カーテンが揺れ心地よい風が七海の頬を撫でた。隙間から差し込む春の日差しがまだ眠そうに閉じられた瞼を照らす。ゆっくりと目を開け辺りを見渡すと隣のベッドの主はすでに不在だった。いつの間に起きたのだろう。七海はナイトテーブルから眼鏡をとってかけ、静かに階段を降りた。
慌ただしいいつもの朝。リビングの天窓から朝の柔らかい日差しが差し込み、食卓を暖かいものにしていた。七海家では、一番に早起きした者が朝食の準備を始めるルールになっている。今日は四女が今から目玉焼きを焼き始めようとしていた。朝のキッチンに立つ四女を初めて見たので七海は目を丸くした。しかも、その隣のコンロには玉子焼き用のフライパンも出している。卵料理が二品。七海は不思議に思い首を傾げた。よほど熱中しているのか背後に立つ七海に気づくことなく、難しい顔をしてフライパンに卵を割りいれた。
「おはよう。一番早起きとは珍しいですね」
背後から突然声を掛けられ、四女は息を呑んで肩を跳ねさせる。七海のほうを振り返ると、唇を尖らせて押し黙ってしまった。水を飲むため七海が冷蔵庫を開けようと一歩踏み出すと、両手を広げて拒絶した。
「今ご飯作ってるからお父さんこっちに来ないで」
瞳をうるうるさせながら七海の侵入を拒む。その背中で何かを隠しているらしい。そこら中に散らばる卵の殻たち。汚れたボウル。二つの弁当箱。一つは四女のものだがもう一つは誰のものなのか。グリーンのドットがプリントされた使い捨て容器は見たことがないものだ。その中には少し焦げ目のついた卵焼きが入っている。
「何か手伝いましょう」
「いらない! あっちに行ってて!」
血相を変えてぷりぷり怒る四女に圧倒された七海は、項垂れながらその場をあとにするしかなかった。朝からキッチンを占領し一人で何をやっているのだろう。肩を落としてとぼとぼ洗面所に向かうと、そこには妻がいて肩を震わせ声を殺しながら笑っていた。
「ねえ、あの子なにしてると思う?」
「知りませんよ。君は何笑ってるんです」
訳知り顔で面白がる妻に少々嫌な予感がしながらも、四女の企みが気になった七海は仕方なく聞くしかなかった。妻のこの反応を見る限り、七海が知りたくないことで間違いなさそうだ。
「好きな子にお弁当作ってるらしいよ」
「好き、な、子」
「一つ上の学年の陸上部で」
「りくじょう」
「背が高くて、すごく優しいんだって」
「背が……何センチなんですか」
返事を聞いて耐えきれず噴き出した妻はお腹を抱えながら声を出して大笑いした。顔面蒼白で今にも倒れそうな七海は、そんな妻の様子をみて理解できないと頭を抱えて首を横に振る。人がショックを受けているのに面白おかしく笑っているなんて信じられない。妻に咎めるような視線を投げたが、全く意に介していない様子で涙をぬぐいながらまだ笑い転げている。
「大丈夫、建人よりは低いと思うよ!」
ひいひいと苦しがりながらいつまでもしつこく笑っている妻を横目に七海は立っていられないほどの衝撃を受けていた。
青天の霹靂。寝耳に水。藪から棒。盗人を捕えてみれば我が子なり。
鼓動だけが頭の中に大きく響き、手先の温もりが失われてゆく。手塩にかけて育てたかわいい我が子がどこの馬の骨とも知れない奴に早起きして弁当を作っているとは。お父さんにも作ってくれたことなどないのに。
「実はバレンタインもあげてたんだよね。私たちのはその練習台だったってわけ」
「これ以上何も言わないでください」
また声をあげて笑う妻を洗面台に置き去りにして、よろめきながら七海はトイレに逃げ込んだ。壁にもたれかかって大きなため息をつく。
赤ちゃんの時の四女を思い出し心を落ち着かせよう。一番甘えたでずっと家族の誰かにくっついていて離れず、後追いは母より父にしていた四女。子どもたちへの愛情に優劣や順列をつけているわけではないが、いつまでも一番小さなイメージが離れず、末っ子はかわいいものだ。小学校の入学式の日、上の姉たちと一緒にランドセルを背負って並ぶ姿に涙したことを思い出す。あれから何年たっただろう。すっかり女性らしくなり、口も達者、不遜な態度。子どもたちはどんどん成長していき、そのうち巣立っていくのだろう。おむつを替えて食事を食べさせ、一緒に遊んで、お風呂に入れ、並んで眠り、ここまで育ててきた。それなのに、バージンロードで腕を組んで歩かなければならないなんて。
七海は未来のことまで一通り想像したのち、トイレを後にした。ドアを出ると不機嫌そうな次女がいて、ずっと空くのを待っていたと文句を言われた。ノックすればいいのに、と思ったが口に出したら最後、何を言われるかわからないので七海は黙って頷き立ち去った。
何事もなかったかのようにリビングへ戻り、用意された朝食を食べ、静かに家を出る準備をする。みんなそれぞれの用意をするのに慌ただしくしていた。朝から黄色い声を出して三女と四女が何やら騒いでいる。その内容を聞いてはいけない。今日は波風立てぬようにひっそりとしていよう。これ以上何かが起こり、女五人によってたかって何か言われた日には、もう立ち上がることはできそうにない。
玄関でネクタイをなおしていると四女がやってきて黒い保冷バッグを差し出した。
「これ」
「何でしょう」
「お父さんのぶん! 食べるでしょ、お昼!」
四女は恥ずかしそうに口をとがらせている。七海は一瞬何が起こったか理解できずにフリーズしたが、早く受け取れと催促され、はっと意識を取り戻した。
「……ありがとうございます」
「ハァ、お父さんまた泣いてるし」
四女は大きなため息を吐いたあと、ツンと顔を背けながらもまんざらでもなさそうな表情をしていた。きっとこれは陸上部の彼のための練習用お弁当だろうけれど、七海は嬉しさのあまり踊りだしそうだった。浮かれた気持ちをぐっとこらえ目頭を押さえ「いってきます」と挨拶をしたら、リビングから全員が顔だけ出して「いってらっしゃい」と言ってくれた。
ドアを開けると少し強くなった日差しが七海に降り注ぐ。今日はみんなにケーキを買って帰ろう。