職員室へ戻ると珍しく誰もいなかった。それぞれがどこかへ昼食をとりに行っているようだ。サンドイッチを机に投げ置き、食べようかどうしようかと悩んでいると、扉が開く音がした。驚くことに、さっきまで会っていて今一番会いたくない人物が立っていた。一体ここに何の用事があるというのだろう。いつも通り、何事もなかったかのように、普通にしないと。しかし頭の中には先ほどの情景が思い浮かんでくる。あんなに何度も達したのに、未だに欲している自分自身が本当に恥ずかしい。誰でもいいから戻ってきて。いまここで七海と二人きりになってはいけない。
「それ、食べないんですか」
「食べます。さっき飲み物をこぼしたので買ってきます」
財布を手に取り席を立とうとすると机に紙コップが置かれた。湯気が立ち上り華やかなコーヒーが香る。どうやら七海が私のために買ってきてくれたようだ。なぜ。何のために。
「どうぞ」
「すみません」
この場から逃げたかったのに叶わなかった。仕方なく自分の席に戻り、コーヒーに口をつける。熱くて火傷しそうだ。ふうふうと冷ましながら少しずつ飲んでいる様をじっと見られている。しばらくそばに立っていた七海はついに隣の教員の椅子に腰かけると、微動だにせず私の様子をうかがった。誰かを探しているのかもしれない。私ではない、別の誰かにきっと何か用があるはずだ。
「ご覧の通り、今はだれも――」
「あなたがいます。どうでしょう、今夜予定が何もなければ、食事でも。二人で」
「食事は、だめです」
「そうですか。それは残念だ」
抑揚のない声色、何とも思っていなさそうな平坦で感情の見えない音。しかし視線は外された。その先には湯気を漂わせる紙コップ。七海は足を組み姿勢を前傾させると、私との距離をぐっと近づけた。眉間に皺を寄せて問い詰められる。
「何ならいいんですか」
「さっきの続きを――」
「デートはしない、カラダだけ」
「違います、今日は――」
「何も違わない」
七海はことごとく私の言葉を遮り話す。そしてゆっくりと席を立ち扉の前で振り向くと、そのまま凍てつくような視線で刺し、口を開く。
「いいですよ。十八時、私の車に来てください」
約四時間後、再び体を重ねる約束を取り付けると、七海は事務所の扉をぴしゃりと音をたてて閉めて出ていった。扉がしっかり閉まっているのを確認したら、緊張が解けて一気に脱力する。きっと呆れられているだろう。それぐらいで丁度良い。頭の中にこれ以上七海の場所を作るわけにはいかない。
テストの採点が終わり、学生たちが寮へ帰るのを見届けると外は薄暗くなっていた。今日は一日中曇り空で太陽の姿を一度も見ていない。駐車場へ向かうと車の中から七海が出てきた。何も言わずに助手席の扉を開け、中へ招き入れられる。車内にはいつもとは違う香りが充満していた。車の芳香剤では無さそうだ。もっと重厚感のある、情欲的な匂い。そして先日と同じ五拍子でドラムソロのある曲。そういえばあの時、この曲だけが繰り返し流れていた。よく耳にするがタイトルは知らない。有名な曲なのだろう。海辺のどこかで七海に口で奉仕した日を思い出し、昼間のセックスの後からくすぶり続けた炎が更に燃え盛る。腹から下が別の意志を持つように、既に七海を求めはじめていた。
「消しましょう」
消さないでくれと首を横に降ったが、七海は勝手にカーオーディオを止めた。車内にエアコンの風音だけが響く。
「音楽はあまり聞かないんです。フラッシュバックが嫌で。この間のことを思い出してしまう。あなたは?」
「私は、ジャズは詳しく――」
「先日あなたが生理中だというから口でしてもらったんですが。あの後中途半端に昂って頭がおかしくなりそうでした。そのまま突っ込んでしまえばよかったと後悔しています」
七海は冷ややかに話す。口だけでは満足できなかった、下手くそだったと言いたいのだろう。もしもあの時月経中で無ければ、あのまま車中で抱いてもらえたのかもしれない。それともどこかホテルにでも行くつもりだったのか。七海もあの日物足りなかったのだ。私と同じだった。
「タイミングが悪くて――」
「随分物欲しそうな顔をしてましたね。あの後誰かに抱いてもらったんですか」
「いえ、帰って――」
「私はどうにも耐え難くて、久しぶりに一人でしてしまいました。あなたはどうでしたか」
「なんで、そんなこと……」
七海はふんと鼻を鳴らし、口角を歪めた。私の返事などどうでもいいのだろう。そして何も言わずに突然車を発進させ、走りながらシートベルトを締めるように言われた。今、身体を動かし姿勢を整えることでさえ苦しい。七海の隣にいるというだけで、背中がびりびりと痺れるように疼く。何を言っても揚げ足をとられるような気がしてもう何も言わないことにした。しばらく静かにしていると、長い信号待ちに足止めをくらう。ふいに七海の左手が伸び、大腿をいやらしく撫で上げた。
「そんな顔しなくても部屋に入ったらすぐに、あなたがして欲しいことをしますよ。良かったですね。嬉しいですか」
「嬉しい、です」
「どうして欲しいんですか」
「もっと、ひどくしてください」
七海はまたせせら笑うと、それっきり何も言わなくなった。今日の七海は一方的によく喋る。とても感情的に思えて、いつもと違うその様子が恐ろしかった。
都内の有名ホテルに着くと、ドアマンに車を誘導されエントランスへと向かう。いつもの世界とは全く違う、その高級感に圧倒された。前を通ることがあっても足を踏み入れたことはないその空間に私のような人間が存在してしまっている。お洒落をした上品な人々がロビーを行き交っていて、皆スマートな立ち振る舞いだ。完全に場違いな自分が恥ずかしかった。
「あの、ちょっと、服が、大丈夫でしょうか」
「ドレスコードはありません」
全く意に介さない様子で七海は素早くチェックインを済ませ、キーを持ってやってきた。あまりにも手馴れた様子だったので、わかってはいたが自分以外にもこういう女が後を絶たないのだろうと思い胸が痛む。手ぶらに近い男女二人。どう見ても観光やビジネスには見えない。フロントスタッフや他の客の視線に怯えていると、七海に手を取られ腕を組むよう促された。
「もう少し堂々としては」
「こういうこところ、初めてで……」
七海はわずかに微笑んでいるのか、車内で見た表情より少し柔らかいような気がした。コンシェルジュにエレベーターまで案内され、その扉が開くのを待つ。背筋が凍る。きっと私たちは好奇の目で見られているに違いない。釣り合わない、不可解だと囁かれているようだった。不埒だ、不道徳だとも。誰にも見られたくないが、誰かに認められたくもある。この曖昧な関係をカテゴライズしたら全てが終わってしまうだろう。このまま何も決まることなく朝を迎えられたらいいのに。
エレベーターが到着した。上層階を指定すればこのまま勝手に運ばれていく。中には誰もいなかった。こういう所にはエレベーターガールが居るものだと思っていたが、もうそんな時代ではないのだろう。七海と組まれた腕から高鳴る鼓動が伝わっているかもしれない。呼吸を整えることに集中していると、七海が私の頭に顔を寄せ深呼吸をした。組んでいた腕を解き、肩を抱き寄せられると身体が更に密着する。いつもと違う彼の香りが鼻腔を突き抜け脊髄を通り甘美な刺激が全身を駆け巡る。あまりの興奮に目眩がした。立っていられない。七海は私の首筋に顔を埋め深い呼吸を繰り返している。そしてそっと耳輪を食みながら囁く。
「今日は講義ばかりでしたか。いつもはもっとあなたの匂いが濃いのに、ティーンエイジャーのようなシャンプーの匂いがする」
「生徒がくれたんです」
「慕われているんですね、センセイ。大人としてお手本になるようにしてください。私との関係、生徒たちに知られたらどうなるでしょうね」
「そんな……」
「匂いも記憶と繋がりやすい。今日は一番売れていると勧められたものをつけました。街でほかの男とすれ違っても、私のことを思い出すようになりますよ」
囁くようにそう告げると肩を抱いていた腕を腰まで下ろして側腹部を撫でられる。七海の言葉のせいで、息の仕方を忘れてしまった。呼吸が荒くなり必死で息を整えるが、焦るばかりで元に戻れない。このままでは過換気になってしまいそうだ。
ついに目的の階までつく。扉が開いてホールに出ると、落ち着いた雰囲気の照明に照らされて美しい絵画が並んでいた。高層フロアの特別感に圧倒され立ち尽くす私を七海が押しやるようにして歩かせる。部屋の前まで誘導されると、ルームキーを手渡された。
「自分で開けて。明日の朝まで私だけのものになってください。いいですね」
私はうなずき、重厚感のある扉を自らの手で開けた。七海はその後ろを黙ったままついてきて、ついに扉は閉まった。名前を呼ばれ振り返ると、七海は一歩近づいて私を横抱きにした。間抜けな声を出し驚いていると、七海は大きな口を開け、声を出して笑った。いつものような意地悪く口角を釣り上げるのではなく、目を細め嬉しそうに笑ったのだ。