十一 提灯百合 ―祈り―

第11話

「おはよう」

 目を開けると朝陽の薄明かりを背にベッドに腰掛けている七海が私を見てほほ笑んだ。手には小さな泡がぽつぽつと湧くグラスを手にしており、ごくりと喉を鳴らして一口飲むと私にもグラスを寄こしたので体を横たえたまま喉を潤す。甘味料の入っていないレモン味のソーダだった。私が中身をすべて飲み干すと七海は空のグラスを受け取りナイトチェストの上に置いた。それから寝ている私の方へ寄ってきて身を屈め、約束通り額や頬に何度も優しいキスをして満足げに鼻から息を漏らす。もうしてもらえないかと思っていたので驚いた。嬉しさのあまり顔がにやけそうになってしまったが、こんな表情を見られてはいけないと思い布団の中に潜り込んでからこっそりと笑った。締まりのない顔をしていないかどうか触って確認してから、何事もなかったかのように頭を出すと七海はこちらに背を向けぼんやりと窓の外を眺めていた。

 すっかり夜が明けていて、昨夜の出来事が嘘のように外は明るく爽やかだ。始発電車は動き出し、人々はいつも通り朝の営みを始め、それぞれの生活を繰り返す。やはりこちらの都合はおかまいなしに、時間は勝手に流れて朝は訪れるのだと実感する。誰が何をしようと時間は巻き戻らない。昨夜何度も身体を重ねたことを思い出す。あれは確かに愛だったと言える。今の私たちはどうなのだろう。そして、これからは。

 唐突に七海は布団の中に入ってきて私を胸に抱き、大きな深呼吸をした後、記憶を辿るようにとつとつと話し始めた。

「あなたが誰かを忘れるために行きずりの男と関係を持っていたのは知っています」
「それは……。誤解です」

 咄嗟に私は腕を振りほどき身体を起こす。七海は消沈した表情でゆっくりと首を横に振り人差し指を立てて私の唇に押し当てた。口を挟むなと言いたいのだろう。私が何も言わないことを確認すると七海はそっと手を離す。観念して静かに彼の独白を聴く事に決めた。

「最初はそれでもいいと思った。自分がその男の一人としてあなたの中に滑り込んで、いつかそのうち自分に振り向くだろうと考えたんです」

 起こした身体のやり場がなくおさまりが悪かった私は、ベッドの端へ行って足を降ろし腰掛けた。私が抜けた後の布団には七海が独り臥せている。

「でも、どうしても首を縦に振ってくれません」

 私の方を向き直るでもなく、誰もいない、何もない空間に向かって話す七海を一瞥すると背中は規則的に動いており、彼が穏やかな呼吸をしているのがわかる。落ち着いた七海とは対照的に、私は心臓がどくどくと激しく鼓動を打ち、息が上がっていくのを実感していた。手にじっとりと汗をかき喉がカラカラに乾く。これ以上聞くのが怖い。七海はベッドから身体をゆっくりと起こして私の隣に腰掛け、さらに続きを話し始めた。

「あなたにだけ湧くこの感情がわからない。愛情か独占欲か、好意か嫉妬か。それとも、もっと別の厄介なものかもしれない」

 七海は感情を押し殺して話し続ける。私に聴かせたいのか、それとも複雑な胸の内を吐き出すことで楽になりたいのか。あれだけどんな顔で私に語り掛けるか知りたかったくせに今は彼の顔を見ることが出来ない。

「どんな姿でも受け入れられると思っていたのに、いざあなたを目の前にするとどうしようもない感情が湧き上がってくる。傷ついて泣いているのを知っていたのに慰めることさえしなかった。自分の欲望のためだけにあなたを使ったんですよ」

 苦しそうに心情を吐露する姿に胸が締め付けられる。彼の気持ちに近づきたいとずっと思っていたのに、いざその時が来ると怖くて震えることしかできない。一歩も前へ踏み出せず、このままの関係をずるずる続けてきた。今日だって何かを変えたいと願う七海を突き放し、終わらせようとしている。結局私は、自分だけが可愛いのだ。

 七海は硬直する私の身体を優しくさすると、諦めたように微笑む。それから私の肩を抱き寄せこう言った。

「私の家に来た日のことを知りたいですか」

 聞かないと前へ進めないのに、自分が七海をどうやって傷つけたのか知りたくない。知らないと前へ進めないと思っていたはずなのに、自分の醜さを認めることができない。

「私、七海さんに、何か酷い事をして、それで……。ごめんなさい」
「酷い事をしたのは私です。あなたはとんでもなく酔っていて、私を誰かと勘違いして身体を差し出した。それを利用したんです。だからあなたは何一つ悪くない。ずっと狡い事をしてきたのは私です。もう苦しまないで」

 七海の口ぶりから何かを隠しているのはわかったが、それが何かは聞けなかった。いや、聞かなかった。だって私の方が狡いから。このまま彼に罪を被せて自分だけが助かろうとしている。

 七海は視線を左へ向けると、ふっと息を漏らして笑った。思い出し笑いのようだ。

「喋るのも、聞くのも、とても上手でしたよ」
「えっ。どういう事ですか」
「英語の話です。学生の頃は全然だったのに、随分勉強したんだと感心しました。でも、あの時の声はやっぱり母国語が出るんだと、可笑しかった」
「ちょっと待ってください、意味がわからないです」
「わからなくていいです。とにかく……」

 七海は適当にはぐらかし、私を抱く腕の力を強めた。力加減を知らないのかわざとなのか、こうやって私を強く抱きすくめては何かを終わらせようとする。これ以上追及するなと言われているのがわかったがそれに従う必要は無いのに、私はまた自分のために黙った。

「他の男はあなたに酷い事をしてたんですね」
「……もう全部どうでもいいって思ってたんです。誰にも好かれたくなかったし、好きにもなりたくなかった」
「あなたに間違った事を教えた奴をぶん殴ってやりたい」
「違うんです。私がそうしてって言ったんです」
「馬鹿な事を言わないでください。そんな奴らに縋るくらいなら私がいるのに」
「そんな……! でも、ずっと……、ずっと、七海さんいなかったじゃないですか!」

 ああ、何て酷い事を口にするんだ。それだけは言ってはいけないのに、後悔したがもう遅い。私を抱く腕の力が抜け、身体から離れていく。やはり彼の顔を見ることが出来ない。でも言ってしまってから、今までの自分の行動や言動が保身のための真っ赤な嘘だったんだとわかる。私は七海を傷つけたい。彼の中に私の存在を刻み付けて、忘れられたくない。爪痕を残し、それを抱えて生きていけと言ってやりたい。彼が私にそうしたように、お前も残された者の苦しみを味わえばいいと腹の底では思っていたんだということに気付く。だから追われては逃げて、求められたら嫌がって、困惑する七海を見て悦んでいたのだ。私に向けられた背中のパジャマの下にはいくつかの古傷があるのを知っている。それに重なるように私が昨夜の情事の際に付けたひっかき傷も浮き上がっているだろう。あの程度では残らない。身体につけた傷はすぐに消えてしまう。でも、彼の中身につけた傷はいつまでも残るはずだ。良かった。もし彼がまたあの日みたいにどこかへ行ってしまっても、きっと何度も私の事を思い出して貰える。肩にあった七海の温もりが消えた。思惑通り傷つけることが出来たのだろう。彼はしばらく黙り込んだ後、小さな声で呟いた。

「……その通りです。すべては自分が蒔いた種。あなたの事を大切にしたいと思っているのに、また傷つけてしまった」
「戻ってきてくれて、また会えて嬉しいっていうのは、本当にそうなんです。でも……」
「ありがとう。私もあなたと再会できて本当に嬉しかった。浮かれていました。可愛い後輩にまた会えて、学生の頃に感じていた想いがなんだったのか今になって気が付いた」

 私の暗い感情とは裏腹に、七海は穏やかな表情でこちらを見つめている。

「七海さんの事を利用して傷つけたのは私の方です。私を置いて逃げた七海さんにすごく腹が立ちました。私の事嫌いになってください」
「嫌いになれるわけがない。お互い臆病で意気地無しだったということです」
「七海さんの優しさを自分に都合よく利用しました。ごめんなさい。許さないで」
「言ったでしょう、あなたのすべてを許してしまう。私はあなたにどうやったって勝てないんですから」
「嫌だ。もっと責めてください。そうじゃないと私、全部七海さんのせいにしてしまう」
「全部私のせいなんだから当然です。着替えて出ましょう。チェックアウトの時間だ」

 七海はやはり優しい。学生の頃と何一つ変わらない。一度は離れたがこうして戻り皆から愛され、求められ、頼りにされている。そんな七海と立場は違えど同じ世界で再び生きていけることが嬉しいという気持ちは本物だ。でも、それで満足していれば良かったのに、欲張って自分だけのものにしたがった。身体の繋がりで引き留め、近づく気配に気づくと突き放して遠ざけ、困惑する七海を弄び、苦しませたのだ。だから責められるべきは私なのに、最後まで七海は自分のせいだと言う。そして私は、それを自分に都合がいいので受け入れる。どんな手段でもいいから、七海の中に少しでも色濃く残りたい。今際の際に思い出す人の一人にして欲しい。

「七海さんの事は一度だって忘れたことないです。これから先も、何があっても、ずっと忘れられない人ですから」
「それは嬉しい。最後にもう一度だけ、キスさせてください」
「お願いします。七海さん、ありがとうございます」

 七海は身体ごと私の方へ向けた。大きな手が私の頭を撫で、その手は頬へと伸び、確かめるように唇を親指でなぞる。それから顎を掬われ唇同士が触れると、すぐに離れていってしまった。最後のキスはあっけなく終わり、私たちはこれ以上言葉を交わすことなく帰り支度を始める。これで本当に終わってしまうんだと思うとやはり少し寂しさを感じた。自分勝手甚だしい。私はどこまでも卑しく強欲だ。七海が立ち上がり、身支度を整えるためバスルームへと向かうその背中にはどことなく哀愁が漂っていた。大柄な男だがいつもより覇気がなく小さく見える。

 愛しいな。二人の意思で手放したんだから、これから先二度と触れることは無いけれど。

 じっと見つめていたら七海は振り返り「あなたも早く支度を」と私を急かした。適当に返事をして、クローゼットを開けてハンガーにかけられた衣類に着替え始める。シャワーはしない。身体に残る七海の名残を持って帰りたい。彼が指を這わせたところを全部覚えている。彼の吐息や言葉は海馬を通って大脳皮質に書き残した。これから先、誰にも上書きされることはない。私の最初で最後の人。

 七海がシャワーを浴びている隙に洗面台で自分の顔を確認すると、なんとも形容しがたい複雑な表情をしていた。自分に酔っている今、この表情を一言で言うと“かわいそう”がぴったりだ。そのうえ化粧品を持ってきていないので直視できないほどみすぼらしい。ホテル仕様の高級アメニティを使っても上から塗らなければこの程度だ。これ以上自分の惨めな顔を見ていたくないので身支度を済ませてソファで待つ。しばらくするとネクタイを締めながら洗面所から七海が出てきた。そして私の方を見るなり噴き出して笑う。

「なぜあなたが拗ねてるんですか。唇尖らせて。子どもみたいに」
「違います。感傷に浸ってたんです。私って最低。ほっといて。もう関係ないでしょ」

 何が可笑しいのか理解できない。私は椅子から立ち上がろうとしたが七海は前に立って制した。仕方なく腰を下ろして足を組む。肘をついて顔を背けるとわざわざ目の前に回って私の顔を覗き込みまだ笑っている。

「そんなこと言っても、可愛いだけなのに」
「もうそういうのはいいんですってば。七海さんは笑ってる場合じゃないんですよ」
「さっきはかなり手酷くやられましたが、それでもあなたのことを憎めない」
「……もっと酷い事言いますよ」
「いいですよ。そのかわり、最後にもう一回だけ」
「信じられない! 着替えたのに。今のそういう流れじゃないです。時計見てください」
「まだ時間までもう少しある。大丈夫です」

 七海は腰を折って私の頬を撫でた。温かい。それから石鹸の匂いがする。

「……間に合わなくなるかも」
「すぐに終わりますから。お願いします。いいでしょう」
「七海さんって、ちょっとおかしいんじゃないですか」
「あなたもしたい癖に。顔にはそう書いてある。素直じゃない」
「それはお互い様なんでしょ」

 七海は不貞腐れる私を見て終始機嫌よく笑いながら話した。ソファのひじ掛けに腰を下ろし私の髪を撫でた。すぐ側に少し膨らみが目立つ部分があり、スラックスの上から手を這わせると思った通りにそこはゆるく勃ち上がっていた。形を確かめるように撫でまわしながら頬を寄せると、七海が私の頭を押さえてぐりぐりと股ぐらに擦りつけた。少しずつ硬さが増していく。そのまま深く息を吸い込むと、清潔感のあるボディソープの香りに隠れて私の情欲を掻き立てる雄の匂いがした。その匂いを脳に覚え込ませようと息を大きく吸っては吐いてを繰り返していると、せわしない手つきでベルトを外す音が聞こえ官能的だった。スラックスが落ち、下着が見えたら既に七海のそこは勃起していた。七海は私の頭を優しく撫でながら、開き直ったかのように乞う。

「今回はあなたにしてもらうつもりはなかったのですが、もう最後ですし、いいですか」
「舐めたい。七海さんのここ、すっごくエッチな匂いがする……」
「あなたといると、すぐにこうなってしまう」
「私のせいですね」
「違う。私が我慢できない男なんですよ」

 私は七海をソファに誘導して下着を下ろし座らせると、大腿の付け根に両手を添えた。その中心部にある起立したものにそっと舌を這わせ裏筋を唇で挟んで上下し、次に舌でなぞる。ぴくりと内腿が震え反応を示した。七海は私の後頭部へ手を置いて頭を撫でながら静かに息をしている。この落ち着いた呼吸を乱し、その表情を歪ませたい。淫らな欲望で頭をいっぱいにして、ケダモノのように襲い掛かって欲しい。私の喉元に噛みついて、息の根を止めてよ。七海は知らない。私が恐ろしく肥大し歪んだ情念を宿していることを。なんとしてでも記憶に残って、七海の傷になりたいのだ。

 片手で陰嚢をゆるゆると揉みしだき、もう片方の手は弾力に富んだ亀頭のくびれに沿わせて指の腹で擦った。硬さは増していき、尿道口から透明の液体がじわじわと染み出してくる。舌先を尖らせて先走りを舐めとり、竿を握って上下させながら亀頭を刺激すると七海は吐息を漏らし顔を顰めた。そのまま口を開けて自らの唾液を垂らし、陰茎を擦り上げながら先端を口に含んで舌で転がすように舐める。そうすると頭の上から声を殺したくぐもった音が聞こえ、七海は少し腰を突き出した。口の中をこじ開けるように硬く勃起した陰茎が押し入ってきたので、歯を当てないように注意し、舌で裏筋を刺激しながら喉を開けて飲み込むように迎え入れる。しばらく顔を上下に動かしながら口淫を続けると、口の中で陰茎がびくびくと跳ねた。どうやら射精感に襲われているらしい。七海はハァハァと息を荒げ腰を震わせていたのでそのまま口の中に出してしまうのかと思ったのに、いよいよというところで私の頭と額を押えて動きを制止した。のぼせたように顔を赤く染め肩で息をしている。顔を見られたくないのか大きな手を自身の口元にあて窓の方を向いていた。

「うッ……! もういいです、口を離して。異様に上手いから腹が立つ」
「ンん、ハァ……気持ちよくなって欲しいから頑張ったのに」

 口を離すと口角から唾液と先走りが混じった液体が流れ落ちる。それを袖で拭うところを七海は横目で見ていた。そのまま更に責めようとソファに座る七海に跨ってシャツの下の胸の突起に指を当てると、小さな声で唸って私の手首を掴み動きを止められてしまった。不満げな表情を作って七海に視線をやると、そのまま抱きしめられた。七海の手はするすると背中を滑り臀部を撫で、下着をずらしてじっとりとぬめりを帯びた陰部を探り当てる。

「しゃぶっただけで濡れるんですね。どういうことですか」
「……七海さんにだったら、何されてもこうなっちゃうんです」
「またそんなことを言って。私をどうしたいんでしょう」
「ねえ。もう、早く欲しい」

 ずらされた下着の横からなんとか挿入しようと腰を動かしていると、七海が腰を掴んで動きを制する。

「ストップ。最後はあなたの中に出したい」
「してくれるんだ。嬉しい」
「でも傷つけたくないから、これを」

 そういうと七海はソファにかけられたジャケットの内ポケットから正方形の薄っぺらな包みを取り出した。

「……今更です。というか、持ってたんですね」
「当然です。昨日はちょっと興奮しすぎて我を忘れていたので使いませんでしたが。それに、これがあれば中で出しても大丈夫なので」
「その理屈がよくわからないです」
「つまらないことなので、わからなくていい」

 七海は私の下半身だけを脱がせてベッドへ横にすると、透明な避妊具をくるくると器用にとりつけた。そうすることでこれから行われる行為はやはり子を成すためのものではない、ただの遊びなんだということを改めて思い知らされる。こんなことをしなくても私たちは近づけたかもしれない。こんなことをしてしまったからその溝は埋まらなかったのだ。

 七海の身体が近づいてきて仰向けの私の足を開き、陰部を暴く。そして陰茎を手で支えゆっくりと差し込んだ。狭い穴の中をぐいぐいと進んで根元までぴたりとはまる。また訪れたその快感に打ち震えていると、私を見下ろす七海が小さくと息を吐いた。その顔はもっと欲望にまみれた獣のような表情かと思ったのに、意外にも穏やかな色を浮かべていた。身体をゆっくりと私に近づけ覆いかぶさりはしたが押し潰さないように肘をついて、じっと私の顔を覗き込む。

「もっと酷い事を言うんじゃなかったんですか」
「七海さんの馬鹿」
「その程度じゃ効きませんね」
「七海さんなんて嫌い」
「本当は?」
「七海さんって、女心を全然わかってない」
「わかりたいのに教えてもらえないんですが。教えてください。その、女心とやらを」
「七海さん……。行かないで」

 七海は一瞬怯んだように顔を歪めた。でもすぐに弱々しく笑って私の頬に唇を寄せる。

「……それは、結構堪えます。でも約束を破るわけにはいきませんから」

 掴んだ青いシャツに皺が寄っている。七海はこのまま仕事へ行くつもりだろうか。どんな顔をして誰と会い、何の仕事をするというのか。私はとてもじゃないが何も手につかない。今日が休みでよかった。誰にも会いたくないし起きているのさえ苦痛だ。何も考えずに眠りたい。彼はどう思っているのだろう。

 七海は先ほどと何ら変わらない落ち着いた表情でゆっくりと腰を動かしながら中の感触を確かめるように膣壁をなぞり、決定的な刺激は避けているようだ。

「ん、ちゃんとしてくれないから、全然気持ちよくない。上と下替わってください」
「嫌です。名残惜しくて、離れたくない」
「すぐ終わるんじゃなかったんですか。仕事に行かないと」
「じゃあ終わった後でまた……」
「まだ言ってる。ただの先輩と後輩はこんなことしません。もう終わらなきゃ、私たち」
「……ハァ、やっぱり、止めておけばよかったかもしれない」
「自分から言い出したくせに、勝手なこと言わないでください」

 七海はゆっくりとした律動を徐々に早め、奥底を嬲りながら私の様子を伺った。刺激に反応して声を出す私を見て満足げに微笑んでいる。突然ぐっと強く差し込まれたとき、目の前が真っ白になって早々に果ててしまった。私が気をやってびくびくと身体を震わせていると、脇腹や胸、頬を七海の指が滑り愛おしそうに撫でた。それがくすぐったくて身を捩ると、ふふふ、と唇から吐息を漏らして小さな声で笑った。

「気持ちよさそうにして、可愛い」
「あっ、んっ……ん……きもちい、です、笑わ、ない、で」
「あなたがあんまり可愛いから」
「……もう、やめて。ほんとに、やめてください」
「耳まで真っ赤になって、可愛い」
「もうむり、うっ、あっ、言わないで……」
「そろそろ、限界なんですが」
「ど、どうぞ、いいです、から」

 私の返事を聞いたら七海はすぐに律動を更に速め、射精のために強く規則的に腰を打ち付け始めた。肛門に陰嚢を叩きつけられ腹の奥の方がびりびりと痺れた。唇が塞がれ舌が捻じ込まれる。苦しくて涙が流れた。だって息がうまくできない。懸命に鼻で呼吸しながら時折開かれる唇の隙間から酸素を必死で取り込んだ。どんどん動きを速め、キスをしたまま苦しそうに喘ぐ声が聞こえる。その激しい律動に耐えかねて果ててしまうと、七海の動きが更に激しさを増して奥を抉るように突き上げ始めた。もう限界が近いのだろう。七海の乱暴な動きを感じていると「ぐッ」と低い声で小さく唸ったと思ったら最奥へと突っ込み、びくびくと腰を震わせた。

 ああ、今、薄皮一枚を隔てて七海が私の奥へ押し付けながら吐精している。じわじわと腹が温もってゆき、形容しがたい満足感が押し寄せる。私は七海に唇を食われながらこの快感を受け取った。

 やがて七海の身体は離れていった。七海は口をポカンとだらしなく開けて肩を上下させながら私を見下ろしている。ずるりと陰茎が引き抜かれると、私の中を満たしていたものがなくなって空っぽになる。先端の精液溜まりにはたっぷりと白濁した体液があった。涎でびしょびしょになった私を見かねたのか、七海はシャツの袖で私の口元を拭った。青いシャツが濡れて色が濃くなる様をぼんやりと見つめる。七海は何も言わず私の身体を起こし衣類を整えソファに座らせるとこちらに背を向けてスキンを外し、ティッシュにくるんでゴミ箱へと投げ捨てた。それから下に落ちた下着とスラックスを穿くと適当に髪を整え私の方へ顔だけ向けて「送ります」と言ったきり、車に着くまで何も言わなかった。

 これで終わったんだ、私たちは。

 帰りの車内、五拍子のジャズはかかっていなかった。彼は助手席の扉を開けるときに「どうぞ」と言った。それ以降は帰りの車内でも黙り込んでいたので、私も口を閉じていた。ここで言葉を発したら、きっともう元の関係には戻れない、そんな気がしたからだ。エンジンの作動音とナビの案内音声が響き、やがて七海の車は私の住むアパートへと到着する。路肩に停車させればいいのに、七海はわざわざ少し離れたコインパーキングに停めた。

 車を降りて頭を下げると、七海は自宅の前まで送らせてくれと言う。断る理由は無い。彼に似つかわしくない古びたアパートの鉄骨階段を上る音が響く。

 いよいよドアの前まで来たら、どうしてもこみ上げるものがあったがここで涙を流すわけにはいかない。許されるのならば今ここで大声を出して泣き喚きたい気分だったが、ドアの鍵を開けながら横目で彼を見る。その感情はいまいち読めない。鍵が開いてドアノブに手をかけると後ろに立つ七海が弱々しく言葉を発した。

「戻れるでしょうか、私たちは」
「大丈夫ですよ。それにもともと、そんなに顔を合わせる機会なんて無かったし」
「一度掴んだ幸福を手放して、これから先、何もなかったように誤魔化して生きていくことができない」
「だからやめましょうって言ったのに」
「やめてとは言ってたがやめようとは言ってなかった。このままあなたを離したくない」
「もう遅いんです。私たちって、なんでこんなに絡まっちゃったんでしょう」
「もう会えませんか。また会いたい。食事に誘ってもいいですか。行かないでください」
「いえ。もう行きます。また職場で会いましょう。さようなら、七海先輩」

 ドアを閉めると急いで靴を脱いで走ってベッドへ飛び込んだ。七海の靴の音が離れていくのを聞きたくなかったのでテレビをつけて布団を被る。音量を上げて古いオーディオの電源も入れると、たまたま流れたラジオ番組からアイドル歌手が歌う古い失恋ソングが流れていた。使い古された歌詞。どこかで聞いたことのあるメロディ。こんな間に合わせのような歌でさえ私の心を打つ。いや違う。これは失恋ではない。何も始まっていなかったのに、何かを始めることもできたのに、それをつかみ取らず二人で見送った。彼の言う通り、偽物だとしても一度手に入れた幸せを手放すことがこんなに苦しいとは。

 でもこのまま耐えなければ。
 心が凍り付いても喚いても、時間をやり過ごして記憶が薄れるのを待つしかないのだから。