夜遅く七海が帰宅した時、すでに三人の子どもたちはすやすやと眠っていた。しかし寝室に妻の姿は無く、リビングへ入るとソファでぼんやり横になっている。いつ産まれてもおかしくない週数になりお腹もさらに大きく、上を向いて寝ることができないらしい。
「具合でも悪いんですか」
「んー、胎動が無い気がする」
七海は驚いて妻の元へ駆け寄りその大きな腹部にそっと触れた。温かい。
「いつから?病院に行った方がいいんじゃないですか」
「三時間くらい前から。子どもたちを置いていけない。明日保育園に預けてから行く」
「子どもたちの事はなんとかしますから、君は今から病院に行ってください」
言うが早いか七海はさっさと病院へ連絡し、テキパキと陣痛タクシーを呼び、入院セットまで用意した。もう一度寝室に行って子どもたちの様子を確認する。よし。よく眠っている。マンションの下までよろよろと歩く妻に付き添い、車に乗り込む姿を見送った。妻と四人目の子の無事を祈りながら自宅に戻ると、一番上の子どもがお気に入りのブランケットを持ってちょこんとリビングのソファに座っていた。帰ってきた七海を見つけると目に涙を浮かべる。うるうると瞳に涙をいっぱいに溜め、それでも泣くまいと口をへの字にして堪えている我が子を七海はそっと抱き上げ、背中をさすってやった。
「起こしてしまいましたか」
「おかあさんどこ」
ヒックヒックと嗚咽を漏らしている。不安で仕方が無いのだろう。声をあげて泣きたいはずなのに必死に耐える長女を七海はいじらしく思った。
「お母さんは先生にモシモシしてもらいに行きました」
「おなかいたいの?」
「大丈夫。すぐ帰ってくるよ」
七海の肩で涙を拭い、顔を埋めている。顔を上げると不安そうな表情を浮かべていたが、しばらく抱いていると大きなあくびをしたので寝室に連れていった。
「お父さんもお風呂に入ったらすぐねんねしますから、先にお布団でゴロンしててください」
長女は小さく頷くとブランケットの端っこを握りしめ目を閉じた。その小さな背中をとんとん叩いてやる。しばらくすると規則的な寝息が聴こえてきたので、七海は音を立てないようそっと襖を閉めた。
風呂から上がって明日の保育園の準備をしていると、妻から連絡が入った。
『赤ちゃん無事だった。でも子宮口開いてて陣痛も来ちゃって、このまま産まれると思う』
「二人とも無事でよかった。こっちのことは任せて。すぐには行けませんがなんとかします」
『ありがとう。もう四人目だし来なくても大丈夫だよ。……痛くなってきたから切るね』
「頑張ってください」
電話を終えると七海は伊地知に事の経緯を伝え、明日の仕事の調整を依頼した。しばらくしてコールバックがあり、幸運にも明日は非番となった。どのように調整できたのかはわからないが、かなり無理をしたのだろう。今度なにか埋め合わせをしなくてはならない。四人目ともなるとスピード出産が予想される。三人目の時も陣痛が始まって病院に向かう車中で破水したことを思い出す。着いたら即座に分娩台へ移動し、あれよあれよという間に産まれた。きっと四人目の子は今夜中に産まれるだろう。七海は明日の朝食の支度をしておくことにした。子どもたちが喜んで食べ片付けがすぐ終わり、エネルギー補給ができるもの。あれこれ考えて下ごしらえを済ませた。
朝食の準備と保育園へ持っていく荷物作りを三人分終えると、どっと疲れが出た。寝室に行くと子どもたちが三人折り重なって七海の布団で寝ていたので、一人ずつ抱き抱えそれぞれの定位置へと移動させる。何度かけても蹴られるタオルケットをまたかけてやり、一人ひとりの頭に優しくキスをした。先程まで占領されていた七海の布団には、まだ子どもたちの温もりが残っている。
「みんな君にそっくりだ」
寝ている子どもたちを見て小さくつぶやく。目を閉じると、七海はすぐに眠ってしまった。
目覚まし時計のアラームが鳴りスマートフォンを確認すると、妻から『午前三時七分 元気に産まれました』と画像付きでメッセージが入っていた。良かった。無事産まれたようだ。七海はほっと胸を撫で下ろし、のそのそとベッドから這い出て洗面台で顔を洗う。妻には短い返事を返し、大きく伸びをした。窓を開けて電気をつけ、子どもたちを起こす。寝る時にはきちんと各所へおさめたはずが、なぜか朝にはいつも団子になっている。子育て七不思議の一つだ。
「さあ、みんな起きて。朝です。今日のご飯はフレンチトーストですよ。いただきますの一等賞は誰ですか」
七海が子どもたちに声をかけると、モゾモゾと布団の上で丸くなっていた団子が三つにばらけて起き上がる。目を擦りまだまだ眠そうな表情だ。起きたと思ったらまた布団に倒れ込んだ。さあ、誰が一番に起きてくるのか。
「おしっこ……」
上の子どもをトイレに連れていき、その間に下二人のおむつを替える。寝ぼけ眼をこする子どもたちを洗面台に誘導して顔を拭いて口をゆすがせ、食卓へ連れていきハイチェアに座らせる。一連の流れるような速さはさすが三児の父だ。
「あーたん、いないねえ」
きょろきょろと辺りを見回して真ん中の子が言う。朝の勢いで気づかないかと思ったが、そういうわけにはいかないらしい。どう説明しようかと迷っていると、一番上の子が口を開く。
「おかあさんは、せんせーにモシモシしてもらってるからね、だいじょぶだからね」
小さな手で頭を撫で付けながらうまく説明していて感心した。昨夜は泣いていた上の子も、年長者としての役割を果たそうと懸命に考えているようだ。七海はその健気な様子に胸があたたかくなった。
幼児たちの会話を小耳に挟みつつもやることはたくさんある。食事をとらせながらこぼしたテーブルを片付け、着替えさせ自分も着替えて身だしなみを整える。保育園バッグは前日に準備しているので大丈夫だが、朝の検温をしなければならない。体温計を脇に挟んでおくだけでも一苦労だ。いつもは妻と二人でする朝の支度も七海一人では目が回る忙しさである。これが噂のワンオペ育児か、と七海は思った。
「さあ行きますよ。お靴をはいて帽子をかぶりましょう」
ここまで一時間半。一人でこなせたことは誇ってもいい。伝家の宝刀である「一等賞は誰ですか」を数え切れないくらい使いなんとか八時に家を出ることに成功し、いつもの時間に保育園へ三人ともおくりとどけることができた。七海はすでにひと仕事終えたほど疲れていたが、これから妻と新しく産まれた我が子に会いに行き、その後で今後の仕事の段取りもしなければならない。最低でも四日は入院するし四人目の世話で妻は寝る時間もなくなるのでこの慌ただしさはしばらく続くだろう。
あっという間にお迎えの時間がやってきた。保育園の帰り、子どもたちに告げる。
「もうすぐ赤ちゃんがうちにやってきます」
「やったあー!」
喜びの言葉を口々に言い、飛び跳ねている。どのおもちゃを貸してあげようだとか、公園に一緒に行きたいだとか、抱っこの順番までも決めていた。
「みんな仲良くできそうですね」
三人は「はーい!」と元気よく返事をして、七海と共に帰路についた。
七海家の四人目の子がやってくるまであと四日。子どもたちと一緒に指折り数えて待つ。これからもっと騒々しくなりそうだ。