第17話 主導権はどちらの手に

 七海が勝手に設定したナビの行先は知らない。ただ私の家の方へと向かっていることはわかった。その途中どこかに寄るらしい。慣れない道なのか時折ナビを確認しながら七海は進んだ。久しぶりに会うというのにこれといって話題がない。聞いてほしい話はあるが、仕事の相談や生徒の事を話すのはなんとなく違う気がして黙り込んでしまった。そもそも長らく七海とはカラダの関係でまともな会話をしていなかったことに気づく。共通の話題は仕事くらいだ。私は七海のことを何も知らない。そんなことを考えて何も言い出せずにいると、小さく咳払いをして七海が口を開く。

「あの後、生理はきたんですか」
「はァ?」

 すごく言いにくそうなわけでもなく、かといってサラっともしておらず、私の方に一瞬視線を向けたと思ったらすぐさまバックミラーへと戻した。

「あの後って、散々ナマでやりまくった後のことですか?」
「言い方。でも、そうです、あの日の後の事です」

 何を言いだすのかと思えば三か月も前のことを心配しているらしい。私が目を細めて七海を睨んでいるとばつが悪いのか視線には気づいているくせにフロントガラスの奥を見つめ、さも運転に集中していますというポーズをとった。

「……きましたけど」

 最小の声で呟くと七海はほっとしたのか少し肩の力を抜いた。

「けど、何ですか」
「ちょっと心配だったので、アフターピルを貰いました」

 隠しても仕方がないので事実をそのまま告げる。

「誰に」
「誰にって……。産婦人科の先生です」

 最後だけはコンドームを使ったものの、その前はろくに避妊を考えていなかったのだ。一回ならまだしも何度も射精した後に突っ込んだし、ちょっとかかっちゃったとかなんとか言っていたし、正直に言うと私も少し不安だった。ただこれは自分を守るためにやっただけで聞かれなければわざわざ言うことではない。それに、まさか聞かれるとも思わなかった。しかしもう少しオブラートに包んだ言い方はできなかったのだろうか。言いたいことはわかるし七海も不安があったとは思うが、まずは身体を気遣う一言をかけるべきだ。それも運転中の車内でこちらを見もせずに言うことでは無い。先ほどから私は目を逸らすことなく凝視し続けているが七海はずっと前を向いたままだ。信号待ちになりようやく私の方を見た七海は見慣れた仏頂面だった。せめてもう少し申し訳なさそうにして欲しい。演技でもそうすべきだろう。

「それは、一言言って欲しかった」

 言うに事を欠いて少し責めるような口調で七海が言う。この時点でかなり頭に来ていたのだが、七海にペースを乱されていると思われたくなかったのでなんとか感情を押し殺して言い返す。

「あんな別れ方して言えるわけないです。それに私の身体のことなんだからいいでしょ」

 窓の外に向かって独り言のように言ってやる。溢れ出る苛立ちが言葉の端々に出ていたのが自分でもわかった。

「私の責任ですから」
「今更よくそんなこと言えますね」

 私がそう言うと七海はかなり長い間黙り込んだ。いつの間にか信号は青になり車が発進している。しかし七海建人という男はもう少し思いやりのある人物だと思っていたがどうやら違うらしい。何を意図して聞いているのかわからない。確かにあの時、背徳的な関係と非日常感に流されて羽目を外しすぎたとは思う。後でヒヤヒヤしたのは事実だが、やはりまずは一言謝るべきだろう。自分にも責任があると思っているのなら尚更だ。それなのに生理は来たのかという聞き方が既にデリカシーに欠けるし、誰に薬を貰ったのかだとか一言言えだとか無遠慮に聞いてくるなんて無責任にも程がある。めらめらと怒りの炎が燃え盛り何か言ってやろうかと思って七海の方を見ると、心底困り果てているという顔をしてハンドルを握っていた。

「……副作用とかあったんじゃないんですか」

 ぼそぼそと聞き取りにくい声で言う。

「無かったです。それに大丈夫だと思うけど、安心したかっただけなので」

 何を言うかと思えば自分の保身のためなのにあくまでも私の身体が心配ですよというスタイルらしい。それが透けて見えるので余計に腹が立つ。

「今後そういうことは言ってください。隠さないで」
「知らない」
「何ヘソ曲げてるんですか。あなたの身体が心配なんです」
「じゃああんなことしなきゃいいのに」
「……」

 私がそう言うと七海は再び黙り込んでしまった。そしていつの間にやら車はどこかの駐車場に入っていた。七海は黙り込んだまま駐車スペースを探しさっと車を停める。エンジンを切ったらあまりの静けさに驚いた。言い訳するのを待っているが何も話し出さずに時間だけが過ぎていく。

「最低。言い訳すら出てこないんですか」
「ちょっと待ってください。付き合って早々険悪な雰囲気になりたくない。言い方がまずかった。それに運転しながら聞くことでは無かったと反省しています」

 私が助手席のドアに手をかけると七海が慌てて弁解しはじめた。視点がうろうろして定まらず、何度も瞬きしている。いやに早口で捲し立てているので焦っているのだとわかった。そんな七海をじっとりと睨みつけているとますます黒目をきょろきょろと動かした。

「七海さんってごめんなさいができないんだ」

 私がそういうと七海は観念したかのように大きく口を開けて大息をつく。

「ごめんなさい。あなたの事を一番に考えています。本当です」
「上手に言えてエライですね。でももうちょっとマシな聞き方なかったんですか?」
「あなたの言う通りです。あの時の事であなたの身体に何かあったらどうしようと心配してました。誓って言います。決して保身のためではありません」

 肩を落として項垂れて、きちんとセットされた頭をくしゃくしゃと掻いた。髪は乱れ目に力はない。さすがに私も言い過ぎたかもしれないと思った。七海のこんな姿は貴重でもう少し見てみたいが、あまりの落ち込みぶりになんだか悪い事をしているような気持になってくる。

「今回だけは許しましょう」

 そういうと七海は顔を上げて身体の力を抜き、安心したような表情をした。身体も態度も大きいこの男が私の前でこんなに小さくなっている。七海をこんな風にさせられるのは私だけなんだと思うとなんだかとても愛おしい。私が運転席へ身を乗り出すと一瞬たじろいだが、キスされると思ったのか七海は目を閉じて顔に少し角度をつけた。七海の貴重なキス待ち顔を堪能したいが、彼の高い鼻に手を伸ばし摘まんでやる。すると驚いて身じろぎ目を開けた七海は、息を漏らしながら眉を顰め唇を突き出しむっとした。それからぱっと私の手首を掴んで引き剥がすと抗議の眼差しを向ける。そのまま顔を近づけて今度こそ彼の御期待通りに唇を触れ合わせると、応えて唇を優しく食まれた。そっと顔を離すと七海はまだむっとしていたが目元は満足げに緩んでいた。

「七海さんって結構カワイイところがあるんだ」
「からかわないでください」
「私って七海さんの彼女なんでしょ」
「だからなんですか」
「私だけ七海さんに何してもいいってこと」
「そんなわけあるか」

 呆れたと溜息を吐き七海は運転席の扉を開けて「行きますよ」と言った。ポケットに差し込まれた手を引っ張り出して繋いでやると照れくさそうに笑った。からかってるわけじゃない。彼は私のかわいい人なのだ。

 七海の言う通りデパートの地下の惣菜売り場にも牛丼はあったが恥ずかしさのあまり買えなかった。見たこともないカラフルな野菜が入っているマリネと小さな豆腐ハンバーグ、五穀米と煮物が入った小ぶりな弁当に決めた。いつもはこの三倍は食べている気がするが、私も七海に少しは可愛く見られたい。七海はというと肉がこれでもかと乗っかった二千円を超える弁当を選んでいた。あの身体を維持するにはこれくらい食べて当然なのかもしれない。がっつり系弁当をもりもり食べる七海を想像すると微笑ましい。

「一回着替えを取りに家に寄りたいんですがいいですか」

 車を探して駐車場をうろついていると七海が言った。

「じゃあ七海さんちに泊まれば?」
「私はあなたの家に行きたいんです」

 間髪入れずに返事があった。人様を呼ぶ用意はできていないのだが、どうしてもと言って譲らない。

「七海さんちのベッドの方が広いですよ」
「……覚えてるじゃないですか」

 不機嫌そうな声を出し助手席のドアを開ける。こういうことはスマートにできるくせに、生理がどうとか一言言えだとか言うんだなと思い出して少し腹が立ったところで、意外と根に持っている自分に気づく。

「起きた時からは記憶があるんです」
「その前も覚えていて欲しかった」
「ごめんなさい……」
「責めてるわけじゃない」

 七海も色々と根に持っているらしい。あの日にあったことはまだ知らない。いつかは聞くべきだと思っているが、七海は教えてくれるだろうか。

「でも私、とんでもないことしたんでしょ……」

 意を決して聞いてみる。片目でちらりと七海を見やると、フッと声を漏らし口角を上げて笑った。この反応を見る限り、やはりとんでもないことをやらかしているらしい。そもそも七海が酔いつぶれた私を嫌々介抱することは想像できるが、同意なく性行為に持ち込むと思えない。どう考えても私が七海に獣のように襲い掛かり、嫌がる彼の服を無理矢理剥ぎ取って押し倒し、やめてくれと言う彼の言葉を無視して強姦したのだ。そうじゃないと七海と私があの時点で寝るわけがない。改めて自分の犯した過ちを考えると後悔の念に駆られる。伊地知の言う事を素直に聞いて途中で酒をやめればよかったのに、調子に乗って飲んだから彼を傷つけてしまったのだ。涎を垂らして牙を剥きだし七海に襲い掛かる私と、衣類をずたずたに引き裂かれ怯える七海がぐるぐると頭の中を回っていた。あんなことしなければよかった。本当にごめんなさい。今更謝っても遅いが頭を下げずにはいられない。私が冷や汗をかいていると七海が顔を覗き込んで言った。

「そうですね。とんでもない淫乱だと思いました。どれだけ手慣れているんだと」
「うわあ! 最悪だ!」

 どうやら私の想像通りらしい。しかも手慣れていたとはどういうことだろう。もしかして私、今まで送ってくれていた伊地知にも……。今度こそ頭を抱えて背中を丸めた。この罪を償う方法を教えて欲しい。神に祈っていると更に七海が私に追い打ちをかける。

「その認識は今も変わりません」

 そりゃあそうだろうと思う。少々強引だったが七海が私に「思い出して欲しい」と迫ってきたあの日も散々嫌がって拒否しながらも快楽に抗えず彼をたぶらかしたのだから。その後も呼び出しに応じ続け、ついには七海とのセックスを心待ちするまでに成り果てた。倫理に背く行為に耽って所かまわず交わってとんでもない女だと思われているだろう。私があの七海を陥れセックスの道具のように扱ってしまった。では七海はこんな私のどこがいいと言うのだろう。七海は自分が悪いと言っていたが、とてもじゃないがそうは思えない。

「……じゃあやっぱり、カラダだけってことですか?」
「違います。人間としてあなたのすべてが好きだと言ったはずですが」
「私、七海さんを汚した罪深い人間なんです。それなのに好きってどういうことですか」
「今までのことは全部私のせいだと言ったでしょう。どういう状況であれ、あなたに突っ込んだのは私です。今から出頭します」

 仏頂面に戻った七海が車を発進させた。本当に警察署に行くつもりなのだろうか。そんなことは無いと思うが一応制止しておく。

「ちょっと待って! もうよくわからないんですけど、七海さんって本当に私の事が好きなんですか。どうして?」

 七海が私の事を好きだと言う理由が見当たらない。いつ、どこで、どのように好きになったのか説明して欲しい。

「好きです。理由は後で説明します。あなたはどうですか」

 駐車料金を精算しながらこちらを向くことなく言う。なんとも雑な扱いを受けているような気がするが、後で理由を教えてくれるらしい。

「生理のくだりで嫌いになりそうだったけど、今やっぱり好きかもって思いました」
「そんなにすぐ気持ちがぐらつくなんてことがありますか」

 今日何度目かの呆れた声が聞こえる。でもそれがなんだか心地よかった。七海と親密になっている気がする。さっさとこうやって好きだと言えればよかったのに。

「七海さんの全てが大好きです」
「どうも言わされてる感がありますね。私のどこが好きなんですか。教えてください」
「じゃあもう二度と言わない」
「冗談です。すぐ拗ねる」
「意地悪ばっかり言うからです」

 本当に拗ねているわけではない。こうして軽口を言い交わせるようになったことがたまらなく嬉しい。緩んだ頬を見られるのが恥ずかしくてそっぽを向いた。すると七海はこらえきれなかったのかクツクツと笑って大きな手で口元を押えた。

「浮かれています。あなたとこうして居られることが嬉しくてたまらない。本当です」
「わかったから、運転に集中してください」
「真っ赤になってて可愛いですね」
「知らない」

 窓に映る自分の顔がにやけている。だって七海とこんな風になれると思っていなかった。夢みたいだ。七海が私の事を好きなんだって。

 まずは一緒に食事をとって、その間に少し話せたらいい。風呂は一人ずつしか入れないし、部屋干しのバスタオルが乾いていなければ予備は無い。ベッドは七海と眠るにはあまりに狭すぎるから、私はソファで寝ようかな。でもその前に、脱ぎっぱなしの服やほったらかしの食器があって恥ずかしくて家に入れられないことに気づく。袋がいっぱいになったら回収に出そうと思っていたビールの空缶はベランダに放り出すこと。部屋の壁に干している洗濯ものは取り入れてクローゼットに突っ込んで、洗面所と風呂の排水溝に変な毛が落ちていないかチェックしよう。

「七海さん。ちょっとだけ時間をくれませんか。すぐに片付けますから」