七海さんちの入園式

第8話

 都内はどこでも保育園激戦区でゼロ歳児の途中入園はできなかった。共働き加点はフルタイム勤務のため満点だが第一子のため兄弟加点がなく、このままの点数で戦うには少々分が悪い。神に祈るような気持ちで区役所に書類を提出し返信を待つ。

 数週間後、ポストに一通の手紙。区役所から来た入園合否の通知だった。ドキドキしながら少し厚みのある封筒を受け取り開封すると、中には一歳児四月入園の案内が入っていた。ほっとして全身の力が抜ける。それと同時に少しの寂しさも感じた。赤ちゃんが産まれてからの日々を思い出す。

 眠れない日々、話し相手も無く、好きな時に外出できない不自由。おっぱいを飲む口、初めてつかまり立ちした日、草花を摘んで散歩した公園。

 七海と共に悩み、喧嘩をしながらも今日までやってきた。二人は我が子をみてなんとも言えない気持ちになった。七海は妻にそっくりだと思っているが、妻は七海によく似ていると思っていた。寂しいような、嬉しいような、それでいて解放感もあり言葉では言い表すことができない。とにかく入園が決まったのでやることは山ほどある。必要なものの買い出しにいかなくてはならない。すべての持ち物に名前をつけること、制服の採寸、説明会、入園前健診。ネットショップでお名前スタンプを探しながらこれから始める新生活に期待をよせた。

 ついにやってきた入園式。妻は朝五時半に起床し気合いを入れる。雑多な家事を済ませてゴミをまとめ、朝食を用意し終えたら二人を起こそうと決めた。子どもというのは寝かせた場所とは程遠いところで目覚めるのだが、今日は七海の腕にすっぽりとおさまっていた。七海が抱き寄せたのか、子が七海に寄っていったのかはわからない。そのほほえましい光景をひとしきり撮影した後、二人を優しく揺さぶって起こす。子は眠い目をこすりながら父の親指を握り何かむにゃむにゃとつぶやいたあと、母を見つけて笑顔になった。二人はのそのそと起き出して、支度をはじめた。

「遅れますよ」
「ちょっと待って。久しぶりにメイクするからわけわかんなくなってきた」

 ドレッサーの前で難しい顔をしている妻に七海が話しかける。普段どこにいくわけでもなくスッピン、ルームウェアで過ごしているので、久しぶりの正装に時間がかかっていた。アイブロウは何を使っていたのだろう。ペン、パウダー、マスカラと三種類もある。きれいにメイクをして、スカートとヒールでデートしていた日々は遠い昔のようだ。七海はというとすっかり自分の支度は終え、余裕の表情だった。ネイビーのスーツにワインレッドのネクタイがよく似合っている。その腕には子が抱かれ、きょとんとした表情を浮かべ鏡の前でうなる母を見つめていた。

「スタイつけといた方がいいよ」
「歩いて五分もないから大丈夫です」
「スーツにヨダレ」
「ああっ! こら、ハンカチを離して。めっ」

 いつのまにかポケットチーフを引っぱり出して口に入れていた。子どもは七海に怒られているらしいが、ニコニコと父の顔を見つめ笑顔を振りまいている。

 その笑顔の愛くるしいこと!

 七海はこれ以上怒る気になれず、握られたポケットチーフをされるがままにしておくことにした。

 三人は準備を終え、いよいよ新しい生活の第一歩を踏み出す。

「お靴をはきますよ」

 七海はヨチヨチ歩きで頼りない足取りの我が子に小さなファーストシューズを履かせた。いつも全然歩きたがらず、抱っこをせがまれる。妻曰く、それは七海と一緒の時だけらしい。妻と二人の時は自分で歩きたがって抱っこを嫌がり大変だそうだ。こんなに小さくても意志表示をしていることを知り、その成長が誇らしかった。三人揃って出かけるのは久しぶりだが、今日は歩いてくれるだろうか。

「さあ、新しいお友達に会いに行きましょう」

 七海が玄関を開けると立ち上がりはしたが、父の顔をじっと見つめて両腕を上にあげバンザイの姿勢をとる。

「あっと!」

 どうやら今日も全く歩くつもりはないらしい。抱っこのポーズを取りながら舌足らずな言葉で七海に抱っこをお願いした。さも当然であるというような顔つきで一生懸命腕をあげて、まだかまだかと待っている。小さな子の視線に合わせるため七海は姿勢を低くした。

「お父さんにも歩くところを見せてください」

 あまりの可愛らしさについ抱き上げてしまいそうになるのをぐっと堪えた。七海は我が子が歩いているところを家の中でしか見たことがない。なんとか歩かせようと促すが、頑として歩くつもりは無いようだ。両腕をあげたまま「あっと」を繰り返し、ついには口はへの字になり目に涙が浮かんだ。

「お父さんの抱っこが好きなんだよ」
「まったく、あまえんぼさんですね」

 妻にもうまくのせられ、にこにこしながら七海は我が子を抱きあげた。その瞬間、待ってましたと言わんばかりの満面の笑みで父を見て声を上げて笑ったので、七海は心がぽかぽかと暖かくなった。つきたてのお餅のように柔らかいほっぺたに頬擦りをして抱きしめる。子は嬉しそうに七海のネクタイを引っぱり出して遊んだ。

「この子はなんて可愛いんでしょうか」
「こんな“七海さん”見たらみんなびっくりするね」

 くすくす笑いをする妻も愛おしく、七海は幸せを噛みしめた。三人でのんびり歩いて入園式へと向かう。お腹が目立ちはじめた妻の身体を気遣いながら。

 門の前にある入園式の案内図の前で記念撮影を終えると、七海はすでに涙ぐんでいた。子はというとそんなことは関係ないとでもいった様子で、これ以上ネクタイで遊ばないように与えられたシャカシャカタオルを必死に捏ね回している。我関せずな子と涙を堪える七海の様子をみて妻は声を出して笑った。

「子どもが産まれてから涙腺おかしくなってるね」
「……君はどうなんです」

 目尻の涙を拭いながらむくれた七海が言う。口を尖らせ歯を食いしばって堪えているようだ。

「建人がいつも泣くから、私は泣くに泣けないよ」

 明るく笑う妻になんだか敵わないような気がして、七海は目を逸らした。その視線の先に園長がいたので慌てて会釈をしたところ「あらあら」と言いながら口元を押さえて微笑むので、更に恥ずかしさでいたたまれない気持ちになった。

 保護者が全員着席するとピアノ演奏がはじまり、優しそうな保育士に手を引かれながら事情がわからない様子

でキョロキョロする我が子と数人の一歳児が入場した。泣いている子、笑っている子、座り込んで動かない子もいる。

妻はカメラを構えてファインダー越しの我が子を見てた。ふと隣の七海を見ると静かに涙を一筋流している。そんな夫と我が子を交互に見て、とても心地よいあたたかな気持ちを噛みしめながら妻もひっそりと涙した。