乾燥わかめは思いのほか増える

第7話

 デザートの交換会を終えて以降、彼女はなんだかすっきりしない気持ちを抱えていた。七海の態度が気になって仕方がない。料理以外の部分で七海を困らせているのだとわかるが、それが何かはわからなかった。同業ではあるものの仕事での接点は乏しく、プライベートでも会うこともない。自分の何かが七海を苛立たせている、または呆れさせていることが悲しくてたまらない。そしてそれがなぜ悲しいと思うのかも、よくわからないままで一週間が経った。彼女は決して鈍感なタイプではない。恋愛感情について誰からも詳細を知らされず、またそれらを望まず、もやついた感情に対峙することなく今まで受け流してきたのだ。呪術師という仕事柄、それは仕方が無いことなのかもしれない。愛を知っても手に入らないのだから諦めるだけになるし、望んだ先に幸福が見えなければ希望を抱くだけ虚しくなる。色恋沙汰に関する異常なまでの鈍さは彼女なりの防衛なのかもしれない。

 そんな彼女は自炊を頑張り始めてから、自宅の狭いキッチンでなんとか毎日二品は作るようにしていた。と言っても、いつも白米にサラダ、炒め物か煮炊きもの程度だ。なにせコンロが一口しかない。スペースも限られており複数調理に向いてないのだ。今日は久しぶりに仕事が早く終わったのでスーパーへ寄った。普段なら滅多に行けない特売日であらゆるものが安く見え、買い物かごはすぐにいっぱいになった。帰宅したら小ぶりな冷蔵庫に入るだけ詰めて、千切り大根やひじき、高野豆腐などの乾物はシンク下の収納に突っ込んだ。今日はタコが特に安くなっており、幼いころ母が作ってくれたタコときゅうりの酢の物を作るつもりにしている。少々暑くなってきたので、さっぱりしたものが食べてみたい。酢が自宅に無かったため、簡単に味が決まると書いてある調味酢を買った。酢の使い道が今までよくわからなかったから手を出さなかったのに、七海と料理の交換会をするようになって彼女の自宅には様々な調味料が増えた。小さな瓶のオリーブオイルや岩塩は七海からのプレゼントだ。キッチンに立ちそれらを見るたび七海のことを思い出す。

 今、どこにいて何をしているのだろう。
 今日の献立はなんだろう。
 好きな食べ物や飲み物は。
 休日の過ごしかたや好きな映画。音楽を聴くこともあるのだろうか。
 それから、きっと、自分に構っている時間があるくらいだから、いい人はいないのかもしれない、だとか。

「今日は初めてお酢を使うから、気をつけないとね。入れすぎ注意。料理は足し算だったっけ」

 独り言も増えた。誰に聞かせるわけでもなく呟いてしまうのは、七海からもらったアドバイスが多い。塩はひとつまみでも味に影響を及ぼすと言われて、今まで適当に入れ過ぎていたことに気が付いた。確かに塩をひとつまみ舐めてみるとすごく塩辛い。それがそのまま料理に影響するのだ。なんとなくの感覚でやってきたことを言葉にすると、不思議とわかりやすくなる。七海と料理を通して仲良くなってから、彼女の人生はきらきらと輝いている。それを言語化できたら、この感情が何か理解できるだろうか。

「まずはわかめを戻しておかなくちゃね」

 以前買ったきり放置されていた乾燥わかめを取り出してみる。賞味期限は問題ない。水に入れておけば勝手に増えるという不思議なそれを、袋の半分ほど水に入れたあとに袋の裏を見た。

「約十倍に増える……?」

 一瞬目を離した隙に、ボウルの中のわかめはみるみるうちに大きくなっていく。あたふたと慌てているうちにボウルいっぱいの水をたっぷりと吸ってどんどん膨らみ、溢れんばかりになってきた。

「大変! どうしよう……、なんとかしなきゃ!」

 ようやく水を捨てたはいいが、既にあらかた水分を吸いつくして増えたわかめはボウルに納まりきらずにあふれそうだ。水を一生懸命切っているのにも関わらず、無慈悲なわかめは表面に残った水分もぐんぐん吸い込み、さらに増えた。ようやく止まったと思ったときには、ザル山盛りのわかめが目の前に存在していた。夢であってほしいと一度目を閉じてみる。そっと薄目を開けたら、そこにはやはりザルにこんもりと盛られたわかめが在った。もうダメだと彼女が何もかもを諦めようとしたとき、スマートフォンの画面に一通の通知が現れる。七海からのメッセージを知らせるもので、次回の交換会の予定についてだった。藁にも縋る思いで通話ボタンを押すと、すぐに七海が出て驚いたような声を出す。

「どうかしましたか」
「あ、な、七海さん……! 助けてくださいっ」
「今どちらに」
「うちにいます」
「すぐに向かいます」

 スピーカー越しにガタンと大きな音がしたと思ったとき、もう通話は切れていた。

 七海と会話した十分後。ドアチャイムが鳴った次の瞬間ドアノブが回り、勢いよく七海が入ってきた。珍しく額に大粒の汗をかき、肩で息をしながらキッチンの前で呆然とする彼女へ駆け寄り肩を抱く。七海のあまりの剣幕に気圧され言葉が出てこず呆然としていると、何があったのかと悲痛な面持ちで尋ねられた。彼女は震える声で答える。

「こ、こんなに増えちゃって、それで、びっくりして……」
「――わかめを戻し過ぎた、ということですね」
「ハイ、そうなんです……」
「貴女の身に何かあったのかと。わかめで良かった」
「思いのほか膨らんで、それで焦ってしまって……。あの、本当にごめんなさい」

 目に涙を溜めた彼女がうつむき、これ以上ないくらい小さくなっていた。七海はそっと彼女の肩に触れ、諭すように「何の問題もありません」と言った。その優しさに触れると更に申し訳なさが押し寄せて、彼女は消えてしまいたい気持ちになってしまう。たかが増えるわかめ如きに恐れおののいている場合ではない。普段はもっとおどろおどろしい異形の相手をしているはずなのに、目の前で無限に増殖しようとする乾燥わかめに動揺して仕事中の七海を呼びつけてしまった。あれだけ懇切丁寧に教えてもらってもわかめひとつ戻すことができない自分を心底情けないと感じて、消えてしまいたい気持ちになる。それを察してか七海の声色は小さな子を慰めるように穏やかで、手つきはガラス細工を扱うかの如く丁寧だ。

「仕事はなんとでもなる。今はこのわかめをなんとかすべきだ。貴女を悲しませるわかめを許しません」

 いやそれはダメです、いいんです、の押し問答を何度か繰り返したあと、七海は有無を言わさず三分の一ほどのわかめをフライパンへと放り込む。少しの水と醤油、砂糖、料理酒を手早く入れるとそのまましばらく置いておくのだという。

「たけのこと炊いたり天ぷらにしても美味しいですが、このキッチンでは大変です。簡単に作れるものを常備菜として数品作っておくので、しばらくおかずには困らないでしょう」

 次に大きめの器にぶつ切りのタコとわかめを入れ、調味酢を入れたと思ったらすぐにラップをかけて冷蔵庫へとしまった。あっという間に二品完成したので感動した彼女は、パチパチと手を叩きながら「さすが七海さん! 手際がいいですね」目を細めて笑顔になった。さらに七海は空いたフライパンをささっと洗い、ごま油を熱してわかめとにんにくチューブを少々、鶏ガラスープを入れて炒め始めた。食欲をそそるいい香りが漂い、彼女が「お酒に合いそうですね」と言いながら覗き込むと油と水がパチンと音を立てて跳ね、彼女は驚いて身じろぎした。咄嗟に七海がフライパンと彼女の間に入ってかばう。

「大丈夫ですか」
「平気です。びっくりしただけ。ありがとうございます」

 幸い火傷は無かったようだ。真っ直ぐ七海を見つめてニコリと微笑む彼女を今すぐに抱きしめたい衝動に駆られるが、焦ってはいけない。鈍感なのかわざとなのか、こんなに近しい関係になっているにも関わらず、彼女はなかなか一線を越えさせない見えない壁を作っているように七海は感じていた。微笑みはするが甘い空気には変わらない。まるでこれ以上はありませんとでも言うように、七海をその他大勢と同様に扱おうとしている節がある。何がそうさせるのかはわからないが、とにかく彼女の雰囲気がこれまでと同じである以上、踏み込み過ぎて怖がらせたくないのだ。
 そうこうしているうちにおつまみわかめの完成が近づいてきた。七海は先日陶器市で見つけた小皿を持ってくれば良かったと考えていた。味見のために取り分けてやろうと思っても、彼女の食器棚には適切な大きさの皿が無いからだ。どうしたものかと考え、菜箸を置いて彼女が使っている猫のイラストが描かれた塗り箸でおつまみわかめをはさんだ。

「味見してください」
「えっ、いいんですか!」
「熱いですよ」
「フー、フー」

 口元に箸を持っていくと何のためらいもなく口を開け、熱いと言われれば口をすぼめてふうふうと息を吹きかける様を見て七海は心の奥の方が、キュンと甘く締め付けられるような感覚を覚えた。まるで恋人同士の戯れのように思えて少し照れくさいものの、気を許してくれていることが嬉しい。思わず「可愛い」と口走りそうになるのを必死に堪え、なんとか味の感想を聞きだす。もぐもぐしている彼女の幸せそうな顔を見ると、答えを聞かずともなんと言ってくれるかわかる気がした。

「美味しい! お酒が飲みたくなりますね」
「口に合って良かった」

 七海は自身の口元が自然に緩んでいるのを感じた。愛おしい気持ちが波のように押し寄せ、このまま交際を申し込みたい気持ちになる。彼女は七海のことをどう思っているのだろう。困ったとき、真っ先に相談相手として選んでくれたという事実。突然家に押しかけても明らかな拒否は無いし、二人並んでキッチンに立つ関係性。誰がどう見ても恋人同士に見えるに違いないと思う。でもまだ、二人の関係に名前は無い。先ほどまで泣きそうになっていたはずなのに、二人を繋いでいる料理が間を取り持ってくれている。美味しいものは人を笑顔にする。気心が知れた相手とおしゃべりしながらする料理は癒しのひと時だ。二人で過ごす時間が楽しくて仕方がない。このままずっと、一緒にいたいと願う。彼女はどう考えているだろう。いつかのたまねぎの時よりずいぶん手際よく包丁を扱うようになっている彼女を横目に、七海はタイミングをうかがっていた。やはり今日こそ、想いを告げるべきではないだろうか、と。

「まだ少しわかめが残っちゃいました。これはレタスとツナと和えたらサラダになると思うんですけど、先生、いかがでしょうか?」
「名案です。味付けはマヨネーズなどにすると他の三品と違って食べ飽きることは無いかと」
「私も少し、成長したでしょうか」
「……そうですね。最初に比べるとずいぶん手際よくなりました。私が教えることは、もう無いかもしれない」

 先生、という彼女の発言からやはり異性として意識されていないのだと七海は感じた。あくまでも師弟関係で恋愛対象ではないと念押しされたような気がする。この関係が終わったら、二人はどうなるのだろう。

「じゃあ、七海さんのお料理教室は卒業ですか?」
「卒業したらもう、二人で一緒に食事をすることはなくなるのでしょうか」
「先生じゃなくなっちゃうけど、ご飯はご一緒したいです」

 七海が一歩踏み込んでみるともう少し困った反応をするかと思ったのに、まるで用意してあったかのような定型文的な返事が返ってきた。迷いなく発された言葉は社交辞令に取れなくも無いし、彼女の真意であるようにも思う。

「それは、どういう意味でしょう」
「七海さんとお料理したり、一緒にご飯を食べたりしてるとすっごく楽しいんです。おかしいと思われるかもしれないですけど……」

 七海の視線を一身に受けながら、淀みなく言う彼女の瞳に嘘はないように見える。全くおかしいなんて思わない。
なぜなら。

「奇遇ですね。私も同じ気持ちです」

 七海が答えると、彼女の表情がぱっと明るくなった。にっこりと満面の笑みで七海を見上げている。よく見ると頬は紅く染まり、手を胸元に持ってきている。胸の高鳴りを抑え込むようにぎゅっと握られた小さな手。彼女から向けられる感情が、好意でなければ一体なんだろう。

「お料理交換会も、もう少し付き合っていただけますか?」
「もちろん、付き合います。交換会でも、ランチでも、ディナーでも、買い物でも。何だって、アナタと一緒に過ごしていると楽しいと思う」
「嬉しいです。お付き合いありがとうございます!」

 どこからどう見ても七海と彼女の抱く想いは同じように見える。それでもやはり、その先に進むサインが読み取れない。彼女の態度は一貫して〝私に付き合ってくださってありがとうございます〟という類のものだ。付き合うの意味が違って欲しいのに、どうしても一線を越えることができない。
 七海は今日も確証を得られぬまま帰路についた。

 七海が帰った後の静かな自宅内で彼女は初めての感情に戸惑っていた。七海と一緒に居ると楽しいというのは真実だ。だからこれからも料理に付き合ってほしいということも間違っていない。卒業という単語を自分から発したとき、とても悲しい気持ちになった。本来ならば料理の免許皆伝は喜ばしいはずなのに、このままもう七海とプライベートで会えないかもしれないと考えると、寂しさを感じまた会いたいと思ってしまった。料理について教えてもらうことが無くなったとしたら、何を目的に会えばいいのかわからない。なんとか無理矢理取り繕って食事に誘ってみたら、七海も同じように楽しいのだという。その答えを聞いたとき、得も言われぬ高揚感に包まれてふわふわと浮かんでしまいそうな気分になった。心底浮かれているという表現がしっくりくるだろう。それに、食事だけでなく買い物や一緒に過ごす時間も楽しいと言われ、舞い上がって飛んで行ってしまいそうになった。そんな恥ずかしい姿を七海に見られてはいけない、しっかりしろと言い聞かせ、いつも通りの反応を心がける。七海に良く見られたい。変な奴だと思われたくない。その一心でなんでもない風を意識的に保とうと必死になって努力していた。
 それでも七海が帰ったあと、抑えきれない気持ちが次から次へと押し寄せてくる。なんとか耐え抜いていたのに、その防衛線は一人になるといとも容易く決壊して、その場にぺたりと座り込んだ。先ほどまで七海が居たキッチン。容易く返していたフライパン。手を拭いたタオル。お茶を飲んだコップ。すべてに七海の痕跡があって、全部コレクションしておきたいくらいだ。七海に抱かれた肩は火傷したように熱く、腹の奥から桃色で煌めく衝動が間欠泉のように湧いて押し上がりじっとしていられない。床に突っ伏してジタバタしてみると少し楽になるのに、やめるとまた湧き上がる衝動に耐え切れず顔を覆って叫びだし、走り回りたい気分になる。

 誰か彼女にその感情について教えてやってほしい。まるで増えるわかめのようにどんどん膨らむそれは、まさしく恋心だということを。