黒種草 ―当惑―

第2話

 七海の自宅から逃げるように帰った日、私は自宅でシャワーを浴びながら何か覚えていないかと脳内の記憶をひっくり返していた。がやがやした店内の隅で教員数名と飲んでいたはずだ。途中で七海が店に入って来たとき目が合ったので会釈はしたが、私の席とは程遠い端の端に座ってしまって落胆した。それから何杯か飲んでいい気分になってきたとき、七海の近くに座っていたはずの同期がわざわざこちらまでやってきて「もう飲み過ぎだからそれでやめて」と注意しにきたので途端にゲンナリした。彼の背中に向かって(うるせー! お前は私のお母さんか)と心の中で悪態をついていると、彼が振り返ってむっとした顔を作り私を指さした。これ以上飲むなと牽制しているらしい。遠くから私を密かに監視していたんだとわかってグラスに半分以上残ったレモンサワーを一気に腹に流し込んだ。それからしばらく談笑して、最後の記憶は確か先輩教員の愚痴だったが、それ以降は全く何も思い出せない。目が覚めたら明らかに事後の姿でベッドの上。ドアが開いたと思ったら見えた人物はこの世の中で一番こんな行為とは程遠いと思っていた人物だったし、ベッドの脇で冷や汗をかきながら着替える私を見つめるその瞳は冷たい色をしていた。とにかく謝らなければということだけが頭に浮かび、何を言ったかもよくわからない。ただ、私の腕を掴む七海が言ったことだけははっきり覚えている。

『これっきりだと思わないでください』

 地底から響いてきたのかと思う程の低い声だった。地球の中身にはマグマの素があるはずなのに七海から発せられた声からは熱は全く感じず、マグマを通り越して南極から氷でも拾い上げてきたのかというほど冷たかった。それを聞いて私は何と答えたのだろう。わかったと言ったのか、すみませんと言ったのか。玄関でお邪魔しましたと言ったのは覚えているが七海の返事はあったのか、無かったのか。自分の家とはまるで違う重厚な造りの玄関扉を押し開けて出た廊下は外と繋がっておらず、一瞬ホテルかと思った。エレベーターを待つのが怖くて階段を数えきれないくらい降りた後ようやく着いた煌びやかなエントランスを出ると、そこは知らない街だった。ものすごくトイレに行きたいし喉がカラカラだったので途中のコンビニでトイレを借りてスポーツドリンクを買い、スマートフォンのナビを頼りに最寄り駅へと向かう。何があったのか知りたくないが、どう考えても七海とセックスしてしまったことだけは疑いようが無かった。頭を殴りつけられたような痛みが走る二日酔いと、事後特有の気だるさが身体に纏わりついておりどうしてもその事実を否定できない。それに、僅かに残るこの下半身の甘い痺れは明らかにその行為が行われていたことを意味している。にわかには信じられないが、そういうことなのだ。これから先どんな顔をして七海に会えばいい?

 そしてあれから一ヶ月。一度も七海に会うことは無く、連絡もなく、もちろんこちらから連絡などできるわけもない。繁忙期が近づき一気に慌ただしくなり、毎日同じことの繰り返しで自宅と高専の往復だけで精一杯の日々を過ごした。でも、それが今の私にはありがたかった。七海の事を考えずに済むのだから。

 週の中で一番憂鬱なのは何曜日か。答えは月曜日。一週間の始まりで授業の準備やテストや任務の下調べなどやることは多い。特殊な学校だが普通科の高校生達が履修する授業も並行して行わなければならず、学生にとっても大変だろうが引率や指導をする教員もまた結構大変なのだ。それでもこの日は二学年が任務で出払っていたので授業と授業の間に空き時間が出来てしまい、他の教員も生徒と一緒に出ているので事務所兼職員室に一人きりになってしまった。空調と時計の音だけが響いている空間でぼんやりしているとなんだかウトウトしてきたので、誰もいないのをいいことにそのまま机に伏せて目を閉じる。すべきことはそこそこあったのだが、朝からどうにも眠くて耐えられなかった。たまにはいいだろう。それに誰もいないから、どうせバレない。

 目を閉じてすぐ眠ってしまったらしいが、首が痛くなって目が覚めた。時計を見ると二十分程度しか経っていないことに気づく。信じられないことに、職場でのうたた寝で七海に抱かれる夢を見た。夢の中で私たちはまるで恋人同士のように唇を重ね、愛を囁き合いながら淫らに身体を合わせていた。あまりにリアルな夢の内容が脳内で再生され、体の中心部からバクバクと大きな拍動を感じる。誰かに見られているかもしれないと頭だけ起こして辺りを見回すが誰もいなかった。良かった。今私はとんでもなくだらしない顔をしているに違いない。そっと身体を起こすと肩に掛けられていた何かが椅子に滑り落ちる。それは見覚えのあるベージュのジャケットだった。それが何かを脳が認識すると途端に顔が熱を持ち、耳まで熱くなる。皺になってはいけないと急いでジャケットを拾い上げ椅子の背中に掛けると、ふっと香る清潔感のある七海の匂いが先ほどの淫夢で昂ってしまった私の神経を刺激する。少しおさまっていたはずの鼓動が再び大きな音を立てて早まり、胸の奥の方がぎゅうぎゅうと締め付けられて軋む。落ち着こうと胸に手を当てて息を整えていると、背中側から聞き覚えのある声が聞こえた。

「目が覚めたんですね」

 声の方を向くと、上着の持ち主である七海が私の真後ろにある壁に腕を組んでもたれ掛かっていた。

「うわあ! あ、あ、な、あの」

 あまりの驚きに素っ頓狂な声を出して椅子から転がり落ちそうになったがなんとか体勢を立て直す。私のそんな反応は全く気にも留めないと言った様子で七海はサングラスを外してじっとこちらを見た。「あの」に続く言葉が一言も出てこず視線を泳がせていると、七海が全くの無表情で真一文字に結んだ口を開いて何か言った。

「先日は――」
「こ、これ! ありがとうございました! 私全然気づかなくって、今下に落としちゃって、ごめんなさい」

 七海の言葉を遮り上着を差し出すが受け取る素振りを全く見せない。仕方なくそのまま腕にかける。喉が渇いているのに冷や汗が流れてきそうだった。

「いえ、お気になさらず。この間は――」
「わ、わたしっ、次の授業の準備がありますのでっ」

 七海の発言を遮ってやりすごす。これ以上どうしても顔を合わせることが出来ず一刻も早くこの場を立ち去りたかった。あの日以降、彼の事を考えると頭がぼんやりして思考が上手くまとまらない。ただ自分がとんでもないことをしてしまったということだけはわかる。なんとかして無かったことにしたいが、その方法がわからない。

「急ぐんですか」
「違うんです、いろいろと準備があって、もう行かなきゃいけないので、」

 私は席を立ち、ノートパソコンと授業で配布する予定のプリントに手を伸ばす。机の上にあるものを適当に重ねて抱えようとしたとき、七海は私の背中に向かってこう言った。

「話がある」

 間違いなくあの日のことについて言われるのだ。恐る恐る振り返ると、七海は壁に預けた背中を浮かせてこちらへ一歩、また一歩と進んでくるところだった。普段より更に声に抑揚が無く、無表情で何を考えているのかわからない。

「あのぉ、今日は、ちょっと、」
「寝てたじゃないですか」

 まるでスローモーションのように近づいてくるにしたがって、どきどきと脈打つ鼓動はますます速くなっていく。すぐ側まで来ると七海はぴたりと止まり、私の方へ腕を伸ばした。私は咄嗟にのけぞったが、七海は机についた私の右手を掴むと親指の付け根に沿って指を三本這わせて動脈が触れる位置でぴたりと止まった。私の心拍数を確認するとじろりと睨みつける。

「随分脈が速い」
「ちが――」

 否定の言葉を言いかけたところで、七海が腕を捻り上げた。更に脈は速くなる。七海がまた一歩近づくと鼻尖同士が触れてしまいそうな距離まで詰められた。腕は摑まれているし逃げられない。目を閉じて顔を逸らすと意図せず七海の鼻先に私の真っ赤な耳介が触れてしまった。恐怖なのか興奮なのか身体がびくりと震え、自分の鼓動が頭の中で反響する。どれくらいの時間がたったのかわからないが、七海はしばらく何も言わなかった。ゆっくりと手首を掴む手が離れていき、私の椅子に座る音がした。自由になった右手を撫でると手首に七海の手形が薄っすらとついていた。背けた顔を元に戻し伺うように目を開けると、下から睨みつける七海と目が合ってしまった。

「あの日の事、覚えてますよね」
「何のことでしょう……」
「とぼけないでください。あなたが私の家で目が覚めた日のことです」

 やっぱりあの日の事を言及されるのだとわかると、これ以上もう誤魔化しきれないという諦めの感情がじわじわと胸の中に広がった。今の七海に何を言っても信じて貰えそうにないのに、何を言えというのだろう。

「全然、何も、全く覚えてないんです、あの、ごめんなさい、ご迷惑をおかけして……。誰にも言いませんし、忘れてください。お願いします」
「別に誰に言われても構いません」

 七海が何を考えているのかわからない。刺すような視線を私に向けて口元はいつもより固く結ばれていてピクリともせず、我が物顔で私のデスクを占領している。

「私なんかと噂されちゃったら、七海さんが良くないと思います」
「私との関係は秘密にしておきたいんですか」
「違います。忘れて欲しいんです」

 突然七海が私の手をとり、手のひらに口づけた。身体中の皮膚が粟立ち身震いしてしまう。手を引こうとしたのに動けなかった。まるで蛇に睨まれた蛙だ。それから指の腹で私の手を撫でまわし、手の甲に唇を落とす。

「あっ、や、やめてっ」
「私はあなたとの夜を忘れたくないのですが」
「忘れた方がいいと思います。絶対そうです」
「それはあなたが決めることでは無い。私は覚えておきたいと言ってるんです。あなたはどうですか」
「私は……」

 何か言うべきだが言葉が見つからない。もたもたしていると、遠くの方から男女の談笑する声が聞こえた。こちらに向かって大きくなってくる。七海は扉の方へ視線だけ向けると、眉を片方だけ上げて人差し指を唇に当てて静かにするよう私に合図した。

「誰か来ますね」
「離してくださいっ」

 手首を掴まれた時のように離してもらえないかと思ったが、私が手を引くと何の抵抗もなくするりと離れて行ってしまった。扉の方から私へと目線を戻した七海は意味ありげに口角をわずかに上げて呟く。

「私といるところを見られたら困る、と」
「……困りますよね、七海さんも」
「いえ、別に」

 七海は静かに立ち上がり、私の方へと手を差し出す。手を取れというのかと迷っていると、七海の視線は彼の上着の方へと向いた。それを掴んで渡すとまた少し口角を上げた。

「まだ時間があるのなら、五分後宿直室へ」
「……」
「返事は」
「……わかりました」

 七海は上着を掴んで踵を返し事務所を後にした。入れ違いに同僚達が楽しそうに笑いながら入ってきた。突っ立っているとまずいと思って椅子に勢いよく座ると、ぴしゃりと大きな音がして扉が閉まる。七海の革靴が遠ざかっていく音を聞きながら時計を眺めた。今から五分後、宿直室へ行かなければ。

 五分経ったのを確認し、指定された場所へと向かう。教員の利用者はあまりいないが、たまに術師が使うことがある。昔は教員も頻繁に泊まり込むことがあったらしい。今よりもっと、学生の人権が無視され一労働力として働かされていた時代のことだ。

 扉は隙間なく閉まっている。中の電気もついていない。本当にここに七海がいるのかわからないが、とりあえずノックをして扉を開けると鍵はかかっておらず、中から湿っぽい空気が流れ出てきた。

「失礼します」

 一言発して足を踏み入れると、ワンルーム程の広さの畳敷きの部屋にベッドが置かれており、七海はその安っぽいベッドに腰掛けていた。

「入ってください。ここなら誰も来ないし見られることもない」

 私はそのまま入り口で靴も脱がず頭を下げる。

「七海さん、この間は本当に申し訳ありませんでした」
「座ったらどうですか」
「いえ、このままで大丈夫です。私、謝りたくて、」

 私が話している途中に七海はベッドから立ち上がり、ずかずかとこちらへと近づいてきた。間近で七海に見下ろされると何とも言えない圧迫感があり、いたずらが見つかった子どものように黙り込んでしまう。

「そうですか。では、しっかりと謝ってください」

 靴を脱ぐように言われたが一度断ると先ほど同様腕を掴んでもう一度靴を脱げと言う。七海は人との距離を一定以上取りたい方だと思っていたのに、こんなに近づいて、ましてや触られるなど思いもよらなかった。驚いて目を見開きその顔を見上げると、歯を食いしばり私を見下ろす七海の瞳がわずかに揺れた気がした。仕方なく靴を脱ぐとそのままベッドの方へと引きずられていく。

「ぅッ……やァ、やだっ、いたいっ」

 身を捩って逃げようとすると更に強い力で引き揚げられ、ベッドへ投げつけられた。なんとか体勢を立て直すが、ベッドの脇に七海が立ちふさがり起き上がることが出来ない。

「謝るのでは?」
「ごめんなさい、許してください……」
「許せない、と言ったら」
「どうしたら、許して貰えますか」
「そうですね、あなた次第ですが、」
「できる限りの事はします」
「後先考えず、不用意にそういったことを言うなんて考えが甘い」

 七海が私の両肩を強い力でベッドへ押さえつける。もとより男と女の体格差があるし、等級も天と地の差で私が力で七海に敵うはずは無かった。更に普段はあまり見たことがない七海の少し緑がかった瞳が真っ直ぐにこちらを見つめていて、あまりの真剣さに目を逸らすことさえも出来ない。

「私が悪いので……。や、やめてください」

 徐々に七海の力が強くなり、古いベッドはぎしぎしと軋んだ。外にこのやりとりが聞こえていたらどうしよう。誰かにこんなところを見られでもしたら、七海も私も只事ではすまない。それでも誰かに止めて欲しくて入り口に視線を向けるが、ドアはぴたりと閉まっているし人の行き来の気配も無く絶望的だった。

「なんでもすると言ったそばから止めろとは随分身勝手ですね」
「この手をやめてと言ったんです。それに、なんでもするなんて言ってません」
「あの日はこれだけじゃ済まなかったのに。ほら、早く思い出してください」

 七海は私に馬乗りになると骨ばった手で頬を撫でた。じわじわと追い詰められていたのか、いつのまにか私の両方の肘は七海の下腿で固定され全く身動きがとれなくなっていた。

「無理です。覚えてない……」

 七海はゆっくりと身体を落として近づき、ブラウスのボタンを二つはずすと鎖骨の下に吸い付いた。

「んっ、あッ……やめて、七海さん! だめです!」

 痕がついてしまうと思い身体を捻って抵抗したが七海は全く動かなかった。唇が離れたので見える範囲の首元を確認すると、幸いにも鬱血痕は見当たらず胸を撫でおろす。そんな私を見て七海は腹立たしいというように舌打ちをして、また首筋に唇を這わせる。足で押さえつけられていた腕は解放され必死に七海を押し返すがびくともしない。私の抵抗など気に留める様子も無くぼそぼそと耳元で喋った。吐息交じりのその声があまりにも扇情的で夜の空気を纏っていたものだから、釣られて私も鼻から抜けるような甘ったるい声を出してしまった。

「酷いですね。ずっと気にかけていたのは私だけですか」
「んんっちょ、やっ……私も、ずっと、謝りたくって、だから、本当にごめんなさい」
「ああ、あなたがいやらしい声を出すから」

 七海が視線を自らの股間に落とすと、スラックスの中の何かが形を大きくして主張していた。それを直視できず目を逸らすと、七海は私の手を取ってその膨らみを触らせる。

「うッ……、だめです、こんなこと」
「あなたに出来ることを今、ここで、して欲しい。あの日みたいにしてください。それなら思い出すでしょう」
「ほんとに、覚えてないんです。許して……」

 七海の返事は無い。有無を言わさぬその態度が恐ろしい。どうやら私は彼を相当怒らせてしまっているらしい。あの日の事は何も覚えていないのに、明らかに肉体関係を持ったとわかる証拠は多々あった。脱ぎ捨てられた服、散らかった寝室、疼く腹の奥。そして、今日の七海のこの態度。あの日私は彼に何をしてしまったのだろう。私が自分から誘ったと考えるが妥当だ。私がきっと、七海に無理矢理抱いてくれと迫ったんだ。酔っていたとはいえ、覚えていないでは済まされない。だって、そうじゃないとあの七海がこんなことをするはずがない。

 私を逃がすまいと覆いかぶさる身体が離れていった。もしかしたらこれで終わりなのではと思い、七海の顔を見上げると先ほど同様私を見下ろす瞳は冷たく、未だ刺すような視線を落としていた。とてもじゃないが許してもらえそうにない。ここは素直に七海に従って許しを乞うべきか。しかし理由も聞かされず一方的に責められ、職場内でこんないかがわしい行為を強いられるなんてどう考えても許容できない。相反する二つの考えが頭の中でまとまらず、ぐるぐると同じところを廻るだけだった。どうすればこの場を切り抜けられるのだろう。

「こんなこと、やめてください」
「まずは、後ろを向いて壁に手をついて」

 七海を睨みつけて抗議するが、表情を変えずに指示された。言い返してみてもやめるつもりは無いらしい。

「ちょっと! そんなことするわけ――」

 ベッドの上で腰を引くと、下着が擦れて下半身に甘い痺れを感じた。信じられない。こんな状況で欲情しているなんて。どう考えても濡れている陰部に布がへばりつき不快だった。私の一瞬の戸惑いを感じ取ったのか、七海は私の手をひっつかんで立たせると無理矢理壁に押し付けた。

「スカートを捲って、どうなっているのか良く見せて。こういうことは得意なんでしょう」

 もう諦めて七海の言うことをしばらく聞くしかない。それに、自分でもどうかしてると思うが、この状況にどうしようもなく湧きあがるのは明らかに色欲に塗れたものだった。抑えられない。こんなはずでは……。

 七海の言う通り壁に手をつき、自ら片手でスカートを捲り上げる。すると私の腕を掴んでいた彼の手は静かに離れていった。言われてもいないのにストッキングを大腿まで降ろすと、締め付けから解放された肌が冷たい外気に晒されてぴくりと震えた。私の後ろに立ちふさがる七海が鼻で笑うのが聞こえる。しまった。今日は全然可愛くない色の下着を着けている。七海に見られた。それに笑われている。恥ずかしさが一気にこみ上げて体中が熱を持つ。顔は真っ赤で耳が熱い。まるで高熱が出た時のようにぐるぐる回るような眩暈までしてきた。必死で呼吸を整えていると七海が下着の中心部をなぞり、耳元で言う。

「ここ、布の色が変わってる。なぜですか」

 やはり、目視で確認できるほどになってしまっていたらしい。黙っていると股布の上から七海の指が何度も滑るように往復した。次第にその力を強めていくと陰唇が徐々に左右に開かれ指がその隙間に入り込む。軽く圧迫されると陰核に甘い痺れたような感覚が伝わり小さく声を漏らしてしまった。

「答えを」

 それは、どうしようもなく期待してしまっているから。でも言えない。口では拒絶の言葉を吐いているくせに、欲しがっていることを知られてしまう。なんでこんなことになってしまったのだろう。こんな場所で、七海と、二人きりで。こんなはずじゃなかった。こうなることなんて望んでいない。七海はずっと昔からの憧れの先輩で、私なんかの手が届くところにはいない人だったのに。

「早く」

 戸惑う頭と身体は別の意志をもっているのか、私は自ら脱いで見せ付ける様に腰を突き出して布一枚になって他人に容易に見せてはいけない部分を曝け出している。

「……七海さんが、触るから、濡れちゃって、それで、染みができているんだと思います」
「私のせいなんですか」

 更に七海は呆れてものも言えないと付け加え、色気の欠片も無い紺のフルバックショーツを掴むと股に食い込ませて引き上げた。尻が丸出しになって一気に羞恥心が湧き上がる。恥ずかしさのあまり腰を引くとぴしりと平手で大腿を打たれ、反射的に尻を突き出してしまった。突然の強い刺激に全身が跳ねて反応する。そしてなぜか稲妻に打たれたように快感を支配する神経が悦びで震えた。こんなこと、あっていいはずがない。

「違いますよね。触られても、嫌がっているならこうはならないのでは」
「触られたら、こうなるんです」
「誰にされても同じだという事ですか。あなたは誰にでもこういうことをさせるんですか」

 違う。誰にでもこんなことさせない。貴方だから、この先も、されてもいいと思ってしまう。本当はこんな事いけないのに、身体が覚えているのかどうしようもなく疼く。やっぱりあの日、七海とセックスしたんだとわかってしまった。この声が、体温が、指先が、私に触れて中に入ったんだと身体で理解した。だからこんなに欲してしまうのだ。そうとしか思えない。

「質問しているんですが。さっきからすぐに答えがない。生徒にもそんな態度なんですか」
「そんな、誰にでもだなんて、してないです」
「本当でしょうか。私は、あなたの姿を見て、こんなになってしまった」

 後ろから迫る七海の両手が私の身体を挟み込んで逃げ道を無くし、ぐっと身体が密着する。腰を落として布越しに擦り付けられた七海の股間は先ほど触れた時以上に硬く勃ち上がっていた。腰を引いて逃げようと試みるが体格差も相まって壁と七海の間で芋虫のようにみっともなく蠢くだけで離れられない。自分から欲してしまっているようなその動きを止め、顔だけ後ろへ向けて弁解する。

「私のせいじゃない、それは、七海さんが勝手に――」
「あなたが淫らな姿を見せつけるから、あなたのせいですよ」

 更に腰を押し付け、耳元で吐息まで吐いてみせる。絶対に逃がさないと言われているようだ。そして本当に逃げ道などない。食い込んだ下着からはみ出た臀部を撫でまわし、耳介を舐めながら七海は言う。

「これをずらして、あなたの奥に私のものを突き立てたら、どうなると思いますか」
「やめて、お願い! 七海さん、こんな事する人じゃないのに」

 ほとんど叫び声だった。それでも七海はその表情を変えることは無い。

「こんなことをする人だから、あなたは私の家で目覚めたのでは。覚えていないなら教えてあげましょう。あの日私たちがした事をもう一度しますから、それで思い出して」
「怖い。やめて。お願いします。もうしませんから」
「もうしないのは困ります。これからもあなたとこうしたいのに。今後私が連絡したらすぐに返事をすること。わかりましたか」

 それは今後も七海の都合で身体を差し出せというものだった。性欲を吐き出すために使わせろと言われているのだ。七海が、どうして私を。いや、私だからかもしれない。酒に酔って男とすぐ寝るような女だから都合がいいのだろう。身体だけの関係で気持ちはいらない。そういうことを望まれている。女に困っていそうにないのに、後腐れなく処理出来たらいいのかもしれない。そういう関係が欲しいのだろう。

 最低だが、それでもいいと一瞬思ってしまった。この場を切り抜けたい気持ちもあったが、七海と繋がりが持てるなら身体だけでもいいと。それにあの夜既に私と彼の関係には修復不可能なひびが入ってしまっている。今更あなたの恋人になりたいなんて言えない。

「わ、わかりました。だから、もう、やめてください」
「わかったならいいです。でもやめません」

 そう言うと七海は私を押さえつけながら器用に下着をずらし、腕を回して身体を抱きかかえると前から骨太い男性的な指を陰部に滑り込ませ少し分け入ったところでぴたりと止まる。その瞬間、身に覚えのある快感に身体が支配された。七海は知っているんだ、私の弱いところを。

「手のひらで外から押さえながら、入ってすぐの腹側のここを、こうやって擦ると……」

 差し込んだ指を腹側に折り曲げ、押し付けるように何度も往復した。拘束され火をつけられた身体がこの刺激に抗えるはずもなくあっけなく絶頂に達してしまう。

「ン、んぅっ……いッ、ぐッ、ゥう……おォ……」
「ほら、この間と同じじゃないですか。思い出しましたか」

 少し嬉しそうな声を出しながら中の刺激は止まることは無い。何度も好きな所を擦られ足が震えた。耐え切れずにずるずると身体が下がっていくと、七海は指をいきなり引っこ抜いて私の身体を支え畳の上に倒し仰向けにした。口では「大丈夫ですか」とは言っていたがこの行為をやめるつもりは無いらしくそのまま覆い被さられる。背中が痛い。畳は冷たいのに身体は熱い。汗をかいている。汚してしまう。なんとか立ち上がろうと身体を起こしてみるが、上に乗っている男の身体に阻まれやはりどこにも逃げ場なんてものはない。なんとか後ろへじりじり下がることはできたが、背中に冷たい土壁が触れて壁際に追い込まれたと気づく。

「ハァッ……。も、やめて、ください……これで……」
「欲しくなりませんか、ここに」

 そう言いながら再び陰部を下着越しになぞる。一度達したそこは男を欲するように中で収縮を繰り返していた。まずい、もう完全に欲しくなってしまっている。

「な、ならない、から、離して」
「嘘吐き。欲しくて仕方がないという顔をしてる。この間と同じです」

 私に跨ったまま七海はベルトのバックルに手をかけて静かに外していく。目の前で繰り広げられるその光景をぼうっと見ている事しかできない。言葉で抵抗しても無意味だ。このまま七海にやられてしまうしかない。ジッパーを下ろすと上品そうな下着が見えた。隠すことなく下着も下ろすと、完全に勃ち上がった七海の陰茎が現れた。これをあの夜受け入れたのだろうか。記憶にないのに目の前にそれを差し出されると、頭の奥から背中へビリビリと電気が走って陰部を更に潤ませてしまった。七海の身体は一旦離れ、私を更に壁際に押した。肩甲骨が当たって土壁がまた少し剥がれる。少しだけ息を荒げた七海はスラックスと下着を更に下ろすと、私のショーツをずらして先端を陰唇に押し付けた。

「入れますよ」

 ついにやるんだ。でもここにはコンドームが無い。咄嗟に浮かぶのはそんなことだった。

「やァッ、だめぇ、ああ、七海さん、」

 何も言わずに七海はぐっと陰茎の先端を入れた。胸を押し返すが手が震えてしまって力が全く入らない。少し腰を進められると私から分泌されたぬめりに導かれ、そのまま抵抗なくずっぽりと奥の方まで入っていってしまった。こんなところでいけないことをしている。やめなくてはと思うが背徳感と快楽に塗れた頭では正しい判断などできるはずがない。どうしようもなく気持ちが昂っている。

「ああ、はいっちゃったァ……七海さん、だめ、なのに……うゥッ……」
「狭くて、締め付けてきて、あの日と、同じ。最高に気持ちがいい」

 中を堪能しているのかじっとしたまま、嚙みしめるように七海が言う。

「だめです、こんなのっ……七海さん、とまって、」
「腰を押し付けてるじゃないですか。あなたも気持ちがいいんでしょう。ほら、答えて」

 そう指摘されて初めて自分から欲するような動きをしていることに気づいた。慌てて腰を引くと追いかけるように七海が詰め寄る。これ以上ないくらい壁に押し付けられ背中はL字に曲がり、腰を七海へ突き出す格好になってしまった。差し込まれた陰茎を抜き差しするところが眼前にきてしまい目を背けると、七海は私の顔を片手で掴んで見せ付ける様に正面を向かせた。ゆっくりと出し入れをしながら「もっとよく見て」と言い、思いきり奥まで差し込むと、びっちりと七海の陰茎が埋めこまれたそこはまるで杭を打たれたようだった。

 顔を束縛されたまま、七海が赤い舌を口から少し出して私の唇に差し込もうと顔を寄せる。左手を伸ばして七海の頬を押さえて抵抗すると舌打ちが聞こえ、私の手は簡単に振り払われて身体の横にぱたりと落ちた。

「わか、り、ました、から、もう、」
「何もわかってない。質問には明確に答えて貰わないと困ります。気持ちいいんですよね。こんなに濡らして」
「はや、く、終わ、て」

 七海が何かを思い出したかのように右下に視線をやって顎に親指をあてる。

「そういえばコンドームが無い。先日はあなたが沢山持っていましたからそれを借りました。また貸してください。普段から持ち歩いているんでしょう。まだ余っているはずです」
「ここには、ない、です。鞄にある、」

 私の答えを聞くと嬉しそうに笑いながら私を押さえつける手に力を込めた。冷たい壁に私の体温が移り生ぬるくなっている。劣化した土壁がぽろぽろと崩れ畳に落ちる音がした。

「では仕方ないですね。中で受け止めてください」
「だめ、やだァ! 絶対にだめです! 七海さんだめっ、だめです!」
「大きな声を出さないで。冗談です。その時はあなたの口の中に出しますから、一滴残らず飲んでください。いいですか」
「は、ぁ、早く、もう、出して……ンっ」
「そう急かさないでください。私はもう少し二人の時間を楽しみたい」
「ひどいッ、こんなこと……。うゥ、許せない……ん、ゔぅッ」

 涙を浮かべながら七海を睨みつけるが、奥を穿つ刺激に耐えかねてまた気をやってしまう。声を押し殺しながら快感を逃していると七海は緩んだ口元を手で隠して含み笑いをしながらこちらを横目で見る。どうしてそんなに嬉しそうな顔をしているのだろう。七海はこんなことをする人間じゃないのに。あの夜、私は一体何をしたというのだ。頭の中がぐしゃぐしゃになっている。すぐ止めるべきなのに頭の奥が痺れて、考えがどうしても纏まらない。体中が熱くて全部が性感帯になってしまったようだ。ひどい恰好で七海に犯されているのに快感が次々と押し寄せてきて既に身体の方は全く抵抗できなくなっていた。

「言っている事とやっている事が、まるで正反対なんですが」
「んッ、ばかに、しないで……」
「素直じゃないなと思っているだけです。態度はこの間と全然違うのに、身体の反応は全く同じなんですから」

 深くて長い溜息を吐いて七海はぴたりと制止した。突然止まった動きに戸惑い七海の様子を伺うと瞳に怒りの色を浮かべて私を睨みつけていた。謝ろうと口を開けた時、七海が突然激しい律動を再開した。荒々しく抜き差しを繰り返しその度に漏れる私の呻き声にさえ腹を立てているようだ。

「どうして、何も、覚えて、いないんですかッ」

 七海は苦しそうに息をしながら中を擦る反復運動を続け、私の反応を伺っている。

「七海さんが、こんな、人だと思ってなかった。失望しました……ぐッ、も、離してっ」
「私だってあなたとこんな事になるなんて思ってなかった。それにあの日以降ずっと無視され続けて傷つきました。挙句の果てには何も覚えていないだなんて。失望? 私の台詞です。あなたは酷い」

 なんとか口で抗う姿勢を示すものの、突かれる度に漏れる喘ぎが馬鹿みたいだ。そんな私を見て七海はまた笑った。最低の気分なのに、身体の方は七海の言う通り与えられる刺激に素直に悦んでいる。気持ちがいい。このセックスは刺激的だ。七海がこんなに感情的になって女を道具のように扱うなんて驚いたが、私はそれを嬉しく思っていた。だって、他の女にこんなことをしているとは思えない。彼はいつだって紳士的で人の気持ちを考えて行動しているからだ。私だけに向けられたその感情が愛おしい。どうせ前みたいには戻れない。それならみんなの知らない七海は私だけのものにしたい。

 抵抗を諦め身体の力を抜くと足がだらりと垂れて床に足の裏が着く。一部が擦り切れた古びた畳が冷たくて心地よい。突然脱力した私を見て、好き勝手に動いていた七海が少し拘束を緩めた。それから乱れて顔にかかった前髪を優しい手つきで払いのけ、頬を撫でたと思えば顔を覗き込んで少し心配そうな表情を浮かべた。性器同士を繋げたまま私の背中に腕を差し入れてそっと抱き起こされる。そのまま彼の胡坐に納まってしまい向かい合わせになると、顔の距離がぐっと近づく。七海が額をくっ付けてきたので怖くなって目を閉じた。声を殺して震えていると、彼の指が私の目尻に溜まった涙を拭う。

「大丈夫ですか。どこか痛むのでは」

 散々腕を掴んだり壁に押し付けたり人の身体をめちゃくちゃにしたくせに、熱を持ったその一撫でから信じられないほどの優しさを感じてしまう。その対比に混乱していると七海が顔の角度を変えて更に近づこうとした。反射的に彼の口元を手で押さえて口付けを拒む。ゆっくりと彼の瞼が上がり見開かれた双眸がぎらりと鋭い光を宿す。七海は口を塞ぐ私の手を引き毟ると一言だけ発した。

「なぜ」

 彼に睨みつけられると胸の奥の方が痛んだ。それでもこのまま易々とこの男に屈するわけにはいかない。七海の後ろ暗い感情は全部私が貰う。他の誰にも渡さない。

「どこも痛くないからさっさと出して、もう、終わりにしてください」

 七海を思いきり睨み返し口角を吊り上げて吐き捨てるように言う。

「ではしっかり締めてもらわないと。力を抜くから緩んでしまってこんな状態ではとてもじゃないがいけそうにない」

 もう遠慮はしないと決意したのか七海は眉間に深い皺を寄せて再び私を畳の上に縫い付けた。ぎらぎらと獣のような欲望で瞳を燃やしている。

「七海さんがヘタクソだからでしょ。もしかして、童貞なんですか?」
「元気じゃないですか。緩んだ女の穴を締めるにはどうすればいいか知っていますか」
「首を絞めるんでしょ。さっさとやってよ」
「詳しいんですね。こういったことはよくするんですか」
「いいえ、人並みです。でも、こんなにつまんない男としたこと無いからびっくりしちゃった。七海さんってセックスは最低なんですね」
「それ以外は?」
「脅迫して女を従わせるなんてクズのやることです」
「何も教えてくれない。何も覚えていない。最低なのはあなたの方では」
「最中にベラベラ喋る男って下手なの誤魔化してるって知ってます?」
「態度が悪すぎる」
「嫌な奴に媚びる必要なんてないですから」
「さっきまで許してくれと泣いていたくせに」
「演技なんですけど。もしかして真に受けちゃった?」

 声を出して笑ってみせる。すると肩を押さえている手をゆっくりと私の首元へと滑らせた。小さく溜息を吐いて片手だけで徐々に力を籠める。そのままゆっくりと律動を再開した七海は中の締め付け具合をみながら加減しているようだ。七海の手の力が強くなったり弱くなったりするのを感じながら私は徐々に意識が混濁していった。最初は大したことはないと高を括っていたが、首元の圧迫感が強くなると自然と七海の手を押さえてしまう。人は苦しい時、首元に手を持っていくんだと酸素が少なくなってきた頭でぼんやりと考えた。私の弱々しい抵抗など物ともせず力を緩めたり強めたりしながら私の中で陰茎を擦り続けている。時折こちらの表情を見て生存を確認するような素振りも見せた。七海は随分余裕そうだ。呼吸が苦しくなると中の締め付けが強くなっていくのが自分でもわかる。同時に私の分泌物も増加して繋がっている部分からはぐちぐちと性的な音を響かせた。七海を独り占めしている。それも普段の彼からは程遠い背徳的な行為をしながら。これは幸せというやつかもしれない。だって、こんなに満たされている。

(なんだ、気持ちいいんだ。身体だけでもこうして繋がれてよかったじゃない)

 七海に首を絞められながら何度も奥を突かれ、ぼんやりとそんなことを考えてついに気をやりそうになっていると、七海の手が首元からそっと離れていってしまった。意識が朦朧としていたが、酸素を取り込むことで少しだけ視界がクリアになった。虚ろな目で私にのしかかる男を見てみる。額に汗を滲ませてだらしなく口を開け、肩で息をしながら眉を下げて焦ったように私に声をかけていた。ついには頬を抓まれた。

「返事をしてください!」
「はい……。なんですか……」

 四肢を投げ出し呼吸だけをする私を見て七海は焦っているようだった。それでも私が返事をすると大きめの溜息を吐いて安心したかのような声を出す。

「演技、なんでしょう」

 私を横目でみながら確認するように呟いた。

「そ……、です。こんなの、いいわけ、ない」

 へらへら笑う私を見て七海はもう大丈夫だと踏んだのか腰の動きを速めて好き勝手に動き始める。抜けそうなぐらいに引き抜いたかと思ったらそのまま奥までズドンと突っ込んだ。何度かその動きをして私の身体が無様に揺さぶられているのを無表情で眺めている。

「さっきより締め付けが、強くて、すごく、いいです、あなたの中」
「七海さんが、首、絞めたからでしょ……サイテー……」

「乱暴にされた方が感じるんですか。だから、あの日、あんなことを言ったんでしょうか」

 出し入れされている私の穴を見つめながら七海が言う。

「えっ、私、何を」
「はあっ、もう、でそう……」
「ちょ、と! やっ、中はだめっ」

 何かがわかりそうだったのに七海はもう限界だと言わんばかりに動き始めた。彼の胸や頭を押して離れるように言うが聞こえないふりをして無茶苦茶に腰を動かしている。身体がぶつかりあう音が狭い当直室に響き渡る。これは廊下まで聞こえているに違いない。ここで何が行われているか知られてしまう。もし誰かがあの扉を開けたら。恐怖心が高まり胸が苦しくなった。そんな私の事などお構いなしに七海は腰を振り続ける。

「お願いがある。キスしていいですか」

 動きが少し弱まった時、唐突に七海が私の目を覗き込んで言った。熱に浮かされた男の目の色をしていた。これはいつもの七海じゃない。まるで知らない男のようだった。

「いやです! 離してっ」

 顔をぐっと背けて拒絶の姿勢をとると舌打ちが聞こえた。そしてまた射精のためのピストン運動が再開される。

「……あァっ、くそっ。ぐゥッ……はァ、でる、でる、はーッ……」
「ねえ、止まって、七海さん」

 制止の言葉をかけたが七海の動きが止まることは無い。私に言っているのではないのだろう。独り言のような、うなされているような言い方だった。

「あぁ、いい、でそう、です……。でるっ、でるっ、もう、でるッ、だす、はあ、」
「いやだ、ほんとにやめてくださいっ。おねがい!」

 私の身体を抑え込み抵抗しないように拘束している。彼の下で身動きが取れず、もがいてみるがどうにもならない。口だけで抗ってみたもののしばらく七海の返事は無く荒い息遣いだけが聞こえてくる。いよいよというところでもう一度やめてくれと懇願したら、獲物を狙う猛禽類のような七海と目が合って、これ以上動けなくなり口を閉じた。これは本当にあの七海なのだろうか。まるで別人だ。いつもの彼なら絶対にこんなことをしない。

「だめ、七海さん、お願いですから――」

 ついに限界が訪れたのか乱暴な口調で七海が言う。

「わかってるッ! さっさと、口を開けてッ」

 追い詰められた獣のように息を荒げた七海は、私が舌を出して大きく口を開くのを確認すると陰茎を引き抜いた。胸元に跨り私の顔の方に向けて射精すると、ほとんど口に入らずぼたぼたと零れて顔とはだけた胸元に精液が垂れた。私の眼前で尿道に残った精液を絞り出すように陰茎を擦る姿を見て絶望的な気持ちが押し寄せる。

「しっかり口を開けないから、顔にかかってしまったじゃないですか」

 まるで私のせいだとでも言うように眉を吊り上げて不機嫌そうな声を出した。

「んグ……ハァッ……うゥ、わざとらしい。最低」

 口元に垂れた精液を手で拭っていると、七海がどこからか持ってきたティッシュで私の顔と胸を拭った。ようやく自由になった身体を起こして乱れた着衣をのろのろと直す。すると素早く身支度を終えた七海が側にやってきて私をベッドに座らせると、ブラウスのボタンを留めてぼさぼさになった頭を撫でて整えた。

「どうですか。思い出してくれましたか。鮮明に覚えていて忘れられず、苦しいのは私だけ、だなんてことは無いですよね」

 それはとてもやさしい声色だった。その手つきや振る舞いから彼の慈しみ深さがわかったが、私は何も覚えておらず思い出すことも無く途方に暮れた。

「もう、許して。ごめんなさい。本当に、何も覚えてない……」

 肩を落としてもう一度謝罪すると七海は少し残念そうにした。

「今日はここまでにしましょう。あの日は名前を呼んでくれなかったのに、今日は何度も呼んでくれた。嬉しかったです」

 ふふふと声を漏らして笑っている。ようやくいつもの彼に戻ったようで胸に温かさが戻った。出張先のお土産を渡してくれる時のような笑い方だった。「これは絶対、あなたが好きだと思った」と言いながら林檎のカスタードパイをくれたあの時と同じだ。優しかった七海の事を思い出しながらつられて笑うと、彼の大きな手が私の頬に添えられる。その手のひらは熱があるんじゃないかと思う程熱い。

「また連絡します。必ず返事をしてください」

 そう言うと七海は途端に真顔になった。次も同じことをすると宣言されてるようなものだ。あまりの落差に呆然としていると、七海の表情が険しくなっていく。

「返事」

 頬に添えられていた手が私の顎を掬う。短く私に催促すると顎を掴む手に力を入れた。

「……わかりました」

 腹の底から絞り出すように答える。それを聞くと七海は何も言わず部屋から出て行った。取り残された私はしばらくその場から動けなかった。

 それから何度か七海に呼び出されその場で身体を求められあの日の事を思い出して欲しいと懇願されたが、そこだけ私の記憶からすっぽり抜け落ちてしまったようで空白のままだった。徐々に七海は何も言わなくなり、ついにはその場でインスタントなセックスだけして別れるという関係に成り果てた。いつしかそれが、私たちの当たり前になるんだろう。

 もう元には戻れないのだ。