変わり果てた君はハルピュイア

第2話

 いつもの高専の医務室。家入と五条と七海がベッドに横たわる彼女を取り囲む。彼女が五条の手によって運び込まれたのが十数時間前。著しい低栄養状態が長期間続いたことで、彼女の身体はまさに風前の灯火だった。家入は高専の医務室では限界があると珍しく強い口調で文句を言いながらも数々の医療機器を次々と繋ぎまくり、反転術式も行使して消えかけていた彼女の命を寸でのところで繋ぎ止めた。とりあえずなんとかしたが、と呟いた後、家入が言い淀む。二拍ほどあけて「すべて元通りになるというわけじゃない」と告げる家入はいつも通りの冷静な口調と違い、少々の焦りや苛立ちを感じさせた。曰く彼女の身体には何重にも呪いがかけられているうえに、外科的な侵襲が幾度となく繰り返された形跡があるからだという。片方の肺はほとんど機能しておらず、腎臓は一つしかないうえに委縮が目立ち機能低下をきたしている。長期間まともな食事をとっていないせいで消化機能は衰え、しばらくは点滴が欠かせないらしい。肉体と精神を支配されていた期間も相当長く、簡単には解呪できそうにないという。死という絶望的な状況から脱したとはいえ、彼女が本来の人間性を取り戻すにはかなりの時間がかかると言われ、七海は喜ぶべきか悲しむべきかわからなくなってしまった。目の前にいるのはあの日別れた彼女とは程遠い姿をしている。まるで別人だ。七海はベッドに横たわる彼女へぎこちない微笑みを向けながら釈然としない思いを抱えて、これからどうすべきか思案した。そんな七海をよそに五条はいつもの調子で彼女に話しかける。

「も~、誰だよ。僕の大事な後輩こんなにしちゃって。オーイ。五条さんでーす。ホントになんにも覚えてないの?」

 誰だってこの三人に見下ろされると寿命が縮まるような思いをするだろうが、ベッドの中の人物も同様なのか頭まですっぽりと布団の中へ入ってしまい出てくる気配は無い。五条の声を聞いて、布団の膨らみは更に小さくなってしまった。

「五条さんやめてください。怖がってる」

 七海が五条を制すると、身の安全が確保されたと言わんばかりに彼女は顔を出して七海の手を握った。伸び放題の茶色い爪が不気味に七海の手のひらに食い込む。皮膚はカサつき潤いは全くない。それでもその肌からは彼女の温かみのある体温を感じて、七海はほっと口元を綻ばせる。生きていて良かった。確かにそう思ったからだ。
 家入はそんな二人を横目に彼女につけられた心電図をじっと眺めていた。五条と七海にはモニターに映し出された線と数字の意味はわからなかったが、規則的な電子音はときおり乱れて違う形のカーブを描写する。家入が眉を顰めて画面を凝視しているのであまり良い状態では無いのだろう。

「七海にだけなついちゃってさー。いつから復帰できそう?」
「こんなになって仕事なんてできるわけないでしょう。辞めさせます」

 彼女はおどけた調子で言う五条をじっと見つめ、不思議そうな顔をした。それから七海と五条を視線だけで交互に見て、ますます七海の手を強く握った。安心からか顔色はほんの少し良くなり目には人間らしい輝きを取り戻し始めているように見える。

「さっさと戻って仕事してよ。オマエがいない四年間、大ッ変だったんだから」
「いい加減にしてください。まずは治療が優先です」

 七海がそう言うと五条はケラケラ笑いながら彼女の目をじっと覗き込む。しばらく見つめて「ふーん」と言い、彼女の頭をそっと撫でた。何かわかったのなら教えて欲しいと七海は五条にせっついたが、いつも通りのらりくらりとかわされてしまった。そんな五条を家入が制止する。

「呪いが神経回路にまで根深く絡んで無理に戻せない。毎日少しずつやるしかないな」
「ゲッ、またココに泊まんの?」
「仕方ないだろ。可愛い後輩のためだ」
「ま、イエイリ先生に任せてたら大丈夫でしょ。七海ィ、早く報告書出しといてよー」

 手をひらひらと振りながら医務室を後にする五条の姿を七海は恨みがましく見送った。いちいち腹を立てていては身が持たないのはわかっているのに、煽るような態度にどうしても苛立ってしまう。それでも彼女を助けてくれたのは五条で、その力が無ければこんなに早く帰国することは不可能だっただろう。七海ではあの状態の彼女を飛行機に乗せる方法など思いつかなかったのだから。

「七海。お疲れ様。災難だったな」

 穏やかな声で家入が七海を労う。それから点滴の速度を機械で調整しながら大きなため息を吐いた。目の下には七海と同じく濃い隈を浮かべている。

「……やはり、呪術師はクソです」

 七海が小さな声で答えた。幼い頃から見えた異形。常に身近にある死。慣れていると思っていたのに、想像の遥か上を行く事態にやはり消耗していたらしいと気付く。一気に脱力した七海は医務室のギシギシとうるさいパイプ椅子にどかっと身を預けた。その瞬間、ガタンという大きな音に反応したのか、ベッドに横たわる彼女が突然金切り声を上げた。耳をつんざくその音は、悪魔の断末魔のようだ。咄嗟に「すみません」と謝ってみたものの、言葉の意味を理解していないのか彼女はまた大きな悲鳴をあげた。人間としての形を成してはいるが骸骨のよう見え、中身は怪物そのもののように思えて七海は気味の悪さと恐怖を覚え、そんなことを考えている自分を嫌悪した
正直にいうと、七海はこの元同級生が行方不明だと聞いたときに死んだと思ったのだ。死体が見つからないだとか、見つかってもごく一部であるとか、そういったことはこの業界では度々あって特段珍しいことでは無い。だから彼女もきっとそうなのだろうと勝手に諦めていた。それなのに予想外の再会をして、幸か不幸かまだ彼女には命がある。しかしこの状態を見るに、いっそ死んでいたほうがマシだったのではないか。七海がそう考えてしまうほど彼女は変わり果ててしまっていた。七海の手を握り、頬ずりする姿は赤ん坊のようだ。言葉を失い、感情の起伏も激しい。赤子のような喃語を発していたと思えば、低い唸り声をあげながらベッドの柵をガタガタと揺らす様子はまさしく獣だ。七海の記憶の中の彼女とは程遠い。まるで怪物のようになってしまったのだから。
 七海はもう一度深い溜息を吐いた。肺の奥底に沈殿した汚れた空気を吐き出すように、細く、長く、ゆっくりと息を吐き続ける。わずかな物音に怯えて身体を強張らせ、驚くと奇声を発する彼女をもう一度横目で見る。さきほどまでは七海の手を取りほっとした様子を見せていたのに、寝具をすっぽりと被って光を映さない瞳だけ出して七海をじっと見つめていた。何か言いたげに見えるが言葉はない。発見時には多少なりとも会話が成立したのに、今では叫び声をあげるだけ。これは本当に、女神のように美しく強かったあの子だろうか。

「アイツの事は心配するな。私がなんとかする」

 そんな七海の深い絶望を察したのか、家入は再び慰めの言葉をかけた。彼女は二人を交互に視線で追いながら浅い呼吸を繰り返している。口をパクパクさせて何か言おうとしたが言葉にならないようで、諦めてまた布団にもぐっていった。彼女が動くたびに漂う酷い臭いが鼻にこびりついている。何年風呂に入っていないのかわらかない。老人のように乾いた皮膚のいたるところにじくじくとした古い傷と床ずれがある。

「よろしくお願いします」

 七海は深く一礼して医務室を去った。



 ピッ、ピッ、ピッ。

 外にも彼女の心拍数と同じリズムを刻む電子音が漏れ聞こえてくる。ピリリッと何かのアラーム音が鳴ったと同時に再び彼女の悲鳴が聞こえた。なだめる家入の声が続く。耐えがたい苦痛から逃れる為に、彼女は現実と虚構の区別を失くして命だけはなんとか自分で守ったようだが、それが適切な対処だったのかは誰にもわからない。生きているだけでいいなんて綺麗事だと、この仕事をしている者なら誰でも理解できるはずだ。
 七海が居たころと何一つ変わらない高専の廊下。木造の古い校舎が軋む音も、木枠の窓から射す木洩れ日も、運動場で対呪霊の戦闘訓練を受ける生徒たちも何もかもがあのころのままだ。しかしすれ違う術師や補助監督の顔ぶれは少々変わっている。七海のように辞めたのか、それとも任務で亡くなったのか。ただ昔から脈々と続く呪術師の歴史を鑑みると、恐らく後者の方が多いだろう。現に七海の同級生の一人は死に、もう一人は廃人だ。先輩の一人は離反し、顔を知る後輩は数人しかいない。

 七海が高専を去り一般社会で金の亡者になってすべてを閉ざしていたとき、彼女は死ぬほどの苦痛を味わい非人道的な行いにたった独りで耐えていたのだ。幾度となくもう死にたい、殺してくれと願ったに違いない。外の世界の仕事が生温かったわけでは無いが、生きたまま肉体をいじくられ、心をねじ伏せられていた彼女に比べたらなんと楽なことだったろう。七海が満員電車に揺られているとき、彼女は攫われ監禁されたのだろうか。七海が自宅のベッドで休んでいたとき、彼女は板の間に転がされて震えていたのだろう。七海が温かい食事をとっていたとき、彼女は床にこぼれたコーンフレークと雨水を啜っていたのかもしれない。七海が欲望を発散するため適当な女を抱いていたとき、彼女は生きたまま玩具となって尊厳を踏みにじられていたに違いない。考えるだけで吐き気がする。七海が逃げたせいで彼女をこんな目にあわせてしまったのだとしたら。あのとき彼女を置いて去らなければ。一度でも連絡していたら。七海が何か一つでも彼女のために行動していたら、もう少しマシな今があったはずだ。一体どこで何が狂ったのだろう。どうか夢であって欲しい。何度も祈ったのに頬を抓れば痛みがある。彼女は叫び、七海を責める。これは紛れもない現実である。
 またこの世界に彼女を引き戻してしまったことを考えると、七海はますます胸が重苦しくなった。じわじわと胃酸が上がってきて喉が焼ける。吐き気がするのに胃の中は空っぽだ。そういえば海外出張から今までろくなものを食っていない。食欲は一切ないのに空腹を自覚すると腹が鳴る。七海の身体は心と別の意思を持ち、食え、生きろ、戦えと要求しているようだ。心と身体のアンバランスさが辛いが、確かにそうすべきだと七海は思った。ここで独り項垂れていてもどうにもならない。呪いは次々と生まれるし、彼女はもう元に戻らないかもしれない。呪いが視えるのも現実で、彼女があんなことになってしまったのも現実だ。七海がどこで何をやっていようが時は経ち明日が来る。布団に包まり瞼を閉じれば朝になる。結局、どこにいようが何をしようが、今やれることをやるしかないのだから。