仕事を終えた七海がスマートフォンを確認すると妻から何やらメッセージが入っている。
『牛乳とみりんとしょうゆと料理酒が同時に無くなっちゃった! こんな事ってある? 帰りに買ってきてください』
重いものばかりである。本当にこんな事が有り得るのだろうかと七海は少々怪しく感じながらも、帰り道にあるスーパーに寄って買い物をしていると着信音が鳴る。妻からだった。
『ごめん! 今どこ?』
「買い物中です」
『良かったぁ。ごま油も無いからよろしく』
「わかりました」
カートを押して通路を移動してごま油をかごに入れると、再び妻から着信があった。今度は何だと言うのだ。
『もう一個頼んでいい?』
「どうぞ」
『ポン酢とめんつゆとヨーグルトもお願い』
「……わかった」
重量物ばかりが追加されていく。二日前にネットスーパーから荷物が届いていたはずなのに、なぜその時一緒に買わないのだと七海はため息をついた。そもそも在庫が切れそうになったらホワイトボードに書いていくルールなのに、確認していなかったのだろうか。最初からわかっていればネットスーパーで一緒に頼めたし、今日買いに行くにしても何度も電話をかけなくていいはずなのに。七海は心の中で妻の一連の行動を反芻して、どうも納得がいかないともやもやした気持ちになった。言われたとおりに商品をかごに入れてレジに向かうと、三たび妻から着信が入る。
「今度は何ですか!?」
『あ……、う……、おとうさん、こわいこえでおこったあああああ! うわあああん!』
電話の主は長女だった。
「アッ! 違うお母さんと間違えた。どうしました」
七海はしまったと慌てて弁解するが、すでに電話口に長女はおらず、遠くの方で泣いている声が聞こえる。
『ワー! おかあさーーーーん!』
『あ~、お父さん間違えたんだって。わざとじゃないよ。お父さんが、ごめんなさいしたいって』
「ごめんなさい。怒ってないよ。泣かないで」
『うっ、ぐすっ……。くりーむのぱんひとつ、かってきてください』
四人の子らが全員電話の側に集まっているのか、笑い声と叫び声が耳元で響く。自分はクリームだ、私はあんパン、バナナもないと騒いでいる。順番に喋ってもらわないと聞き取れないので何度か聞き返すと、妻の呑気な声が聞こえてきた。
『子どもたちが明日のパンを買ってきて欲しいってー』
「わかったよ。もうすぐ帰るから待っててくださいね」
『はやくねっ』
すっかり泣き止んだ長女の声。機嫌は治ったようだ。ほっと胸を撫でおろす。
「はい、また後で」
七海は電話を切ると、なんだかどっと疲れが出た。どうも長女の泣き声に弱い。
レジで会計を済ませて帰路に着く。重量物ばかり入った袋は持ち手がちぎれそうだ。結局あの後もう一度電話があり、また子どもたちかと思って優しい声を意識して出したら相手は妻だった。ついでに大根を買って来いと言う。良いブリを貰ったのでブリ大根にしたいのだそうだ。重いものが多すぎると文句を言うと、「何のための筋肉なの?」とわけのわからない返事をしてそのまま電話を切られた。呪霊を祓うためであって、重い荷物を持つために鍛えているわけでは無い。お互い虫の居所が悪いのか気圧でも低いのか、妻の言動が少々癇に障る。行き場のない複雑な思いを抱え玄関ドアを開けると、リビングから子どもたちが駆け寄ってきた。
「ただいま」
「おかえりー!」
最近ようやく意味のある単語を話し始めた四女も一緒に出迎えてくれ七海の気持ちは和らいだ。足元に抱きついて離れない子らをくっつけたまま洗面所へと向かう。すると少し遅れて妻がリビングから顔を覗かせた。
「重いものばっかりごめんねー」
「袋がちぎれるかと思いました」
「ありがとう。助かった。荷物持つよ」
「鍛えているので大丈夫です」
「根に持ってる? 冗談だって」
七海は手を洗い終えると子どもたちを連れてリビングへと向かう。お絵描きをしていたらしく、色鉛筆やクレヨンがそこらじゅうに散らばっていた。大きな模造紙を床一杯に広げて、四人で何かを描いていたらしい。子どもたちは七海の手をぐいぐい引っ張ると、これは自分が描いたんだと言って一生懸命説明しはじめる。可愛い子どもたちの話を一通り聞いてやると、出来上がったらまた見せて欲しいと伝えてその場を離れ、料理を続ける妻のもとへと向かう。キッチンには美味しそうな出汁の香りが広がっていた。
「今日は何の日か知っていますか」
妻は瞳をきょろきょろ動かして考える。今日は十一月二十二日。特に誰の誕生日でもない。
「知らない。なんだろう。結婚記念日?」
「違う。結婚記念日は君の誕生日でしょう。自分が忘れそうだと言うからわざわざその日まで待って役所へ行ったこと覚えていないんですか? 今日は……、良い夫婦の日です」
買ってきた食材を整理しながら妻に言う。七海がちらりと横目で妻を見ると、想像通りにやにやと笑って髪を触っていた。照れ隠しをする時のいつもの反応だった。それから更に口角を上げ、肘で七海の脇腹をつんつんと小突いてきた。
「建人、そういう知識どこで仕入れるの」
「朝のニュースで。君達はまだ寝てましたが」
「私たちにぴったりの日だね」
「そうです。それなのにいい夫婦らしいことをしていないと思いませんか」
「いい夫婦らしいことって?」
妻は期待に満ちた目で七海を見あげた。手をすすぎ、タオルで拭いたら首をかしげて七海の顔を覗き込む。
「私は買い物を頼まれ、快く引き受けた上に重い荷物を頑張って持ち帰りました。良き夫です」
「自分で言っちゃった。ちょっと怒ってたくせに」
「人の手を何度も止めるから。まあそれはいい。君はどうなんです」
「ええっと、すっごく美味しいブリ大根を今から作ることをここに宣言します」
「それだけ?」
「えー。じゃあ……」
妻は七海の背中に手を回して胸に頬を寄せた。妻の体温が七海へと伝わり、満たされてゆく。
「ハグ。なるほど。いい夫婦には良いスキンシップがあるでしょう」
「更に……」
妻は勿体ぶって七海の背中から手を離し、彼の両肩を掴んで少し下へと引っ張った。そしてまたはにかんで、自分の髪に触れてくるくると指に巻き付ける。やはり、すごく照れているらしい。
「こちらもお付けします」
妻は茶化すように目を閉じて欲しいと七海に言うと少し湿った手で彼の瞼を覆う。その手が離れていくと同時に柔らかな唇が七海の頬に触れた。それから小さなリップ音を立てて離れていく。目を閉じたまま七海が言う。
「私の可愛い奥さんは照れ屋ですね。愛を表現するキスはどこにするんですか。私だったら君の唇にしますが」
妻は息をのんで、七海の唇にそっと口づける。肩に置かれた妻の両手が七海の頬へと伸び、優しく挟んで角度を変えながら何度もキスをした。愛の篭った温かいキスから、次第に様子が変わって来たそのとき。
「あーっ! みてー! みんなきてー!」
大きな声で長女が妹たちを呼ぶと、子どもたちが一斉に二人を見て騒ぎ始める。先ほどまで大人しくお絵描きをしていたはずなのに、みんなぞろぞろとキッチンへとやってきた。
「また ぎゅーと、ちゅーしてるっ」
「わあー! なかよしだね!」
そう言うと子どもたちは二人の足元をぐるぐる回って楽しそうに笑った。誰か一人が足にくっつくと、みんな続いて同じことをする。子どもたちが足元に纏わりついているので、七海と妻は離れることが出来ない。
「今日はいい夫婦の日なんですよ」
二人の足の間に入り込んできた子どもたちに七海は諭すように言うと、きょとんとした顔の子らがじっと七海を見上げて言う。
「いいふうふって、なあに」
「お父さんとお母さんみたいな仲良しさんのことだよ」
妻がそう言うと子どもたちは二人の足をぎゅうっと抱き、ワアワア騒いで喜んだ。
子どもたちの楽しそうな声と、愛らしく聡明で強かな妻の愛情を感じて七海は機嫌よく中断された料理を再開する。心が満たされ幸せの何たるかを改めて感じると、七海はこみ上げるものに耐え切れずその瞳にうっすらと涙を浮かべた。冷蔵庫を覗き込む妻に見つからないようシャツの袖で拭い、大根の皮を剥いていく。
おもちゃだらけの散らかったリビングも、美味しそうな食事の匂いも、賑やかな家族の笑い声も、七海の大切な人たちが生きている証なのだ。