続々・七海さんの妻の妊娠

第5話

 妊娠中期となり乳腺の発たちと共に胸が大きくなり腰周りもふっくらした。顔はぽちゃぽちゃと丸くなり、尻はどっしりと四角形。乳首は黒く乳輪も大きくなっている気がする。妻は鏡に写る自分の姿を見る度になんとも言えない気持ちになった。初期の頃はひどかったつわりが治まり食欲が戻ると、なんでも美味しく感じてついつい食べすぎてしまう。七海の作る食事を美味しい美味しいと涙ぐみながら食べておかわりをした。まるで食べられなかった分を取り戻すかのように妻は毎日たくさん食べた。しかし消化がゆっくりなのか、食後はお腹がパンパンに張り胃酸があがってくるような気持ち悪さが出てきて苦しい。産婦人科の健診の度にどんどん体重が増えていく。助産師たちはまだ大丈夫だと言うが、見た目からわかるほど身体は変化していた。まるで自分ではないようだ。浴室の鏡を見てげんなりしていると、後から入ってきた七海が妻を後ろから抱きしめ丸く膨らんだ腹を撫でながら言う。

「ずいぶんお腹がふっくらしましたね」

 匂いつわりは早い段階で落ち着き、七海がこうやって接近してきても拒否反応はもう起こらない。キスも許され嬉しくてたまらない七海は以前に増してスキンシップが増えていた。愛おしい妻が自分の子を宿し腹の中で育てている。そう考えるだけで胸がいっぱいになり抱きしめたくなる。もっとキスしたいし、もっともっと触れたい。一日中抱きしめてベッドの中から出したくない。妻と交際を始めた時。妻と一緒に暮らし始めた時。妻と結婚を決めた時。妻の妊娠が分かった時。それぞれが人生のピークだと思ったのに、まだまだ溢れてくる七海の愛は天井知らずらしい。

「ジロジロ見ないで」

 うきうきと浮かれながら身体を撫でまわす七海の手をそっけなく払って妻が言う。七海の手が離れた下腹部を触ってみる。裸になるとはっきりわかる腹の膨らみがそこにある。明らかに妊娠しているとわかるその姿から目を逸らしてしまいたい感覚に陥る。嬉しくないわけでは無いが、自分の身体が内側から作り替えられていく渦中にあり心がついていかないような気がしていた。最近では内側からぽこぽこと何かが当たる感覚がある。最初は腸管ガスの動きではないかと思っていたが、どうやらそれが胎動だとわかり妻は嬉しいような、信じられないような不思議な感覚になっていた。この動きの主は何を感じ、考えているのだろう。母の胎内とはどのような場所なのだろう。

「そんな君も素敵だと思っているんですが」

 胸を触ると痛がるので気を付けながら、払いのけられた手を再び戻して腹や太もも、尻をさわさわと優しく撫でる。以前はすべすべしていた妻の肌は最近は乾燥気味だ。かゆみを伴うらしく、ここのところ妻はひっきりなしに搔いていた。肌の掻痒感や乾燥は、妊娠に伴うマイナートラブルらしくあちこちにひっかき傷がある。七海は風呂上りにしっかりとボディクリームを塗り込んでやろうと決めた。

「本能に支配されてて私じゃないみたい。身体はどんどん変わっていくのに心がついていかないよ」

 妻は七海の手をそっと退けるとシャワーを浴びた。泡立ちが良いからとナイロン製のボディタオルを使用していたが今日はそれを使わせてはいけない。ボロボロの肌を傷つけたくない七海は、自らの手にボディソープを出して泡立て始める。それから背中を撫でるように洗うと、妻はくすぐったがって身を捩った。可愛らしいその姿を見てまた胸が弾けそうになる。とにかく妻の全部が愛おしい。わずかに浮いた腕の血管も、睫毛の一本も、寝ているときの涎も、寝起きの顔も、いついかなる時もすべてを愛している。

「腹の中で私の子を育ててくれてありがとう。今の君もとても魅力的です。先生はなんと?」
「赤ちゃん順調だよって。体重も許容範囲内だって」

 何度どけても伸びてくる手に妻は呆れ、もう放っておくことにした。触られることが嫌なのではない。妊娠で変化した身体を見られるのが恥ずかしいと思っているだけだ。そんな妻の気持ちを七海もわかっている。だからこそ触れ合いたい。どんな姿になってもずっと好きなままだ。子どもが大きくなって巣立っても、二人がよぼよぼの老人になっても、墓に入っても愛し続ける自信がある。言葉にしても笑って誤魔化されるだけなので行動で示しているのだ。決してやましい気持ちは無い。純粋なる愛に基づいた行動だ。

「ほら言ったじゃないですか。気にしすぎだと。その他には何か言ってませんでしたか」
「看護師さんが母親教室においでって言ってた」

 前後編に分かれて二回あるそれは妊娠期間の過ごし方や出産について学べる場所だ。産婦人科で開催され、毎回多くの妊婦が参加している。実は父親教室なるものも存在する。妊婦である妻の身体を気遣うことはあるがお腹の中の生き物をどう扱っていいのかわからない様子であるのだが、妻は七海を誘えないでいた。なぜならいつも忙しそうにしているし、最近帰りはますます遅い。日をまたぐこともざらにある。

「そうですか。他には?」
「もう無いよ」
「……そう、ですか」

確かに今、腹の子は七海の目には見えない。でも妻にはわかる。明らかにそこに在って生きている一人の命だ。産婦人科でのエコー中に動く心臓を七海は見たことが無い。力強い鼓動も聴いたことが無い。しかし妻は自分が抜けた穴を埋める人材がいないことがわかっていたので何も言えなかった。本当はもっと一緒にこの成長を喜びたいと思っているのに。

「何か聞いておいた方が良かった?」
「……君の嫌がることはしたくないので、私の希望を伝えるだけという前提で聞いて欲しいんですが」
「建人の希望って何?」

 泡だらけになった妻の身体を洗い流しながら七海が言う。細かな傷跡がいたるところについた身体は以前の妻のものとは少し違う。しかしつわりが終わってからというもの、妻は以前と同じ生活に戻っていた。仕事こそ前線を退いたものの、後方支援として補助監督のような仕事を任されている。遠方に出ることもあれば時折帰りも遅い。妊娠について配慮されていないわけではなかったが、術師一人が抜けた穴を埋めるのはそうたやすいことでは無い。そもそも見た目からして変化がある。その中身は一体どうなっているというのだろう。妻の説明を聞いたり妊婦雑誌を読んだりして知識は多少あるものの、実際に自分の腹に子を宿したことは無い。妻の身体を正しく労われているだろうかと七海は悩んでいた。一度も受診の付き添いを頼まれたことは無いが、他の夫たちもそうなのだろうか。仕事柄周囲に同じ境遇の者がいたことがないので、世間一般の感覚とずれているかもしれない。大切にしたいとずっと思っているのに、できているのかわからない。今から言おうと考えていることを口にしてしまってよいのだろうか。それでも七海は妻に触れたくて仕方がない。子を成したことで妻への愛情が膨れ上がり持って行き場が無いほどあふれかえっている。

「無理にとは言いません。聞けたらでいいです。次の病院はいつですか。まさか、また一ヶ月後?」
「もう! 何なの。回りくどいなあ」

 少しぷりぷりし始めた妻が七海を見上げて唇を尖らせた。丸くなった頬をさらに膨らませている。不機嫌そうな顔も可愛い。丸々とした身体を妻は恥ずかしがっているが七海は本当に魅力的だと思っている。

「妊娠中の夫婦生活をどうしたらいいのか……、聞いて欲しいです。先生に」
「夫婦生活ぅ~!」

 大きな口を開けた妻がアハハとお腹を抱えて笑う。何もおかしい事などない。夫婦として当然の営みについて聞いているだけだ。

「なぜ笑う……」

 赤面した七海が大きな手で顔を覆う。妻はまだケラケラと笑いながら七海の手を取り自身の口元に運んだ。それから唇を尖らせわざとらしいリップ音を立てて口付けると、浴槽を跨いで湯船に浸かった。

「ずっと前に無理しなきゃ良いって言ってたよ」
「……教えてくれても良かった」

 七海は妻に手を引かれ乳白色の湯に入った。ずぶずぶと顔まで沈んでいった七海は恥ずかしさのあまり眉間に皺が寄っている。

「我慢してたの?」
「するでしょう。お腹の中に子どもがいるしつわりで辛そうにしてたから。それに、全然誘ってこなくなった」
「だって、あの時は本当にしんどかったから。それに今はお腹は出てるしお尻ダルダル、二の腕ぶよぶよ、二重あごなんだもん……」
「見た目のことを気にしすぎです。君の体調が良ければ今夜いいですか。気乗りしなければ無理にとは言いません。怖ければ途中でやめますし、そもそもしないという選択肢もあります」
「へぇ~。事前予約制になったんだぁ。そうまでして、したいんだぁ?」

 前のめりで言う七海を見た妻はまた声を上げて笑うと、七海は眉間に一層深い皺を寄せた。振り返った妻が指でそっと伸ばす。しかし何度伸ばしても皺は寄ってくるので、妻は小さな声でごめんねと言って七海の濡れた髪を撫でる。少しからかいすぎたようだ。

「茶化さないでください。君に負担をかけたくないから聞いてるのに」

 本当は少し怖いと思っている妻は視線を外してしまった。それが七海には困ったような顔に見えた。無理をさせたいわけでは無い。二人の時間をゆっくり楽しみたい。それだけだ。今日はにごり湯で妻の身体は見えないが、お腹は明らかに妊娠しているとわかるほど膨らんでいる。胎児を守るために肉付きが良くなりふわふわとした腰回りに触れてみる。男性とは明らかに違う柔らかいその身体が心底愛おしいのに、妻は恥ずかしがって逃げてしまう。世界で一番、誰よりも、何よりも大切な存在だということをわかってほしい。見た目がどうあれ妻の魂からすべてを愛しているということを伝え続けるしかないだろう。

「触れ合うだけでもいいんです。欲を言えば、ほんの少しだけ手伝ってくれたら……」
「お風呂はつかまるところが無いから後でね」
「嬉しい。早く上がりましょう。もう一人子どもが増えてもいい。本当に君の事を愛しているんです。わかっていますか」
「わかってるってば。まだ一人目が産まれてもないんだけどなあ」

 夫婦二人のゆっくりした時間を久しぶりに持つ。いつもお互いに忙しくしている。幸せな気持ちであふれているのに、どこからか呪いは次々と現れる。人の心から産まれるらしいそれを祓い続けなければならない。大切なものを持つと守りに入って臆病になると思っていたが、どうやらそれは違うらしい。結婚する前よりも、子どもができる前よりも勇気が湧いてくる。妻も子どもも、二人が生きる世界のすべてを守り通す。そんな気分になるのだ。

 そそくさと上がる七海を追って妻も湯船から出た。まずは温かいルイボスティーでも淹れてリラックスしよう。それから妻の気分がよければほんの少しだけ触れ合って、ベッドの中でもう一度愛の言葉を聞いて欲しいと七海は思った。