おずおずと身体を木の裏から晒すと、七海は困ったように笑っていた。それから少し震える声で言う。
「私の勘違いじゃなければ、その顔は、嬉しそうに見える」
久しぶりに聞くその声は私に向かって発せられたものだった。七海の言う通りだ。嬉しくて嬉しくて、涙が込み上げてくる。でも泣いてはいけない。今よりもっと困らせてしまう。奥歯を噛み締めて涙を押し殺し鼻を啜っていると七海が一歩前に進んだ。何か言わなくては。
「自分でも信じられないけど、私、七海さんに会えて嬉しいみたいです。七海さんだって、私の事探し回ってたんでしょ」
焦って口に出したそれは、とんだひねくれ者の台詞だった。可愛げの欠けらも無い。好きだと素直になるんじゃなかったのかと自分を問い詰めたかった。しかも笑っているのか泣いているのかわからない、ぐちゃぐちゃの顔をしている。穴があったら入りたい。しかしそんな私をじっと見つめている七海も私に負けず劣らず訳の分からない表情をしていた。眉尻は下がっているが眼光は鋭く、薄い唇を内側から噛んでいる。そのくせ口角は上がっているから、多分、私と同じで嬉しいのだろう。そうであって欲しい。
しばらくの沈黙の後、七海が口を開く。
「ずっと探していました。どうしても会いたくて」
七海の言葉を聞き隠しきれない喜びが込み上げてきてまた口角が緩む。暴発しそうな感情の昂りを必死に堪え、震える腕をもう片方の手で押さえる。指先は冷たいのに顔は火照って熱を持ち、心拍数はどんどん上昇して血液が猛スピードで全身に巡っていくのがわかる。このまま駆け出してしまいそうな身体を抑えつけてなんとか平静を保とうとするが、どうしても声が震えてしまう。
「私の方が先に七海さんの事を見つけてました。だからこの勝負、私の勝ちです」
「それじゃあ私の負けですから、一つだけ、あなたの言うことをなんでも聞きましょう」
勝ち負けなんかじゃないのに、どうしても素直になれずに馬鹿みたいな台詞ばかり浮かんでくる。それが口を突いて出るものだからますます質が悪い。それでも七海はあっさりと自分が負けたのだと言う。腕を組んで首を傾け斜めに視線を寄こす様はおよそ敗者とは思えない態度ではあるが、私の言うことを何でも聞いてくれるらしい。
「言いましたね」
「約束は必ず守ります」
七海に聞いて貰うお願いを考える。まずは今すぐ抱きしめて。それから優しくキスをして欲しい。もうどこにもいかないで、私だけのものになってよ。私が会いたいと行ったら飛んできてくれないと駄目だし、同じベッドで朝まで貴方と過ごしたい。他の女と喋らないで。独りで逝くなんて許さない。今際の際には私の事を思い出して。強欲な私はどんどんとお願いが湧き出てくるのだ。
でもその前に、一つだけ聞いておきたいことがある。答えを知らないと進めない。七海の口からそれを聞きたい。今日は教えてくれるだろうか。もう覚悟はできた。
「教えてください。七海さんって私の事好きなんですか」
余りの緊張に声が上ずっていた。恥ずかしくて前を向いているのが辛いけれど、それでも七海から目が離せなかった。焼けてしまいそうな夕日に世界は朱く染められている。あまりの美しさに息を吞む。炎に包まれたように周囲の景色は染まり、私の心を更に燃え上がらせた。答えはきっと合っている。それでも七海の口から聞きたい。私はもう絶対に逃げないから、貴方の言葉で教えて欲しい。
七海が私の質問に清々しい表情で答える。
「好きですよ。どうしようもなく」
それからいつもの調子で言う。
「あなたこそ私のこと、ずっと前から好きなんでしょう」
「そうですよ。気づくのが遅すぎます」
やっぱり答えは合っていた。言葉に出すとこんなに呆気ない。この一言を確かめるために随分長い時間をかけてしまった。今日までの日々を思い出す。たった一度の過ちがすれ違いを生んで遠回りをしたけれど、私たちはずっとお互いに特別だと想いあっていたのだ。
その場に立ち止まった七海は胸を反らして意地悪そうに笑う。
「学生の頃から私の事が好きだったくせに、なぜ言ってくれなかったんですか」
「七海さんがどっか行っちゃったから言えなかったんですよ」
「もうどこにも行くつもりはありませんから、言ってもらって大丈夫です」
「さっき言いました」
「私の質問に対してそうですよとは言ってたが、直接的な言葉は聞いてない」
「私、七海さんの事がずっと前から好きなんです。これでいいですか」
「いいでしょう。そこを動かないで」
風は止み辺りは静まり返っていた。
砂を踏む音が一歩、また一歩と近づき距離が縮まる。
七海は動くなと言うが、私の身体は歓喜に震え、身体の根底から沸々と沸き上がる激しい衝動に抗う術はなかった。その感情は頭の先から爪の先へと突き抜けてじっとしていることが出来ず、気づいたときには七海の方へ向かって駆け出していた。大きく手を広げて彼の胸に飛びついたら、いとも容易く私を受け止めた。そして首元に顔を埋めて絞り出すように「会いたかった」と呟き私を抱く腕に力を入れた。それに応えるように彼の腰に手を回してぎゅうぎゅうと抱きしめる。七海の胸の中は温かい。それからいい匂いがする。愛しい。この温もりをどうして一度、手放してしまったのだろう。再びこの温かさに触れた今、もう二度と手放せそうにない。ぽろぽろと大粒の涙が流れたが、私はとてつもない多幸感に包まれて笑っていた。
「私、七海さんの事がずっと好きです。酷い事しちゃってごめんなさい。許してください。一緒にいていいですか。好きなんです」
「全部私のせいなんだからあなたは何も悪くない」
「私たち、やり直せますか」
「今日から形を変えて再開しましょう。どうしようもなく辛かったが、それでも無かったことにはしたくない」
七海は私の唇をなぞりそっと口付けた。薄い唇が離れていく。顔を見上げると目を細めて眩しそうに微笑んでいた。私がもう一度胸の中に顔を埋めると、七海は私の髪を撫でながら悩ましい吐息を吐いた。このままひとつになってしまいたい。
静かだった木々が風に揺られて乾いた音を立てる。それから終業の合図である予鈴が辺り一帯に響いた。もうこんな時間になったのかと気づき慌てて校舎の時計を見上げると、やり残したことを思い出す。七海は私の頭に鼻先を押し付けて静かにしていた。あれからうんともすんとも言わなくなった七海の胸をそっと押して上半身を剥がす。
「すみません、私、一度教室に戻らなきゃいけないんです。離してください」
「ちょっと待って」
七海は剥がれた私をもう一度自分の胸にくっ付けて、ふぅーと長いため息をついた。それから私の身体を宙に浮かせてじりじりと引きずるように木の裏まで歩いて行き、幹にもたれかかって天を仰いだかと思うと諦めを孕んだ声で言う。
「今、下半身が大変まずいことになってる。離れないでください。通報される」
七海が私の臀部を鷲掴みにしたと思うと、ぐっと腰に引き寄せた。七海の股間にある硬いものが私の大腿に触れる。
「えぇ、やだっ。やめてください!」
「これは、勝手になるもので不可抗力なんです」
七海は勃起してしまった陰茎をぐりぐりと私に押付けた。すると更に硬さが増してゆき、スラックス越しに感じていたものの形にリアルさが増していく。
「ダメです、あッ、ン……ちょ、七海さん、離して」
「なんて声出してるんですか。ここ、学校なんですが。生徒たちに示しがつかない」
「も、じゃあ変なことやめてっ! 私が行かないと帰れないでしょ! 馬鹿力! 痛いっ」
七海の身体を無理矢理引き離そうとするがどう頑張ってもびくともしない。胸をどんどんと叩くと観念したのか力を緩め、少し寂しそうに眉を顰めて私を見つめた。
「子ども達が私を待ってるんです。終わったらすぐに戻ってきますから」
「ずるいですねその言い方は。とりあえず車まで一緒に来てもらえませんか。この状態で一人でうろつくのはちょっと……」
「もう予鈴が鳴ってるんですってば! このまま木の陰に隠れてたら?」
「余計怪しいのでは……」
「こんな時間、誰も来ないから大丈夫ですって。じゃあまた後で」
「できる限り迅速にお願いします。こんなところ誰かに見られたらしばらくここへ来ることが出来ない」
悲痛な表情で訴える七海を置いて、私は鍵の開いた窓から校舎へと入る。後ろから「危ない。やめなさい」と母親のように注意する七海の声が聞こえてきたが、ひらひらと手で合図だけして階段を駆け上がる。途中で振り返ると七海はその場に座り込み頭を抱えていた。大きな溜息が聞こえてきそうだった。少し気の毒に思ったが、なんだか可愛らしさもある。胸いっぱいに広がる幸福感をどこかへ発散させないと全身が弾け飛んでしまいそうだ。昂る気持ちを全力疾走にぶつけ猛スピードで教室へと滑り込む。
七海にあんな顔をさせられるのは私だけなんだ。他の誰も見たことは無いし、この先ずっと誰にも渡したくない。
教室から戻って窓から飛び降りると座り込む七海が顔を上げた。
「行きましょう」
そう言ってスラックスの後ろと手についた砂を叩いて払うと駐車場へ向かって歩き出す。その後ろをついていき、彼の背中に向かって声をかける。
「お腹すいてるんです。何か食べて帰りませんか」
「それどころではないのがわかっている癖に、わざと聞いてくるからタチが悪い。今日はこのままあなたの家に行きたいんですが、いいですか」
不満げな声を出しながら七海は言う。こちらをちらりと見て歩みを少し速めた。
「うちに誰か来るのって初めて。七海さん、私の家の初めての人になってくださいね」
「あなたのそういう所、どうかと思います」
「じゃあもう来ない?」
「いえ行きます。そういうの止めてください」
「朝までずっと居てくださいね」
「またあなたを抱いて眠りたい」
手を繋いでいいかと聞くと七海は肘を曲げて腕を差し出したので、その隙間に腕を差し入れて抱き着いた。幸せそうなカップルみたいだと言うと、七海はその通りだと言ってほんの少しだけ尊大に構えた。
助手席のシートベルトを締めると同時に、七海は耐え切れないと呟いて貪るような口付けをした。その気になって応えていたらますます激しくなり、口腔内を執拗に嬲り始める。私の方へどんどん身を乗り出しついに七海の手が脇腹へと伸びてきた時、終鈴のチャイムが鳴り響く。私たちは顔を見合わせ、我に返った。そう、ここはまだ職場で、これ以上は道徳に反している。
七海は車のエンジンをかけると何か食べたいものはあるかと聞いた。何でもよかったのだが、テイクアウトできるもので最初に思いついた食べ物が牛丼だったのでそう答えると、七海は一瞬押し黙って何か言いたげにこちらを横目で見た。それから百貨店の地下に寄るからそこで何か好きなものを選ぶようにと言って車を発進させる。
「さすがお金持ちの発想は違いますね」
「牛丼もあると思いますよ」
「なんか、ちょっと恥ずかしい。貧乏人発想ですみません」
「別に。あなたの普段考えていることが知れて嬉しいくらいです」
「そうですか。それは……、良かったですね」
そうだ、私たちは、今日から同じ時間を過ごし共に歩む。七海の好きな食べ物や色、綺麗だと思うものは何なのか。どんな時に楽しいと感じ、休みの日はどこへ出かけ、家では何をしているのだろう。
少しずつ素顔のあなたが知りたい。
あなたの言葉や旋律を教えて欲しい。
強さも弱さも全部隠さないで。
あなたが生きているだけで私は満たされるのだから。