二人が結ばれて三ヶ月。大きな喧嘩やトラブルなく順調だと思われる。ただ一つ、七海にはどうしても気になる事があった。こんなことを気にしているなんて尻の穴が小さい男だと思われるかもしれないと思い、今日までずっと言えずにいる。それは何かというと、彼女が七海との関係を頑なに隠し続けていることだった。彼女の同期で今回の騒動に巻き込まれた伊地知にさえ黙っているのだ。自分たち以外に誰かがいると未だ他人行儀にキャラを作って私たち職場の同僚ですが何かという態度を周囲にアピールしている。わざわざ交際を皆に宣言する必要は無いが、そこまで隠すこともない。それに二人を見る皆の目が妙に優しく温かみに溢れており、既に関係は知れ渡っているような気がする。それなのに彼女は職場では頑なに他人行儀に接しているのだった。
ある日、七海が高専内を歩いていたら彼女と日下部が向かい合って何やら話し込んでいるところに出くわした。同じ教員同士何か相談事でもあるのだろうと遠くから見ていると、七海を見つけた日下部がニヤリとほくそ笑む。日下部はそのままにやついているが、彼女は七海に全く気付くことなく資料を指差しながら眉をひそめている。日下部の視線は意味ありげだったが、七海はとりあえず会釈をしておいた。すると日下部が彼女の肩を叩き、七海の方を指差した。距離があったので声は聞こえないが「彼氏が来てるぞ」と言ったのが口の動きでわかる。彼女は見慣れた恋人の姿に一瞬「あ」と口を開いたが、すぐに真一文字に結んでぺこりと頭を下げた。それから何でもないですという風を装い資料に戻って話の続きを始めたではないか。あの二人がどうこうというわけではないが、少しないがしろにされたような気がして七海はわずかに目を細めた。別にウキウキしながら飛んできて欲しいわけではない。関係が公になると働きづらくなるのだろう。そもそもお互い勤務中の身であるし、交際相手の仕事内容にどうこう口を挟む気はない。それでも、彼女のわざとらしいまでの他人行儀な様子には少しばかり疑問を感じる。少しのわだかまりを感じながらも七海はすれ違い様に二人と軽く挨拶を交わして昼食をとるために食堂へと向かった。時刻はそろそろ十二時になろうかという頃だ。そのうち彼女も来るはずなので、タイミングが合えば食事を共にしたいと考えていた。
職員や生徒でざわつく食堂に彼女が来た頃には既に昼食を終えた七海が出て行こうとしていたところだった。すれ違いだったと残念に思った彼女が声をかけようとしたその時。
「七海さ――」
「七海さァん、今日の夜って何かご予定ありますか?」
背中から聞きなれない猫撫で声が先に七海へ声をかけた。男好きのする顔をした彼女の三つ歳下の後輩術師だった。しかも出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいる女性らしい身体つきで男子から大層支持されている。後輩が彼女を抜いて七海に駆け寄りにっこりと可愛らしい笑みを浮かべ見上げた。七海は彼女の方を見て目礼したが、後輩とそのまま食堂の外へ向かって歩き始めた。予想外の出来事に呆気に取られていると、更に七海の口から信じられない言葉が発せられる。
「今のところ特に予定はありません」
ちょっと待てコラと言わんばかりに七海の背中へ咎めるような視線を投げつけてやるが、気づいているのかいないのか彼女の方を振り返ろうともしない。予定を聞かれるということが何を意味しているか分からない程鈍感では無い癖に、まるで当てつけのように他の女と去っていくなど普段の彼からは考えられない事だ。ただ後輩は昇級査定中の身で七海の等級は一級で査定にも関与しているだろうから、仕事関係であることは否定できない。そして後輩は仕事に対して非常に真面目で優秀な呪術師である。指導は素直に受け入れ改善も早く、今、飛ぶ鳥を落とす勢いで成長している若手ホープの一人だった。ただ、少しばかり気が多いのが玉に瑕といったところだが。立ち去る二人の会話に耳をそばだてていると更に驚くべき話が飛び出した。
「実はご相談がありまして。行ってみたいお店もあって、一人じゃ入りづらくってェ」
「それは――」
彼女は目を丸くして七海の背中を見たが一向にこちらを振り向くことは無く、そのまま後輩に押し出されるような形で二人は食堂から出て行ってしまった。七海が他の女性と二人きりで食事に行くとは思えないが、正直、今の流れは彼女にとって面白くはない。これは女の勘というやつだが、どうも仕事の話だけではなさそうな気配を漂わせていたからだ。
(すぐ断れっつーの!)
むっつりとしながら渋々長机の端の席に着く。いつものサンドイッチが入ったランチボックスを開けるとラップがよれてハムとレタスが飛び出していた。ついてないなと溜息を吐いてパンのずれを直していると、妙に嬉しそうな顔をした日下部が半チャンセットを持って向かいの席に何も言わずに座る。突然現れた先輩教員の澄ました顔をぽかんと口を開けて見ていると、日下部は七海が出て行った扉に視線を送ってからゆっくりと彼女の方を見て時代劇に出てくる悪役のようにニタリと笑った。
「えらくご機嫌ナナメだな」
「……」
じっと日下部を見ながらサンドイッチを頬張る。何が言いたいか大体の想像はつく。
「オイ。どうなんだよ」
二口、三口と食べ続けるがしつこく絡んでくる先輩教員を無視してタンブラーに入ったホットティーに口をつけた。既にぬるくなっていたが猫舌の彼女にはちょうど良かった。
「無視すんなよ。聞こえてるくせに」
レンゲで彼女の方を指しながら更に言う。不躾な仕草にカチンと来たが、ここで苛ついた様子を見せれば彼の思う壺である。
「なんですか。私、今、とーっても忙しいんですけど」
「七海と付き合ってんだろ」
冷やかすような口調だった。やはりからかわれていると思い彼女は更にムスッとしてパンを眺め、この場をすぐにでも立ち去りたかったので大口をあけてかぶりついた。それを見て日下部はわずかに眉をひそめ「一口がでかすぎる」と言ってラーメンを啜った。
「えー。どこ情報ですか」
「なんで隠すわけ?」
「別に何も隠してないです。変な噂広めないでください」
「もうバレてんだよ。ヨカッタネーって、高専中お祝いムードよ? 素直に喜べって」
社内恋愛をわざわざ公表する気はないのに、どこからどう漏れているのか知れ渡っていると日下部は言う。別にそれはそれで問題は無いのだが、先ほどの後輩は知らなかったのだろうか。知っていてなお、本人の目の前で誘ったのだろうか。そもそも仕事の話かもしれないし恋人が異性と話すたびに嫉妬しているような歳でもない。そう思っていてもやはり、彼女の中には割り切れない気持ちが湧いてくるのである。
残りのサンドイッチを口の中に突っ込むと、彼女はもぐもぐと咀嚼したまま「ごちそうさまでした」と言って席を立つ。七海がいたら行儀が悪いと言うだろう。でも今はいない。なぜならスタイル抜群で仕事もでき先輩からの信頼も厚い期待の術師とイイコトをしている最中だから。少しだけ残っている冷めた紅茶で口の中のものを一気に流し込み「お先に失礼しまぁす」と言ってパイプ椅子をなおすと、チャーハンを食べ終えた日下部が入り口を見てまたにやついていた。
「噂をすれば、オマエのダンナが戻って来たぞ」
振り返ってみるといつもの仏頂面で七海がこちらに向かって歩いてきている。歩幅は広く肩を怒らせているような気もするが、私には関係ないと七海へ背を向けて彼女はそのままタンブラーの中身を一口飲んだ。
「……すげぇ怖い顔してコッチ見てる。ヤバい。俺、殴られるかも」
「私、独身なのでダンナなんていません。七海さんっていつもあんな顔じゃないですか」
聞きなれた足音が彼女に向かって一直線に近づいてくるが、素知らぬ顔で机の上の昼食跡地を片付けながら立ち去る準備をした。
「何なんだオマエら。いいから私達付き合ってまーすって言えよ」
「言いません。もう戻りますので」
七海はずかずかと歩いて来て彼女の前に立ち塞がった。口を開こうとした瞬間、その脇を抜けて彼女は素早く出口へと歩みを進める。七海は踵を返して追うと彼女の後ろから声をかけ、扉を出たところで肩を掴み力任せに振り向かせた。
「ちょっと」
「はい? 肩、痛いんですけど」
声色は普段通りだが腕を組んで彼女を見下ろしている。何か不満を訴えているらしい。
「なぜ隠すんですか」
「何のことですか」
「とぼけないでください。日下部さんに私と交際してると言えばいいでしょう」
何を言いだすかと思えばそんなことかと彼女は大きく溜息を吐き肩を掴む七海の手を払ってじっとりと彼の瞳を眺めた後、プンとそっぽを向いて返事もせずに歩き出す。無視された七海はそのまま足早に後を追った。いつもは彼女の歩幅に合わせて歩いてやる七海だったが、今日は逃すまいと大きな一歩ですぐに追いつき回り込む。再び進路を塞がれた彼女は苛立ちを含んだ声を出し抗言する。
「七海さんも言わないじゃないですか」
「聞かれれば答えます。なぜ隠した」
「からかわれるのが嫌だからです」
「放っておけばいいでしょう。聞いてるんですか」
前へ進もうとするのにわざとらしく立ちはだかり進路妨害を繰り返す。傍から見ると昼時の食堂付近でじゃれあっているようにしか見えないのだが、当の本人たちは真剣そのものだった。彼女は諦めて廊下の壁にもたれかかって七海を睨みつける。室内ではサングラスを外せと言ってやりたい気分だった。いつもそうだが表情が読みづらく何を考えているのかいまいちわからないからだ。
「一級呪術師って暇なんですか? 日下部先生も七海さんも今日朝からずっと高専にいるじゃないですか。私の仕事の邪魔しないでください」
ふんふんと鼻息荒く尖った声を出して七海を押しのけた。そんなに強い力では無いのにいつもと違った態度に七海は驚いて反応できず固まっていると、その隙に彼女は再び七海の脇をすり抜けて走っていった。
「あっ、こら。ちょっと……」
制止を聞かず速足で立ち去り階段を上って行ってしまった。一体なにをそんなに怒っているというのだろうと途方に暮れて大きなため息を吐いていると、昼食を終えた日下部がやってきて先ほど同様不敵な笑みを浮かべた。何か知っているのかもしれないと七海は思った。日下部は肘で七海の脇腹を小突きながら冷やかしの声を出す。
「夫婦喧嘩はよそでやれよ、ったく」
「夫婦ではありません」
二人とも同じような否定の仕方をしており日下部は吹き出しそうだった。これで誤魔化しているつもりなのだろうか。
「アイツのどこがいいわけ? 生意気すぎ」
「追い詰められるとむきになるだけです。彼女をからかわないで下さい。嫌がってました」
この言い草からすると七海の方はどうも無理に否定するつもりは無いらしいと日下部は思った。本人不在のところでそれとなく抑止するところもぬかりない。
「あっそ。じゃあアイツの大好きな七海サン見習って俺も優しくしてやろ」
「そうしてください。宜しくお願いします」
では、と言いながら立ち去ろうとする七海に後ろから日下部がからかいを含んだ声色で「ちょっと待て」と止めた。まだ何かあるのかとややうんざりした七海だったが、先輩を無視することが出来ず顔だけ日下部の方へと向ける。
「おまえこそ、アイツ泣かすんじゃねェぞ。アレでも俺のカワイ~イ後輩なんだから。ちょっと前まで暗ァい顔して元気無かったからなぁ。……もしかして、誰かサンに酷いことされてたのかも、な?」
片眉を吊り上げて七海を下から覗き込んで言う。二人の事情を知っているのだろうか。彼女が誰かに言うはずは無いと思いつつも、何か責められている気がする。心当たりがあり過ぎる七海は内心穏やかではなかったが表情に出すことはなく平坦な声で返事をした。
「……さあ。知りません。急いでいますので」
「仲良くしろよ」
七海は彼女の後を追って階段を駆け上がっていった。ひりついた空気を纏いながら一礼する七海を見て日下部は若い二人の幸せを祈った。
二階の踊り場で彼女を見つけた七海は少し大きめの声を出し制止する。
「ちょっと待ってください」
「ついて来ないで」
体半分だけ振り返り彼女が冷たく言い放つ。
「なぜそんなに不機嫌なんですか」
「知らない」
にべもなく言い放ち階段をずんずん上がっていく。二段飛ばしで七海は追いかけ彼女の腕を掴んだ。ぶんぶんと腕を振りながら離してくれと怒っている。それは何とも白く華奢な腕で、よくこんな身体で体術を教えているものだと七海は思った。それに簡単に追いつかれすぐに拘束されるし、さらには振り払う事さえできない。このまま捻って逃げられないようにしてやってもいいんだぞ、と七海は心の中で言う。
「知らないじゃないでしょう。理由を説明してください」
そう、こうして加減してやらないと彼女は逃れることなどできないというのに。そんなことはお構いなしに、手首を掴む七海の指を一本一本引き剥がしながら彼女が言う。
「これ、から、授業、なんですッ。もう! 離して!」
「言葉にしてくれないとわからない。子どもじみた真似はやめて」
七海が突然手を離すと彼女はバランスを崩して手すりを掴み、ばらばらとそこら中にプリントが落ちてしまった。七海は彼女を見下ろしながら征服感に満たされていた。術師としては非力で七海に敵うはずなど無いのに、それでも抵抗する姿勢を示すため彼の存在を無視して体裁を整えている。早く屈して弁解せよと七海は彼女へ鋭い視線を送り続ける。彼女は階段を睨みながら不服そうな唸り声を出したと思ったら、落としたプリントをかき集め話し出す。
「私とっても急いでるんです。七海さんも今日の夜、約束があるんでしょ? お互い忙しいですね。さようなら」
七海に冷ややかな視線を送り教室へと向かって階段を上り始める。
「それは誤解です。彼女は――」
「良かったですね。可愛いギャルと二人っきりで行くご飯、どうぞ楽しんで来てください」
七海が声をかけるが振り向くことさえせずに言い放つ。ずんずんと一段飛ばしで階段を上って彼女が七海から遠ざかる。
「話を聞いて――」
結局一度も振り返ることなく彼女は教室へと入っていってしまった。しかし、一連の不可解な態度の理由がわかって七海は安堵した。それに彼女はどうあがいても七海には勝てない圧倒的な力の差がある。彼女の気持ちも身体も自分の手の中だ。例の後輩とはやましいことなど何もない。それよりも普段は何でもない風を装っているくせに、可愛らしく嫉妬していることがわかり嬉しいくらいだった。にやつく顔を隠すため、七海は俯いて口元に手を当てた。それから軽やかな足取りで階段を降りた。
「あーあ、七海のヤツ。もうアイツの尻に敷かれちゃって……」
少し離れた場所から一連のやり取りを見ていた日下部は誰に聞かせるでもなく呟いた。外野から見るにこの二人、なんだかんだ仲は良さそうなので上手くやっていくだろうと誰もが思っている。それにこれくらいのほうが円満に行くだろう。一つ心配事が減った日下部はついふっと笑い声が漏れてしまった。
教室に入ってきた英語教師のいつもと違うただならぬ気配を察した勘の良い生徒たちは、大変真面目に授業を受けたという。結局、例の後輩は昇級査定のことを相談したかったようだと彼女は人づてに聞いて知った。七海はもちろん行かなかったのだが、その食事会には他にも査定中の術師が数人参加する予定だったらしく後で皆口々に「残念でした」と言ってきたらしい。更に昼時の廊下で騒いでいた二人はすぐに公然の仲となってしまい、自ら蒔いた種のせいで多方面から大いに冷やかされる事になったのだった。