七海さんちに子どもが産まれる

第6話

 ついに産休入りした七海の妻は今日も自宅で夫の帰りを待っている。忙しく働いていたあの頃とは違い、自宅に一人ぼっちで洗濯物を干してみたり掃除をしてみたりするけれど、どうも落ち着かない。お腹も大きく少し動くだけで疲れるし、足はむくむし上を向いて眠れない。胎動でお腹が別の生き物のように動いている。自分の身体の中にもう一つ命が宿っているという事実が不思議でならない。色々な不安や心配はあるが、具体性に欠けていてどう動いてよいのかわからない。いつ産まれてもおかしくないと言われているので毎日そわそわして過ごしていた。

 一方七海はというと、自分の子がまもなく産まれるらしいが、実感なく過ごしていた。お腹の大きい妻が買い物に行ったり散歩に行ったり、わりと活発に過ごしているのでその体調が少し気がかりではある。ただここ数週間帰宅が遅く、あまり妻と顔を合わせて会話することが少なかったので大体のことは妻に任せっきりになっていた。夫としての役割はなんなのか、父としてどう振る舞うべきかわかりかねる。それでも過ぎていく日々をこなすことで、考えることを止めていた。

 久しぶりに早く帰れたので百貨店の地下で惣菜を買って帰り、揃いの食器に盛り付けていると妻が口を開く。

「今日検診で子宮口が二センチ開いてるって言われた」
「開いていたらどうなるんですか」
「もうすぐ産まれるかも」

 そうか、と七海は思った。あの大きなお腹の中に入っている人物がもうすぐ外に出てくるらしい。妻がその腹部をさすっている。服の上からでもぐねぐねとお腹が動いているのがわかる。中から内蔵を圧迫され、妻が顔をしかめた。痛むのだろうか。彼女の身体をそんなに強く押さないでやって欲しい。どうやってあの狭い穴を通って出てくるのか、七海は恐怖を感じた。

「君は元気だなあ」

 足で蹴っているのか腕を突き上げているのか、左の腹部が突き出たように変形している。妻が呑気にお腹の子に語りかけているが、七海はその身体と心の変化についていけないでいた。自分が蒔いた種が妻の身体の中で発芽し、三キロを越えようかというほど大きくなった。つわりや頻尿、むくみなど数々のトラブルを招き、内臓を押しのけて愛する妻に苦痛を与えている。産むときはもちろん痛いのだろう。そのとき自分は無力だ。本当のことを言うと、誰かに咎められるかもしれない。

それでも。

 まだ、産まれないで欲しい。
 まだ、仕事が忙しい。
 まだ、妻と二人の生活を楽しみたい。
 まだ、心の準備ができていない。

 頭の中に弱腰な考えが次々と浮かぶ。誰かに背中を押して欲しい。君は立派な父親になると。理解ある良き夫であると。妻はもう、すべて覚悟して受け入れているのだろうか。

 その次の日、七海が夜遅く帰宅すると妻はすでに眠っていた。規則的な寝息をたてており、今日は安らかに眠れているようだ。胎動が激しく眠れないことがあると先日ぼやいていたので、七海はほっとした。静かに寝室の扉を閉め、用意されていた食事をとり、妻の隣で七海も眠った。

 七海が眠ってすぐ、妻はお腹の張りで目が覚めた。不規則にぐっとお腹が硬くなるような痛みを感じる。よろよろとベッドを抜け出してロッキングチェアに腰掛け、お腹の中の存在に意識を集中させた。

――胎動を殆ど感じない。

今までもお腹の中で眠っているのか、大人しくしていることはあった。しかし今は生きているのか不安になるほどだ。妻は目を閉じて思案する。これは陣痛なのだろうか。産婦人科に電話すべきか、もう少し様子を見るべきか。陣痛アプリで間隔を記録する。規則的な十分間隔になると連絡する決まりになっているからだ。しばらく測っていても規則的とはいえず、痛みも弱く陣痛とはいい難いと思い連絡せずに様子を見ることにした。ただ、不規則とはいえじりじりとした痛みが続き眠ることはできないので座ったまま目を閉じた。結局、明け方に痛みは治まった。

 アラームに起こされた七海はその隣にいるはずの人物がおらず驚いて飛び起きリビングへ行くと、ぐったりした様子で椅子に座る妻を見つけてその顔色の悪さにぞっとした。

「何かあったんですか!?」
「お腹が痛くて眠れなかった」
「早く病院に行かないと……!」
「十分間隔にならないと産まれないらしい」
「そうなんですか。どうすればいい」
「今はもう痛くないし待つしかないかな」

 七海は何もできず何もわからず、妻のことが心配だったがどうすることもできないのでそのまま仕事へ行くしかなかった。今日は遅くなると伝えると「今日もだよ」と苦笑いされ、なんだか責められているような気持ちになった。事実だったので言い返す言葉などない。行ってきますと挨拶をして予定通りの時刻に自宅を出ると、外はすこぶる天気が良かったが、七海の心の中には靄がかかったままだった。

 その後一日中痛みは無かった。次の日もその次の日も前駆陣痛さえ無く過ぎていった。時折に弱々しい腹痛があったものの特に大きな変化はなく、一週間後の検診を予定通り迎えた。主治医曰く「子宮口は三センチほど開いているし、赤ちゃんもかなり降りてきているからもうすぐ産まれるだろう」だそうだ。いつどこで陣痛がきて産まれるのか、それは妻本人にも医師にも誰にもわからない。七海の妻は一人の家で買ってきたパンを食べた。夫は今日も遅いという。

 予定日前日の昼。じわじわ感じていた陣痛が本格的に強くなり、七海の妻は一人でタクシーを呼び荷物を持って産婦人科へ行った。七海はこの日に限って出張で二日後に帰る予定になっていた。入院した事を短文で連絡し陣痛室へ入る。助産師がてきぱきと準備をしてくれた。

 子宮口は七センチ。痛みも規則的でこのまま順調に進めば今夜にでも産まれるだろうという事だ。それでもまだ産まれるまで何時間もかかるらしい。七海からの返事はない。定期的にやってくる激しい痛みを逃すため部屋を歩き回ったり数を数えたり、助産師にお尻や腰を押してもらいながらひたすら耐えた。

 陣痛と陣痛の間の静かな時間に七海からの着信が入る。時計の針は深夜零時を回っていた。

『遅くなりました。どんな具合ですか』
「もうすぐ産まれるんだって」
『どうしてもそちらに行けません』 
「こんな時に出張入れるなんて。一人で心細いよ」
『不可抗力です。終わったらすぐに行く。前倒しで明日の昼頃に帰ることになったので、それまでどうか……』
「……わかった。切るよ、痛くなってきた」
『頑張ってください』

 もう十分頑張っている。産むのは自分で夫は外野。たまに来てくれる助産師と共にやるしかない。妻は静かに覚悟を決めた。

 その後妻は一晩中唸りながらなんとか陣痛を耐え抜いて、昼前に一気に分娩が進んで子宮口全開大となる。出産の見学にきた実習生と助産師に支えられ、息を荒らげながら分娩台へと移動する。すぐに破水しさらに陣痛は強くなる。いきんでもいいとお許しが出たため獣のように叫んだ。声を出すと力が逃げると言われたため、歯を食いしばりながら声を殺す。丸太でもひねり切れそうな、信じられないほどの力が出る。

 早く出てきて、もう限界だ。丸一日陣痛に耐え、ようやく分娩台に乗ることを許されたのに。お願い。一刻も早く出したい。出てきて。早く!

 掛け声と共に必死にいきむ。足元で実習生と指導者が何やらやり取りしている。主治医は外来中ですぐに来られないらしい。まだ産まれないのだろうか。信じられないほど痛い。一通り叫んだあと、一人のスタッフが駆け込んできた。

「七海さん! ご主人来られましたよ!」
「遅いんだよ! 何もできねー奴は外で待ってろ!」

 その後人生最悪の痛みに襲われ妻は雄叫びをあげる。

本当に世の中の母親たちはこれを通ってきたというのか。私もこうして産まれたらしい。とにかく早く出てきてお願い!

「あらぁ、聞こえました? ウフフ、奥さんとっても頑張ってますよ。ご主人はこちらでお待ちください。産まれたら入ってくださいね」
「はい……。あの、妻は、大丈夫でしょうか」
「大丈夫ですよ。みなさんあんな感じです。あと、奥様には実習生の見学を許可して頂いてまして、こちら同意書です。確認しておいてくださいね」
「わ、かり、ました……」

 七海の足はガクガクと震えた。妻の咆哮も拒絶も恐ろしかった。死ぬのではないか。あんなに痛がり叫んでいる。そして自分の無力さを身にしみて感じ、頭を抱えて待合で座っているしかなかった。

 怖い。死なないで。

 その後しばらく妻のうめき声が続き「もう少し。頑張って」と妻を励ます自分では無い男の声がした。続いて聞こえてきたのは「切ります」の声だ。何を。妻を切らないでくれ。

 七海が呆然と待合で待っていると「赤ちゃん出ます」「産まれましたよ」「おめでとうございます!」そんな声が扉の向こうから次々と聞こえてきた。終わったのだろうか。妻の声は聞こえない。七海が見つめる扉が開き、誰か出てきた。

「ご主人、産まれましたよ! さあどうぞ」

 助産師に付き添われよろよろと分娩室に入る。分娩台に妻が乗っていた。生臭い匂いが充満していて、弱々しく泣く赤子の声が聞こえる。七海はポロポロと涙を流しながら妻の側に歩みを進めた。妻の髪はぼさぼさで額は汗でじっとり濡れている。手には点滴をされているし唇は乾燥して目の下に三重くらいの濃いクマがあった。助産師たちは産後処理のために動き、実習生は肩を震わせ涙を流しながら必死にメモをとっていた。そして妻は七海の方を見て微笑む。

「うぅっ、遅れて、すみません……」
「ほんとにね。めちゃくちゃ痛かったよ。でも産まれた。見て、ほら」

 妻の胸元にはタオルに包まれたシワシワにふやけた赤黒い小さな人間がいた。

「小さい……」
「これから大きくなるよ」
「は、い……。うっ……、ありがと、ございます」
「泣きすぎ」

 明るく笑う妻を見て、七海は身体の力が抜けた。何かを察した助産師が、七海の後ろにサッと椅子を置く。ドスンと勢いよく座り大きなため息をついた。

「ハイハイ。ではご主人、これから奥様は後産など諸々ありますので一旦退室していただいて。これからの手続きなどはナースステーションの事務員から聞いてください。色々終わったら病室へ戻りますよ」

 七海は泣きながら頷き、分娩室をとぼとぼと出た。感動しているのか、恐怖からの解放感か、無事産まれた安堵か、様々な感情が入り交じりわけがわからない。流れる涙を拭いながら渡された書類に目をとおす。ふと隣を見ると自分以外に二人の男がいて、彼らもまた泣いていた。ここには泣いている男しかいないのか。妻は笑っていたというのに。

 七海は二人の男たちに会釈をし、ナースステーションへ向かう。これからのことを聞いて妻の病室へ立ち入った。部屋の中にはベッドに腰掛けて昼食のトンカツをもりもりと食べる妻の姿があった。元気そうだ。

「お腹すいて倒れそうだったよ。落ち着いた?」
「かっこ悪いところを見せてしまいました」
「建人もあんなに泣くんだね」
「今まで感じたことのない感情が湧きでてきて……」
「お父さんになったから?」
「君が無事で良かった。死ぬんじゃないかと不安でしかたなかった」
「生きてるよ。新生児室に行く?」
「君が食べたら行きます」

 すり足でそろそろと新生児室へ向かう。七海は妻の腰を支えながら歩調を合わせた。ガラス張りの新生児室にはたくさんのコットがならんでいる。名前がまだないベビーたち。小さな帽子とふかふかの布団。我が子はすやすや眠っていた。

「寝てますね」
「お父さんにそっくり」
「そうですか? 君に似てる」

 妻を抱き寄せ頭にキスをすると、ガラスの向こうで赤ちゃんの世話をする助産師が二人を見てにっこりと笑顔になった。呼吸していることを知らせるランプが点いたり消えたりしてその命をみつめていた。隣の子が大声で泣いているというのに我が子は全く起きる気配はない。写真を撮る妻を見ると、天使のように優しく微笑んでいた。そんな妻の姿を見て愛おしさが込み上げてくる。腰にまわした腕に力を入れると、妻は七海の顔を見上げて身体を預けてきた。このまま抱きしめてたくさんキスしたかったが、隣には後から赤ちゃんを見にやってきた夫婦がいたし、ガラスの向こうには助産師もいる。ぐっと堪えて妻の頭に鼻先を埋めるに止めた。

 愛おしい妻から産まれた守るべき我が子を見つめる。七海は自分の中に芽生えた新たな感情に名前をつけることができないでいた。

 健やかに育って欲しい。呪いが見える世界から切り離してやりたい。この世の汚いものすべてから遠ざけて、君の未来を輝くものにしたい。たくさんの人に愛され幸せになって欲しい。

 七海は目を閉じ神に祈った。