十八時。夕食を用意しなければならない。朝食の食器も片付けていないし、洗濯物も取り込んでいない。喉が乾いた。腕が痛い。何をしても泣き止まない我が子を抱え、七海の妻は途方に暮れていた。
『食事は外でしてきます』
最近黄昏泣きがひどく、ようやく眠った我が子をやっとの思いで布団に寝かせた時に七海からのメッセージが入った。通知音を切るのを忘れていた。こんな小さな物音でも起きてしまうことがあるのに、不注意だった。横目で子を見ると起きることなくすやすや寝息を立てていたので胸をなでおろす。七海はというと、今日も食事はいらないらしい。
(そう。じゃあ必死で作ったこの野菜炒めは捨てよう)
どうにも心が苦しくて、ポロポロと涙がこぼれる。何も材料は無かったが大泣きしている子を連れて買い物には行けず、冷凍庫の片隅で霜だらけになっていたベーコンを入れた焦げかけの野菜炒め。こんなものはどう考えても美味しくない。誰にも食べて欲しくなくて、ラップをかけた皿ごとゴミ箱に捨てた。この皿はペアだったけれど、これからは一人分あれば充分だろう。授乳のために何か食べなくてはいけないとわかっているのに全く食事を取る気になれなかった。なんとか水を飲み、寝室へと向かう。扉を開けるわずかな物音でさえモロー反射をする我が子の隣で、七海の妻はその小さな身体を見つめながらぼんやりしていた。
――眠らなくては。夜がまた来る。
最近の七海は家に帰るのが億劫だった。疲れきった妻を助けてやりたいのに何をやっても叱責される。おむつのギャザーを立てろだとか、決まったバスタオルを使えだとか、洗濯物を分けろだとか、とにかく細かい独自のルールが山ほどあって、何か間違いがあれば途端に目くじらを立てるからだ。いちいち覚えていられないし、少しでも力になりたいと思っているのに些細なことでも咎められ気分が悪い。いつもイライラしていて、子どもが泣いていれば一緒になって泣いていることもある。あまりにも追い詰められた様子だったので気持ちを切り替えてほしくて「赤ちゃんは泣くのが仕事だ」と言ったら激昂し、じゃあ泣き止ませてみろと七海に子どもを抱かせ目を吊り上げていた。しばらく泣き止ませられなかったら「それみたことか」と鬼の首を取ったように騒ぎ立てられたこともある。あんなに激怒する妻を見たのは初めてだ。そんなやりとりがすでに数か月続いている。もう限界だった。
「家に帰らなくていいのか。愛する妻と子どもが待ってるんだろ」
なみなみと入った升酒を啜りながら家入が言った。七海は一瞬何か言いたそうにしたが、うつむいて黙り込んだ。確かに愛している、妻も子どもも。でも上手くいっていない。ボタンの掛け違えなのか、向いている方向が違うのか。七海なりに解決策も色々考えて試してみたものの、もはや万策尽きたといえる。
「なんだ、喧嘩でもしてるのか」
「……いえ」
奥歯にものがはさまった物言いの七海に家入は首を傾げた。喧嘩というよりも一方的に責められているといったほうが正しい。何もしてくれない、助けにもならないと非難され、七海は父として夫として不合格だと言われているようなものだった。
「産後の女は大変なんだ」
「そんなことわかってます」
何があったのか話す気が無さそうな七海に家入は愛想を尽かしたのか、それきり話しかけることは無かった。升酒をちびちびと飲みながら七海をじっと見つめるだけだ。七海はその視線にさえ責め立てられているような気分になり、ぬるくなったビールを一気に飲み干し、枝豆を摘んでモタモタと咀嚼した。少し場の空気が重くなってしまったのを感じ、自分のせいだと七海は居心地が悪くなった。ひとりで呑みなおすため抜けようと時計を確認する。時刻は二十二時をとうに過ぎていた。歯切れの悪い七海の姿を見て家入は「ふーん」と何かがわかったかのような態度を取り、スマートフォンを取り出すと誰かにメッセージを送っている。七海はこれ以上ここに長居したくなかったので一万円札を二枚置いて席を立つ。すると家入に電話がかかってきたようで、随分親し気に誰かと話し始めた。
「よし、まだ起きてるな。今から迎えに行く。荷物をまとめておけよ」
淡々と言うとすぐに電話を切ってしまった。まさか、と七海は思った。
「よし、今日は解散」
「どういうことですか」
「今から七海の奥さんをさらいに行くんだよ。しばらく家出させるからお互い頭を冷やしたらどうだ」
「勝手なことをしないでください。夫婦の問題です」
「あいつは乗り気だったぞ」
得意そうに微笑む家入に何も言い返せない。もうこうするしか無いのかもしれないとさえ思ってしまう。情けなかったが、もはや夫婦二人だけでは解決できそうになかった。顔色ひとつ変えない家入は颯爽と立ち上がって一人で会計を済ませ、七海を置いてさっさと去っていった。七海はその姿を呆然と見つめながら、罪悪感と開放感がない交ぜになった複雑な気持ちでいた。それでも真っ先に頭に浮かんだ言葉は、これでやっと安心して眠れる、だった。妻もきっとそうだろうと思うことで、七海は後ろめたさに蓋をした。
「硝子さん、ありがとうございます」
「家で待ってろと言ったのに。だいぶ煮詰まってるみたいだな。お前も七海も」
大きな荷物と眠る赤子を抱いた七海の妻がマンションの入口で待っていた。タクシーに荷物を詰め込み家入の自宅へと向かう。
「なんだかワクワクします」
目の下に濃い隈を浮かべているが、楽しそうに笑ってはしゃいでいた。子どもはよく寝ている。全く泣き止まないと聞いていたが、今日はご機嫌なのだろう。
荷物を運び入れ空いた部屋に布団を敷いて、二人におやすみを言うと家入は静かに退出した。誰かに完璧に守られているという安心感からなのか、七海の妻はすぐに眠ってしまった。子どもは珍しく朝まで起きることはなかった。五時間以上連続で眠ったのは妊娠後期も含めて実に半年ぶりだった。
それから三日間、高専の誰かが代わる代わる家入の自宅を訪れて七海の妻の話し相手をしたり、赤ちゃんを抱いたり、食事を用意してやったりと世話をした。子どもは寝ても覚めてもご機嫌に過ごし、七海の妻もゆっくり休むことが出来た。
それから一日、また一日と経つ。その居心地のよさにもっと甘えてしまいたくなるが、休息をとり頭がしっかりしてくると、なんてことをしてしまったのかと後悔し始める。そろそろ帰らなければならない。七海は一人の家でどうしているだろう。連絡は無かったし、しなかった。意地を張っているのではない。家入の言う通り、お互い冷静になるには一度完全に離れた方がいいと思ったからだった。
「彼はどうしてますか」
「いつもより少し覇気はないが、概ね普段通りだ」
少しシュンとした七海を思い浮かべて七海の妻は少し笑ってしまった。きっと七海も悩んでいる。彼に何をしてやればいいのか、自分が何をしてもらえばいいのか未だによくわからない。これから二人で手を取り合って生きていくべきだが、どうやって手を繋いでいたのかさえ忘れている。どこかで歩み寄らなければ二人はこのままだが、二人とも一歩を踏み出せないでいた。停滞した流れを変えるための打開策のはずの家出なのに、その進路も雲行きが怪しくなってきた。どこにいても、何をしていても迷いはある。結局は当事者たちが何かを変えようと踏み出さなければならないのだ。
「あの、少し建人と話したいんです」
「じゃあこの子は私が独り占めしておこう。うちに呼んでもいいぞ」
家入は子を抱いたまま優しく左右に揺れている。母でもなく父でもないその腕の中で、すやすやと安心しきって眠る我が子を見て、七海の妻は心の底から安らぎを感じていた。
ドアチャイムが鳴り家入がドアスコープを覗くと七海が何かを抱えて立っていた。自宅に招き入れると、少しバツが悪そうに視線を泳がせ何やら挨拶している。迷惑だとか、心配だとか、家入にとってそんなことはどうでもよかった。かわいい二人の後輩たちの行く末を見守る決意をして七海を招き入れる。少し躊躇していたが意を決したように歩み出し、七海は玄関で靴を脱いだ。きちんと揃えてお土産を渡し、リビングへゆっくりと入っていった。そこには子どものおむつを替えている最中の妻がいた。
「……お久しぶりです。元気そうでよかった」
「元気だよ。建人はちゃんと、食べてなさそう」
妻は七海をちらりと横目で見て、すぐに子どもに視線を落とす。ニコニコと優しそうに子どもに微笑みかけ、テープを止めると鼻歌を歌いながら洋服を着せていた。自宅で見た途方に暮れながら窓の外をぼんやりと眺める幽霊のような姿とは程遠く、七海は安堵すると共に胸が痛んだ。自分ではこのような幸せを与えてやれなかった事実を改めて突きつけられる。二人の中で少しずつ生じたズレは、今や越えがたい大きな亀裂となってしまっていた。関係を修復したいと望んでいるはずだったのに、幸せそうな妻の姿を見ると絶望感にさいなまれる。妻は一週間ほど見ない間にずいぶん顔色がよくなり少しふっくらとしていた。七海は妻の指摘通り、生活の全てを疎かにしていたので少しやつれていた。
「さあ、君はこっちへおいで。いい子だな」
家入は七海の妻から子どもを引き受ける。誰に抱かれてもにこにこと愛想を振りまいて穏やかな可愛い子。研修医の頃に分娩に立ち会ったことはあったが、子どもを抱くのはこの子が初めてだった。小さな命を抱きながら二人を少し離れたところで見ていた。しばらく誰も何も言わず、時間だけが流れていく。妻は正座して下を向いて唇を噛み、何か言いたげにしているが言葉にできずにいるようだ。七海は立ったままそんな妻を見下ろして話を切り出すタイミングを見計らっていた。何かきっかけがないと何時間でもこのままになりそうだが、家入はずっと二人を見守ることに決めている。誰かが仲介し糸口さえ与えてやれば二人はすぐにでも話し合うことができるだろう。でもそれでは真の解決にならない。これから家族として生きていくためには二人で動き出すことが必要だった。
静まり返る部屋に時計の秒針と子の喃語が響く。子は抱かれることに退屈してきたのか、家入のネックレスを引っ張りながら口に入れようと必死になっていた。七海の妻が気づき、慌ててその小さな手からネックレスを引き剥がすと、お気に入りのおもちゃを突然取り上げられた子はわんわん泣き出してしまった。
「これは私が悪かった」
「すみません、壊れてないかな」
「そんなに泣くこと無いだろう。七海、そこのラトルを取ってくれ」
七海が大きな手でうさぎとくまが描かれたパステルカラーのラトルを掴み、子の目の前で振って見せる。優しい鈴の音を響かせてはいるが、子の耳には全く入っていないようだ。ついには手足をばたつかせ、ラトルを弾き飛ばし床に転がって鈴の音はやんだ。子はぽろぽろと涙をこぼしながら力いっぱい泣いて気持ちを訴えている。家入は背中を優しく叩きながらあやしているが泣き止む気配はない。妻は転がったラトルを拾いあげおもちゃ箱に戻し、別の何かを探しているようだった。七海はこれ以上どうしてよいかわからなかったが、家入から子を渡され緊張しながらその胸に抱いた。身体を反らせて更に大きな声で泣いている。これは拒絶ではない。わかっているが、耳をつんざく悲鳴に近い啼泣に精神力が削がれていく。お願いだから泣き止んでほしい。七海は背中をさすりながらのけぞる子を落とすまいと必死に抱きとめていた。
三人は思った。大の大人がゼロ歳児に翻弄されている。
これはいったい、何なんだ?
七海に抱かれた子を大人たちは覗き込む。三人の困ったような顔を見て、子は突然泣き止み涙を丸い目に溜めたままにこにこと笑った。それを見た瞬間、みんなほっとして肩の力が抜け笑い声が漏れる。妻は子の手を握り「君はみんなに愛されてるんだよ」と呟く。子は家入に向かって手を伸ばし自分を抱けと意思表示した。家入はネックレスをはずしてポケットに入れ七海から子を預かって横抱きにすると、子は何かを訴えるように一生懸命発声していた。
「君がいつ帰ってきてもいいようにしてありますから」
七海が妻に告げるその表情は肩の力が抜けたような、穏やかなぬくもりを浮かべている。数か月ぶりに二人の視線が合うと、妻の瞳から涙が堰を切ったようにとめどなくあふれた。
「ごめんなさい。何もかも上手くいかなくてどうしたらいいのかわからなくなっちゃった」
「私も同じです。二人とも愛しているのに何もできなくて悲しませた」
七海の妻が涙を流しながら話す。妻を抱き寄せた七海もまた、深緑の瞳に涙を溜めていた。肩を震わせて嗚咽を漏らしながら泣きじゃくる妻と、深い愛情をもって妻を迎え入れる七海の姿を家入は聖母のような眼差しで見つめていた。大切な後輩二人の子どもを胸に抱きしめながら家入が小さな声でつぶやく。
「お父さんとお母さんは必ず上手くいく。そうだろう」
抱き合う父と母をぼんやりと見つめていた子は、そのふくよかな頬にえくぼを浮かべキャアキャアと声を出して笑った。