懸命頑張るものだから、やることなすことが裏目に出た。割れた食器が無造作に入れられたごみ箱を見て七海は思う。余計に手間がかかる、と。
 それに日々の生活が退屈そうだった。七海が家にいないときは一人で外出することはできず、日がな一日テレビを見たり本を読んだりじっとして過ごすことになる。七海の休日のみ一緒に出掛けるが、見た目は大人の女性なのに買い物中にお菓子をねだったりおもちゃを欲しがったり、その度に事情を知らぬ人々からの好奇の目に晒された。彼女本人はそれに気付いたり気付かなかったりしているようだが、七海は気が気でなく片時もそばを離れることができない。
 また、医務室に居たときと同じく、時折元の彼女に戻ることがあった。それはいつ、どこで、どのように起こるのか全く予測ができない。そしてどうやら、正気へ戻ったとき自分の置かれている状況がうまく飲み込めずかなり混乱するらしく、毎度わけもわからないまま謝ってばかりいる。自分の置かれた状況をどこまで理解しているのかはわからないが七海にかなり迷惑をかけていると思っており、何度か出て行ってしまい戻らなかったことがある。幸いすぐ近くの道を裸足でふらふら歩いているときに親切な通行人により警察署へ連れられ保護されたのだが、突然見知らぬ番号からかかってきた電話をとりそれが警察からだったときの七海の心労は相当なものだ。
 それでもまあ、なんとか二人の生活はギリギリのところで成り立っていた。通院をしながらリハビリをして、気力も体力も少しずつ回復し生活リズムもつかめてきていると思う。あとはよくなるのを待つだけだ、日にち薬なのだと七海は自分に言い聞かせて毎日が過ぎるのを待った。

 ある日、急いで仕事を片付けた七海が帰宅すると、部屋中に折り紙がばら撒かれていた。折り鶴に花、動物や紙飛行機。つい先日のリハビリで取り組み始めたらしく、本を見ながら一人で器用に作っている。

「おかえり」
「ただいま。今日はどうでしたか」
「おりがみをしていたの」

 一つの物事に集中して作業を継続する。これは彼女にとって大きな成長だった。しかし、帰宅早々何度片づけても散らかり続ける自宅を見るのは、正直に言うと辛い。足の踏み場さえ無く広げられた色とりどりの紙と作品たちを見て七海は大きなため息を吐きそうになった。なんとかぐっと堪えて飲み込み、彼女に向かって暖かい眼差しを意識的に向ける。一日使って一生懸命作ったのだろうと考えると、一つたりとも無下にできない。それにこれは彼女の仕事のようなものであり、治療の一環だ。

「上手に折れています」
「これあげる!」

 そう言って彼女が差し出したのは折り紙で作られたお揃いの指輪だった。貴重な銀色と金色を使ったと胸を張り、七海の左手をとって、そっと薬指にはめる。どうやらその意味を理解しているらしく、彼女は大きな声で「これで大人になれるんだ」と言って喜び、折り紙で作った冠と花束で二人の結婚式をあげた。一通り彼女のごっこ遊びに付き合ってやり満足したところで夕食を作ろうと立ち上がったとき、何の気なしに指輪を外したら彼女は大泣きして嫌がった。絶叫に近い悲鳴をあげるものだから窓枠がびりびりと震えた。なんとかなだめようとするが、何を言っても効果が無く途方に暮れていると、突然正気に戻った彼女が泣いて謝りながら指輪をぐしゃぐしゃにして捨ててしまった。それからしばらく部屋に引っ込んで結局その日はそのまま眠った。翌日起きてきたいつもの彼女が潰れた指輪を見てショックを受けまた癇癪を起こし、七海は現場入りが三十分遅れた。

 珍しく午後四時ごろに仕事が終わり、近所の美味しい惣菜店で彼女の好きなものをたくさん買い込んで帰宅したときのこと。家の中は昼間なのにどこもカーテンが閉められているのか真っ暗だった。時計の秒針しか音は無く、ここだけ世間から断絶されたように思える。そっと彼女の部屋を覗くがそこには誰もいなかった。リビングへと向かうと、ソファの上にかけられたブランケットが丸く膨らんでいた。頭まで覆い隠して呼吸音さえ聞こえてこず、七海は息をのんだ。只事ではないと七海の中の何かが警笛を鳴らす。
――何と声を掛けるべきか。

「今日は体調があまりよくないようですね」
「……」

 七海はつとめて平静を装い、落ち着いた声を意識的に出した。少しの刺激でも彼女がバラバラになってしまいそうな気がしたからだ。廃屋で見つけたときのような異様な空気が辺りに漂っているのがわかり、背筋が凍る。しばらく落ち着いていたのに、またあの時みたいに戻ってしまうかもしれない。獣のように暴れまわりながら奇声を発して、誰も近寄るなと言わんばかりにドス黒く淀んだ瞳をぎらつかせる怪物のような姿に。

「お風呂に入ったらもう休みましょう」
「……」

 ブランケットの塊から返事はない。しかしわずかに呼吸の音が聞こえるようになり、彼女が生きていることだけはわかった。すうすうと規則的な呼吸音から察するに、感情の昂りは無さそうだと七海は感じた。先ほどまでのピリピリした空気が徐々に和らぎ、ただそこで昼寝をしているだけのように思える。七海がソファへ腰を下ろしてブランケットをおそるおそる捲ると、小さく丸くなった彼女が静かに寝息を立てていた。ほっと大息を吐いた七海は、静かに上下する彼女の背中を優しく撫でてやった。まだゴツゴツした肋骨に触れるくらいには痩せている。それでも発見当時とは比べ物にならないくらい健康的になってきた。今の彼女の寝顔は穏やかで、汚い板の上に転がって化け物のようないで立ちだったときなど、もはや想像さえできないほどだ。それでも今日、自宅に足を踏み入れた時に感じた彼女本来のものではないザラリとした呪力は確かにあって、彼女がいまだ正体のみえない呪いに苦しめられているのがわかる。家入の言う通り時間が解決するのを根気よく待つしかないのはわかっているつもりだ。それでも手ごたえの無い日々が続くとさすがに虚しさを感じるし、昨日までは調子よく一緒に本を読んでおしゃべりも楽しんだのに、何がきっかけでこうなってしまうのか七海には皆目見当もつかなかった。

「ベッドへ一緒に行ってあげるから、今日はもう寝よう」

 声を掛けるともぞもぞと動き出し、七海の大腿に頭を乗せた。見た目は成人女性なのに振る舞いはやはり子どもそのもので、それもずっと七海を混乱させている。このまま頭を撫でて寝かしつけてやりたいが、ふとした瞬間我に返って酷く狼狽える彼女を知っているから、簡単に手出しすることはできない。刺激のない穏やかな日々を送ることが彼女にとって良いことだと思っていたのに本人は新しいことをやりたがるし、リハビリでは日々前に進む訓練をしている。彼女を連れ帰ったことは独善的だったかもしれないと七海は思い、自分の中にある彼女へ向ける感情の出どころをたどった。常人には決して理解されない辛い学生時代の記憶と、その中でも正しくあろうとする彼女の姿が脳裏に浮かぶ。清く正しく美しい。いつも朗らかな笑みを浮かべて、どんなときも前を向いて歩みを止めない真っ直ぐさが眩しかった。七海はそんな彼女を女性術師の理想としていたが、結局は折れて逃げ出してしまった。高専を離れてからの大学時代、未だ呪術師の世界で生きている彼女に合わせる顔は無いと思っていた。死に物狂いで金を追いかけていた会社員時代、彼女を無理矢理頭から追い出して適当な女を見繕ってみたが虚しいだけだった。紆余曲折を経て出戻ったとき、彼女が長年行方不明になっていると聞いて自然と浮かんだ感情はどんなものだっただろう。諦めのような、安堵のような、なぜか温かい気持ちになった気がする。どうしてだろう。
その先を考えようとしたとき、彼女が目をこすりながら身体を起こした。寝ぐせのついた髪を指でくるくるといじりながら「ねてたぁ」と言って笑い、七海の手に頬ずりをした。今は子どもの方らしく、七海は安堵した。こんなときに元の自我が現れたら酷く落ち込んでしまうからだ。彼女が自立することが望ましいとわかっているのに、手元に置いておきたいと思ってしまう。相反する思惑が頭の中を行ったり来たりしている。
もちろん今日も答えは出ない。

「パン屋さんに行ったよ」
「それは頑張りましたね」

 今日はどっちだ、と七海は思った。しっかりした口調と真っ直ぐな瞳。現状を理解しているような口ぶりにきっと大人の方ではないかと思う。最近は境界があいまいだ。子どもに戻るとか大人になったとか、そういう人格交代のような状態は少なくなってきている。彼女の症状が解離だと仮定するならば、少しずつ人格が統合されてきているのかもしれない。それとも、呪いが弱まり彼女のもともとの自我が出現しやすくなっているのだろうか。
そもそもこのようにいくつかの自我が存在するのも呪いのせいだと家入は言う。あの工場では都合のいい〝人形〟を作っていたと後の調査に行った補助監督から報告書が上がっていた。肉体改造だけでなく、呪力を用いた精神支配で生きたまま目的に合わせて心身を作り替えて、金持ちの家に送られる。完全オーダーメイドの肉人形がどういった目的で作られていたのかなど、この業界に居ずとも想像に容易い。哀れな傀儡を作るための実験体として四年ものあいだ肉体と精神を弄ばれ続けていた彼女が今どういう状態なのか考えると、再び七海は腸が煮えくり返る思いがした。

「先生と一緒に行ったの。七海のぶんも買ってあるからね」
「明日の朝食にしましょう」

 身体はかなり回復して今では介助があれば外出できるようになっている。しかし屋外で一人にすることはまだ難しい。突然何が起こるかわからないし、彼女自身、今の自分の状況を正しく理解できているか疑問だ。いつか完治したとき彼女はどうなるのだろう。一人で生活できるようになれば、また呪術師に戻るのだろうか。

 七海がただいまと言って玄関を開けたら、腕を組んで身体を反らしながら堂々とした出で立ちの彼女が出迎えた。にっこりとほほ笑んで「おかえり!」と言うと、くるりと後ろを向いてリビングへと駆けていく。だぶついたエプロンを無理矢理つけているので紐がだらりと垂れていた。七海のエプロンは彼女には大きすぎたが、七海と同じものを使って同じことをしたがるのでそのまま使わせている。ここのところの彼女ははつらつとしており毎日が楽しそうだ。一緒に暮らし始めて早いもので半年が経つ。一進一退を繰り返しながらも自分のできることを少しずつ取り戻してきた。今では料理もお手のものだ。

「今日は掃除機をかけてお風呂をきれいにしました!」
「元気そうですね」

 誇らしげに言う姿が微笑ましく、頭を撫でそうになってしまった七海は、思いなおして手を引っ込めた。最近は照れがあるのかこんなことでは喜ばなくなってしまった。できたことを褒めてやったり、頑張ったことを評価してやると嬉しそうに笑って「ありがとう」と言う。以前のようにベタベタくっついてくるようなことは無く、心理的にも肉体的にも明確な距離ができてきた。彼女の自立は嬉しいものだ。このまま健やかに生きていってほしいと日々願っている。不可解なことに少しだけ寂しいと思う気持ちもある。子どもが成長して手が離れていくときに親が感じるようなものだろうと、七海はその感情を片付けている。そもそもこれが恋愛関係にない二十代男女の正しい距離感だ。今は理由があって同居しているが夫婦でもなければ恋人でもないのだから。

「七海のおかげで元気になってきたって実感するの」
「あまり無理はしないでください」

 パタパタと楽しそうな足音を立てて走る彼女の背中を見つめながら七海は再び考えた。このまま良くなってきっとなにもかも上手くいく、と。そんな予感がするほど目に見えて立ち直っている。やはり嬉しいはずなのに、一抹の寂しさもある。きっと後輩が独り立ちしたときだとか、親戚の子どもがよそよそしくなったときだとかに感じるような感情だろうと思うことで、これ以上考えるのをやめた。

 七海がそろそろ彼女に自立を促そうと思い始めたある日。その日は酷い天気で、深夜から降り続いた豪雨は朝になっても昼になっても止むことはなく、ついには夜まで続いた。おまけに台風並みの強風が吹き荒れ、ベランダの掃き出し窓を叩きつける轟音が家中に響く。雨と風の音にすっかり怯えてしまった彼女は、家じゅうの布団をかき集めて包まり、七海の隣に座って歯をガチガチと鳴らしながら震えていた。あの手この手でなだめたが、彼女の恐怖を取り除くことができず七海は途方に暮れた。こんなに荒れた彼女は久しぶりだ。しかし、いつまでもこのままにしておくわけにはいかない。嵐は一晩中続くと天気予報が無慈悲に告げている。怖がっていて不憫だと思う気持ちももちろんあるが、明日の事を考えるともう休みたいというのが本音だ。無理矢理にでもベッドへ連れて行こうかと考えなくもない。それでも多大なるストレスがかかっている今の彼女にそんなことをしようものなら、今まで積み重ねてきた努力が無駄になってまた振り出しに戻ってしまうことが怖かった。極力刺激を避け、休ませる方法はないか。結局良い案は浮かばず、何を言っても首を縦に振らないし抱きかかえようとすると身を固くして拒む。万策尽きた七海は、仕方なく彼女をこのままにして先に休むことにした。なんとかソファへ横にすることには成功しただけでも良しとしようと七海は自分自身に言い聞かせ、自室のベッドに入った。七海の部屋にもごうごうと激しい風の音が聞こえてくる。
――確かに不気味だ。人は嵐を本能的に恐れるのだろう。

 七海が目を閉じてウトウトし始めたとき、カタンと小さな音が鳴った。音のした方向を向くと静かに扉が開き、髪を乱した彼女が七海の部屋へそっと入ってくるところだった。その出で立ちはまるでいつか見た怪物のようで、七海は一瞬ゾッとしてしまった。心臓がビクリと跳ね、明確に鼓動を早めている。彼女から発せられる音はひとつも無いのに、呪力は激しく揺らめき内側で起こっている恐慌状態が容易に想像できる。今まで黙って寝室へ入ってくることなど無かったのに、彼女の見た目と真っ暗な部屋、そして暴風の轟音が相まって恐怖感が強まる。七海は自分が一体何を怖がっているのか理解できないでいた。だって目の前にいるのはただの非力な女だ。危害を加えられているわけでは無いし、今だってそこに立っているだけ。それなのに異様な雰囲気を醸し出しふらふらしながら七海に近づいてくる彼女を見ていると、言いようのないざわめきが身体中を駆け巡る。

「どうしたんですか」
「一緒に寝てほしい」
「君のベッドがあるでしょう」
「一緒に寝て。お願い」

 声は普段通りなのに、まばたき一つしない漆黒の瞳から目を逸らすことができない。七海と話したことで少し落ち着いたのか彼女の緊張が少し緩んだのはわかった。今日は季節外れの嵐だ。日本でこんな天気は珍しい。彼女の空白の四年間にこんな夜があったのかもしれない。赤道付近の国ではたびたび酷い嵐による自然災害があると聞く。きっとそれを思い出し、怖がっているのだ。七海はそう結論付け、少しずれて彼女が横になる場所をあけてやった。仕方がない。このまま放っておくと今までの努力が無駄になる可能性があるのだから。

「掛け布団は自分のものを使ってください」
「いやだ。七海の布団に入れて」
「どうして」
「ぎゅってしてほしい。怖くて眠れない。お願い」

 ぐずぐずと泣き鼻を啜りながら彼女は七海へ懇願した。悲痛な訴えを聞き、七海の心は揺れる。

「今日だけですよ」

 特別にベッドへ入ることを許可すると、彼女は途端に泣き止みするすると七海の胸の中に納まった。七海が触れると彼女の震えは止まり、身体の力が抜けていく。彼女に触れた部分から安心した様子を感じた七海は、とりあえずの危機は脱したと思った。まだ皮膚はじっとり湿っていて、触れるとひやりと冷たいが、次第に落ち着いた呼吸音と規則的な心音が聞こえてきた。見た目よりもふっくら肉が付いた身体をそっと抱きしめたとき、七海はほんの少しの後ろめたさを感じた。助け出したときとは違う肌のみずみずしさに必要以上の接触を咎められた気がした。今まで我が子のように世話をしてきた相手が、いつのまにか女へと変貌を遂げていたことを自覚してしまうとどうも居心地が悪い。もはや庇護の対象では無い女性を抱いている自分を客観的に見るといけないことをしているみたいだ。
 そんな七海のためらいをよそに、彼女は冷えた手先を温めようと七海の身体に更にくっついた。七海は鍛えているせいか元々人よりも体温は高い。そんな彼の温もりがもっと欲しくなり、彼女はその逞しい胸に鼻先を埋めた。温かいを通り越して熱い七海の身体はじわじわと汗をかき、強張っている。七海にはお構いなしに彼女は太ももを七海の足の間にするりと滑り込ませた。二人の身体は隙間なく密着し、これでは広いベッドの意味がない。彼女がもぞもぞ動くたびに清潔な石鹸の香りと洗濯したばかりのパジャマからおひさまの匂いが漂ってくる。これはただの抱擁だ。眠れぬ夜を過ごすかわいそうな子を慰めるためにする行為で、全くもって他意は無い。誰も見ていないから言い訳する必要など無いのに、七海は心の中でたくさんの理由を並べた。