「わー! 建人来て! ついに立ったよ!」
元気な妻の声が家中に響いたと同時に、手にいっぱい泡をつけた七海が妻と長女の元へと駆けつける。昨夜目を離したすきに焦げ付いた鍋はキッチンに放ってきた。それどころではない。
リビングに滑り込むとソファの縁につかまって、短い脚をぴんと立たせた長女がまっすぐ立っていた。その後ろには妻が手を広げて支えようと待機している。ふるふると身体を震わせていて今にも転んでしまいそうだ。
「あ……、立って、うっ……」
そんな長女の姿を目にした瞬間七海は泣いた。感動のあまり止めどなく涙が溢れてくる。人生でこんなに感極まる日が来ると思わなかった七海はその涙の止め方を知らない。
「お父さんまた泣いちゃったねー。上手にたっちできたねー。えらいねー!」
そんな七海をよそに妻は呑気な声を出しながら長女にカメラを向けた。次の瞬間尻もちをついたので七海は慌てて抱きかかえる。大丈夫だ。どこも怪我はない。その様子を撮影する妻に向かって「危ないしっかり支えておかないと怪我をしたらどうするんですかちょっと聞いてますそれ止めて」と言った。そんな両親を見て長女はケラケラと笑った。
「ほらほら! こっちだよー。おいでおいでー!」
大きな熊のぬいぐるみを動かして妻が次女の気を引こうとしている。長女も一緒になって手招きしていた。つい最近歩き始めた次女の足取りはまだまだ危なっかしく見守りがいるだろう。
「フラフラしていて怖い」
「あー、また抱っこばっかりしてー」
ぐらりと倒れそうになった瞬間、七海がさっと抱きかかえる。すると腕の中で次女は不満そうにのけぞった。どうやら歩きたいらしい。
「まだヨチヨチなのにこけたら危ないでしょう」
そう言いながら七海は次女の後ろをついて回りこけないように見守った。やはりいきなり後ろに倒れたり前に手をついたりと一瞬たりとも目が離せない。
「大丈夫だもんねー。私強いよ、こけても泣かないよーって心配性のお父さんに教えてあげようねー」
「頭を打たないようにこれを買ってきました」
七海は昨日、ベビー用品店でいいものを見つけてきた。リュックのように背負うタイプのクッションだ。転倒した時に頭を守ることができる。妻の無責任な発言を聞き逃してはならない。何かあってからでは遅いのだ。頭を打ったら大変なことになる。手をついたときに骨が折れるかもしれない。怪我でもしたら可哀想だ。それを次女になんとかつけさせようとするが、ストラップに腕を通すと身を捩って逃げてしまう。何度も背負わせようと試みるが、ついには泣き出して床に伏せてしまった。
「嫌がって全然つけないね」
「なぜ……」
子育ては理不尽の連続だ。良かれと思ってやったことが裏目に出て、何一つうまくいかないこともある。七海はリュックをそっとクローゼットに仕舞った。次の子に使えるかもしれないと思いながら。
「うわっ」
七海がリビングのラグの上で三女のおむつを替えている時、不穏な声が妻の耳に入った。一週間ほど出張に出ていた七海が久しぶりにやるおむつ替え。見なくても何が起こったのかわかる。
「だから何か敷いた方がいいって言ってるのに」
一瞥もくれずにおむつ替えシートを取りに行った妻がため息交じりに言う。
「あっ、おむつの中にかかと落としを!」
「足押さえてないとだめだって!」
慌てて妻が駆け寄るが時すでに遅し。ラグの上はすでに汚れてしまっている。今更シートなど敷いても遅い。もうラグを丸ごと洗うしかない。やれやれと着替えを取りに行った妻の背中にまた七海の叫び声が聞こえた。
「あーっ! ひっくり返ってめちゃくちゃに!」
振り向くとそこにはお尻丸出しでにこにこ寝返りをする三女と絶望で頭を抱える七海がいた。妻はまずはお尻を拭きなさいよと思いながら、走って七海の元へと戻る。しかし現場を見てもう拭いている場合ではないと気付く。ここまできたらシャワーで流した方が早い。
「んもー! 洗濯物がまた増えた!」
「すみません……」
「もう三人目なんだけど」
「次から同じ過ちは二度としません」
妻にじっとりと睨まれながら七海は謝った。七海は風呂場でラグを手洗いしながら思う。慣れてきたときこそ最大限の注意を払うべきだ、と。
「建人ー! ちょっと来てー!」
「どうしました」
慌ただしい朝の日。四女を連れてトイレに行ったはずの妻の声が聞こえてきた。トイレの中には大きな水たまりができていて、もじもじしながら四女はパジャマを脱いでいる。
「シャワーしてくるからみんなにご飯食べさせててー」
妻はてきぱきと床を拭きながら言う。四女はトイレの失敗をほとんどしない。今日から年長になるので少し緊張しているのだろうと七海は思った。
「もうほとんど食べ終わって今みんなでお着替えをしているところです」
「ありがとう! 早いね」
「君は自分の用意をしてきてください。寝癖がすごい」
トイレの小さな鏡で見てみると確かにあちこち髪がはねている。
「おしっこもらしちゃった……年長さんなのに……」
不安のせいかグズグズと鼻を鳴らしながら四女が言う。いつもこんなときでもあっけらかんとしているが、どうやら今日は違うらしい。
「今日からお姉さん組だからどきどきしますね」
「おねえさんぐみになったら あかちゃんぐみさんのおせわをするんだよ!」
今まで家では一番の年下としてお世話をされてきた四女が小さな子の面倒を見ようと意気込んでいることを誇らしく思う。七海は頭をよしよしと撫でてやり、四女の着替えを見守った。
今日は月曜日だが夫婦そろって有休を取ってある。昨夜七海家に残っていた最後の子が家を出た。夫婦二人暮らしになるのは何年ぶりだろう。妻は昨夜遅くまでウイスキーを楽しむ七海に付き合って起きていたが、今朝はいつも通り六時に目が覚めた。長年染み付いた習慣みたいなもので、目覚まし時計が無くても勝手に起きてしまうのだ。もう誰かを起こすことも、朝の支度で洗面所を取り合うこともないというのに。七海はまだベッドに沈んでいる。昨日はずいぶん深酒をしたのでゆっくり寝かせてやろうと思いそっとベッドを出る。時計の秒針の音しかしないリビングでコーヒーを淹れて飲んだ。六人分淹れていた日々が懐かしい。いつしかそれが五人分になり、また一人減って、ついに今日は一人分になってしまった。口寂しくなったのでおやつが入っている籠を覗いてみる。かつてそこにはキャンディやクッキー、チョコレートなどが山ほど入れてあった。今はもう籠の底が見えている。妻は先日後輩がくれた地方銘菓を一つ取りコーヒーのお供にした。テレビをつけてみたがこの時間は朝のニュースくらいしかやっておらず、その内容に興味は持てない。部屋の片隅に積まれた本を眺めてみる。長女が置いて行った専門書と次女が好んで読んだスポーツ選手の自叙伝、三女が好きな作家のミステリーと四女が行きたい海の写真集があった。一番下には七海が何度も読んでいる古い詩集があるが、この様子ではしばらく読まれていないようだ。
どれくらいの時間リビングでぼんやりしていたのかはわからない。妻は七海が未だに起きてこないことを少し心配に思い再び寝室へと戻る。二日前に干したばかりのふかふかの羽毛布団に包まって七海は健やかな寝顔をしていた。ベッドに腰掛けてそっと金色の髪を撫でる。若い頃に比べていささか細くなった毛を指で梳いた。本人は抜け毛をずいぶん気にしているようだが妻は全く気にならなかった。
「あっ。起こしちゃった」
頭を撫でる妻の手を七海の手が覆う。若い頃よりも乾燥して少し皺が目立つようになってきたが、変わらず安心する温もりがある大きな手だ。
「……こんな時間ですか」
時計を見て七海が言う。午前十時半をまわっている。朝食には遅いし、昼食には早すぎる。すっかり日は上りカーテンの隙間から差し込む日差しは暑いくらいだ。
「昨日遅かったもんね」
「もう若い頃のようには飲めませんね」
未だパジャマのままの妻を七海は再び布団の中へと引き寄せた。七海の体温で温かい。
「二人きりになっちゃった。なんだか静かだなあ」
七海に背を向けている妻は、珍しく涙ぐんでいるようだ。いつもそうなるのは七海の方だったのに、どうやら年を取ると涙もろくなるらしい。そんな妻を愛おしく思い、七海は後ろから妻を優しく抱きしめおはようのキスをした。寝坊してもパジャマのままでも今日くらいはいいだろう。
「あれ、なんだろこのメモ」
ベッドサイドテーブルに置かれた一枚の紙に妻が気付く。昨夜は無かったものだ。いつの間にそこに置かれていたのだろう。
「昨日の夜、これから君と二人で何をして過ごそうか考えていたんです」
「旅行、観劇、買い物……。あっ、ついにアフタヌーンティー付き合ってくれるの?」
妻がメモを手に取りそこに書かれている内容を読み上げる。いつ、どこで、などは書かれておらず、単語だけが書き連ねられていた。
「若い子ばかりで恥ずかしいと思っていたんですが、近頃そうでもないようで」
「だから五条さんも常連だって言ったでしょ」
「あの人と一緒にされたくないというのもありました」
妻はくすくす笑って七海の方を向いた。その目にはもう涙は無い。笑った時に出来る目尻のしわが二人の年月を物語っている。七海は愛おしい気持ちが込み上げてきたので妻を抱きしめようとしたのに、その相手はそんなことは知らないと言わんばかりにベッドから抜け出してしまった。仕方なく七海もその後を追う。洗面所で顔を洗って鏡を見た時、妻と同じく自分の目元にも年齢が現れているのを見つけて顔を綻ばせた。間違いなく妻と同じく歳を重ねてきたことがわかり嬉しかったからだ。
リビングでは妻がコーヒーを淹れて、七海が来るのを待っていた。先日贔屓の自家焙煎店で購入したインドネシアのニュークロップだ。新生活の始まりを予想させる若々しいフレッシュな香りが部屋中に広がり心が弾む。食事はどうするかと妻が聞くので、コーヒーを飲んだら出かけようと七海は答えた。二人で座るには広すぎるソファに腰掛けて妻が言う。
「建人と一緒にのんびり過ごせて嬉しいな」
「それは私が言おうと思っていたのに」
七海はわざとらしくつんとして言った。
「愛してるよー」
「それも言おうと思ってた」
妻は七海の肩に頭を乗せて上目遣いになった。悪戯っぽく笑うその顔は二人が初めて出会った頃から何一つ変わっていない。
「世界で一番愛しい人。ずっと一緒にいてね」
「どうやら心の中を読まれているようだ」
七海が妻の肩を抱き寄せ口付けた。同じコーヒーがふわりと香る。
妻が勢いよくソファから立ち上がり「さて」と言って出かける支度を始めた。七海はもう少しゆっくりしたいと思ったが、わくわくしている妻の様子を見てコーヒーを飲み干すとカップを食洗器へ入れた。この大型食洗器を使うことはしばらく無いかもしれない。夫婦二人分の食器くらいなら手洗いした方が経済的だろう。
のんびりと支度を終えた二人が玄関を出た時にはすでに十二時を回っていた。日は高く上り太陽の光がさんさんと降り注ぐ。七海は仕事用では無いサングラスを胸ポケットから取り出した。妻はつばの広い帽子を被り目を細めた。娘たちは今頃、昼食をとっているだろうか。みんなそれぞれ忙しくしているようだが、食事はきちんととって欲しいと七海は思った。平日の昼間の住宅街は静かだ。いつもより時間がゆっくり流れているように感じる。そういえば、と言って妻が口を開く。
「さっきなんの夢みてたの。すごく嬉しそうだったよ」
七海はふっと息を漏らして笑った。
「今までの幸せを数える夢です」
七海家は六人家族。年子で四人の女の子がいて、みんな父親によく似ている。長女は思慮深く、次女は感情豊か。三女はマイペースで四女は世渡り上手。妻はしっかり者だ。そんな女五人、男一人のにぎやかな家で七海は暮らしていた。今日から七海家はついに二人になったが寂しくはない。夫婦の時間をこれからゆっくり持てるのだから。それに、子どもたちがいつ遊びにきてもいいように家を片付けておかねばならない。きっとみんな集まるとまた賑やかになる。そんな未来を二人して想像し、顔を見合わせて笑った。