ねっとり食感のバナナケーキ

第8話

 いよいよ明日は予定していた交換会だ。今回はテーマを決めずに、ひらめきで持ち寄ることになっている。前回デザートに失敗した彼女は、今回はリベンジすると決めていた。しかしクッキーやケーキなどを焼こうと思ってもオーブンがない。電子レンジでできそうなものといえば、蒸しパンくらいだ。ゼリーをもう一度というのも芸が無い気がするし、どうしようかといつものようにレシピサイトをぼんやりと眺めていた。できる限り材料が少なく、失敗しないもの。それでもスイーツを作ったぞと胸を張れそうな何かがいい。そんなことを考えながら画面をスワイプしていたそのとき。【ホットケーキミックス&炊飯器で簡単! しっとりバナナケーキ】なるものが視界に飛び込んできた。

「これだ! 今ホットケーキミックスもバナナもあるから丁度いいね」

 タップして作り方を読んでみる。バナナをぶつ切りにして炊飯器のスイッチを押すだけと書いてあった。たまごと牛乳もある。これなら簡単にできそうだ。それにケーキを作ったとなると、きっと七海も驚くだろう。

 交換会当日。よく晴れて気分は上々。予定していた任務はあっけなく終わり、約束の時間まであと二時間もある。バナナケーキは昨日焼いて、ホールのまま箱に入れて持ってきた。目の前でカットしたらかっこいいだろうと考えたからだ。あの狭いキッチンでケーキが作れると七海は予想できるだろうか。驚いた顔が見てみたい。それから、美味しいと言ってほしい。そんなことを考えながら、気分よくケーキが入った箱を冷蔵庫へと入れる。名前を書いておかないと誰か――甘いものに目がない大人がいる――に食べられるかもしれないと、記名したメモをしっかりと貼り付けた。これで安心だ。

「なんだ、来てたのか」

 彼女の後ろから気だるそうな家入の声が聞こえた。昨夜は若手二名が大怪我をしたとかで、泊まり込みだったと聞いている。ペラペラの手術着にぐったりした白衣を羽織り、サンダルをペタペタいわせながら歩いてきたと思ったら、側に在ったソファへどかりと倒れ込んだ。天を仰ぎ「はー、眠い」と言って、彼女の方へと視線をやる。

「お疲れ様です。今日は七海先生とのお料理交換会なんです」
「まだ続いていたんだな。七海先生、か」

 ソファに沈んだまま視線だけを彼女の方へと移し家入が言う。あからさまに含みのある言い方をしたはずなのに、彼女は我関せずといった様子でにこにこと愛想よく笑っていた。

「七海さんは私の料理の師匠ですから」
「なるほど。じゃあ君は、弟子なわけだ」
「色々教えていただいたり、美味しい料理も食べさせてもらったり、すっごく感謝してます」

 首を前後に振ってコクコクと頷きながら少しだけ得意げにしている彼女を家入はじっとりと眺めた。無言の圧力に屈するだろうか。

「付き合ってるのかと思ってたぞ」
「私が付き合ってもらってるんですよ」
「いや、そうじゃない」

 二人の仲を高専中が見守っているというのに、あくまでも彼女は知らないふりを続けるらしいとわかっていい加減うんざりしてくる。最初はただ鈍いだけだと応援していたのに、ここまでくると最早計算ではないかとさえ思えた。どう見ても師弟や友人という関係にカテゴライズすべきではなく、気持ちを伝えあえばスタンディングオベーションの準備は整っている。それなのに、一体何が彼女をここまで頑なにさせるのかわからず胸の中がモヤモヤする。七海の方は周囲にも本人にも好意を隠そうともしていないにも関わらず、ここまでとぼけられ続けていては少々不憫ではないだろうか。家入は彼女の瞳を再び静かに見つめ続けた。

「七海さんは優しいですから」
「優しさだけでアイツがここまでするわけないだろ」
「誰にでも公平に紳士的で、私にもいつも丁寧に教えてくれるし、失敗しても怒らないです」
「ここまでするのはお前だけ。好きだからな。特別なんだよ」
「そんなわけないじゃないですか!」

 家入の激しい攻勢に耐え兼ねたのか、彼女の語気がほんの少し強くなった。なんだかむきになって否定しているように思えて、やはりどう考えても彼女が七海へ抱く感情は好意であると言わざるを得ない。

「時間に縛りを課すようなヤツがわざわざプライベートの時間を割くなんてことは、そういうことなんだよ」
「じゃあ、けっこん……? そんなのダメに決まってます!」
「突然話が飛躍するな」

 家入はそれ以上言及することなく、のっそりとソファから起き上がって出て行ってしまった。突如告げられた〝好き〟と〝特別〟という単語が彼女の脳内でぐるぐると駆け巡る。その言葉の意味が理解できないわけではなく、全くの他人事だと思って生きていたので当事者だとは思えないのだ。恋愛や結婚はテレビドラマや漫画の中、それから一般社会に生きる人だけの間で起こっている夢物語。呪術師として近々死ぬかもしれない自分には縁の無いことだと、ハナから諦めてしまっている。考えかたは違えど、多くの呪術師は長生きを望んでいないように思う。好意を向けられたときの対処方法がわからず、彼女は首をこれでもかと捻りながら考えてみた。家入の言う通り、七海が自分を好いているとしたらどうだろう。お話の中や空想世界の中でだけ成り立つ、男女の仲になったとしたら。

――そうだとしたら、嬉しいな。

 すぐに嬉しいという感情が浮かんできたことに驚き、はっと目を丸くして、次の瞬間には頭のてっぺんからつま先まで沸騰したみたいに熱くなり、居ても立っても居られずに両手で顔を覆う。身体の中心から惑星が誕生するときのような巨大なエネルギーが弾けるのを感じ、胸の鼓動が一気に速くなる。何が起きたかよくわからずに強く目を閉じてその場にうずくまり、走り出しそうになる身体を必死になって抑えつけた。それでも制御できない歓喜がどんどんと沸き上がり、なぜか涙が次々と溢れてくる。ここのところは悲しくても泣けなくなっていたのに涙が出てきたことが理解できず、彼女は必死に目から流れてくる液体を手で拭いながら、なんとか自制心を取り戻そうと深呼吸を繰り返した。よろよろと立ちあがり、誰も来ないところへ逃げて気持ちを落ち着かせようと扉を開けた、その時。

「呪力が激しく揺らいでいる」

 彼女より頭一つ分上から聞きなれた声が降ってきた。お腹の奥の方がキュッと締め付けられたように甘く痺れ、初めての感情に怯えた彼女は後ずさりした。

「……な、ななみさ――」
「何かありましたか」

 いつもと同じ聞きなれた声のはずなのに、七海の発する言葉が彼女の身体の内側に沁み込んで胸を震わせる。今までとは全く違う感覚に戸惑い、七海と視線を合わせることができない。こういった感情の処理方法がわからず、うつむいてもじもじとしながら、なんとか弱々しい声を出す。

「大したこと、ないです」
「座りましょう。その方が落ち着く」
「わ、わたし、落ち着いてます」
「お腹もすいている時間ですし、約束の時間より早いですがまずは食事にしませんか」
「……はい」

 七海に説得されふらふらとソファに腰掛けた。指先は冷たいのに手のひらにはじっとりと汗をかいている。こっそりと服の裾でぬぐって、唾をごくりと飲み込んだ。喉が渇いて仕方がない。こんな状態ではとてもじゃないが食べ物など喉を通らないだろう。今までとは世界が一変して、七海が煌めいて見えてしまう。いや、今日よりも前から、七海は特別だった。自分の気持ちに気づいてしまえば、七海と出会ったときからこの恋が存在していたのではないかとさえ思う。思い返せばいつも目で追っていたし、どこにいても見つけることができた。声をかけられたときに胸に広がったじんわりと温かいものは、自分には必要ないと存在を押し込めていた恋心だったのだ。
 様子のおかしな彼女を気遣いながら、七海は冷蔵庫から二つのランチボックスを取り出した。一つは自分用、もう一つは彼女の分だ。蓋をあけて電子レンジで温めると、香味野菜とたまごのいい香りが漂った。机に並べられた大小のランチボックスの下にはシンプルなランチマットが敷かれている。

「何にしようかと迷いに迷って、この会のきっかけになったチャーハンを作りました」

 口元をわずかに緩めた七海が落ち着いた声色で言う。穏やかで優しい声に七海の気遣いを感じて、彼女はまた泣いてしまいそうになった。

「私は、七海さんをびっくりさせたくて、ケーキを焼いたんですよ」
「それは凄い。見せて下さい」
「炊飯器で簡単に作れるっていうレシピでやったから、本物のケーキには程遠いかもしれないですけど……」

 彼女は冷蔵庫から可愛らしくラッピングされたケーキボックスを取り出した。この日のために選んだゴールドのリボンとリーフの飾りをあしらってみた。七海をイメージしたカラーのつもりだが、本人は気づいただろうか。七海が骨ばった手でオーガンジーのリボンを解き、ボックスの中からバナナケーキを取り出した。ふわりとバナナの甘い香りが周囲に漂う。まんまるで香ばしそうに焼けている。取り分けようとナイフを入れた瞬間、中の方が少々柔らかく感じたものの切れない程ではない。美しく八等分されたケーキを箱に戻してひとまずお預けだ。

「「いただきます」」

 声がきれいに重なったとき、二人は目を見合せて笑った。その時の彼女の笑顔が七海にはいつもと違うように見えて、心臓が別の生き物のようにどきりと跳ねる。頬を赤く染め、うつむきながら口元を隠してはにかむ彼女から以前と違うあたたかなものを感じ、今日このもどかしい関係が終息するのではないかと思った。それほど明確に彼女の纏う雰囲気が変わっていることに驚きながらも、なぜかもの寂しい気もする。いつもは師弟関係であることを理由にしてわかりやすく線引きがなされていたのに、それが取り払われてしまったら、もう今までの関係には戻れないからだ。七海と彼女は間違いなく同じ気持ちであると確信しているのに、この関係を発展させる言葉が出てこない。このまま何も始めずに、これまで通りに付かず離れずのままでいいかもしれないと、七海は弱気になっていた。それは彼らが呪術師で、簡単に永遠を誓えないからに他ならない。

 二人はあっという間にチャーハンを平らげた。有名店で購入したという甘酢団子も美味しくいただき、そろそろ甘いものが欲しくなってくるころだ。彼女がバナナケーキを皿に取り分けている間に、七海はドリップバッグでアイスコーヒーを淹れた。いよいよデザートの時間だ。
 バナナケーキに七海がフォークを入れる。外側はまるでタルト生地のようにカリっとした仕上がりだったのに、中はぶよぶよとしていてうまく切れない。潰れて溢れた中身は、なんだか生焼けのように見える。次の瞬間、彼女が慌てて七海の手元を押さえた。

「七海さん、ダメ! やっぱり食べないでください!」
「いえ、いただきます」

 彼女の手は簡単に振り払われて、バナナケーキは七海の口に消えていった。ねっとりとした食感が七海の口の中全体に行き渡り、咀嚼するとネチョネチョとまとわりつく。彼女は恥ずかしくて消えてしまいたい気持ちになり縮こまってしまった。やはり失敗していたうえに、また失敗作を食べさせてしまったからだ。蚊の鳴くような声で「ごめんなさい」と呟くと、七海はごくりと喉を鳴らしてねっとり食感のバナナケーキを飲み込んだ。

「やや重たい感じがしますが、味は問題ない」

 モチモチ噛みながら七海が言うと、彼女はがっくりと項垂れて言う。

「私ってやっぱり、料理に向いてないんです」
「最初に比べたら何もかも上達している。もっと自信を持ってください」

 確かに百点満点とは言い難い出来だ。それでも、彼女が七海のためを想って一生懸命作ったのだ。何を作ろうかと悩み、ケーキを作って驚かせようと企み、レシピを調べて試行錯誤したのだろうと考えるだけで、胸がいっぱいになる。だから大丈夫だと、何の問題も無いのだと七海が言おうとしたとき、彼女は七海の手元のケーキの皿をさっと下げて遠ざけてしまった。それから瞳を潤ませて七海を真っ直ぐに見据え、震える唇から絞り出すように言葉を紡ぐ。

「私がやるより、七海さんが作ったほうが絶対美味しいです。だから、七海さんに毎日ご飯を作ってほしいんです」

 言い終わってもそのまま目を逸らさず、ぐっと口元に力を入れて七海の返答を待つ。

「……作りますよ。貴女のためなら。明日も、明後日も、その先もずっと」
「これはその、世間一般で言うところの、告白、というやつなんですけど」
「そのつもりで聞いています」
「良かった。これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ」

 二人はソファに座ったまま、深々と頭を下げた。これから男女交際をしようという二人のようには見えない挨拶も、きっと後でいい思い出になるだろう。顔を上げたらお互い耳まで真っ赤になっていたので、声を出して笑った。これからは師匠と弟子では無く、恋人同士として絆を深めていくだろう。