校舎の端っこにあるサボるには最適な自販機の横にあるベンチでぼんやり生徒の報告書を眺めていると同期である伊地知がひょっこりとやってきた。私を探していたとでもいうように、その手にはホットの紙カップが二つ持たれている。ちょっと時間が出来たんだと彼は言うと私の隣に少しだけ隙間を開けて座り、カップを差し出しため息を一つ吐く。それからこちらの様子をうかがいながら声のトーンを落として話し始める。その第一声は、今一番耳にしたくない名前だった。
「七海さんと何かあった?」
「……あった」
私が伊地知を思いきり睨みつけてそう言うと、彼はコーヒーを持っていない方の手で頭をくしゃくしゃと掻いた。それからとても大きくて長い溜息をついて下唇を突き出して私を睨み返す。彼は私に呆れているときによくこの顔をする。
「ハァー、やっぱり。あの日から二人とも様子がおかしいから。酔っぱらって七海さんに変な事したんでしょう」
「したんでしょうねェ。全ッ然覚えてないけど。まさか同期に裏切られるとは思わなかったわ。なんで私を止めてくれなかったの」
八つ当たりもいい所だが七海とこんなことになってしまった責任は伊地知にもあると思う。間違いない。私の家の鍵を持っているくせに。
「やっぱり僕が送っていけばよかったね。ごめん」
苦悩を孕んだ声を出してがっくりと頭を垂れている。自棄になる私をいつも止めていてくれた彼に感謝こそすれど、やはり責めるのはお門違いだろう。私はカップを置いてベンチにもたれ天を仰ぐ。染みだらけの天井が見える。
「もういいけど。新しいイケメンの彼氏つくるもん」
「振られるたびに慰めさせられるのもう疲れた……」
「なんで振られる前提? ほっといてよ。私が男に振られて伊地知に何か迷惑かけた?」
「深酒した後、君を家に送り届ける責任を負わされてるのは誰でしょう。もしかして、毎回自分で帰ってると思ってる?」
伊地知は一呼吸おいて、「それに」と付け加えた後こちらの様子を伺いながら言う。
「だいたい君の元カレ、中身は七海さんに全然似てない人ばっかりだしね……」
「……そんなつもりじゃない」
「見た目だけで選ぶのやめたら。何回も痛い目見てるのに。七海さんと君なら、きっと上手くいくと思うけどなあ」
「どこからどう見たらそうなるわけ? そうやってけしかけて、私が滑るのを見たいんだ。釣り合わないしこれ以上嫌われたくない」
「誰が嫌われてるって? ハァ、なんでこんな事に……胃が痛い」
伊地知は鳩尾に手を当てごくりと唾をのむ。色々と苦労の絶えない私の同期は先月胃カメラを飲んだばかりらしい。私のせいでまた通院する羽目になるかもしれないが今は誰であろうと人に優しくする余裕を持ち合わせていない。同期ならなおさら、こんな時の私がどういう反応をするかなんてわかっているだろうに。
「アンタが送ってくれなかったからこんな事になってんの。もういいからあっち行って。母親みたいに小言ばっかり。私に構ってないで自分も彼女作ったら」
「この仕事しててできるわけないでしょ……。ハァ、彼女欲しい……。癒されたい」
「熱帯魚でも飼えば。今、伊地知を慰める仕事するのめんどくさい」
「あっそォ。心配してるから言ってるのに。七海さんの誤解はちゃんと自分で解いてよ。今日来ると思うから」
「誤解なんて何も無いっての」
しつこい同期をシッシと手で追い払うと少しぬるくなってしまったコーヒーを飲む。随分前に七海がくれたものと同じだった。あの日に七海からの食事の誘いに乗っていたら今こんなことにはなっていなかったかもしれない。彼は私と話したかったのだろうか。そういえばいつも何か言いたげにしていた気がする。沈黙が恐ろしくて七海の発言が途絶えるといつも私から早くしてくれと急かした。今思うとあれは何かを言い淀んでいたのだろう。
五拍子が特徴的なジャズはやはり有名な曲なのか、タイトルは未だにわからないがテレビや街で流れるたびに車中の空気を思い出す。そして七海があの日だけつけていた香水の匂いが鼻腔の奥の方にこびりついて離れず、街ですれ違う全く知らない男から香っても胸はどきりと跳ね、身体の奥の方から赤紫色がついた感情がじわりと染み出てくる。どこにも向けるところが無いのに湧き出てくる想いをどうすることもできず持て余すばかりだ。あの夜の後のことを何度も思い出す。彼を深く傷つけてしまったことを悔やんでいる。チープなドラマさながらの捨て台詞も最低だった。自分に酔っていたのだろう。
彼に会ったら謝りたい。それからもしできることなら、先輩と後輩に戻りたい。どこかで誰かからその名を聞くことはあっても、あれからずっと七海の姿を見ていない。遠くから見るだけでいい。彼がどんな顔をしているのか知りたい。笑っていたらそれでいい。もしも悲しみに暮れているのだとしたら、私のできるすべての事をして彼の悲哀を和らげてあげたい。私にできることなどほとんど無いかもしれない。そう、後は記憶が薄れていくのを待つしかない。そして私はあの日の思い出を胸にこれからずっと生きていく。
駄目だとわかっているのに、七海に連れられて行ったホテルでの一夜を何度も思い出す。私の頭の中の七海は笑っていて、彼からの深い愛情を何度も感じた。いや、自分勝手に記憶を書き換えているかもしれない。七海の口から本心を聞きたかったが、私も彼も何も言えずに終わってしまった。やっぱり、それまでの二人だったんだろうなと思う。
私がべろべろに酔っぱらったあの日、本当はオンラインの英会話グループで知り合った男に会いに行く予定だった。その男はKentといって名前こそ同じだったがウェブカメラを通して見る彼は七海には全く似ていなかった。別に意図して選んだわけでは無い。たまたま話していて会おうという流れになっただけだ。それでもその日の飲み会に七海が珍しく参加するというのでワクワクしながら予定を変更して行ったものの、席は端と端で特に話すこともなかったし、途中から記憶もほとんど無い。誰かにしつこく絡みまくっていた気がするが誰かもわからないし、目が覚めたらほとんど裸で七海のベッドの上だった。言い訳させてもらうとあの日は伊地知が私を家まで送ってくれると思っていた。いつもそうしてくれていたからだ。彼には申し訳ないけれど、後ろ盾があったので何も心配していなかった。まあどんな状態であれ、大人なのだから自分の行動には責任を持たないといけない。心優しい同期を責めても仕方がない。すべては私のせいなのだ。