「重いですからっ」
「全然」
「落ちますっ」
「暴れるからです。首に手を回してください」
普段は下から見上げていた七海の顔が並び、鼻尖が触れてしまいそうになる。機嫌良さそうに微笑む七海を初めて見た。鼻歌でも歌い出しそうなほど浮かれた様子で部屋を突き進む。シンプルだが上質さを感じさせる調度品が並び、その非日常的な空間に自分がいる事のちぐはぐさがおかしかった。七海に運ばれながらこれからベッドへ行くのだろうとドキドキしていると、高級そうなソファにそっと降ろされる。七海は足元に跪いて足首にそっと触れ、靴をぬがせた。もう片方も脱がせると額にキスをして軽やかな足取りで靴を置きに入口へ戻った。やはり機嫌はすこぶる良いらしい。
大きくとられた窓からは東京の壮大な夜景が一望できる。窓の外のネオンを呆然と眺めていると、七海の身体でその美しい輝きが遮られた。慈愛に満ちた表情を浮かべうっとりと見つめられる。無骨な手で顎をすくわれ、少し角度をつけて作りもののような美しい顔がゆっくりと近づいてくる。七海の唇が私に触れるのだろうと思うと胸が高鳴り硬直して動けなくなってしまった。
「目を閉じて」
暖かな色のついた声が聴覚神経を経由して全身に伝わり身震いする。言われた通りに目を閉じると、左のまぶたに七海が口付けを落とした。その瞬間、身体中に電気が走り皮膚は歓喜で粟立った。あまりの快感に目を閉じたまま震えていると、七海の口から小さな笑い声が漏れ聞こえる。
「可愛い」
聞き間違いではない。囁くような小声だったが確かに聞こえた嘘みたいな言葉。顔が真っ赤になっていくのがわかる。恥ずかしくて顔を見られたくないが隠れるところがない。両手で顔を覆ってきつく目を瞑り身体を丸めていると、七海の手が肩に触れた。それだけでもこの身体は反応してしまうのに耳元で吐息混じりに囁かれ、言葉にできないほどの深い快感が身体中を駆け巡っていく。
「力を抜いて。あなたの顔が見たい」
到底見せられたものでは無い。首を横に振ったが手首をそっと掴まれ右手、左手と引き剥がされる。左右の手のやり場が無くなりソファにだらりと垂らしたままにしていると、七海に手を取られ、確かめるように指を一本ずつ撫でられた。期待しきった身体がもっと強い刺激を待ち望んでいる。内腿を擦り寄せ腰を引くと、こんなに弱々しい愛撫でさえ耐え切れず濡れているのがわかった。目をつぶったまま顔を背けると、指を撫で終えた七海の手が顔に伸びてきて優しい手つきで前を向かせた。
きっとキスされる。唇にされたら、誤魔化しきれなくなる。酷くしてって言ったのに!
子ども同士のキスみたいに唇がそっと触れた。その喜びに身体の芯まで温もっていく。こんな温度を知ってはいけない。七海から与えられたものを受け取るはずではなかった。後悔から涙が流れる。
「あなたと初めて、まともなキスをした」
「初めてじゃ、ない、です」
「いつも口にはさせなかった。身体は許すくせに。何故?」
「七海さんとは、恋人じゃないから」
「今はいいんですか」
「さっき、朝までは七海さんのだって、約束しました」
「ここを出たら誰かのところに戻るんですか」
誰のものでもない。どこにも行くところなどない。でも絶対に答えられない。このまま何も言わず、決まらず、朝になって契約は終わり。その後は今まで通り。これでいい。中腰になっていた七海が肩を落として立膝をついて座った。困ったように眉を下げている。
「ずるい人だ。なぜ泣いているんでしょう。あなたのことがさっぱりわからない」
「いいんです」
「良くない。本当に自分勝手です。せめて明日の朝までは恋人ごっこに付き合って、可愛くしててください」
「可愛くない、七海さんなんて……」
「なんですか」
「きらいです」
涙がとめどなく溢れてくる。頬をつたいソファにおちた。好きだとか、愛だとか、私にはそんなことを言う資格はない。嫌いだと言われて七海はどんな顔をしているだろう。傷つけたいわけではないのに、こんなひどいことをさせて、自分の欲望のために利用し続けている。一刻も早くセックスがしたい。危ない日ほどしたくなる。それだけでよかったのに。
「嫌いな男に何度も抱かれる理由を教えてください。嫌なら嫌とはっきり拒絶してくれないと、調子に乗る」
「七海さんとのセックスが気持ちいいからです」
「それだけ?」
「……」
「どうして何も言ってくれないんですか」
七海は諦めたようにため息をつく。私の隣に腰掛けるとソファが少し沈み込み、七海の方へ身体が傾いた。肩を抱き寄せられ、手を繋がれてしまった。七海の手は冷たくてじっとり濡れている。前はもっと温かかったのに。胸が痛いのは私が七海を苦しめているから。関係を曖昧なままにしておきたい。大切なものができてもすぐになくなってしまう。この世界で生き残り続けるのは苦しい。
「今日は私の好きにさせてもらう約束です。明日の朝までの契約。そうでしたよね」
「そうです」
「じゃあ大人しくしてください。目を閉じて。あなたの唇にキスしたい。恋人同士ならそうするはず。明日の朝までは許してください」
「明日の朝が来たら」
「今まで通り、先輩後輩としてたまに職場で会う」
「じゃあもう、しないんですか」
「お互いしたいときにすればいいんじゃないですか。それがあなたの望みなんでしょう」
違う。私が望んでいるのは、あの日の夜の前に戻ること。七海と何もなかった頃に戻りたい。ただの先輩と後輩で、彼は現場で私は学生指導。たまに高専や飲み会で会って、ちょっとだけ話す。遠くから見ているだけでいい。憧れの先輩のままでよかった。
七海の家で裸で目が覚めた日。いったい何があったのかわからない。ただあの日から七海との関係がおかしくなって、一挙手一投足が気になって仕方がなくなった。七海に抱いていた先輩としての憧れや淡い恋慕をないがしろにして得てしまった肉体関係がすべてを塗り替えた。こんなことに七海を巻き込んでしまい、心の底から悔いている。
肩を抱く手で無理矢理七海の方を向かされると、悲しそうに瞳を揺らす彫りの深い顔が再び眼前に迫ってきた。止まっていた涙がまたあふれそうになる。手をつないだままゆっくり唇が触れ合った。小さなリップ音を立て七海の柔らかな口唇が何度も当たった。愛情を感じる優しいキスに身体が蕩けそうになる。されるがままにしていると、七海は上下の唇を何度も食んだ。繋いだ手が解かれたと思えば冷えた手で腰を摑まれ、七海の大腿の上に乗って向かい合うよう誘導される。整った顔を見下ろすとその瞳は温かな愛に満ち溢れていた。私からの熱が伝わったのか、冷たかったその手に温もりが戻っていた。
男性に対して使用する言葉としては不適切なのかもしれないが、七海はきれいな顔をしている。美しい髪色、少し骨ばった頬、ガラス玉のような瞳、筋の通った高い鼻。一つ一つのパーツが整然と並び彫刻のようだ。しばらくじっと見つめていると、七海が何か言いたげに目をそらした。またすぐ私の目に視線を戻し、腰をつかむ手を尻に降ろして撫で始める。さきほどから行き場を失った私の手は、吸い寄せられるように七海の頬にのびてゆく。七海の身体に自分から触れたのは初めてだ。シャープな骨格をなぞるように撫でていると瞼が閉じられ、何かを諦めたように細く息を吐いた。恐る恐る七海に自分から口づけをすると、尻を撫でていた手が素早く私の頭と背中に回って拘束されてしまった。口唇をこじあけるように七海の熱を持った舌が侵入し歯列をなぞる。口内で私の舌をからめとるように追い回した。息ができず苦しくて鼻をならしていると、糸を引いて唇が離れていく。官能的なキスで全身が痺れるように疼き始める。もう止めることはできない。
明日の朝までの約束を果たさなければ。
二人とも肩で息をしながらじっと目を合わせ、動けないでいた。もう一度私からキスをすると、今度の七海は大人しくされるがままになった。角度を変えて何度か口付け、舌で口唇をなぞった。自分が立てたリップ音が聞こえ、ついに自ら求めてキスをしているのだと再確認する。何もしてくれないのがなんだか悔しくて自分から舌を差し込むと、七海の舌に押し返された。
「……下手ですか」
「いえ、必死になっていて可愛い」
からかわれているのだと気づき、一瞬にして顔が火照る。恥ずかしくて消えてしまいたかった。七海の首元で顔を隠していると耳を撫でるような声が聞こえてきた。
「あなたからしてくれて嬉しいです」
「……言わないで」
「照れていて可愛い」
「からかわないでください!」
「怒っていても可愛い」
「ああ、やめて、お願い」
何をしても何を言っても冷やかしてくるので、七海から離れようと肩に手をつき身体を起こす。上半身が離れると臀部を支える七海の手にぐっと力が入って押され、腰部は前にスライドして布越しに勃起した陰茎を感じる。反射的にそこに陰核をこすりつけるように腰を振ってしまい、自分の欲深さにぞっとした。慌てて手を放し脱力する。尻たぶを撫でまわす七海の手を引き剝がすといつもはすごい力で押さえつけられ私の好きに動けなかったが、今日はあっけなく離れていった。わざとらしく大きく手を広げて肩をすくめ、茶化すように片方の眉だけ吊り上げた。七海に跨る自分だけが取り残され居心地は最悪だ。これからどう動くのか試されている。それなのに、胸の高鳴りを抑制できない。
観念して再度自分からキスをすると今度は七海も応えてくれた。本当に恋人同士のような甘ったるいキスを繰り返す。舌を絡めて深く口づけたと思えば、優しく啄ばむように触れるだけ。欲情にまみれていた気持ちが少しずつ鎮まり、得も言われぬ充足感に包まれ胸の奥がじわじわと温度を上げていく。弄ばれているのか、愛されているのか。
「可愛いですね、本当に」
「どういう意味ですか」
「言葉通り受け取ってください。本当、ひねくれてる」
「そっちだって、いつも無理矢理――」
「じゃあついてこなければいい。来るということは同意とみなします」
「言うことを聞かなかったら怒るから」
「怒ったことはないです、一度も。私は一緒に眠るだけでもいいのに」
「うそつき」
「なんなら今からそうしますか」
「そんな……」
「冗談です。こんな状態で耐えられるわけがない」
「ああ、もう、なんでそういうこと言うんですか!」
七海は満面に喜色を表し楽しそうに肩を上下させて笑った。それからぎゅうぎゅうと力いっぱい抱きしめて吐息と一緒に「やっぱり可愛い」と耳元で呟いた。
きっと、面白がられているだけ。可愛いという言葉に秘められた特別な意味はあるのだろうか。本当のことを教えて欲しいのに、自分から聞く勇気はなかった。