オレの名前は猪野琢真。保育士でもなければ体操のおにいさんでもない。今オレの背中の上には三人の幼児が乗っている。子どもというのは加減を知らない。かれこれ二時間は似たような状態が続いてるんだ。七海サンはこれを毎日やってるってんだから本当に尊敬する。やっぱ七海サンってスゲェ。
七海家に新しい命が誕生して一カ月。家族五人の暮らしは最新家電と食材宅配、保育園とベビーシッター猪野琢真、時々伊地知の協力でなんとか成り立っていた。誰かが体調を崩せばとたんに倒れる、薄氷の上を歩くような日々だ。本日妻は産後の産婦人科検診の予約があるが、七海は早朝からどうしても代わりのいない仕事へ行かなければならなかった。でも子どもたちを保育園に送ってやらねばならない。産後間もない妻に幼児三人を連れて歩かせるわけにはいかない。今回は出血量が少々多く、輸血こそしなかったもののまだ少し貧血気味なのだという。悪露も続いているらしく産後は油断大敵である。七海も妻も両親の援助を受けることが難しく、家政婦やベビーシッターを手配しなければならないだろう。そんな話を職場で相談しているところをたまたま聞いた猪野が保育園の送迎を買って出た。以前より時折七海家の子どもたちと遊ぶことがあり、みんな猪野が大好きなのだ。特に一番上の子がよく懐いており「きょうタクマくんくる?」と毎日のように聞いている。タクマくんは七海家でも大人気だった。
マンション入口の呼び鈴が鳴らされモニターを確認すると、見知った人物が得意げな顔をして立っていた。可愛げのある後輩を見て妻は微笑み、重い体を起こしてヨロヨロとオートロックを解除した。しばらくして玄関ドアのベルが鳴らされ、その音を聞いた途端に子どもたちは勢いよく玄関まで走っていく。裸足で玄関先へ出て猪野の足元にまとわりつきながら口々に歓迎の言葉を述べ大喜びだ。先ほどまで人形の取り合いで喧嘩をしていたのに何事もなく仲良く振舞う子どもたちのパワーがまぶしくて仕方がない。妻は顔を綻ばせながら挨拶をした。
「猪野君おはよう。朝早くからごめんね」
「全然大丈夫ですから! 寝ててください!」
猪野は大きな袋を「コレは差し入れです!」と言って差し出した。中には大量のレトルト食品と子どもたちのお菓子が入っていた。出産祝いも貰っているし、子供の面倒をお願いしているのに更に差し入れとは本当に気が利くと妻は感心した。彼ほど完璧な後輩はいるだろうか。妻はぺこりと頭を下げ、何度も礼を述べる。そんな母をよそに子どもたちは大いにはしゃいだ。ブロック、ぬいぐるみ、おままごと、公園……。それぞれが自分のやりたい事を伝えて猪野の腕を引っ張って取り合った。
「保育園の用意はそこに三人分あるからお願いします。送って行ってもらったらあとは大丈夫だから」
「イヤイヤ、何言ってるんですか! 七海サンから通院の送迎も聞いてます。遠慮なくこき使ってください!」
サムズアップでウインクする猪野に感謝を伝え、妻は再度布団に横になる。一番下の子が寝たタイミングで身体を休めたい。子どもたちは今すぐ遊びたがってぶーぶー文句を言っていたが、猪野に上手く乗せられ保育園へと出発していった。いつも感心するのだが、猪野は子どもの扱いがすこぶる上手い。後輩力も高いうえに子どもにも慕われ非の打ち所がない。それに甘えてばかりではいけないと思いつつ、彼は時折子どもたちと遊ぶためだけに来てくれるのだ。本当に頼りになる後輩である。眠っている赤ちゃんと二人きりになると途端に家の中が静まりかえった。健診までもう少し時間がある事を確認した七海の妻は目を閉じるとすぐに眠ってしまった。無理もない。夜間の頻回授乳と産後の疲れがまだ癒えず、上の子たちの世話もあって疲労困憊だった。
それから産婦人科の健診を終えた七海の妻と猪野の二人は近所にある総菜屋のお弁当を買って帰宅した。虚ろな目をしながらもそもそと食事をする七海の妻を早く休ませてやりたいと猪野は思った。彼には家庭や子育てといったものがまだよくわからなかったが、ともに修羅場をくぐった先輩が満身創痍になっている様子を見て力になりたいと心から願った。子どもたちのお迎えは七海が行く予定になっているからそれまでできる限りのことをしようと猪野は尽力した。食器や散らかったおもちゃを片付けて、更には買い物を買って出る。夕食は作るよりも買った方がよいと、近所の総菜屋で色々と買い冷蔵庫に入れておいた。
「何から何まで本当にありがとう」
「いーんですって! 七海家のみなさんにはいつもめちゃくちゃ世話になってますから」
世話になっているのはむしろこちらの方だと妻は思いながら、きらきらと爽やかに笑う後輩に妻は心の底から感謝した。
ドアが開く音がしたと思ったらすぐに子どもたちの賑やかな笑い声が聞こえてきた。玄関にある猪野の靴を見てキャアキャアと歓喜の声を上げて家の中へなだれ込む。そんな子どもたちを七海がたしなめるが興奮状態の子どもたちは止まらない。
「タクマくん! きょうねえー、ぬりえしたんだよー! これみて!」
「タクマくんあそぼ! おみせやさん!」
「おうま! おうま!」
みんな次々に遊びを提案し、猪野の手足にまとわりついて離さない。妻が「一人ずつお話しようね」と言ったら猪野の前に子どもが一列に並んだ。順番に遊ぶ約束をしてなんとかその場はおさまり、まずは三女がおうまさんごっこをしてもらうようだ。三女は軽いからいいが、小さくて不安定なので落とさないかと気を遣う。次女はまだ力加減がうまくできずにおうまさんを引っ張って叩いて滅茶苦茶だ。長女は比較的大人しいが楽しくなると背中の上で跳ねるので衝撃がすごい。身体が資本の仕事なので各々鍛えてはいるのだが、背中の上で飛んだり跳ねたり予想外の動きをする子どもを制しながらパカパカと歩くのは容易く無い。何度もやっているうちに三人全員が乗っかって、もっと早く走れだのジャンプしろだのビームを出せだのと要求がエスカレートして、おうまさんは徐々に疲弊していく。それでも猪野は子どもたちを順番に乗せては降ろし、見事最後までおうまさんをやってのけた。本当にできた後輩である。
「猪野君、ほどほどでいいですよ。疲れるでしょう」
「大丈夫です! 七海家のためならオレ、おうまさんでもお店屋さんでもなんでもやりますよ」
「頼もしいですね。こういうときはパズルや絵本をちらつかせると身体を少し休めることができます」
そう言って七海はリビングの子どもスペースを指差した。さすが四児の父。子ども心をよくわかっていると猪野は七海に畏敬の念を覚えた。パズルと絵本の単語を耳にした子どもたちはまた嬉しそうに歓声を上げながら猪野をひっぱって、丸いふわふわとしたラグの上へと座らせる。それぞれがお気に入りの絵本とパズルを持ってきて一緒にやろうとせがんだ。じゃんけんで本を読んでもらう順番を決めようと長女が言い出すが、三女はルールがよくわからずに「これ!」と猪野の前へ布絵本を差し出している。それに対して次女が順番を守っていないと文句を言い、長女が三女をなんとか説得しはじめる。やはりまだルールや決め事を守るのは難しく長女の話のほとんどを理解していないはずだが、ウンウンとうなずいて一応は話を聞いているようだ。そんな子どもたちとたのもしい後輩をそっと見守りながら七海と妻は保育園バッグの中身を片付けていた。洗濯物をまとめて洗濯機へ放り込み、コップやスプーン、フォークなどの洗いものは食洗器へと突っ込んだ。その間も猪野と子どもたちが遊ぶ楽しそうな声が聞こえてくるので妻と七海は顔を見合わせて苦笑した。微笑ましいやら、ありがたいやら、申し訳ないやら、色んな感情がないまぜになった気持ちを表現する適切な言葉が見当たらない。猪野が子どもたちの気を引いてくれているうちにやれることをやってしまおうと二人は無言で頷き、せっせと用事を片付けた。そうこうしているうちに四女がふにゃふにゃと声を出して泣き始めたので妻は授乳のため別室へと去っていく。七海はその間に夕食の準備をしようと冷蔵庫を開け、スープの準備に取り掛かる。サラダやおかずは猪野が買ってきてくれた惣菜に頼り、ごはんは今朝予約していったので炊けているはずだ。
これから夕食を食べさせ、全員を順番に風呂に入れて寝かしつけなければならない。そうこうしているうちにまた次の日が来て、今日と同じことを繰り返す。終わりのない日々のように思うが一日として同じ日は無い。子どもたちは毎日少しずつ成長していくのだ。最近では言葉がでなかった三女が突如様々な単語を喋り出した。次女はイヤイヤ期で癇癪を起こしがちだったのに、約束やルールを自分から確認できる時が増えてきた。長女はお
姉さんぶりに磨きがかかって妹たちのお世話を率先してやり、それに充実感を得ているようだ。目まぐるしく過ぎていく日々を時々振り返りながら、七海は幸せを噛みしめた。
四人目が産まれこれからしばらくは大変な日々が続くだろう。授かった新しい命を守らなくてはならないと、七海と妻は手を取り合って歩き続けるのだ。