七海が復職後、肩慣らしのため数件の任務をこなしたあと、唐突にアジアのとある国への出張を言い渡された。なんでも人身売買に日本の呪詛師が関わっているらしく、その調査のためだという。日本国内で逃げ回りついには海外逃亡をしたその呪詛師は極めて凶悪で、人を人とも思わぬ所業をずいぶんと重ねてきたそうだ。なかなか尻尾を出さなかったが偶然にも情報を掴むことができたから今すぐにでも出発してくれとせっつかれ、七海はこの業界の昔から変わらない無茶苦茶なやり方を一気に思い出していた。了解の返事以外は認められるわけも無く、飛行機のチケットを押し付けられ、その日のうちに日本を発ったのが二週間前。
七海は今、かつての同胞の女の変わり果てた姿を目の前にして途方に暮れている。
想像の遥か上を行く最悪中の最悪の出来事だ。こんなことになるなど誰が予想できただろう。
七海が小さな空港で諸々の手続きを済ませ、ガイドを自称する軽薄そうな現地の若い男と合流したときから既に嫌な予感しかしなかった。たどたどしい日本語を喋るガイドと昼食を共にし、トイレの為に席を立って戻ったらテーブルには誰もおらずスーツケースは無かった。幸い貴重品は身に着けていたものの、着替えや予備のモバイルバッテリーなどを到着して一時間程度で根こそぎ失い、呆然とした七海は出戻り以降で最も大きなため息を吐いた。辺りを探したが見つかるわけも無く、この国で油断して隙を見せた自分が甘かったのだと諦めるほかない。追い打ちをかけるように照り付ける太陽の光が容赦なく降り注ぎ、到着してすぐさま七海はおおいに疲れてしまった。赤道直下のこの国の太陽の日差しは日本とは比べ物にならないほど鋭く、日焼け止めやUVカットパーカーも無いのでこの炎天下の中ふらふらと出歩くのは自殺行為だ。現地の人間は暑さに慣れているのか、道端に座り込み鮮やかな色のフルーツを売りながら軒先で涼んでいる。何か買おうと声を掛けてみるも当然のように返ってくるのは現地語で英語さえ全く通じず、翻訳アプリとジェスチャーを頼りになんとかするしかない。果物売りの老婆からパパイヤとマンゴスチンをいくつか買った七海は、とぼとぼと指示されたホテルへと向かう。ショルダーバッグ一つの軽装で早々にホテルにチェックインした七海は、捜索環境を整えるべく支給されたタブレットを開く。そこには明日からの指示が良くいえば簡素に、悪くいえばおおざっぱに記載されていた。件の呪詛師がこの国のどこかにある繊維を扱う工場に出入りしているらしいと書かれているが、それさえ噂話程度で不確かなようだ。当該人の呪詛師は、殺しはもちろんのこと、強盗、窃盗、詐欺や果ては麻薬取引まで、ありとあらゆる犯罪を犯し罪を重ねながら逃げ続けている凶悪犯だ。相手は躊躇なく攻撃してくるに違いない。そのエネルギーはいったいどこからくるのだろう。平穏に暮らす方がよっぽど楽じゃないかと、平穏とは程遠い仕事の段取りをしながら七海は思った。
うっそうと草木が茂るけもの道を抜けた先には、今にも朽ち果てそうなレンガ造りの元縫製工場があった。既にひと気は無く現場はひっそりと静まり返っている。とんでもないところに来てしまった、というのが到着後十分の七海の率直な感想だ。外観はボロボロだったが中はかなり改装されたようで、比較的新しい施設だった。中にはいくつかの部屋があり、どこからともなく錆びた鉄の臭いと腐敗臭が漂っている。いつものように無表情を貫きたかったが、さすがの七海も最悪の事態以外には考えられずに顔をしかめた。そこらじゅうに肉の破片が落ちていて大量の蛆が湧き、蠅がたかっている。見たこともない大きさの甲虫がぶーんと派手な羽音をたてて目の前を横切ったと思えば、大きく割れた窓から出ていった。二週間前に聞いた「ちょーっと大変だと思うけど、まあガンバって~」と手をひらつかせる先輩の呑気な声を思い出し、七海は苦虫を噛み潰したような表情をした。どこからどう見てもちょっとどころではない。言葉が通じない土地で現地に頼れる者は無く、わずかな情報で北へ南へ彷徨い続けた二週間。やっとの思いで辿り着いたアジトはごらんの通りもぬけの殻。明日帰国するというのに手ぶらで帰ることになりそうだと、七海はいっそうげんなりとした気持ちになった。それでも指示された任務をこなすしかなく、証券会社でサラリーマンをやっていた時と変わらないと自嘲した。
現場にはわずかな残穢が残されていたものの、巧妙に細工されていて個人の特定や痕跡を追うことは困難だった。順番に屋内を調べたが重要な書類や確定的な証拠はすべて隠滅されており、期待したほどの大きな収穫は無い。それでも追手が迫っていることに気付き相当焦っていたのか、ここで非道な行為が行われていた痕跡は多く残っていた。処置室と書かれた部屋の中央には不衛生なステンレス製の台があって、その上に獣のものではない肺の一部が放置されており、腐敗し強烈な悪臭を放っていた。至る所に血液が飛び散り、ここで生き物が捌かれていたであろうことを予想させる。部屋の片隅には大きなドラム缶があり、その中には溶け残った白い骨がいくつか浮かんでいた。未成年、それも幼児のように小さいその骨を見て七海の表情は一気に曇った。親に売られたのか、どこかで攫われてきたのかはわからない。こんなところに連れてこられなければ明るい未来があったかもしれないその小さき者の命は、ここで同じ種族であるニンゲンの手によって絶たれたのだ。酷い臭いと相まって、七海は吐き気をもよおした。胸の中心部から酸っぱい水が上がってきて、飲み下そうとしても次々に湧いてくる。凄惨な現場は今まで多く見てきた七海でも、一、二を争う酷さだった。こんなことがあっていいのだろうか。世の中には最低最悪のクズ共が存在することは、とうの昔にわかっていたはずだ。それでも腹の底から湧き上がる怒りの感情をどこへ捨てればよいだろう。胸糞悪い案件も誰かがやらねばならない。それに若い頃から触れてきたので感覚は麻痺してしまったはずなのに、やはりこのような光景をまざまざと見せつけられると感情が根底から揺さぶられ、どうしようもなく激しい怒りが襲ってくる。普通の生活をしている者は決して出会うことは無いであろうクソ野郎を追いかけて、海外にまで行かなければならない自分の仕事を心の底から呪った。早急にこの件を片づけなければならないと、汚いシンクに吐き出した自分の吐物を見て七海は決意し、その場を後にした。
一通り建物の中を調べた七海は、処置室へと戻って証拠写真を撮らなければならなかった。またあの部屋へ行くのは気が重いが仕方がないと来た道を戻ると、先ほどは気づかなかった小部屋への入り口を見つけた。廊下の端に取って付けたようにある木製の扉は、雨漏りでもしたのか湿気を吸って他の近代的な設備とは違って不気味さがある。中を確認するためボロボロのドアを開けると、ギイギイと軋んでまるでお化け屋敷みたいだ。一歩中へ入ると蒸し蒸しとした暑さと共に鼻を衝く異臭がして七海は思わず口元を押さえた。陽の光が全く入らぬその小さな部屋は電気も水道も無く、窓さえ無い。茶色に変色した木製ベッドの上には不自然に盛り上がった汚い毛布が一枚。明らかに怪しいそこを視線だけで様子を伺うと、薄汚れた毛布がもぞりと動いた。
――何かいる。
七海の心臓がどくりと跳ねた。よく見るとわずかに上下しており、その中に生きて呼吸をしている何かが存在していることがわかった。犬や猫であって欲しいが、愛玩動物にしては大きすぎるし野生動物にしては警戒心が無さすぎる。七海は緊張を悟られてはいけない、落ち着けと己に言い聞かせながらじっと毛布を注視した。あの中に一体何が入っているというのだろう。嫌な想像ばかりが膨らんでいく。しばらく見つめていても中身の何かは息をひそめて出てくる様子はない。七海は視線だけで辺りを見回した。窓枠に打ち付けられた木の板の隙間から入るわずかな光に照らされて、床に放置されたぼろ布が見えた。衣類だろうか。それともタオルや掛物だろうか。床にはコーンフレークだったであろうものが入ったボコボコにへこんだ銀色の食器と、濁った水がわずかに入ったペットボトルが転がっている。七海は最悪の予想が頭をよぎってしまったことを後悔した。
――毛布の中身は、もしかすると人間かもしれない。
外れて欲しい予想だと思いながら、七海は現地の言葉で「誰かいるのか」と声を掛けた。すると、もぞもぞと毛布がうごいて隙間から真っ黒な長い髪の束が出てきた。髪の間から落ちくぼみ淀んだ黒い瞳を出してじっと七海を見つめる。しばらく待ったが返事はない。目鼻立ちからして、どうも現地の人間ではなさそうだ。見知らぬ人物を見て怯えているのか、顔以上は出てこず、一か八か日本語で声を掛けてみる。
「大丈夫ですか」
七海の言葉を聞いて驚いたのか、毛布の中の人物の瞳孔はキュッと小さくなり身を強張らせ、ぴくりと動きかすれた声を出そうとした。
「……だい、だ、だい、じょう、ぶ、です」
蚊の泣くような声で返事があった。ハスハスと空気が漏れて非常に聞き取りにくい答えだったが、どうやら日本語が通じるようだ。声の感じからして、この人間が女だとわかる。異国の地で呪詛師以外の日本人と出会うと思っていなかった七海はすぐに返事をすることができず、ごくりと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。再びみぞおち辺りから酸っぱいものがあがってくる感覚がして、胸が焼けるように熱い。ボロ布の中身の人間は一体何者で、何のためにここに閉じ込められているのだろう。この人間だけが残された理由はあるのだろうか。疑問が次々と浮かぶ。誰がどこからどう見ても普通ではない毛布の中の小汚い人間と視線がぶつかり、七海はぞっとした。その瞳にはまるで生気が無い。死体でも見ているのではないかというほど生命力を全く感じなかった。それでも毛布はわずかに上下を続け、生きているのだと主張しているようだ。
七海は毛布の中の日本人女性と思わしき何者かに続けて話しかけた。
「貴女、名前は」
そう問いかけると、毛布の女は先ほどよりも少し大きな声を出して聞き覚えのある名を名乗ったので、七海は天地がひっくり返りそうになるほど驚愕した。その名はかつての同級生のものだった。彼女は七海が呪術師を辞めた後、とある任務の途中で行方不明になったと復帰当日に聞かされた。あれから四年も経っており、誰もがその生存を諦めていたがここに来てその名を耳にするとは思わず、にわかには信じられない。しかし先ほどの声をもう一度脳内で再生すると、なんとなく聞き覚えがあるように感じはじめる。七海が高専を去ると告げた時と同じ、怯えたような、諦めたような、そんな弱々しい声だった。そうだ。あの最悪の学校で青春時代を共に過ごした仲間の声を聞き間違えるはずがない。そう確信すると七海は再び深い絶望に陥った。今目の前にいるモノは人間とも呪霊ともとれるような混沌とした呪力をじわじわと滲ませはじめていて、汚い掛物の奥から濁った眼差しを七海へと向けている。
――これでは、まるで怪物だ。
七海は無意識的に考えてしまった己の思考をすぐさま訂正しようと試みたが、頭の中の言葉を遮ることが難しいと身にしみてわかっただけだった。違う。彼女は怪物などではない。目の前にいるその人は覚えのある呪力を放ち、声はまぎれもなく彼女だ。しかし、最後に見た姿とあまりにもかけ離れてしまっている。理解が追い付かず、七海の脳内は在りし日を繰り返し再生していた。
『七海、頑張ってね。どこにいても私達のこと忘れないで。ずっとずっと、友達でいよう。困ったときは力になるから、いつでも連絡して』
さようならを言えずに立ち去ろうとする背中に刺さる視線。絞るように出された声。いつも冷静な彼女が耐え切れず流した一粒の涙。校庭の砂利。鮮烈な夕焼け。変わらず漂う夕飯の匂い。密林の廃工場。子どもの骨。巨大な羽虫。蛆だらけの肉塊。まるで人間とは思えない姿になってしまった、おそらく元同級生。果たしてこれは現実なのだろうか。酷い悪夢を見ているようだ。
行かないでと言いたい気持ちを必死で堪えながら紡がれる言葉に胸を締め付けられた卒業の日。涙を流すまいと下唇を噛みながら聞いた彼女の最後の言葉。忘れないで。友達でいよう。いつでも連絡して。彼女はそう七海に懇願したが、それに対して返事をしなかったことをずっと悔やんできた。ひきつった笑顔で手を振って七海の退寮を見送る彼女に会釈だけして、七海は高専を去った。振り返ると苦しいことはわかっていたので、七海は一度も振り返らなかった。それでもわかる。彼女は七海が見えなくなるまで見送っているということが。七海が遠くなるにつれ、美しい瞳から大粒の涙をぽろぽろ流していることがわかってしまう。本当はもっと気の利いた言葉を言いたかったし、手紙でも書けばよかったと高専を出てから何度も後悔した。消すことができない電話番号を何度も見つめ、いまごろどうしているだろうかと自分勝手に思案した。怪我無く無事でいて欲しい。痛い思いをしないでくれと毎日神へと祈った。
その彼女は今、この有様だ。
「ここに、いたのか」
七海が彼女の方へと一歩踏み込んだ。硬直して動かず七海をじっと見るだけだ。毛布の盛り上がりが成人女性とは思えぬほど小さい。まるで子どものようだ。劣悪な環境で動けなくなってしまったのかもしれない。また一歩近づくと、七海が怖いのか彼女は再び毛布に隠れてしまった。それから蚊の鳴くような声で七海へ問う。
「ど、ど、どな、どなた、さま、ですか」
どうやら彼女は七海に気付いていないらしい。よく見ると右目が白く濁っている。どことなく焦点も合わないので目が見えていないのかもしれない。忘れられているわけでは無いと七海は己に言い聞かせた。
「七海です」
七海が名乗ると彼女は目を細めて、遠くを見つめるような、思い出に浸るような、ぼんやりとした表情になった。それから眼球を上下に動かして目の前にいる男をじっくりと観察した。集中するとそうなるのか、硬く結ばれていた口はだらしなくぽかんと開いた。わずかな隙間から見える口腔内にはほとんど歯が無い。まるで痴呆の老婆のような表情で七海を舐めるように見ている。そんな同級生の姿を見て、七海は今まで感じたことが無い不可解な感情を抱いていた。彼女の姿を見て一体何があったんだと胸が締め付けられるような苦しさがあるのに、吐き気をもよおす異臭と汚物にまみれた人間を見て嫌悪感を抱いてしまった自分が許せない。
「ななみ……。ななみけんと、くん、は、やめ、や、やめ、まし、た」
「君を探しに来た」
「……ど、どう、どう、し、て?」
とつとつと出てくる言葉の中で自分の名前だけがすらすらと発せられることに、七海は薄気味悪さを感じていた。まるでそれを今の今までずっと忘れたことが無いとでもいうように、抜けた歯の間から漏れ出た空気と共に七海建人の名を紡ぐ。どうやら記憶はあるらしい。七海の名前に反応を示したのがその証拠だ。どうして出戻ったのか。その質問に今答えるべきか悩んだが、まずは彼女を救い出すことが先だと七海は考え、更に一歩近づいた。すると毛布の中で小さな身体をさらに縮こまらせて隠れてしまった。怖がっているのだろう。
「帰りましょう」
「か、か、かえ、かえりません」
「まずは家入さんに診てもらおう。怪我をしてる」
「わ、わ、わた、わたし、は。こ、ここ、ここ、に、住ん、で、います」
「君に酷いことをしていた奴らはもういませんから、安心して。立てますか」
「た、たてます……」
「触ります。怖がらないで。痛いことはしない。大丈夫」
七海は薄汚れた毛布の上から、優しく彼女の身体を撫でた。最初はびくりと震えたが、さすり続けると安心したのか少しずつ力が緩んでいくのがわかる。七海は彼女に声を掛け続けた。ここにはもう怖いものは何もない。君は何も悪くない。全部忘れて一緒に帰ろう。彼女からの返事は無いが、呼吸が深くゆっくりになってきた。少し落ち着いてきたところでそっと毛布を剥いでやると、ぶかぶかの汚いシャツを着た彼女が、震えながら茶色く汚れたシーツの上に横たわっていた。その姿はまさに骨と皮で、皮膚はところどころ赤黒く内出血しており、何年も風呂に入っていないのか肌はどす黒く垢塗れだ。下着を着けておらず汚物に塗れた陰部が見える。布団の中に垂れ流された排泄物を見て七海は、深く絶望した。部屋の隅に便所と思わしき糞尿が入ったバケツが置かれているが、もうそこへ行く力も無かったようだ。
――かわいそうに! 一体だれが! 彼女はこんな目にあっていい女性ではない!
底知れぬ悲しみと爆発しそうな怒りが次から次へと大波のように七海を襲う。彼女が行方不明になった四年前から現在まで、その身にいったい何が起こったというのだろう。誰が彼女を長年こんな目にあわせたというのだ。そいつを今すぐに八つ裂きにして殺してやりたかった。七海が激しい怒りに拳を震わせていると、彼女は毛布を手繰り寄せて再び隠れてしまった。怯えさせてしまったと慌てた七海は、気持ちを落ち着かせるために必死で深呼吸を繰り返した。それでも身体が飛び散りそうなほどの憤怒は消えることなく押し寄せてきて、どうやったら鎮まるというのだろう。辺りを見渡せば考えうる最も劣悪な環境が眼前に広がっていた。こんなところで人間が暮らせるとは思えない。路上で生活する犬猫でももっとまともな生活をしている。そんな中に彼女は、どのくらい一人でいたのだろう。
「帰ろう。みんな、君が戻るのを待ってる」
「ゆ、許して、ください。おまんこ、もうできません。ご、ごめんなさい。ごはん、を、作ります」
ぶるぶると震えながらもなんとか立ち上がろうとするその姿を見て、七海は再び目の前が真っ赤に燃えるような激しい怒りに囚われた。彼女の発言から察するに性的虐待を受けていたらしい。七海の強い感情が伝わってしまったのか、彼女は更に必死になって立とうとしはじめた。ゴソゴソと毛布から這い出し、左半身のみの力で立とうと試みた。麻痺があるのか、骨が折れているのか、何度やってもどうしても立つことができず、ズルズルと這いベッドから転がり落ちそうになってしまった。咄嗟に止めようとする七海を振り切って、彼女は床に転がりその場でゴソゴソとうごめいた。同じ姿勢で長時間寝ていたため仙骨と肩甲骨の皮膚に大きな床ずれができており、わずかに骨が見えている。もはや出血さえ無く真っ黒に変色したそこには、腐った彼女の肉を食うために蛆が湧いていた。
――一体誰が。助けなければ。何のために。殺してやる。
床を手探りで這いながら何もない壁の方へと向かう変わり果てたかつての同胞の姿を見て、七海は深い絶望に囚われた。現状をうまく飲み込むことができずにいるので、適切な言葉が出てこない。
「君はもう、何もしなくていい」
「い、いま、いますぐ……」
穏やかに話しかけたのに彼女はますます怯えて動きを早めてしまった。壁に頭をぶつけたところを見ると、やはり目はほとんど見えていないようだ。ときおり現地の言葉混じりにものを言う姿を見て七海は奥歯を強く噛み締めた。これが全部、悪い夢であって欲しい。しかしすえた臭いも、噛み合わぬ会話も、酷い出で立ちも何もかもが現実だった。この仕打ちはあまりにも残酷ではないだろうか。彼女は非常に優秀な呪術師だった。家系で受け継いだ術式と溢れんばかりの呪力でどの現場でも重宝された。誰にも等しく優しい性格で、皆から親しまれていた。級友の死と尊敬する先輩の離反を経験してなお、不条理ばかりの世界に必死で抗い戦っていた。まるで女神のような身も心も美しい女性だった。そんな彼女が、こんな目にあっていいはずがないのに。七海は今までどれだけ取りこぼしてきただろう。両手いっぱいに広げても脇をすり抜けて落ちていった命。見て見ぬ振りができなかった若かりしあの頃。結局、今だって誰も救えていないではないか。七海は自身の胸中が真っ黒に塗りつぶされていくような感覚がした。それは幼い頃から共に在る絶望で、いつだって七海を引きずり込もうと深淵から手を伸ばしている。
七海が絶望に打ちひしがれているあいだも、彼女は手探りで壁を伝いながら何かを必死になって探していた。やせ細った腕に骨と筋が浮き、汚物がべっとりとついている。そうだ。ぼんやりしている場合ではない、一刻も早く助けなくては、と七海は彼女をそっと抱きかかえた。強引に触れたことで驚くかと思ったが、観念したように目を閉じて黙り込んでしまった。身体の力は抜けて四肢がだらりと投げ出される。無抵抗のほうが痛みは少ないと考えたように思えて、七海の心は切り裂かれたように痛んだ。気高く強かだったあの彼女が、抗うことを諦めるほどの苦痛を味わってきたのだとわかり、爆発しそうな怒りを感じる。ここで怒りに震えていてもどうしようもないことはわかっている。七海の腕の中で死んだように大人しくなった彼女の命をまずは繋がなければならない。三十キロあるかないか。幼児のように軽くなってしまった彼女を軽々抱え、七海は縫製工場を後にして川沿いを進んだ。
なんとか電波が入る地域に出たところで七海が知る限り最も頼りになる人物に電話をかける。
「行方不明者の発見報告です。一秒でも早く来てください。このままでは死んでしまう!」
信頼できるが尊敬はできないその相手は相変わらずの呑気な声を出していたが、七海のただならぬ様子を察したのか「なんとかする」と言ってすぐに電話は切れてしまった。七海の大声に驚いた彼女は一瞬身体を強張らせたものの、これ以上何も起こらないとわかると七海のシャツのボタンをいじって遊び始める。しまいには口に含もうとしたので慌てて制止した。先ほどとは違うきょとんとした表情で七海を見上げ、赤子のようにキャアキャアと声をあげて笑いはじめた。そんな彼女の振る舞いをみて七海は、再び深い絶望を味わった。
これは一体、なんだろう。
彼女は立ち直れるのだろうか。