四姉妹と妻、一家に五人も女子がいれば洗面台は早い者勝ちだ。早起きの長女が一番に使うことが多いが、今日は次女と取り合いをしていた。今日から次女は部活の朝練があるらしく、次女が長女に向かって朝から文句を言っている。朝から姉妹喧嘩を聞くのは疲れるが、隣にあるトイレに入っている七海にその会話がところどころ聞こえてきてしまう。
「お父さんに洗面所使ったら片付けるように言ってよ」
心底うんざりしたように次女が言う。自分のいないところで出る話題に良いことなど一つも無いことを七海は知っている。
「どうして?」
「抜け毛がたくさん落ちててやだ」
「……言えるわけない。お父さんかわいそう」
「全然かわいそうじゃないし! 気持ち悪い」
悲しいことに、二人の会話はすべて七海に聞こえていた。決して聞き耳を立てていたわけでは無い。聞こえてしまったのだ。
(キモチワルイ……。女の言葉は残酷だ)
むしろそんな話聞きたくなかった。抜け毛が増えていると思われていたことも悲しいが、それが気持ち悪いと思われていることがもっともっと悲しい。お願いだからここにいる事に気づかないでくれと願い、七海は気配を消しながらトイレで時間が過ぎるのを待つ。
英字新聞を広げて七海は物思いに耽った。ここ最近はトイレだけが安住の地だ。思春期真っ只中の次女はここのところ特に七海への当たりが強い。次女の言い分としては「いつまでも子ども扱いしないで!」だが、いつまでも子どもはかわいいものだ。それがなかなかどうして毒を吐く。いつからそんな風になってしまったのか。女心はわからない。昔は四人でお父さんを取り合って喧嘩をしていたのに。誰がお父さんと結婚するか言い争っていたっけ。おむつを替えたりお着替えをしたり、お風呂も一緒に入っていたのに今となっては誰もが「ひとりでここまで育ちました」とでもいうような顔をしている。あの日々は幻だったのだろうか。いや、確かに存在した。みんなで手を繋ぎ一緒に歩いた日々を覚えている。
――コンコン
「お父さんでしょ。早く出て」
大きなノックの音と共に刺すような次女の声がした。
「はい」
新聞をたたみ静かにトイレを出ると、ツンと目をそらした次女が立っていた。
「朝からトイレに籠らないでよ」
「さっき入ったばかりです」
「……」
あっさりと無視され入れ違いに次女が入っていく。七海は考えた。どうしよう。お父さんの後のトイレに入りたくないなどと思われていたら。いやそれだと二階を使うか。あの可愛かった次女がこんな風になるなんて。怖いもの知らずで何でもやりたがるからいつでもどこでも目が離せず、何をするにも一緒だった。アスレチックにしがみつく次女を後ろで見守りながら支え、ブランコに乗る背中も押した。それでもどこか甘えたで、小学生になっても抱っこをせがんでいたというのに。そんなことを考えながらぼんやりしていると、トイレの中から次女が出てきた。七海を見た瞬間「ゲッ」と嫌そうな声を出して眉をひそめる。その反応だけで七海は涙が出そうになった。今まで一度だって嫌われるようなことをした記憶はない。
「何やってるの?」
「何も。今日は早起きですね」
「今日から朝練あるって昨日言ったよね」
プンとそっぽを向いて去る次女の背中を見つめ、七海は悲しみに暮れた。これがあと何年続くのだろう。長女には無かったタイプの反抗期に七海は戸惑っていた。
とぼとぼとリビングへ戻ると、長女がなにか言いたげにこちらへ視線をよこす。さきほどの洗面所でのことだろう。もうわかっている。覚悟を決めた七海が朝の挨拶をすると、「おはよう」と短い返事があった。長女は優しい。無視しない。長女がにこやかに微笑み七海の隣に座りもじもじとしながら口を開く。
「あのさ、お父さん髪の色が明るいから見えにくいと思うんだけど、排水溝が詰まっちゃうから、ちょっと拭くとか、落ちたの捨てるとか、しといてほしいかも」
長女らしくオブラートに包んでさっきの事実を告げられた。そんなにも抜けているのだろうか。自分では気づかない。確かに若い頃よりは若干薄くなっている可能性を感じていなくもないが、まだほんの少しという程度でそこまでではない。禿げてはいない、決して。
「気をつけます」
「ありがとう」
ほっとした表情で長女が微笑んだ。彼女は四姉妹の一番上として非常にうまく立ち回り、みんなの緩衝材になっている。多少尖っていたこともあったかもしれないがほとんど気にならない程度だったし、高校生になった今はすっかり落ち着いた。
「あのね、いまあの子ちょっと思春期ってやつみたい。お父さんに結構ひどいこと言ってるけど、そのうち落ち着くと思うよ。私にもそういう時期あったよね」
「そうですね。いってらっしゃい」
にっこり笑って家を出る長女の背中を七海は玄関で見送った。大きくなった。ほんの数年前までは抱っこしていたというのに。やはり一番にみんなのことを気にかけて気配りをしている。そんな長女にいつも七海は助けられていた。長女に続いて妻も「今日は忙しいから遅くなるかもごはんよろしく!」と言って足早に出て行ってしまった。三女と四女はまだ朝食をとっている。次女と同じクラスのなんとかという先輩がかっこいいと聞こえてきて七海は咄嗟に耳を塞ぐ。聞きたくない。どこの馬の骨かもわからない男の話など。
七海が現実逃避のため靴を磨いていると、どたばたと足音が聞こえ次女が玄関へとやってきた。
「邪魔なんだけど」
父の背中に向かって言い放つ。七海は壁に寄って玄関への道を開けてやった。いちいち吐き出される冷たい言葉が七海の胸にグサグサと突き刺さる。この程度で毎度傷ついていては身が持たないが、愛する子どもから発せられるその言葉をうまく受け流すことができない。
「気をつけていってらっしゃい」
「……いってきます」
次女は白いスニーカーを履きながら小さな声でつぶやいた。一応挨拶はしてくれるらしい。七海はほっと胸を撫でおろす。まだ完全に無視されているわけでは無いようだ。
午前八時。高専の公用車が自宅付近に止まっている。運転席の扉を開けて、自分と同じく幾分歳を重ねた後輩が顔を出す。
「おはようございます。……朝からお疲れですか?」
「次女に気持ち悪いと言われてしまいました。普段からわりとはっきり言う子でしたがさすがにこたえますね」
「あのォ……、はい。多感なお年頃かと。ハハ……」
しどろもどろになりながら答える伊地知を見て七海は言わなければよかったと後悔した。後輩に気を遣わせ朝から気まずい思いをさせてしまったからだ。
当の伊地知はハンドルを握る手にじっとりと汗をかいていた。困惑しているのだ。あの七海が子どもに、気持ち悪いと言われているなんて。確かに若い頃に比べたらお互い歳を取ったなと感じることはある。それでもきちんと整った清潔感のある身なりをしていて、身体も鍛えられ引き締まっている。いつだっていい匂いがしているし、隠れファンも多いのだと伊地知は次女に教えてやりたい気持ちになった。当の七海にはなんと声をかけていいかわからず、ハハハと笑って誤魔化した。
(みなさんのお父さんはすごく頼りにされて、後輩にも慕われて、とっても素敵な方なんですよ)
伊地知は心の中で七海家の子どもたちに弁解した。今度会うことがあれば直接伝えよう。次女を赤ちゃんの時から知っているが、最近は久しく会っていない。最後に会ったのは二年ほど前だっただろうか。きっときれいなお嬢さんになっていることだろうと微笑ましく思いエンジンをかけた。
車を発進させしばらく進むと信号待ちをする次女の姿があった。校則より少し短くされたスカートが風になびいて揺らめいている。信号の先にいる友人に笑顔で手を振り挨拶を交わす。待ち合わせをしているのだろう。意図せず車が次女の隣に並んでしまい、友人の前で父に声をかけられたくないだろうと七海は再び気配を消して信号が変わるのをじっと待った。
「あれ、もしかして」
伊地知が次女に気づいたようだった。言わないでほしかったが、七海は仕方なく口を開く。
「次女です」
「うわあ。大きくなりましたねえ! 可愛らしいお嬢さんになって……。七海さんにそっくりです」
伊地知はにこにこと微笑みながら言った。七海はそっくりだと言われて素直に嬉しいのだが、絶対に本人には言わないでほしいと思い複雑な気分だった。思春期の女子の前で父に似ているなどと言われようものなら今後は無視だけでは済みそうにない。信号よ、早く青になってくれと静かに祈り目を閉じた。
もうそろそろ信号が変わろうかというとき、辺りに嫌な気配が立ち込める。よく知るそれは明らかに良くないもので七海の仕事の相手だった。次女の後ろからじりじりと忍び寄り、ふくらはぎに触手のようなものを絡ませ足止めした。次女は他の姉妹に比べて感情がゆらぎやすく、そのせいで呪力が漏れやすい。それ故に今回のように意図せず呪いを引き寄せてしまうことがあるのだ。次女はすぐに気づいて足を動かし振り払おうとしたが、それはかなわなかった。あの程度であればなんとか自分でも祓えるはずだが、友人の手前で対処することができないのだろう。七海が車の後部座席から静かに降りて次女の隣に立つ。次女は七海の存在に気付いてほっと安心したのか、泣きそうな顔で父に助けを求めた。
「あ、足に……。痛いよ、お父さん……」
七海は頷き次女の後ろにしゃがむと、足元の呪霊を静かに祓う。そして手に持ったハンカチを次女に渡した。
「落とし物ですよ」
「う、ありがとう……」
涙目になり怯える次女の背中を撫でた。目に浮かぶ涙をこぼすまいと歯を食いしばって耐えている。よほど怖かったのだろう、まだ肩を震わせている。そんな二人を道路の向かい側にいる友人が訝し気に見つめていた。次女は自分で気持ちを落ち着けようと手のひらをじっと見つめて深呼吸を数回繰り返し、少しずつ落ち着きを取り戻す。これは次女がまだ小さい頃に七海が教えた心を平静に保つためのおまじないだった。
「もう大丈夫でしょう」
「うん……。大丈夫」
次女の顔に色が戻り困ったように笑った。七海はもう一度背中をさすってやろうと手を伸ばしたが、青になった信号を見た次女はそのまま歩き出す。七海は空を切る手をポケットに突っ込んで伊地知の待つ車へと戻ろうとしたその時。二人の様子がおかしいと思ったのか、横断歩道の向こう側から次女の友人が駆け付けた。
「ちょっと! おじさん何やってるんですか!?」
強い口調で言い放つ。険しい表情をしているので七海を不審者と勘違いしているようだ。通報されでもしたらどうしようかと考えていたら、後ろ手を組んだ次女が恥ずかしそうにもごもご何かしゃべり始めた。
「ちがう……。これ、お父さん」
不服そうな表情で七海を指差し次女が言う。照れくさいのか下を向いてはいるが、ちらりと見えた頬は赤く染まっていた。驚いた友人は目を丸くした。それから七海の頭の先からつま先まで大きな目をきょろきょろと動かして眺め、口を大きく開けて笑いながら言う。
「えーっ!? すみません! パパ超かっこいい! おはようございまーぁす!」
次女は知らん顔をしているものの、隠しきれない気持ちが溢れてまたしても呪力が漏れそこらじゅうを跳ねている。どうやら父を褒められたことが嬉しいらしい。それに気づいた七海は少し気恥ずかしくなり、次女の友人に向かって一礼した。そして二人に向かって言う。
「気を付けていってらっしゃい」
元気よく返事をする友人とそっけない返事をする次女が歩き始めたことを確認した後七海は車へと戻った。平然としているように見えるが、自分のいないところで子どもたちが危険な目にあっていることを知って七海は心中穏やかではない。これからもこういったことが起こるだろう。窓を少し開けて次女が登校する姿をそっと見守る。二人は先ほどのことなど無かったかのように談笑し
ながら歩いていた。開いた窓からわずかに友人との会話が聞こえてくる。
「あんなかっこいいお父さん、うらやましいなあ!」
「そう? まあ確かにちょっと、普通のお父さんよりかはカッコイイかもね?」
得意げに言う次女の言葉を聞いて七海はじわりと涙が溢れるのを自覚した。そっとサングラスを外し目頭を押さえる。それを見た伊地知はなんともいえない、不思議な温もりに包まれた。
(七海さん、お子さん産まれてから涙腺崩壊ですね)