第15話 ―君を離さない―

 伊地知を追い払った後、貰ったコーヒーをちびちび飲んでいたら窓の外に七海の姿が見えたので咄嗟に身を隠した。こちらに向かって来ている気がする。そうじゃないとあの道は使わないはずだ。隠れる必要は無いのに見つかってはいけない気がして散らばった生徒の報告書を急いでかき集め、少し行った先のトイレに慌てて入った。するとやはり七海の革靴の音が近づいてきて自販機の前あたりで立ち止まる。それからすぐに来た道を戻りトイレの前を通って事務所の方へと向かい、七海の足音は徐々に小さくなっていった。何も悪いことはしていないし、別に顔を合わせてもいいはずだ。しかも自分からまた職場で会いましょうと、今まで通りにしようという風に言ったくせに、いざその時が来ると隠れてしまった。まだ七海に会う心の準備ができていない。とてもじゃないが以前のように話すことなどできそうもない。でも、さっきは顔が良く見えなかった。あと一回だけ、遠くからちょっと見るだけで大丈夫だから。少しだけでいいから。そう自分に言い訳をして、彼の後を追うことにする。一目見たらもうお終い。それで通常業務に戻るし隠れない。

 こそこそとトイレから出て事務所から死角になる中庭のベンチに腰掛ける。予想通り七海は事務所に現れた。中をきょろきょろと見渡し、他の教員が彼を見つけて会釈している。声は聞こえないが何やら会話をしているようだ。これ以上窓から頭を出すとばれてしまいそうで、そのまま窓の下に張り付いたままやり過ごす。もう一度こっそりと窓から覗くと、七海はこちらに背を向けて事務所を後にした。ほっとしたような、残念なような不思議な気持ちだ。そのまま窓から事務所へ侵入する私を見て同僚たちは訝し気な視線をやって、視聴覚室の鍵を早く返却しろと言った。ポケットから一本の鍵を取り出しキーボックスへかけると予鈴が鳴ったので、次の授業の準備物を持って教室へと向かう。

 教室で授業をしていると、緊急招集用のPHSが鳴ったので何事かと思い一旦自習にして退室した。廊下で通話ボタンを押した時、遠くから聞き覚えのある革靴の音が聞こえたので咄嗟に声を殺して階段の陰に隠れた。左耳にPHSを押し付けるが衣擦れのような音だけで何の会話も聞こえてこない。大方ポケットの中で擦れリダイヤルされたのだろう。右耳にはすぐ側まで近づく靴音が聞こえて、それから教室の方へと離れて行った。壁に背中をくっつけてこっそりと顔だけ出して様子を伺うと、七海の後ろ姿だけが見えた。自習中の教室に視線をやるとすぐに前を向いて突き当りの非常階段から降りて出て行った。私は胸を撫でおろし教室へと戻って授業を再開した。隠れる必要なんて無いのに、どんな顔をして彼に会えばいいのかわからない。

 それからお茶を飲もうと休憩室へと向かうとまた七海の足音が聞こえたのでドアの後ろに隠れてやり過ごし、野暮用で学生寮へ行っていたら何故か玄関先に七海がいたので急いで裏口へと回った。さらに資料室で来週学生たちが向かう任務先の文献を漁っていたら、通気口から微かに足音が聞こえたのでドアに内側から鍵をかけて書架の陰に身をひそめた。七海がドアを引いた音が聞こえたが施錠しているのでもちろん開かない。扉のガラスから中を覗き込んでいる様子が窓に映ってちらりと見える。ぐっと眉間にしわを寄せた後、舌打ちでもしそうな表情で立ち去った。間接的に見たその顔は険しく、どうも不機嫌そうだ。やっぱり会わない方がいいかもしれないと思い、気配が完全に消えるまでその場でやり過ごす。それからこそこそと昔話に出てくる泥棒のように身を低くして資料室を立ち去り七海の後を追う。校庭の脇を抜け、駐車場の方へと向かっていた。日が暮れてきたのでもう帰ってしまうかもしれない。最後に遠くから一目だけその姿を見て、それから今日はもう帰ろうと思う。

 七海の様子を伺おうとこっそり木の陰から顔を出していると、校舎の中から先ほどコーヒーをくれた同期の声が聞こえた。伊地知は窓から顔を出して私を見下ろすと心の底から呆れたと言う顔を作り肩を落として、わざとらしく大きなため息を吐く。

「さっきそこで七海さんと会ったよ」
「え! 元気そうだった?」
「……七海さんも全く同じ事聞いてきたんだけど。自分で会いに行けばいいのに」
「いつの間にそんな冷たい事言う人になってしまったわけ?」
「引き返してくると思うよ」
「無理無理! 助けて!」

 伊地知の返事はなく冷ややかな視線を私へと送った後、何も言わず後ろを向いて立ち去っていく。一日中逃げ回っていたのに今更どんな顔をして七海と会えと言うのだ。遠くから一目見るだけでいいと何度も言っているのに。そんな私の都合などお構いなしに砂を踏みしめる足音が近づいてきた。息を殺して大木を背に身を縮める。心臓の鼓動がうるさい。静かにして。聞こえてしまう。神に祈る気持ちで目をぎゅっと瞑っていると七海の足音が止まった。こちらを向いている気がする。そっと片目だけ開けると、こちらへ向かって夕日が差し込んでいた。まずい。この角度じゃ木にもたれ掛かって隠れる私の影が七海の方へ向かって伸びている。身じろぎするとやはり見つかってしまっていたようで、七海は刺々しい声でそこから出て来いと言った。少々の怒気を孕んだ声色だったが私に向かって発せられる言葉が妙に嬉しくて口元が緩む。すぐ側に七海がいる。やっぱり、本当は会いたかった。それから、あの時素直になれなくてごめんなさいと謝って、その胸に抱きついて、貴方の事がすごく好きだと言いたい。今の私達だったら上手くやれそうな気がする。

 私が木の裏でもたもたしていると七海は、諦めたようにもう帰るのだと言った。駄目だ、嬉しくて涙が溢れそうだし、口元はにやにやとして締まりのない表情だ。こんな顔見られたくない。でも行かないで。私がずっと逃げ回っていたから怒っているかもしれない。それでもこの機会を逃したら絶対に後悔する。意を決して木の後ろから出ていくと、そこにはずっと会いたかった七海の姿があった。

 その表情は、まるで――――。