七海さんちとお花屋さん

第17話

 私の名前は藻部華子(もぶはなこ)。とある街の花屋に勤めています。幼い頃から憧れていたお花屋さん。いつもたくさんの美しい花に囲まれてとても幸せです。実は花屋の仕事って結構ハードなんです。水仕事だから手荒れはするし、重いものは持つし、イベントの前後は休めません。それでもこの仕事を続けているのはお客さまの喜ぶ顔が嬉しいから。花って生活必需品じゃないけれど、おうちにあればそれだけで豊かな気持ちになれると思いませんか。一輪でもいいんです。忙しい日常に追われているお客さまの癒しになることができたら。大切な人への贈り物を彩るお手伝いができたら。そんな想いで毎日働いています。

 先日、とっても素敵なお客さまが来られました。一見すると外国の方かと思うのですが日本人だそうです。以前からたまに季節のアレンジメントなんかをご購入いただいていた方なんですけど、この間は特別な記念日に贈るとのことで今までで一番大きなブーケをご注文されました。小学生のお子さんを四人も連れて、これからプレゼントも買いに行くとおっしゃっていました。一番下のお子さんが「お母さんには秘密なの」と嬉しそうに笑っていて、なんて素敵な家族なんだろうって心がぽかぽかしました。なんでも結婚して十年なんですって。あんな素敵な方の奥様ってどんな人なんだろう……。そう思っていたら、とっても素敵な女性が同日にアレンジメントの予約をされました。その日は特に世間一般のイベントはありませんので、記念日かなと思ったんです。どんなイメージでお作りしようかと希望をお伺いしていたら結婚十周年の記念にしたいと言われました。普段は花を貰うばかりだから、たまには奥様からご主人様にプレゼントしてみたいと思ったそうです。同じ日に同じような注文が入って珍しいこともあるものだとなんとなくお二人とも記憶に残っていたのですが、伝票に書かれた名前と住所でわかりました。あのお二人は御夫婦なのだと。そしてお互いにプレゼントは秘密にしているご様子です。二人が記念日に花を贈り合う。とても素敵なことです。でも、受け取り日時が三十分しか違いません。

  藻部華子、花屋人生最大のピンチ。

 どうしましょう。お店で鉢合わせなんてことになったら、せっかくのサプライズが台無しです。秘密を知るのはお二人の予約を取った私だけ。このミッション、なんとしても成功させます。私の花屋人生を賭けて。

 七海は浮かれていた。結婚十周年記念にランチの予約を取ったからだ。この日の為に数か月前から有給申請をして休みを確保してある。平日のオフは久しぶりで少し落ち着かない。土日を休むために平日に仕事を詰め込んでいるからだ。子どもが四人もいると独身時代のようには働けずもどかしい思いをすることもある。少しの不自由はあるが、それ以上に七海は幸せを感じていた。愛する妻と可愛い四人の女の子に恵まれ何不自由なく生きている。それはこの業界では奇跡のようなものだが、皆の協力のおかげでこのような日々を過ごすことができていることに感謝した。七海は当日、二人が初めてデートをしたレストランで食事をして、この日の為に特別に注文したブーケを渡すつもりだ。

 七海の妻もまた、浮かれていた。十回目の結婚記念日に予定を空けておいて欲しいと夫から言われたからだ。二人の結婚記念日は妻の誕生日だ。忘れっぽい妻の為にこの日にしている。妻は毎年自分の誕生日には有休を使ってのんびり過ごすことに決めていた。もっとも、子どもができてから朝から晩までのんびり過ごした記憶はほとんどない。しかし今や子どもたちは全員小学生になり、平日は学校と学童に行って元気に過ごしている。一番下の子はまだまだ手がかかるが、それでも身の回りの全てにお世話が必要だった乳幼児とは違って少し余裕ができた。そろそろ二人きりで過ごす時間を持っても許されるはずだ。それに夫は何かサプライズを考えてくれているらしい。一体何をしようというのだろう。

 ワクワクして迎えた結婚記念日当日。子どもたちは連れ立って集団登校の集合場所へと歩いて行った。元気な声で「行ってきます」と言うのを見て、七海と妻は子どもたちの成長をしみじみと感じた。今日は四女の授業が五時間目まである日なので、帰ってくるのは十五時を超えるはずだ。それまでは夫婦二人でゆっくりと過ごす予定になっている。

 七海はいまだ化粧を始めない妻を急かしながら身なりを整えた。若いころに買ったテーラードジャケットをクローゼットから取り出し鏡で合わせてみる。まだ着れなくもないと思いつつ、少し色が明るすぎるかもしれないとも思った。今日のランチにドレスコードは無いが、妻には目いっぱいお洒落をして欲しいとお願いしてある。一体どんな姿を見せてくれるのだろうと期待に胸を膨らませながら、しばらく着る機会の無かった洋服達を引っ張り出してああでもないこうでもないと悩んだ。

「こんなに真面目にメイクしたの家族写真ぶりだよ」

 少し照れくさそうにしながら洗面所から顔を出す妻を見て、七海はこみ上げる嬉しさを隠すことなく思いきり抱きしめた。

「この感情に愛と名付けた人は天才だ。二文字で君への気持ちを伝えられる」
「わけわかんないこと言っちゃって。早く出るよ。三時までには帰らなくちゃ」

 今度は妻が七海を急かすが全く急ごうとする気配はない。それどころか妻を抱きしめたまま動こうとせず、ありとあらゆるところにキスの雨を降らせる。普段はざっくりと纏められた髪が今日は美しくセットされ、これからデートなのだということを意識させた。控えめな香りが七海の鼻腔を抜けて全身へと伝わり身体が色づくような気分になる。ようやく離れたと思ったら唇に触れようとするので、妻は七海を制止した。久しぶりに気合を入れたリップメイクが落ちてしまうではないか。

「どうしても唇にキスしたいんです。いけませんか」
「いけません。建人の髪くしゃくしゃにしちゃうよ?」

 悪戯っぽく表情を作った妻が七海の頭に手を伸ばす。すると七海は身体を折って得意げな顔をした。

「いいですよ。いくらでもどうぞ」
「もう! 時間が無くなっちゃう!」

 困ったように眉間に皺を寄せた妻は七海の横をすり抜けて玄関へと走っていった。その後ろ姿はどう見ても嫌がっているようには思えず、七海はふっと笑い声を漏らした。二人とも盛大に浮かれているのだ。今日ぐらいはそうさせて欲しいと誰に言うともなく七海はつぶやき、妻の後を追って玄関を出た。

 二人は仕事以外で久しぶりに訪れる都会のお洒落な雰囲気を楽しもうと、博物館や映画館のある複合施設に来ていた。ランチ以外に何か目的があるわけでは無い。ぶらぶらと歩いて、とりとめのない会話をしながらショーウィンドウを眺める。二人だけの時間を過ごそうと決めていたはずなのに、子ども服が目に入るとどちらともなくこれは誰に似合いそうだと口に出す。それから靴下に穴が空いていただとか、算数のノートが無いと言っていただとか、子どもたちの細かな用事を色々と思い出してしまった。おもちゃ屋を見れば今年のクリスマスプレゼントは何を欲しがるだろうかと相談し、本屋に寄れば児童書のコーナーへ一直線に進む。結局雰囲気たっぷりの大人デートをしようと思っていたのに話題に上るのは子どもたちのことばかりだ。子どもがいなかった頃は一体何を話していたのだろう。

 そうこうするうちにそろそろランチの時間が近づいてきた。初デート以来二回目の訪問となるレストランは結婚前と変わらずそこにあった。内装はリニューアルされていたが雰囲気は同じく料理も美味しい。平日の昼間だというのにジャズの生演奏があり、久しぶりにのんびりと音楽を聴いた二人は顔を見合わせて微笑んだ。ランチを終えてしばらく近隣の植物園を散策しながら昔のデートの思い出を語り合う。当時と同じように七海が腕を差し出すと、妻はにこにことして腕を組んだ。園内の草花を見ながら頬を赤く染めた妻が言う。

「昔と同じことしてるのに、子どもたちのことばっかり考えちゃうね」
「ホテルでも取ればよかったでしょうか」
「久しぶりに建人と二人で買い物できて楽しかったよ」

 七海が持ついくつかの紙袋を覗き込むと、そこには四姉妹おそろいの洋服と、四冊の本が入っていた。

「自分のものを何一つ買っていないじゃないですか」
「じゃあ今から次のデートの服選んでもらおうかな」
「いいですね。私も後で選んで欲しい」

 残り時間を自分たちの為に使おうと二人は再びショッピングエリアへと向かった。いくつかの店を見て回り、行っては戻りを繰り返して次のデートの装いを選ぶ。妻は昔とは変わることのない七海の趣味を好ましく思い、七海は年齢を重ねて落ち着いた色を選ぶようになった妻の変化を愛しいと思った。

 楽しい時が経つのは早い。二人は足早に帰路につく。途中で七海が先に帰っていて欲しいと言うので、妻はわかったと返事をして自宅とは反対側のカフェで時間をつぶす。七海が秘密のプレゼントを用意しようと考えていることは知っている。しかし妻にもサプライズをする予定がある。七海が帰宅する時間を見計らって花屋に寄らなければならないのだ。

 藻部華子です。先ほどご主人様の方がブーケを受け取りにご来店されました。先日来られた時のスーツ姿もビシっとキマって素敵でしたが、今日はカジュアル寄りのリラックスした雰囲気でとっても爽やかでした。きっと奥様と結婚記念日デートを楽しまれたんだと思います。私の花屋人生を賭けたブーケ、どうか奥様が気に入ってくれますように。

 さて、あと三十分で奥様が来られる時間です。万が一にでもご主人様に見られるわけにはいかないと思い、奥様からご注文いただいたアレンジメントはバックヤードに隠してあります。メッセージカードをご希望でしたので当店オリジナルのものを用意しました。奥様はなんと書かれるのでしょうか。想像するだけでもニッコリしちゃいます。私の花屋人生を賭けたアレンジメントをとくとご覧あれ。必ずご主人様に喜んでいただけると自負しております。

「ただいま」

 七海が自宅の玄関を開けるも中から返事はなくしんと静まり返っている。

「……帰って無いんですか?」

 靴を脱いでリビングへと向かう。電気は点いておらず人の気配もない。妻のことだ。どこかに隠れていて、驚かそうとしているかもしれないと七海は家中を探し回った。しかしやはり妻の姿は無かった。どうも様子がおかしいとスマートフォンを確認するが、誰からの連絡も無い。妻と別れたところまで戻って探しに行こうと思った時、玄関扉が勢いよく開いて妻の声が聞こえてきた。

「ただいま!」
「おかえりなさい。寄り道してたんですね」

 七海が出迎えると息を切らした妻は背中側に大きな紙袋を抱えていた。隠しきれない中身が見えてしまい、七海は目を丸くする。

「じゃーん! いつもありがとう!」

 妻が七海の眼前に青と黄をメインにしたアレンジメントを差し出した。

「……私たちは、どうやらとても、気が合うようです」

 七海はありがとうと礼を言って花を受け取ると、妻の手を取りリビングへと誘導する。

「そりゃ夫婦だからね。って、あれっ。建人もお花屋さんに行ってたんだ!」

 妻はソファの上に置かれた同じ花屋の名前がプリントされた紙袋を見て嬉しそうに笑った。それから七海を抱きしめてありがとうと言う。

「もうどこにも出かけないのだから化粧が落ちる心配は無いですよね。キスをしても?」

 妻が目を閉じたことを確認し、七海は深い口づけをする。七海は知っているだろうか。最近の口紅はキスをしても簡単には落ちない。

 七海様ご夫妻に喜んで頂けているでしょうか。そろそろお子さんたちが帰ってくる時間だとおっしゃってました。小学生がちらほらお店の前を通っているのでもう下校時間なんでしょうね。

 あっ、この間お父さんと一緒に来ていた女の子たちだ。みんな可愛いなあ。お父さんと来てくれた時はお父さんにそっくりだと思ったけれど、お母さんにも似てい

ますね。仲良し姉妹、楽しそうです。

ねえみんな。おうちに帰ったらお花がたくさんありますよ。楽しみにしていてね。