正しく純潔な君はアルテミス

第4話

 いつものように七海が手土産をもって医務室に訪れたとき。その日の家入はいつもと違って随分と深刻そうな表情をしていたので、最初から嫌な予感がしていたのだ。

「――転院、ですか」

一通り七海と喋って遊んで、それから夕食を食べた彼女は、食後すぐに眠ってしまった。そんな彼女の頭を優しく撫でていると、家入がやってきて話があると七海へ告げる。手元でひらひらとさせているのは一通の手紙だ。宛名には聞いたことの無い病院の名が書かれている。当然のように七海が紙切れに手を伸ばしたら、家入はその紙切れをさっと引いて隠してしまった。なんでも、個人情報だから見せられないと言う。それを聞いてあからさまにむっとした七海を見て家入は口元を悪戯っぽく歪めて笑った。

「医務室にずっといるわけにはいかないだろ。まだ痩せが目立つが身体は順調に回復してる。後は長期的なリハビリと心の治療。呪いの問題は、このまま少しずつ弱めるしかない」

 わかっていただろう、とでも言いたげに七海をじっと見据え、反応をうかがっている。確かに家入の言う事は尤もだ、と瞬時に頭には浮かんだ。高専の医務室をいつまでも彼女の部屋にしておくわけにはいかない。いつなんどき他の負傷者が来るか。それに本来医務室に入院設備はなく、生活するには不便が多い。そして反転術式が使える医者の呪術師などそうそう代わりがいるわけは無く、家入のオーバーワークも心配だ。彼女がここに来てからというものあまり家に帰っておらず、ただでさえ細いのにまた少し痩せた気がする。彼女は食事がとれるようになって点滴などの医療的処置はほとんどなくなり、危機的な状況は脱していた。身体がある程度回復したら次は心だ。こちらの方が彼女にとっては大切に違いない。未だ彼女の心は安定せず、楽し気にしていたと思えば遠い目をしてぼんやりし始め、呪力の質が変わってきたらいきなり赤子のようになってしまう。何かに怯えてガタガタと震えだすこともあるし、自虐的な行為が見られることもあった。彼女にかかった呪いのほとんどは複雑なものではないのに、監禁されていた期間の長さと重なり合う呪縛が状況を難しくしていた。心にも身体にも根深く潜り込んでいる呪いは一筋縄ではいかないのだ。だから七海には、家入の言っていることが至極真っ当で妥当だとわかっていた。それでも、彼女を手放したくない。そんな気持ちが言葉になって現れる。

「通院では難しいんですか」

 転院となると別の医療機関へ移送され入院することになる。今は高専の医務室で事情を知るみんなに見守られながら自由に過ごしているが、他の病院ではそうはいかないだろう。何も知らない医者に的外れな治療をされるかもしれないし、患者は彼女だけではない。もしかすると面会が制限されたり、彼女の自由が脅かされたりする可能性もある。果たして、彼女の心身はそれに耐えられるのだろうか。今だって七海が居ないときはつまらなそうにしているし、怖いものが視えてしまうのか震えて泣いていることもある。見知らぬ人ばかりの場所で健やかに生活できるとは到底思えない。混乱して怖がっているとき、手を握り心からの言葉をかけ、彼女を真に安心させてやれるのは自分だけだと七海は思った。親でもなければ子でも無いが、同じ釜の飯を食い、辛酸をなめてきたかけがえのない同胞だ。この想いは愛というには偏りすぎているし、恋というには重すぎる。そんな名も無き感情は彼の中でますます膨れ上がり、溢れんばかりになっていた。

「できなくもない、が。もしかして、七海が面倒みるつもりなのか?」

 家入の視線が七海へと刺さる。言葉にはならずとも「馬鹿だな」と言われているような気がした。

「そう考えています」

 七海は迷いなく答える自分に驚きつつも、答えはそれしかないとも思っていた。彼女と廃屋で再会してからずっと相反する感情を抱え続けている。彼女の未来を見つめる七海は言う。あの時彼女を助けたことは正しかったのだろうか。ボロボロになった心と身体の一部は元に戻る見込みは薄く、常に誰かの助けを必要としながら彼女は生きていくことになるだろう。いっそあのまま、死んだほうが楽だったんじゃないか。彼女の過去を見つめる七海は言う。こんなになっても生きることを諦めず、あの場にとどまり助けを待っていたじゃないか。これは運命だ。他の誰でも無く、自分がやるしかない。彼女を守ることができるのは自分だけだ。どう考えても折り合いの付かない二つの考えが、ずっとぐるぐる頭の中を巡っている。答えの出ない問題を独りで問答してもどうしようもないのに、七海は考えることをずっと止められないでいた。いつでも、どこでも、何をしていても彼女の存在がちらついている。死んだと思った同期が奇跡的に生きていた。それを喜ばない者がいるだろうか。
 そんな七海を予想していたのか家入は冷静だった。まるでそう言うと思ったとでも言いたげに、呆れた表情を七海へと向ける。しかしそれは冷ややかなものでは無く、哀れみや憂いを孕んだものだった。先輩として後輩を気遣っている、そんな意味が込められているように感じられる。手に持ったままの診療情報提供書を所在なさげにヒラヒラさせながら家入は言う。

「人格が荒廃してる。心も身体も元には戻らないかもしれない。耐えられるのか」
「わかっています。自立するまで生活の面倒をみる。それだけです」
「おすすめはしない。昔のアイツとは違う」
「覚悟の上です」

 七海の目を見るにその決意は揺るがないだろう。家入はふっと小さく息を漏らしてもの悲しそうに笑った。予想通りの答えを出した七海がおかしいのだろう。もしくは、これからのことを案じたのかもしれない。彼女は今、穏やかな寝息を立てている。今日は一度も大人に戻らなかった。ずっと幼稚園児のように振る舞い、七海にくっついて離れずにいた。最近はよく抱っこしてほしいとせがんでは、胸に顔をうずめて嬉しそうにしている。最初は断っていた七海だが、一度抱きかかえてやるとそれはそれは嬉しそうにニコニコと笑ったので、心が満たされてしまったのだ。少し気恥ずかしいものの彼女の心底楽しそうな顔を見るとすべてがどうでもよくなってくる。早く良くなって欲しい。そう願うばかりだ。

「無理するなよ」

 家入はそう言うと手に持っていた紙をビリビリと二つに破った。その様子を見て七海はほっと胸を撫でおろす。これでもう、よその病院になんて行かなくていい。そうと決まれば話は早い。七海は早速彼女のベッドサイドへ行き、寝ている彼女を揺さぶって起こした。大あくびをしながら彼女はぼんやりと七海を見つめ「おはよう」と言った。ポヤポヤとした寝起きの顔が可愛らしいと七海は微笑んだ。

「君が良くなるまで私の家に来ませんか」
「ななみの家にいく!」

 提案を聞くや否や、すぐに了承の返事があった。頬は紅く染まり、まだまだ細い両手で顔を覆った。湧き上がる喜びを隠しきれず頭を左右に振り、ベッドの中で身体を跳ねさせて感情をあらわにしている。それは明らかに恋する乙女そのもので、傍から見ていた家入はなんともこそばゆい気持ちになった。隠そうとしても隠しきれないし、そもそも隠してさえいないのかもしれない。今の彼女は七海のことが大好きで、誰がどう見ても明確に恋をしている。しかし七海だけはよくわかっていないらしい。七海は知らない。彼が帰った後にベッドで独り涙する彼女のことを。夜な夜なラブレターを書き、渡せないまま枕の下に何通も隠していることを。それは幼稚園児が保育教諭を好きになるような気持ちなのだろうと微笑ましく見守られていた。もしかしたら、彼女は昔の記憶の何かを再生しようとしているのかもしれない。

「元気になるまで、少しの間です」
「ずっといっしょがいい!」
「元気になったら一人で気楽に好きなことをして過ごせばいい」

 そう。彼女は奪われた人生を取り戻すべきなのだ。呪いだの殺しだの、こんなわけのわからない世界から遠ざかって、普通の女性として生きていく。お洒落を楽しみ、美味しいものを食べ、美しいものを見て、愛に溢れた暮らしをしなくてはならない。それこそが彼女にとっての幸福に違いないと七海は考えている。

「ななみとケッコンしたいな」

 しかしそれは彼の独りよがりかもしれない。筋の浮いた青白く不気味な手で顔を覆い、うつむきながらボソボソと自信なさげに彼女が言う。今まで彼女から七海へ向けて言われた好きを集めたら、きっと両手に抱えきれないくらいになる。当事者だけが見えていない。

「それは、本当に愛する人とするんですよ」

 七海は彼女の申し出に驚くことなく、ふふふと笑って答えた。いつも七海への愛は言葉と態度で十分アピールしてきたつもりだったのに、どうやら本人には届いていなかったようだ。まるで相手にされていないと感じた彼女は、小さな子どもがやるように頬を膨らませてプンプンと怒った。

「ほんとに、ななみがだいすきなの!」
「それは嬉しいですね」
「ななみは? わたしのこと好き?」
「君のことを、とても大切に思っています」

 豆腐に鎹。糠に釘。暖簾に腕押し。愛の告白を七海に軽くあしらわれた彼女はしばらく拗ねた様子を見せたが、背中を擦ってしばらく慰めてやると機嫌がなおった。それからはしゃぎまわってすっかり眠気は醒めてしまい、ベッドに戻るように諭しても全く言うことを聞かなくなった。興奮状態にある彼女は七海の隣に座って手を繋ぎながら足をぱたぱたと揺らしお喋りを楽しんだ。七海に体重をかけてもたれ掛かり、いつ七海の家に行くのかと何度も尋ねている。まだ決まっていないとその度に説明するのに「じゃあ、あしたは?」と返す様子が心底愛おしい。心から七海のことを慕っていて、自分と同じくらい七海に愛してほしいのだ。

「さあもう寝よう。いい子だから」

 七海がそう言って彼女の頭を優しく撫でてやると、途端にぽっと頬が赤くなりコクコクと頷き布団にもぐっていった。さきほど決まった「おうちに帰るまでいい子でいる」という約束を早速守っているいじらしい姿に、七海の胸は甘く締め付けられる思いがした。、彼女の考えるいい子とは〝七海の言うことを聞く〟だからだ。
 過去の二人の間にあった感情に明確な名前は無い。しかしそれは愛とか恋にとてもよく似たものだった。底なし沼みたいに深くて、溶岩のような熱を持ち、口にすると少し苦いのに、そう簡単には捨てられない。七海が彼女の世話に没頭することで、かつての記憶と感情に蓋をしてるのは明白だ。二人は良くも悪くもすれ違いながらも入れ込んでいた。それに気づかないことで無かったことにできるのならば、もうそれでいいのかもしれない。

 それから三日。七海は自宅の余った一室を彼女の部屋にすべくベッドを入れたり家具を揃えたりと忙しく過ごした。当日は七海が用意した美しい色合いのワンピースを着せてもらい嬉しそうにはしゃいだ。医務室を後にする二人を大勢が見送り、しばらくの別れを惜しんだ。怪物のような姿だった女性は生きる力を取り戻したのだ。
彼女はきっと、もっと良くなる。誰もがそう信じて疑わなかった。