七海家に三人目の子が誕生したときのこと。年子三人に毎日翻弄されながらも七海と妻はうまくやっていた。七海は家事や育児は当然のこと、仕事もつつがなくこなしている。妻は二人の育児で学んだことを生かし、肩の力と手を抜いて一人目、二人目よりは気楽に過ごしていた。もちろん何度か些細な衝突はあったが、七海夫婦はその都度乗り越えて絆を深めてきたのだ。恋人の延長である新婚時代とは違い、困難を共に乗り越えてきた二人は戦友のような関係だった。赤ちゃんは無力でそのすべてを周囲の人々の手助けでまかなっている。三人目の子が座ったり立ったりするのはまだ先の話だ。さらにいうと自立するまで二十年ほどかかる。それまで二人で支えあい、不自由のない生活を送らせてやりたい。仕事柄常に命の危険があるが、子どもたちの成長を見守るまで死ぬわけにはいかない。七海と妻はそう思い、今は仕事をセーブしている。独り身の時とは違ってしがらみも制約も多いが、その分得たものも大きい。今や七海はその力強い両腕いっぱいに大切なものを抱えていた。一つも落とすことができず、身動きがとれないと感じることもある。年齢的にも肉体のピークは過ぎ体力の衰えを感じざるを得ないし、どんなときでもなりふり構わず百パーセントで突っ込んでいくことができなくなった。要するに最近の七海は守りに入っているのだ。死ぬかもしれないと思ったとき、家族の顔が頭をよぎる。妻が七海に向ける情愛のまなざし、子どもたちがくれる無償の愛。今ここで死ぬわけにはいかないと撤退し、一歩踏み込んで攻めることができない。周囲からの評価も変わってきている気がする。良き父良き夫としての七海がクローズアップされればされるほど、呪術師としての評価が落ちていく気がした。別に誰かに何か言われたわけではないのだが、最近はどうも色々な事がうまくいかない。
「お疲れ様でした。ご自宅までお送りします」
「お迎えがあるので最寄り駅までで結構です」
「了解です。今日も定時上がり、さすがです。七海さんって家族思いなんですね。この業界では珍しいんじゃないですか」
郊外の調査と祓除を終え補助監督から声をかけられたとき、七海の疑惑はさらにその色を濃くした。ここ数年で呪術師の労働環境も改善傾向にあり家庭を蔑ろにして働くことを求められているわけではないが、そういえば最近仕事内容の明らかな変化を感じる。地方へ出向くことが極端に減り、危険度の高い仕事は若手に振られるようになっていた。今日だって本当は遠方の拗れそうな任務へ行く話が出ていたのに、別の者が派遣されたとかで七海は後輩術師の指導役を任されたのだ。七海の等級は一級でそれなりの修羅場を何度も乗り越えてきた。命を賭して働くことにやりがいを見出しているわけでは無いのになんとなく腑に落ちない。アスリートが現役を引退する時、どんな気持ちなのだろう。マラソンを途中棄権するような無念さだろうか。それとも完走したときのような達成感だろうか。七海にはこの感情の正体がまだよくわからなかった。
夕方の保育園はお迎えの親子で賑やかだ。エントランスでいつもの男児たちが走り回り、いつもの親たちが声を荒げて注意しているのに止まる気配はない。毎日見るその光景はもはやお約束で、年長男児ともなれば親が怒ろうが怒鳴ろうが全く意に介さず騒いでいる。娘たちはどうなるのだろうかと七海は考え、少し心配になった。ただでさえ一番上の子のイヤイヤ期には手を焼いた。近頃幾分ましになってきたというのに、次は次女の番が待っている。そんなことを考えながら靴を脱いでいると遠くから長女の声が聞こえた。
「とーたん! きた!」
たまたま廊下に出ていた長女が駆け寄り足元にくっついた。にこにこ笑いながら涎まみれの頬を七海のスラックスに擦りつけている。ぽかぽかと温かい幼児の体温に触れ七海はほっと気持ちが緩むのを感じた。カラー帽子を被っているので外遊びをしていたのだろう。追いかけてきた保育士が「七海さんおかえりなさい。お砂場でお店屋さんごっこをしていたんですよ」と笑顔で教えてくれた。帰り支度をするため部屋へ行こうとする七海を見上げた長女は手を真っ直ぐに伸ばして抱っこをせがんだので、頬を緩めて抱きかかえる。産まれた時よりかはずいぶん大きくなったとはいえ、まだまだ赤ちゃんに毛が生えた程度だ。言葉を理解して自己主張が増えてはいるものの、身の回りのほぼすべてを誰かに頼り生きている。あまりにも無力で小さい存在だ。親が守ってやらねばだれがやるのかと思い、七海はぷくぷくとした頬を堪能するように頬擦りをした。次女は部屋で保育士と共に積み木をしており、七海を見つけて立ち上がると膝を曲げて伸ばして喜んだ。飛び跳ねたいほど嬉しいのに、まだうまくいかないのだ。別の女児を抱きながら保育士が「おじゃこごはんを二回もおかわりしたんですよ」とにこやかに言った。今日も元気よく過ごした。それだけで十分だ。七海は挨拶をして保育園を後にした。
次女を抱っこ紐でおんぶし長女と手を繋ぐ。幼児二人を連れて徒歩で帰宅するには少々誘惑が多い帰り道。公園もあればスーパーマーケットと消防署もある。お花を見たいだとか、石を拾おうとしたりだとか、消防車に手を振ったりスーパーでお菓子を買いたいとねだったり忙しい。その都度「おうちでお母さんが待っていますよ」と言ったり「晩御飯はオムレツだそうです」などと言ったりしてなだめすかし、なんとか自宅へとたどり着く。
「あかちゃん!」
「ただいま、でしょう。赤ちゃんを触るのは手を洗ってから。お荷物のお片付けをして、お洋服もきがえないといけません」
七海の注意を聞くことなく長女は玄関に靴を脱ぎっぱなしにして、妻と先日産まれたばかりの三女の元へと駆け寄る。まだこの年齢でたくさんの約束を守ったり次を考えて行動を組み立てるのは難しい。そうわかっているのに注意してしまったことを七海は後悔した。どうしても長女には厳しい目を向けてしまう。お姉ちゃんだからなどということは言いたくないが、次女と三女を見ているともう赤ちゃんでは無いのだから、という言葉が口を突いて出そうになる。七海はもう一度三歳ごろの子どもの心身の発達を思い出し、長女の後を追って一緒に手を洗ってやった。次女は七海の背中で眠っている。夕寝をすると夜の寝つきが良くないが、おんぶ紐に入れられて揺られていると眠気には抗えないようだ。
「おかえり。今おっぱいあげてるから夕食途中なんだ」
「無理して作らなくてもいいと言ったのに。まだ身体がしんどいでしょう」
「冷蔵庫見ちゃうともったいないなーって思っちゃって。簡単なものしか用意してないよ」
「食材が片付いたらしばらくは買ってきますから」
七海の提案に妻は「うん。そうする」と素直に返事をして、赤ちゃんを覗き込む長女に語りかける。
「赤ちゃんって、ちいちゃいねえ。かわいい手。ほら、なでなでしてあげて」
「かあいいねー。ちいちゃいてだねー」
つい最近まで長女も同じような赤ちゃんだったはずなのに、月日が経つのは早いものだと七海はエプロンを着けながら思った。
家庭を持つことを夢見ることはあれど、実際にこうなるとは想像さえしていなかった独身時代を思い出す。望むと望まざるとにかかわらず仕事に明け暮れて生傷が絶えなかった。妻も同じく命の危険が伴う現場でヒリヒリした任務をこなす日々だった。絶え間なく現れる呪いを祓い、これは運命で仕方のないことだと己へ課せられた因果を含めて色々なものを諦めてきたのに。それでも妻と出会い考えが変わって子を成した。今では三人目も産まれ、これから七海はどうなっていくのだろう。子育てをしていると日々のタスクに忙殺されて自分を顧みる時間など無い。朝の支度から寝かしつけまでノンストップで過ぎ去っていく。子どもたちの寝息を確認する前に自分が眠ってしまうことさえある。妻は妻で夜間何度も起きておむつを替え授乳をして、十分な休息がとれていなさそうだ。守るものが多ければそのぶん強くなれるのだろうか。それとも身動きがとれず右往左往するだけになるのだろうか。いずれにせよこの現状を受け入れ、できることをやるしかない。七海には考えることもすべきことも多すぎる。それでも何一つ捨てることなどできるわけはなく、諦めることもできない。今一番すべきことは豆腐を切ってみそ汁に入れ、おなかをすかせた子どもたちに食事を作ってやることだ。
「手伝うよ」
授乳を終えた妻が長女と手を繋ぎキッチンへと入ってきた。七海の背中にはいまだに眠りこけた次女がいる。最近めっきり重くなってきた。寝ると全体重をかけてくるせいかずっしりと重い。そんな次女をあやすためリズムを付けて身体を揺らしながら七海は夕食の支度を進めていく。腕まくりする妻へ向かって視線を移し、目の下にあるうっすらとした隈を親指で拭う。当然とれるわけもないのだが、妻が寝不足であるのは確かなようだ。
「君は少し休んだ方がいい」
「今日はお昼間によく寝てくれて、その時に一緒に寝たから元気だよ」
七海の心配をよそに妻はニッコリと笑顔を作ってピースサインをした。確かに一人目、二人目で培ったノウハウがあるようで余裕が感じられる。それでも。
「ただでさえ産後はしんどいと聞くのに、今君に倒れられたら我が家はめちゃくちゃになる。無理せず休んで。お願いします」
長女のとき、産後に油断は禁物だと家入から釘を刺されたことを思い出す。もちろん無理をさせるつもりなど毛頭ないしさせてもいないのだが、三人目で慣れていると油断した今こそ注意すべきだと七海は考えていた。
「無理してるのはどっちだろう。最近、元気ないよ」
そんな七海の心配はよそに、妻は七海を下から覗き込んで咎めるように言った。七海もまた目の下にうっすらと隈を浮かべている。七海は無理をしているつもりは無かったが、確かにここのところゆっくり休む時間はとれていない。
「そうでしょうか。夜は君にほとんど任せているから眠れていますが」
それは妻も同じで昼夜問わず赤子の世話をしているから仕方が無いことだと割り切ってやってきたつもりだ。しかし振り返ってみると、昨日も一昨日も補助監督と後輩に「疲れてるんですか」と聞かれたし、やはり誰の目から見ても疲労は蓄積しているようだ。
「元気のもとは睡眠だけじゃないでしょ」
「きちんと三食とっているし、愛する妻と子がいて何も不足はない」
「でも、悩んでるって顔してる」
妻が七海の眉間の皺をトントンと叩き、指で伸ばす。知らぬ間に眉間に皺をよせていたらしい。それは若い頃からの癖のようなものだが、若手から怖がられるし子どもが驚いていると妻に言われ最近は注意していたつもりだった。
「……思えば遠くまできたものだと考えていました」
「どういう意味?」
「あとで詩集を見せましょう。感想を聞かせてください。まずは食事の準備を」
妻は気のない返事をして、七海がまた何やら悶々としているのではなかろうかと疑った。そんな妻をよそに、七海は鼻歌を歌いながら手のひらの上で豆腐を切った。長女が寝ている三女のベッドを揺らしたせいで泣き声が聞こえてきたので、妻は濡れた手を拭って子どもたちの方へ行ってしまった。妻と子の騒がしい様子を見て七海は微笑んだ。今はこれでいい。今日という日は二度と訪れない。今はこの幸せを噛みしめ、家族と共に歩んで行くのだと決意し鍋の中でみそを溶く。長女の好きな豆腐とわかめのみそ汁と、次女の好きなオムレツが今日の夕食だ。コンソメスープの方がオムレツには合うかもしれないが、これはこれでいい。ご飯をよそいつつ七海は明日の仕事の算段をし、ふっと息を漏らして小さく笑った。
過去を振り返ってみると決して良い思い出ばかりではない。一般人とはかけ離れた仕事を生業としているため辛酸を嘗めてきた。喪失や別離も数えきれないくらい経験してしまった。しかし、それだけではないと七海は思う。家庭や家族は作らないと自らつけた枷を外した時から世界は変わったのだ。そのために何かを諦め捨てた気持ちになっていたがそれは違う。望んで手に入れた所帯はかけがえのないもので、何かを犠牲にしたわけではない。確かに以前と比べ身軽さは無くなったが、それは七海にとって心地の良いものだ。妻と子らとこれからの人生を共に歩んで行く決意を改め、七海家に産まれた三人目の子のもとで騒いでいる賑やかな女性たちに向かって
声を掛けた。
「ご飯ができたよ。みんなで食べましょう」