春紫苑 ―追想の愛―

第12話

 あれから三か月が経った。季節は移り変わったが、相変わらず呪術師という仕事は呪いを追って祓って、たまに感謝はされど表に出ることは無い。

『また職場で会いましょう。さようなら、七海先輩』

 彼女があの日そういって自宅の扉を閉めた光景が網膜に焼き付いて離れず、それこそ呪いのように付き纏う。まるで低予算で作られたドラマだ。ずっと別れの台詞を考えていたのだろうか。あまりにも自然に彼女の口から出た言葉を受け入れられず、ドアが閉まったあと室内でばたつく足音を聞きながらその場からしばらく動けなかった。学生時代の私と自分に決別するためにあのように言ったのだろう。あれから一度も彼女に会っていない。元気にしているだろうか。自分のような人間が彼女の存在を心配することさえおこがましい気がして、これ以上彼女のことを勝手に憂いて嘆くのはやめた。

 彼女が学生の頃、私に好意を向けていたことを知らなかったわけでは無い。ただそれを受け入れる心の余裕を持ち合わせておらず、何か言いたげな様子に気づかぬ振りをして立ち去ることで彼女の恋愛を勝手に終わらせた。余りにも色んな事があり過ぎたし、出て行く自分が遺恨を残すわけにはいかなかった。

 今日は久しぶりに高専に顔を出すので彼女に会うかもしれないと思うとどうしても胸が高鳴る。自分が傷つけてぼろぼろにしたのに、まだ彼女に会いたいと願う気持ちがある。遠くから一目見るだけでいい。どんな顔をしているのか知りたい。私を忘れて笑っていて欲しい。もしも悲しみに暮れているのだとしたら、どんなことでもするから彼女の気持ちを軽くしてやりたい。自分にできることなどその程度で、後は彼女に流れる時間が解決するしかないだろう。そして私はこの想いを胸に抱え一生を過ごすのだ。

 やめておけばいいのにあの日の事を何度も反芻している。彼女に言われた通りアルバムを開くのは辛いかと思ったが、意外にもあの日の写真を見ると安堵した。私の側で泣いたり笑ったり怒ったり拗ねたり感情を表す彼女は確かに存在した。何度も身体を重ねて触れ合い、彼女の隅々まで知り尽くしたあの日は確かにあったのだ。端末の中にだけいる群青色の下着姿の彼女は何か思い悩んだような表情をしてカメラに目線をやっている。だが記憶の中の彼女は笑っていて、明らかに私に好意を向けていた。いや、都合よく記憶が改竄されているかもしれない。愛の言葉を彼女の口から聞きたかったが、結局お互い口に出さず終わったのだからそれまでの二人だったのだろう。

 彼女が泥酔した夜のことを思い出す。私と彼女の席は随分離れていたので店の中では一度も会話をしなかった。端の方でほかの教員や補助監督たちと話す姿を横目で見ると楽しそうに笑っていた。そんなに飲んでいる様子はなかったのに店を出るころには一人では歩けないほど酒に飲まれていた。同期のよしみで彼女の面倒役となっていた伊地知が清算に向かう間、たまたま近くにいた私が彼女を預かることになり彼は店の中へ戻っていった。

 同席していた者のうち女性四人は女子会をすると言って二次会へと消え、その他は知らぬ間にさっさと帰宅していた。面倒な酔っ払いを押し付けられたと途方に暮れていたが、清算を終えた伊地知が店から出てきたので再び彼に彼女を託すことにした。彼は自分が責任をもって連れて帰ると言って彼女を説得したものの、当の本人は首を横に振って私の腕にしがみついて離れず、全く言うことを聞かない。

「さあもう帰ろう。僕が送っていくから。七海さんに迷惑でしょ」

 同期に対して少し砕けた物言いの伊地知が必死に私の腕から彼女を引き剥がそうとしている。彼女はぐにゃぐにゃしながら私にもたれかかり上機嫌でニコニコ笑ったかと思うと、何かもごもご喋った。酔っているので呂律が回っていない上に、声が小さすぎて聞き取りにくい。何度か聞きなおすと、どうやら英語で話しているのだとわかる。

 伊地知は途端に慌てた様子で力任せに彼女を引っ張り、なんとか私から離れさせた。

「ハハ、彼女は一応、英語教師ですから……」

 彼女は伊地知の胸にもたれながら、目を細めて彼の顔をじっと見た。それからツンと顔を逸らして日本語ではない言葉を発する。

「ほらしっかり立って! え? 何? 日本語でしゃべってよ……。七海さん、何て言ってるかわかります?」
「お前は私のタイプじゃないと言ってます」
「もォー! いい加減にしてよホント……毎度毎度……。ハァー、行くよ! 立ってホラ」

 彼女は長文でべらべら話すと伊地知から離れようと彼の胸を押したら自分がバランスを崩して倒れこんだ。咄嗟に腕を掴んで立たせると、私の顔を見て思い出したかのように口説き始めた。最悪の気分だった。不幸中の幸いといえば彼女は流暢な英語で話していたので伊地知にはその内容まで伝わっていなかったということだろう。あまりにもしつこく絡み続けるので伊地知も困っていた。仕方なく彼の代わりに自宅へ送り届ける仕事を買って出ると彼女は途端に上機嫌になり自宅への道のりを説明して私の手を引っ張って急かした。

「彼女、なんて言ってますか。急がせてるのは何となくわかりますが……」
「この通りを真っ直ぐ行って三つ目の信号を曲がった先のアパートが自宅だからそこまで自分を送り届けろと言ってます」
「道は合ってるみたいですね。今日は意外にしっかりしてるのかもしれません。質の悪い酔っ払いの相手をさせてしまって申し訳ないです」
「君のせいではない。送り狼にはなりませんのでご安心を。家に放り込んで帰ります」
「これは同期が心配で言うだけで、七海さんのことを疑うわけでは決して無いのですが、きっと、彼女は、その、あ、いや、やっぱり自分が送ったほうがいい気がする……」

 彼は何かを言い淀んでいたが彼女の身を案じていると言うことはわかった。

「ここから近いんだったらさっさと送って家に押し込んでくるから大丈夫です。力では負ける気がしない」
「そう、ですよね。じゃあ、これ、彼女の自宅の鍵です」

 彼がキーケースから一本の鍵を外して手渡して来た。どこかで見たことがあるようなキャラクターの小さなキーホルダーがついている。

「……なんでそんなものを持ってるんですか」
「七海さんが今からする役目を、何度も担ううちにこうなってしまったんです……」

 伊地知は両手で顔を覆って悲しそうな声を出すと、よろしくお願い致しますと一礼して去っていった。くねくねしながら腕に巻き付いている人物を見ると嬉しそうにニコニコして愛の言葉を吐いた。ネイティブさながらの発音と会話能力に驚愕する。

 それから彼女の指示通りに歩くと、意外にも足取りはしっかりしてきて彼女の言う通り自宅へとたどり着く。ドアに鍵を差し込んで回すが、開かない。何度かドアノブを押したり引いたりしていると中から怖がる女の声が聞こえた。声の主に事情を説明したところ、どうやら彼女は最近引っ越したらしいということがわかった。伊地知から預かったこの鍵は確かに以前はこの家のものだったが、今は鍵交換がなされて別の者が住んでいるので開かないというわけだ。アパートの階段を降りると彼女は不思議そうな顔をした。断りを得て鞄の中を漁ったらキーケースが出てきていくつか鍵がついていたが、どこの物かまではわからない。彼女に尋ねても自宅の場所を教えてくれず途方に暮れた。すると彼女が小さな声で言う。あなたの家に連れて行ってくれと。帰る家が無いのだと。それから続けて、自分には忘れられない人がいる、その人を忘れさせて欲しい、あなたは彼によく似ていると言った。どこが似ているのか尋ねたらクスクスと笑いながら、ブロンドで、背が高くて、クールな所だと言う。そいつの家に行けと返事をしたが、自宅を知らないしきちんとした人なのでこんな姿を見せられない、嫌われてしまうと言って今度は座り込んで泣き始めた。路上でしくしく泣く女と、その隣に立つでかい男。明らかに不審で警察を呼ばれてもおかしくない。もう諦めて連れて帰るしかないと立ち上がらせて大通りまで出ようと決めた。彼女はふらつきながらもご機嫌な足取りだった。道中、聞いてもいないのに延々と忘れられない男の話を聞かされる。その男に随分前から片思いをしているのだと言う。少しぶっきらぼうな所があるが、本当は愛情深い人らしい。昔からいつも助けて貰い頼りにしているそうだ。職場は同じだが違う部署にいて出払っていることが多いので毎日会えるわけでは無く、たまにくれるお土産のお菓子が美味しいのだと言う。かつて同じ学校に通っていてそのころから憧れていたんだとか、一度は離職したがしばらく前に復職しとても嬉しくて毎日楽しいんだとか、そんな話だった。

 それはまるで、私の事じゃないか。

 私の自宅に着いたとき、最初はただゆっくり休ませて朝になったら事情を説明するつもりだった。家に上がると彼女はきょろきょろと辺りを見渡して、再び不思議そうな顔をした。それからジャケットを脱ぐと床に捨てて私の胸元に手を置いたと思えば頬を摺り寄せ甘ったるい声で再び愛の言葉を囁き、いつものように姓ではなく私の名前を呼び捨てた。彼女の態度が素面の時とはかけ離れておりすぐに反応できずにいると、返事が無いことを不審に思ったのか下から私の顔を覗き込み、ふらふらしながら目を細めて私の顔をじっと見つめた。そして、私ではない、数人の知らない男の名を出した。それから大きな口を開けて笑った。誰でもいいから抱いてくれ、私の事を貴方の好きにしていいと、普段の彼女からは想像できないような淫靡な雰囲気を漂わせ誘ったのだ。

 立ち尽くす私に構うことなく彼女は慣れた手つきで服を脱がせるとキスしていいかと聞いた。それは恋人同士でするものだと答えると、拗ねた顔をしたが素直に引き下がった。それからもう一度私の顔を覗き込んで、貴方は彼と同じ名前だが彼の方がもっとハンサムだし絶対にこんなことはしないと笑った。それから何か合点がいったとでもいうような表情をして、画面越しに見るのと実際会うのとは全然違うといってまたケラケラと笑ったのだ。

 そこからだ。私の中で何かが変わってしまったのは。知りたくなかった。彼女が自分の替わりに何人もの男に抱かれ、その場限りの慰み者にされていたことを。

 彼女の言う通り、私が彼女に対して落花狼藉に及ぶ行為をするわけがない。もちろん今日だってそんなつもりは微塵もなかった。それでも腹の底から湧き上がるこのどす黒い感情を抑えきれず、君がそうさせるんだと言って彼女の服を脱がせた。初めて見るその肌は透き通っているかのように青白く、普段の態度と外見からは想像できない娼婦のような派手な下着を身に着けており、今日私が連れて帰らなければさっき聞いた何人かの男のところへ行ったのだろうと思うと血液が沸騰したかのような怒りに襲われた。寂しい女を食いものにする下衆な奴らにも反吐が出るが、それ以上に彼女の軽率な行動にも怒りの矛先が向く。酒も入り、状況も混乱していたので冷静さを欠いていたかもしれない。

 彼女は最中に何度ももっと酷くしてくれと言ったが絶対にしてやらなかった。不満そうな声を出しながらも、彼女にとっては一夜限りの相手である私を受け入れ何度も果てていた。そして最も悪いことに、彼女は起きた時昨夜の一切を覚えておらず、私に弁解の余地を与える間もなく恐怖を浮かべてとっとと逃げ去ろうとした。あんなに優しく抱いてやったのに。他の男の事を忘れてくれと懇願したのに。気を失って倒れた彼女を綺麗に拭いて温めてやったのに。それがどうしても許せなかった。

 これがすべての始まりだ。記憶を失うほど酔った彼女を無理矢理手篭めにして自分の物にしようとした。この先死ぬまで誰にも明かすことは無い。今までもこれからも、彼女の前ではいつもの“七海さん”でいなければ。こんな後ろ暗い想いを胸に秘めている事を知られるわけにはいかない。あんなに酷い事をして傷つけ、最後はみっともなく縋ったが、それでも未だに彼女の理想のままであろうとする。奥の方に仕舞っているはずなのに、ふとした瞬間思い出す。それは苦しくもあり、心地よくもある。最早この感情をどう扱っていいのかわからない。もう一度彼女に会いたいが、どんな顔をして会うべきなのだろう。