続・七海さんの妻の妊娠

第4話

 受付をしてから一時間半待たされた産婦人科の診察台の上で大開脚を余儀なくされた後、生温かい棒を膣に突っ込まれぐりぐりと中を抉られた。その後カーテンの奥から医師が出てきて股に棒を突っ込んだまま白黒のモニターを見せ「赤ちゃん元気ですね。おめでとうございます」と言った。胎児心音が確認され妊娠が正式に判明した七海の妻は、その足で区役所へ母子手帳を取りに行った。初めて訪れる母子保健課は温かい雰囲気で窓口職員に妊娠を祝福されいろいろな制度の説明を受ける。しかし、そのほとんどを覚えていない。なぜなら吐き気が酷く、頭もぼんやりしていたし、歩くだけで精一杯だったからだ。七海に一緒に来てもらえばよかったと後悔したが、彼は妻が起きた時にはすでに家を出ていたのでいなかった。そういえば昨夜、明日は朝が早いと言っていた気がする。そんなことさえ覚えていられない。全身が怠く常に不快感が付き纏い、気を緩めるとすぐに胃の内容物を吐き出しそうだった。ふらふらと自宅に帰り一目散にトイレへと駆け込む。食べた時は平気だったのに、トマトソースのパスタがすべて出てきた。お腹が空っぽになったらなったでまた吐き気に襲われる。家の中で食べられそうなものを探すが何も作る気になれず、炭酸水にレモン果汁を入れて飲むと少し楽になった。適当に検索してみると、この症状はしばらく続くらしい。そのまま床の冷たさを感じているといつの間にか寝てしまった。

「大丈夫ですか!?」

 慌てふためく七海の声を聞きながら、このシチュエーションには覚えがあるなと妻は思った。すっかり自分の体温でぬるくなった床から身体を起こして答える。

「眠気に抗えなくて……。大丈夫だから」
「病院は」
「七週だって。母子手帳も貰ってきた。あのね、ごめん。悪いけどちょっと離れて」
「すみません。風呂に入ってきます」
「ごめん」
「いえ。君のせいじゃない」

 こんなに心配しているのに妻に触れることさえできずもどかしい思いをしながら七海は浴室へと引っ込んだ。妻が気に入って使っていたボディソープで入念に身体を洗ったはずだが、それでも何かが耐えられないらしく窓を開けてそのそばにへたりこむ。

「匂いが生理的に無理になっちゃった。お願いだから離れて。うっ……! また吐く……」
「何か食べられそうなものは」
「塩おにぎりか、グレープフルーツのゼリー……」
「買ってきます」

 七海がそう言って家を出ると妻はほっとした。愛する夫に対する抗えぬ本能的な拒絶を申し訳なく思う。この現象の原因はよくわからない。とにかく七海の体臭が吐き気をもよおすほどつらい。妊娠前は大好きだった夫の匂いが今は耐えがたい。この世のものとは思えないほどおぞましく、鼻をつまみたくなる。風呂に入って汗を流したとてそれは変わらず、同じ部屋に存在することさえできないほどだった。

「こんなところで転がってないでベッドで寝て」

 再び床で休みながら目を閉じている妻を見つけた七海は、タオルで頭を拭きながら声を掛けた。先日同様顔色は最悪で目の下に濃い隈もできている。呼吸は平静だが二の腕がやけに細く見える。きちんと食事をとれていなかったのかもしれない。ここ最近はお互いの勤務時間が合わず、同じ家に住んでいるというのに顔を合わせる時間が減っていた。先に七海が帰宅した日は食事を用意するように心がけていたが、最近では妻の方が早いことばかりで彼女がどんなものを食べていたのかわからない。そういえば惣菜が多く並んでいたと思い返すが、お互い忙しくしている身だったので気にも留めていなかった。もしかしたら今日よりももっと前から、妻の体調はよくなかったのかもしれない。七海は自分の至らなさに辟易した。妻はいつだって明るく元気だったのに、こんな姿を見るのは初めてだ。

「寝室に入れなくて。今日はここで寝るよ。本当に申し訳ないけど、匂いが無理で、本当にごめん」

 弱々しく笑いながら身体を丸めている。七海は一回り小さくなった気がする妻を見つめながら、これから彼女とお腹の子はどうなってしまうのだろうと考えた。

「心苦しい。私のせいです。それなのに何も出来ない。無力だ……」
「そのうち大丈夫になるから……」

 そう言うと妻はもぞもぞと動き出して床にぺたんと座った。やはり太ももは細くなり頬はこけている。どうして今まで気づかなかったのだと七海は自分を責めた。妻が七海を下から見上げながら口を開く。

「それでね、明日からはよくなるまでホテルに泊まろうと思うの。そこから仕事に行く」

 何か合点がいったというように明るい声だった。しかし内容はとんでもないものだ。家を出る。仕事に行く。七海にとってどちらも到底許せることでは無い。ただでさえ不安定な身体の者を一人にすることなどできないし、いつ何時何があるかわからない仕事へ送り出せるわけがない。今や妻一人の身体ではない。怪我でもしたらお腹の子はどうなるというのだ。

「そんな体調で行けるわけが無いでしょう。馬鹿な事言わないでください」
「働いてる方が楽なんだよね。気を張ってるからかな。家にいたらどうしてもしんどくなっちゃう。だから仕事には行くの」

 仕事に出て何かに集中している方が多少なりとも楽だった。妊娠の事を一瞬でも忘れられるほど体調がいい。家にいるとどうしても考えてしまう。食事を作ったり風呂に入ったり、匂いや味を感じると途端に気持ち悪さが胸の奥底から湧き上がってきてトイレへ駆け込まなければならない。二人が生活する空間には二人の匂いが染み付いている。それにどうしても耐えられなかった。

「現場に迷惑ですからやめてください。もう君一人の身体では無いんですよ」
「でも私の身体のことは私が一番わかってる!」
「でもじゃない。君をかばって誰かが死ぬことになる。そんなことはご免です」

 七海の言う事は尤もだ。以前から何かがおかしいとは思っていたが、日に日にひどくなるつわりにはつける薬が無い。時期が過ぎるまで耐え忍ぶしかないのに、いつ終わるかはわからないし楽になる方法もないときている。こんな状態で現場に出られるわけなどないと妻にはわかっていた。頭ではそう理解しているのに、どこの誰に何といえばいいのかわからず妻は口を噤んだままだった。まだ妊娠初期の段階でこれでは、腹が大きくなった時どうなってしまうのだろうと更に不安に駆られる。これからもっとひどくなるのだろうか。それとも明日には楽になっているのだろうか。初めての妊娠で先が見えず、体験談をネットで読み漁ってみるも千差万別で答えはわからない。つわりなどないと言う者もいれば、入院したという者もいる。それがどうやって起こるのかもわからないし治療法は無い。順調だったお腹の子が突然死することさえあり、産まれてから初めて見つかる異常もある。何もかもがわからず、解消できない不安に妻は怯えていた。

 七海は黙り込んだまま何も言わなくなった妻の背中をじっと見つめた。撫でたり抱きしめたりして慰めてやりたいのに、それができないことを思い出して手を引っ込めた。自分が近くにいることで更に体調が悪くなるということを考えると何もできない。この先どうなってしまうのだろう。すでに痩せている妻に栄養を取らせたい。このままではお腹の子も危ないのではないかと最悪の結果を想像して泣きそうになる。妻を危険な目にあわせたくないし、苦しんで欲しくない。それなのに妻は一人になりたいと言うし、仕事にも行くと言う。自分に出来ることが何もないと七海は無力感をつのらせた。

 結局二人はしばらく黙り込んだまま佇んでいたが、妻の方が先にのそのそと立ち上がってキッチンの奥へ引っ込んでしまった。七海は大きなため息を吐いてソファに腰掛け妻の体調を案じて誰に相談すべきか考えてみる。妻のあの口ぶりからすると、妊娠したことをしばらく公にするつもりは無いようだ。しかし、あの状態の妻を仕事に送り出す気にはなれなかった。同業者で二人の関係を知らない者はいない。きっと皆、理解してくれるだろう。七海はまず、家入に相談した方がいいのではないかと考えた。医師の意見があれば大義名分が立つ。

「もしもし。お疲れ様です。七海です。あ、七海っていっても一級の方ではなく、えっと、旧姓は――」

 どうやら妻はどこかへ電話をかけているようだ。口ぶりからして関係者だとわかる。何を言うつもりなのかと 七海がじっと聞き耳を立てていると、体調が悪いので仕事の調整をしてほしいという内容が聞こえてきた。七海はほっと胸をなでおろす。なんとかわかってくれたようだ。しかしこれがいつまで続いてどうなっていくのかわからず、妻とお腹の子のことを案じ心を痛めた。