七海さんの妻になるひと

第2話

 深夜零時を回っているというのに大きな音を立てて七海の自宅扉が開き、それから閉まった。カツカツとヒールの音が玄関に響き「ハア」と彼女の大きなため息が聞こえる。そのままバスルームの扉をバタバタ鳴らしながら開閉したと思ったら勢いよく流れるシャワーの音が聞こえてきた。今日は古い友人の結婚式に出席し二次会にも顔を出すと言いずいぶんと綺麗にして意気揚々と出かけて行ったはずだが、一体どうしたというのだろう。久しぶりの再会を楽しんできたと思っていたのに何かがおかしい。珍しく荒れた様子で帰宅した彼女を七海は入ったばかりの冷たい寝室のベッドから気にかけていた。

 しばらくして乱暴にドライヤーを当てる音が止んで寝室の扉が無作法に開く。七海は開いた扉の方へ顔を向けたがその時には彼女がすぐ側まで来ており、暗くて表情が見えないまま布団に潜り込んだ。それから七海の胸元に顔を埋めて彼の温かい胴体に腕を回してぎゅうぎゅうと痛いくらいに抱きついた。七海はこれはやはり只事ではないと思い、彼女をしっかりと抱き返した。湯上りで体幹は熱いのに彼女の指先とつま先は驚くほど冷たい。ドライヤーの熱でまだ熱い髪を撫でてやる。それほど強くないがアルコールの匂いがする。彼女にしてはそこそこ飲んだのだろうと七海は思った。ゆっくりと呼吸が整うのを待って声をかける。

「おかえり。遅かったですね」
「仕事辞める」

 七海の胸に向かって吐き捨てると鼻を啜り始めた。どうやら泣いているらしい。

「突然どうしたんですか。理由を聞かせてください」

 誰かに何か言われたのだろう。暗い声色で刺々しく言い放つ様子から察するに、彼女は何かに酷く傷ついているようだ。七海は落ち着いて話してほしいと思い穏やかな声を意識的に出した。それなのに彼女には全く響かず大きな動作で顔を上げた。眉を吊り上げ怒ったような、今にも泣きだしそうな、どちらともとれない表情で七海を見上げると強い口調でこう言った。

「結婚しよう。子どもが欲しい」

 目には涙を溜めているが流すまいと堪え唇を噛んでいる。乾燥した唇の皮がめくれて血が滲んだ。七海はあまりにも切羽詰まった様子で決断を迫る彼女に面食らって即答できなかった。そんな七海の姿を見た彼女は、一刻も早く答えろと言わんばかりに刺すような鋭い視線で睨み付け追い詰める。

「それは、今すぐには――」
「じゃあもう別れる」

 七海の言葉を遮り呆れたように彼女が言う。予想外の言葉に七海は全く取り繕うことができず、瞳を左右に揺らしてしどろもどろになってしまった。彼女はそんな反応を見て許さないとでも言い出しそうな顔をして七海の瞳を見つめ続けている。

「嫌です」

 七海は拒否の言葉を吐いたものの咄嗟に視線を逸らしてしまう。その先にまで彼女の刺々しい目線が追いかけてくるのを感じる。

「出ていく」
「行かせない」

 彼女がついに視線を外して言うので七海は焦って顔を上げさせた。充血した目からぽろぽろと涙が流れた。それでも口はへの字に結んで感情の爆発を何とか抑えつけ身体を震わせていた。なんて可哀想なんだと七海は思った。きっと今の彼女の心の中はぐしゃぐしゃで考えが纏まらないのだろう。それでも家に帰ってきてこうして七海に抱きしめられている。思っていることをすべてぶつけてしまいたいはずなのに、なけなしの理性が邪魔をして煮え滾る心の内を噴火すまいと必死で抑えつけようとしているのだ。彼女の事をすべて受け止めてやりたいが「結婚」と「子ども」という単語が七海の頭の中でぐるぐると回って適切な言葉が出てこない。七海もまた、この状況で大いに混乱していた。

――どう答えたら彼女を傷つけない?
――何と答えたら安心できる?

 自問自答するが言葉が出てこない。出て行くと言う彼女に対して行くなと言うことが精一杯だった。それも反射的に口をついて出ただけの安っぽい手だ。こんなことで彼女が納得するだろうか。震える肩を抱き寄せるがその身の緊張は取れず、七海の腕の中で縮こまって何かに耐えていた。

「もう疲れた」
「今日は休んだ方がいい」
「建人のせいだ! 建人がいるから……!」
「目を閉じたらすぐに眠れます」

 七海の手も震えていたが彼女に伝わってしまっているかもしれない。いつも安心と愛情を感じていた彼女の身体から冷え切ったものが七海へと染みてきてどうにも心がざわついた。それでも彼女の悲しみや苦しみを和らげてやりたくて洗い立ての髪をそっと撫でてやる。どうかこの愛が伝わって欲しい。そう願いながら。

「寝たらどうなるの」
「疲れがとれますよ」
「朝が来て、また一日が始まるだけ。何も変わらない。建人に出会いたく無かった。もう別れる!」

 彼女の痛ましい叫びを聞いて七海はこめかみを思いきり殴られたような衝撃を感じた。出会いたく無かった、別れるという言葉が七海の胸を締め上げ全身の血管を収縮させた。鼓動がドクドクと早くなり指先の感覚が過敏になり、彼女の涙の匂いや髪の細さまでもが脳の中心部に伝わってくる。自分と共にあることで世間一般と同じ幸せは手に入らないのだと言われているようだった。離したくないしそんなつもりはないのに、このまま自分から解放してやることが彼女の幸せではないだろうかとさえ思ってしまう。しかし心のどこかでやはりそうかと、仕方がないなと諦めてしまう自分もあった。それが最も腹立たしく、自分にも彼女にも言い訳をするその存在が許せなかった。

 なんと言うべきかわからないが、思ったことを口に出すしか無い。七海はなんとか言葉を絞り出す。

「そんなことは、言わないでください」
「だって……」
「話の続きは明日聞きます。もう休まないと」

 それから彼女は何かが切れてしまったのか七海の胸に納まったまま、深夜にも関わらず大きな声を上げてわんわん泣いた。泣きながらもう別れるのだと何度も言うので七海はその度に嫌だと答えた。しばらくして体の力が徐々に弱まり、小さく唸ったと思ったら涙を流したまま眠ってしまった。七海にはどうしてこんな事になってしまったのか全く理由が思い当たらなかったが、今日の結婚式で何かが起きて彼女が酷く傷付き悲しんでいる事だけはわかった。

 二人は一晩中抱き合ったまま眠った。七海が寝返りをうつと彼女の腕が追いかけてくるから、離れられなかったと言った方が正しい。

 翌朝、七海は彼女より早く目を覚ました。身体を起こすと彼女が七海を探すように手を伸ばしたので手の甲に口付けを落としてからベッドを降りた。それ以上彼女の手は七海を追わなかった。ベッドに力なく横たわってはいるものの、その寝顔は昨夜と違って穏やかだった。

 七海は顔を洗ってリビングのソファに腰掛け、昨夜の彼女を思い出す。何か気持ちを根底から揺さぶられるような事があったに違いないと思い、彼女の動揺と心の傷を想像して胸が痛んだ。誰かの言う通り、彼女の考え通り、自分たちの世界では世間一般の皆が得られる幸せな生活は望めない。いつかどちらかがぐちゃぐちゃになって死に、最愛のパートナーを残して逝く。いつもそんな事を考えてしまう。因果な商売をしていると思うが、他に生きていく方法を知らない。それに、七海は一度捨てたこの世界に自らの足で再び戻って来た身だった。

 七海が己を自嘲する大きなため息を吐き終えた時、寝室の扉が静かに開く。わずかな音がした方に目を向けると、瞼をぼってりと腫らした彼女が昨夜と同じ固い表情をして立っていた。虚空を見つめる瞳に涙は無かったが諦めや虚しさを思わせる色が見て取れる。いつもの満たされた表情の彼女はいない。あの一晩で心がカラカラに乾いてしまったのだろう。

「昨日は、ごめんなさい」

 なんとか絞り出した情けない声を出し謝っている。きっと昨夜の事を後悔しているに違いない。真っ青な顔色でぼんやりと立つ彼女を見て七海は優しく微笑んで、春の海のように穏やかな声でこう言った。

「おいで」

 それを聞いて彼女はとぼとぼと歩みを進める。ソファに座るかと思ったのに七海の大腿の上へ横座りになると彼の首に手を回して鎖骨辺りに顔を埋めた。七海はひとたび胸を撫でおろす。まだ自分は求められているとわかったからだ。彼女の腰を支えながら身体を包み込むように抱いてやるとスンスンと鼻を鳴らした。体温に触れた途端に溢れ出すものがあったのだろう。七海の首元に生温かい液体がぽたぽたと落ちてきた。それは彼女の涙だった。

 七海が柔らかい声で言う。

「しましょう、結婚」
「えっ」

 彼女の身体が再び固くなり、がばりと身を起こす。濡れた瞳を七海に向けると大きく眉を下げて首をブンブンと横に振った。

「子どもも作りましょう。君との子が欲しい」
「違う。たくさん飲んでて頭がぐちゃぐちゃに――」
「違わない。君のおかげでようやく決断できた」

 悲痛な表情で昨夜の事は間違いだったと否定する彼女とは対照的に、七海は満ち足りた気持ちでいっぱいだった。何か吹っ切れたような清々しい顔をして彼女の頬を撫でている。

「昨日は結婚式が羨ましくて、ちょっとした気の迷いだからそんな事言っちゃダメ。本当にごめんなさい!」

 再びボロボロと涙を零しながら彼女は七海の肩口に埋まってしまった。堪えきれない嗚咽を漏らしながらとめどなく溢れる涙を彼のパジャマに落とした。そんな彼女を落ち着かせようと背中を撫で、震える身体を包み込んでやる。しばらく喉を鳴らしながら「ダメだよ」と言い泣き続けていたが、七海は彼女を抱く手を決して離すことなく愛を伝え続けた。君の事が大切だと。自分に愛を与えてくれた人だと。世界で唯一の存在だと。しかし何度も伝えたのに彼女が首を縦に振ることは無い。

 そうやってしばらく時間が経ち呼吸が徐々に落ち着いてきた時、彼女がグズグズと鼻を啜りながらわずかに顔を上げる。怖々と七海の顔色を探るように見ると、彼は静かな表情で彼女を見つめ返した。

「こういった話題を意図的に避けていました。この幸せが永遠で無いかもしれないと考えると怖かったんです」
「この仕事してるんだから仕方ないよ。我儘言ってごめん。わかってるから。一緒にいられるだけで幸せだよ。形なんてどうでもいい。ずっと一緒にいて欲しいだけ」

 もう何度目かの謝罪を織り交ぜながら彼女は諦めたように七海に言う。そんな彼女の言葉を最後まで聞くと、七海は首を横に振った。

「お願いです。私と結婚してください。君を愛してる」
「お願いだから考え直して」

 引っ込んでいたはずの涙が再び流れ出したと思うと再び顔を歪めて泣き出してしまった。何度も愛を伝えているのに彼女は一向に泣き止まず項垂れたままだった。どうしても納得してくれない彼女を七海は大腿から降ろして横に座らせる。顔を両手で包み込むとまだ泣いている顔を覗き込む。彼女がこんなに涙を流す姿は初めてだった。よほど辛く、昨夜の事を悔やんでいるのだろう。どうしたらこの気持ちをわかってくれるのかと七海は思案した。

「一晩考えてこの答えなんですがおかしいですか」
「おかしい。今まで通りで良い」

 即答する彼女の意思は変わらないのだろうか。それならばと七海は感情論を捨てる。愛などという形の見えないものに頼るべきでは無かったのだ。彼女をこの結婚という契約に同意させる必要がある。七海は彼女の頬から手を離して再び姿勢を正して向き直り、真っ直ぐにその目を見つめた。先程とは打って変わって真剣な表情だ。雰囲気が変わった七海を見て彼女は少し驚いたように腫れた目を見開いた。両肩を掴まれほとんど無理矢理七海へと向かされる。こんな至近距離では顔を逸らすことさえできず、七海の目を見るしかない。

「いいですか。君と私が結婚すべき理由は三つあります。一つ、婚姻関係があれば私が遺したものを君と子に相続できる。二つ、この先何があっても君と別れるつもりは無い。三つ、君と家族になって家庭を築きたい。以上です。このように、君と結婚することは私にとってメリットしかないんです。昨夜の君に同情して言ってるんじゃないという事を分かって貰えますか。イエスの返事しか聞きたくない」

 七海の真剣さと勢いに圧倒され彼女の出かかっていた涙は引っ込んだ。必死のプレゼンテーションを終えた七海は肩を上下させながら酸素を取り込んでいる。耳元が赤く染まっていて全身で彼女に訴えかけているようだ。

 一呼吸おいて彼女が言う。

「……本気? 取り消しは無しだよ」
「本気です。死んでも取り消さない」

 了承の返事だと思い七海はそのまま勢いよく抱きしめた。腕を回してくるかと思ったのに、彼女は脱力したまま呆然として小さな声でぽつりと答える。

「嬉しいけど、いいのかな。やっぱりダメだよ……」

 弱々しいその返事には迷いがあるようだった。それでも七海は諦めず祈るように懇願する。

「法的に認められるというくらいで生活は今までと変わりません。でも、今までよりもっと大切にします。約束です。もう二度と辛い思いはさせない。お願いですからいいと言って」

 七海の勢いに圧倒されたのか彼女が小さく笑い声を漏らした。それからそっと七海の背中に腕を回して抱き返す。ようやく許しを得たような気持ちになった七海は、彼女の事があまりにも愛おしくて更に強く抱きしめた。ぎゅうぎゅうに締め上げられてしまい彼女は苦しいと小さな声を漏らしたが、七海は力を緩めることが出来ず感嘆のあまり呻き声をあげてしまう。この気持ちを表す適切な言葉は愛以外に知らない。自然と涙が溢れてきたので人は嬉しい時にも泣くのだとわかった。

「あのね、もう十分大切にされてるよ。どうして建人は私に優しいの?」

 七海の涙に気付いたのか、彼女が温もりに満ちた声を出して聞いた。

「この世界で一番大切に思っているからです。簡単に言うと、愛です」

 七海は真面目に答えたつもりだったのに、それを聞いた彼女は声を上げて笑った。何が可笑しいのかとむっとして腕を離し彼女の顔を見ると、何もかも許し理解している聖母のような表情をして微笑んでいた。そこにカーテンの隙間から朝陽が差し込み、彼女の誠実さと美しさを際立たせ七海は息をのむ。

「私って建人に甘えてばっかり」
「甘えているのは私の方です。君が何も言わないのをいい事にこの関係を続けようとしていた。どうせ別れるつもりなんて無いのに、それならさっさと結婚すれば良かったんです。私は一体何をモタモタしてたんでしょう。結果的に君を悲しませてしまった自分に腹が立つ」

 再び饒舌に話す七海を見て彼女はまた笑顔を見せている。それから少しばつが悪そうにうつむいて、七海を覗き込んでこう言った。

「酔ってたし、周りから色々言われちゃって……。私たちのこと知らない人に掻き乱されたく無かったのに」
「そうさせたのは私です。責任は取ります」
「私にも責任があります。よろしくお願いします」

 七海が深々と頭を下げると彼女はその頭をがしがしと撫で、それから彼女も頭を下げてそのまま七海の胸に飛び込み抱き着いた。

「こちらこそ。今日から君は私の奥さんなんですね」
「そうだよ。ご主人様」
「それは、何か違う」
「ねえ、夫婦になったらすることって何?」

 悪戯っぽくはにかんで七海を見上げるその顔は最早確信犯であったが、七海はその誘いに乗ることにした

「まずはおはようのキス。それから愛してるのハグ。この先はベッドで」
「それなら今までと同じなんじゃない?」
「今日は記念日になるので特別な愛を捧げます」

 そう言って七海は彼女を抱き上げると足取り軽やかに先ほどまで眠っていた寝室へと向かった。シーツにはまだ二人の温もりが残っている。

優しく寝かせた彼女の唇に七海の唇がゆっくりと重なり溶けるようなキスをした後は、二人とも夢中になってお互いを求め続けたのだった。