七海さんの妻の妊娠

第3話

 その日七海は予定より早く仕事が終わり、久しぶりに食事でも作ろうとスーパーに寄っていた。結婚を目前に控えた彼女へ何か食べたいものはあるかとメッセージを入れるが返事は無い。早く終わったと言ってもすでに十七時を半分ほど過ぎていて、今から手の込んだものは作れないと考えた七海は鮮魚コーナーで彼女の好きなサワラの西京焼きをメインに和食にしようと決めた。材料をさっとカゴに入れると素早く清算を終え帰路に着く。玄関を開けると電気がついていたので彼女が在宅であるとわかる。ただいつもなら鍵の開く音で飛んでくるはずなのに、今日の室内はしんと静まり返っていた。

 玄関から室内に向かって「ただいま」と言うもやはり返事は無い。途端に不安に駆られた七海は手も洗わずにリビングへと突き進んだ。するとそこには、朝別れた時のままの服装でソファにうつ伏せになって倒れている彼女がいた。

「大丈夫ですか!?」

 慌てて身体を揺さぶると、彼女はゆっくりと身体を横に向け片目だけ開けて七海を見た。

「ああ、おかえり。寝てただけ」

 覇気の無い声も気になるが、七海は彼女の顔色を見て血の気が引いた。まるで死人のように青白い。

「顔色が悪すぎる。具合が悪いんでしょう」

 身体を起こそうとする彼女を慌ててソファに寝かせると足元にあったブランケットをかけてやる。寒かったのか彼女はもぞもぞ動きながら頭まで被って一旦隠れた。それから目元だけ出して七海をちらりと見ている。

「平気だよ」
「どう見ても平気じゃない。嘘をつかないでください」

 ソファの側に七海が座って背中を撫でてやると、目を閉じて申し訳なさそうに呟いた。

「やっぱりちょっとしんどい。少しだけ寝かせて」

 ようやく素直になった彼女を見て七海はほっとした。

「昨日も一昨日も胃がむかむかするとか言ってたじゃないですか。今から病院に行ってください。送ります」
「嫌。じっとしてたら治るし、明日高専に行くからついでに硝子さんに診てもらう」

 素直になったと思ったのも束の間。病院に行けと言うといつも彼女は寝たら治ると言う。そうやって家で寝ていたのに熱が下がらずインフルエンザに感染していたことが後でわかり、仕事はドタキャン、挙句の果てには七海にうつしたのはどこの誰だったか。当時のことを思い出し呆れていると、七海が小言を言いそうになっているのを察した彼女はブランケットの中に頭まですっぽりと隠れてしまった。

「家入さんは内科医じゃない」

 まずは一言言っておく。すぐさま彼女が反論した。

「胃薬くらいくれるでしょ」

 確かにそうかもしれない。しかし七海とてここで折れるわけにはいかなかった。なにせあの顔色なので寝ていたら治るレベルを超えているのではないかと心配しているからだ。

「今しんどいのにすぐに行かなくてどうするんですか。昼は食べたんですか。何時に帰ったんですか。いつから寝てたんですか」
「心配しすぎ。これくらいで死ぬわけじゃないんだよ。絶対に行かない」

 七海の猛攻もお構いなしにブランケットの中から彼女の拗ねた声だけが聞こえた。その後も二人の攻防はしばらく続いたが結局七海が引き下がった。彼女も良い大人なので自分の体調くらい自分で管理できるはずだ。子どもじゃあるまいし無理矢理連れていくわけにもいかない。余程のことがあれば自分から言い出すだろうと半ば無理矢理諦めることにする。

「……明日絶対受診してください。食事を作ります。食べられそうですか」
「食べられる、と、思う」

 彼女は顔を出して七海の様子を窺うと、再び目を閉じた。やはり血色は悪く不安が募る。

 七海はキッチンへと戻りグリルに火をつけた。上のコンロで豆腐とわかめの味噌汁を作りながら魚の火加減を確認する。炊飯器には今日の朝炊いた白米が残っていたので、今夜の分はそれで間に合うだろう。合間に簡単なサラダを用意してそろそろ頃合いかとグリルを開けて確認していると、ソファに転がっている彼女がむくりと身体を起こした。墓から出てきたばかりなのかと思う程の顔色の悪さで胸元を押さえている。そして次の瞬間、「うッ……」とえずいたと思ったら彼女は走ってトイレへ駆け込んだ。

「えっ、ちょっと――」

 吐きそうなのかと七海は聞こうとしたがその姿はすでに無い。慌てて彼女の後を追うと便器を抱えて何度も嘔吐していた。吐物に食べ物は無く、そのほとんどが淡黄色の胃液だ。目には涙を浮かべ苦しそうに喘いでいる。

「やはり今から病院へ連れていきます」

 七海がトイレの中でうずくまる彼女へ手を伸ばすと、振り払われてしまう。彼女もハッとした顔をしたので反射的にしてしまったことなのだとわかったが、七海は少なからずショックを受けた。

「吐いたら楽になったからいいってば」

 口の端に垂れた吐物とも唾液ともしれない粘液を腕で拭いながら彼女は言う。目の端から一粒涙が零れ彼女の服を濡らす。はぁはぁと肩で息をする彼女の背中を見て七海は決心した。

「君が何と言おうが引きずってでも連れていく」

 再び七海は手を伸ばしたが、彼女は両方の掌を彼に向かって突き出し介入を拒否した。

「お願い。触らないで」
「……何かあったんですか」

 何か隠し事でもあるのだろう。視線を逸らしている。呼吸も浅く早くなっており、明らかにしんどそうな様子でただ事では無い事だけはわかる。でもどうしてそうなっているのか教えてくれそうに無い。あまりに強いその態度に七海は引き下がるしかなかったが、いつもの彼女とは違う様子がどうも引っかかる。

「何もない。ただちょっと、気持ち悪くて。ごめん。建人、先にお風呂に入ってきて」
「私が? 風呂に? 今から? 意味がわからない」

 彼女の体調が悪い事と、風呂に入ることに何の関係があると言うのか。七海は理解できないと首を捻った。彼女の背中を擦ってやろうと手を伸ばしたら、やはり「やめて」と言って、それからまた便器を抱えて空えずきを数回した後、苦しそうに呻いた。そして七海を責めるような目で見つめながら言う。

「何作ってるの。腐ってるんじゃない」
「そんなわけないでしょう。買ったばかりなのに」

 さっきからわけの分からないことを言うし触れることさえ許されず、七海が少しむっとして腕を組むと彼女は小さな声で謝って立ち上がろうとした。ふらふらと壁に手をつきながらなんとか立ち上がりトイレットペーパーを引き出して口を拭う。壁伝いに洗面所へ行って口をゆすぐ姿を見守りながら七海は考えた。二日前に行ったオイスターバーでノロウイルスに感染したのではないかと。手を洗っている彼女に気づかれないように、足元の棚の隅にある次亜塩素酸ナトリウムの液体が入ったボトルの存在を確認する。大丈夫。今から消毒すればまだ間に合う。そうこうしていると彼女が洗面所に向かって三度えずいていた。ただ、これ以上何も出てこないようで苦しそうに喘ぐだけだった。

「なんか家に充満する匂いが無理ッ。外に出てくる!」

 彼女は突然言い放つと洗面所から転げるように出て行ってしまった。 

「あ、ちょっと!」

 七海の制止を振り切って上着を掴みバタバタと外へ出て行った。走れる元気があるくらいなので倒れはしないだろうが、体調が悪い時に一人にできないと七海もその後を追う。エントランスを出たすぐ側の道路をふらふら歩きながら駅の方へ向かって歩いている。どこへ行こうというのだろう。

「大丈夫ですか。うちに戻りましょう」

 七海が駆け寄って声をかけると、暗い表情で俯いたまま一言呟く。

「生理がこない」

 想像とは全く違う、予想していなかったその言葉に七海は絶句した。一瞬で顔が強張ってしまったのがわかる。彼女の方を盗み見るように視線だけ送ると、七海の方を向くことなくとぼとぼと歩き続けていた。相変わらず顔色は良くないが、家にいる時より赤みは増している。外の空気に触れたことがよかったのかもしれない。しかしそれよりも、目を伏せて力なく歩くその姿に七海は困惑していた。生理がこないらしい。そのことに彼女は戸惑っているようだ。それがどういう意味であるかはわかっている。

「……いつから、ですか」

 七海は平静を装って声をかける。これで正解だったかどうかはわからない。もっと喜ぶ素振りを見せた方が良かったのかもしれないが、彼女の反応を見る限りどうも嬉しそうではないように見える。しばらく無言で、時折ふらつきながら歩く彼女の少し後ろを七海は追う。

「もう二週間以上遅れてる」

 またぽつりと漏らす。相変わらず沈んだ表情で声に張りも無く肩はがっくりと落ちている。嘔吐したせいだろうか。それとも話の内容が憂鬱なのだろうか。

「それは……、気づいた時点で教えてほしかったです」

 七海はそう言って彼女の反応を窺ってみる。責めている訳では無い。しかし気づいていたのに彼女が言わなかったことは少なからず七海を動揺させた。

「怖かった」

 うつろな表情で彼女は答えた。幽霊のように揺らめきながらゆっくり歩みを進める彼女を見て七海はどう声をかけたらよいか悩んだ。アスファルトから剥がれた石が蹴られて転がり小さな音を立てる。街灯が点灯し彼女を照らした。

「二人の問題を一人で悩まないでください。もうすぐ結婚するというのに」

 七海はできる限り落ち着いた声を意識して答える。すると彼女は立ち止まり七海の方を向いた。

「だって、もし妊娠してたらどうしよう」

 目に涙をいっぱいに溜めて眉尻をこれ以上無いくらいに下げ、声を震わせながら言う。恐怖と不安をずっと独りで抱え込んでいたのだろう。口に出すことでタガが外れたのか彼女は涙をぽろぽろと溢した。そんな自分の反応にまさかとでもいった様子で流れ出る涙を拭いながら七海を見つめて目を見開いている。

「ここのところ避妊していなかったのでいずれはこうなったでしょう」
「そうだけど……。いいのかな」

「問題ありません。でも、まだそうだと決まったわけじゃない。一度検査してみたら」

 確か薬局で売っているはずだと七海は言うと彼女にこのまま真っ直ぐ行くように伝えた。ちょうどこの先にドラッグストアがある。そこで妊娠検査薬を手に入れたら真実がわかる。ここで二人がいくら悩もうが結果がわからないとどうしようもないのだから。

「建人は落ち着いてるんだね」

 彼女が苦笑いしながら言う。すると七海は大きく深呼吸をして頭をくしゃくしゃと掻いた。

「本当は口から心臓が飛び出しそうだ」

 初めて聞く七海の情けない声と戸惑いを浮かべた表情を見た彼女は口に手を当ててくすくすと笑った。その姿を見て七海は彼女の顔を覗き込む。七海の目を真っ直ぐ見つめ返すその瞳の色はとても暖かかったので、彼女はきっと嬉しいのだろうと思った。

 駅前のドラッグストアで妊娠検査薬を探し二人で彷徨っている。どういった場所に置かれているのか見当もつかず、女性が使うものだろうと生理用品のコーナーを探すが見当たらない。まさか店員に聞くわけにもいかず、二人でもたもたしていると彼女が「あった」と小さな声を出した。七海が声の方へ寄っていくと、コンドームやローションと同じ棚の上の方へ比較的堂々と置かれていた。彼女が商品を手に取り裏の説明を読んでいる。七海もそれを見ようと彼女の方へ近寄ると、彼女は七海の腕を押して遠ざけた。またしても理由なく拒絶され七海はどうにも居心地が悪い。一体何なのかと尋ねると、彼女は七海が悪いわけでは無いと前置きしたうえでこう答えた。

「匂いが無理なの。ちょっと離れて」
「どういうことですか」

 彼女は七海の質問に答えることなく、眉を下げて少し申し訳なさそうな顔をしながらレジへ向かう。その背中を見つめ、七海はいたたまれなくなり店から出て外で待つことにした。小さな紙袋を抱えた彼女が出てくると、先ほどの話の続きが始まる。

「臭いとかじゃないんだけどね、嗅覚が過敏になってる感じがして、その、建人の、匂いが、無理。ごめん。今日大変だったんでしょ」
「……汗はかきましたね。帰ってシャワーを浴びます」

 彼女は言いにくそうにしているが、要するに汗臭いから近寄るなと言う事だとわかって七海は流石に少し傷ついた。体調が悪いからそうなるのか、今日が特別にそうなのか。自分の体臭を確認しようと嗅いでみるが、分かりづらい。そんな七海の姿を見て彼女が焦りながら早口に弁解し始めた。

「あのね、いつもは臭いとかじゃないんだよ! 今は生理的に無理ってだけで……。前は好きだったのに、今は吐きそうになっちゃう」
「何度も言わなくていい」

 七海の前を二歩ほど離れて歩く彼女が振り返ると頬が赤く染まっていた。七海はようやく人間らしい色味に戻った彼女を見て安心したが、「生理的に無理」という言葉を反芻してしまい片手で頭を抱えて項垂れた。それを見てなお彼女は言う。

「クッションカバーもブランケットも洗いたい、な」
「帰ったらすぐ洗濯機にぶち込んでやる」

 七海が乱暴に言うと彼女は楽しそうに笑った。

 トイレに彼女が籠ったきり十分が経過した。説明書を見る限りとうに結果は出ているはずだ。なかなか出てこない彼女にしびれを切らし、七海はドアをノックした。すると閉まっていた鍵が開いてわずかな隙間から彼女が顔を覗かせる。七海はほとんど無理矢理ドアをこじ開けて狭いトイレの中に入ると、本棚にしようと設置した小さな飾り棚の上に置かれた検査薬の窓には濃い桃色のラインが二本くっきりと表示されていた。

「陽性に見える、よね」

 パッケージと見比べながら彼女が言う。

「どうみても陽性です」

 同じく七海も説明書と照らし合わせてみるが、結果を見間違うはずがなかった。

「赤ちゃんできちゃった……」

 彼女は大きく開いた目を潤ませ涙を流すまいと肩を震わせて耐えている。でもそれは家を飛び出した時の様子とは違った。目元は緩やかに弧を描き、唇にも薄らと喜びを滲ませ期待と歓喜に満ちた顔をしていた。もちろん七海も同じ気持ちだった。

「抱きしめたい。いいですか」
「シャワーの後でね」

 ぐいぐいと七海をトイレから押し出しながら彼女は幸せそうに笑っている。七海は背中を押されながら彼女の誕生日を待たず籍を入れるべきではと考えながら浴室へと向かった。忘れっぽい彼女は何でもない日の結婚記念日は忘れてしまうかもしれない。それでもお腹の中の命の責任は自分にもあるのだと誰かに認められたいと思う。今まで感じたことのない不思議な気持ちだった。

 夫婦になって子どもが産まれたら二人はどうなるのだろう。何も変わらない。今まで通り、いや、今まで以上の幸せが訪れるに違いない。そう確信した七海はだらしなく緩む口元をぎゅっと引き締め浴室のドアを開けた。