いつの間にか習慣になった料理交換会。明日が約束の日になった。今回はデザートの約束だ。ジュースをゼラチンに溶かすだけでゼリーができると七海は簡単に言うが、自炊初心者の彼女にとってデザート作りは未知の世界だ。スーパーでゼラチンを買うのも大変だった。どのコーナーに陳列されているのかわからず、店内を右往左往した。ネットで見つけたおしゃれなレシピは下にババロア、上にゼリーの二段で、さらにフルーツが中にちりばめられ、上には謎の草まで乗せられている。草はミントの葉らしいが、それを二十数年生きてきたものの購入したことがない。とにかく初めてのことばかりでどうしていいかわからなかった。ついには店員にゼラチンの在りかをたずねたところ、製菓材料のコーナーに並んでいるのだと教えてもらった。未だかつて立ち寄ったことが無いその場所へ導かれるままについていくと、そこには求めていたゼラチンが並んでいたのだった。
彼女は一箱手に取り、じっと見つめてみる。箱を振ってみると中からはサラサラと砂が流れるような音がした。
「ゼラチンって、粉だったんだ……!」
幼いころの記憶を辿ってみると、母が何か板状のものを溶かしていたことを思い出す。料理上手な母の元で育った彼女は、料理に興味を持つのではなく、母の作った美味しい手料理を食べることに夢中だった。薄味の和食が多かった実家の料理を思い出し、亡き母の背中が脳裏に浮かぶ。呪術師の家系は短命である。呪いを視認し祓うことは、常に命の危険が側に在るのだ。母に料理を習っていればよかったと、ここのところ何度も考えている。ひょんなことから七海と料理で師弟関係を結んでから、毎日が楽しく充実していた。買い物をしていても、七海はこういったものを好むだろうかと、彼の姿がふと浮かぶ。七海の手料理を食べたら幸せな気持ちになる。自分の手料理を食べてもらったとき、胸が高鳴り平静ではいられない。次の交換会はいつだろうと毎日心待ちにしては、カレンダーを眺めて指折り数えている。世間一般ではそれを恋と呼ぶのに、彼女は師匠や先生に向ける畏敬の念だと考えている。呪術師として生きている以上、安らかな死は訪れない。後に残すものが多ければ多いほど、誰かを苦しめ煩わせることになる。無意識にそれらを避けるため、自分の気持ちに蓋をしてしまっているのだろう。
「箱にも簡単そうに書いてあるから、大丈夫だよね」
一人ぶつぶつと製菓材料の棚の前でひとしきり悩んだあと、彼女は意を決してゼラチンをかごの中に入れた。何を作るかは決めてある。デザートといえば甘いものを想像するだろうが、七海が甘いものを好んで食べているところをあまり見たことは無い。
だから今回は、コーヒーゼリーを作ることにしたのだ。
コーヒーは近所の自家焙煎の店で淹れてもらった。外観からしてこだわりを感じられるその店は、中に入ってもいたるところに店主の思い入れがうかがえる。産地ごとにわけられた瓶の中にさまざまな濃淡のコーヒー豆が詰まっていた。オリジナルのブレンドは三種類の豆をそれぞれ適した具合まで焙煎してから混ぜているのだという。初老の店主に事情を伝えると、快くその場でコーヒーを抽出してくれた。ゼリーやアイスコーヒーにするならば、パンチの効いた深入り豆がいいらしい。心地よい苦みが食後に合うだろうということだ。またすっきりとした爽やかさが味わえる、スマトラ島で栽培されているマンデリンという種類が適しているそうだ。すすめられるままに買ったコーヒーを一口味見させてもらうと、店主の言う通りに苦みと爽やかさのバランスが絶妙だった。これならきっと、七海も喜んでくれるに違いない。彼女は頬を緩ませ、店舗を後にした。
さて、今はまだ熱いコーヒーに急いでゼラチンを溶かして冷やさなければならない。本来ならば氷の上にコーヒーを抽出して急冷することで、引き締まった味のアイスコーヒーになるらしい。冷たいコーヒーにするには急冷がいいそうだが、ゼラチンを溶かさねばならない。店の中でコーヒーゼリーを作り始めるわけにはいかず、テイクアウトのカップに熱々のコーヒーを淹れてもらった。店主から受けたレクチャーによると、このままコーヒーをボウルなどに入れ、溶かしたゼラチンを投入。それから小分けにするなりタッパーに入れるなり、好きな容器に入れて冷蔵庫で冷やせばいいとのことだ。手順だけ聞いているととても簡単に思えるのだが、なにせ彼女は自炊初心者。今までのことを考えると用心せねばならない。今回こそは慎重に作業を進め、最高のコーヒーゼリーを作って七海に食べてほしい。文句なしの美味しいを聞いてみたいと、彼女は気合を入れて腕をまくった。
彼女の自宅にはボウルもザルも一つずつしかない。シャレたカップなんてものももちろん無く、慌てて百円ショップに行き、なんとかシンプルなデザートカップを入手したくらいだ。粉ゼラチンに水を入れ、しばらく放置していると徐々に水分を吸って固形になった。なんだか少しダマになっているような気がしてフォークでかき混ぜてみたものの、ボロボロに崩れただけだった。大丈夫だ。これからコーヒーに入れたらきれいさっぱり溶けてなくなるに違いない。彼女は恐る恐るボロボロのゼラチンをコーヒーに入れた。やはりダマになっているように見え、箸を使って一生懸命混ぜまくる。バシャバシャと泡立ち、コーヒーの温度はみるみる下がっていく。溶け残りがあるような気がして、さらに混ぜた。これでもかと混ぜたところで納得し、カップに小分けにして冷蔵庫に入れ、明日までしっかりと冷やしたら完成だ。保冷バッグにガムシロップとポーションミルクをいくつか入れて準備は万端。少々の不安はあるが、今回こそは何の問題無いだろう。
翌朝。冷蔵庫を覗くと、ひんやりと冷たい冷気が彼女を撫でる。コーヒーの芳醇な香りがふわりと漂い、期待できそうだ。それに、見た目は特に問題ないように思う。肝心の味も、良いコーヒーを使ってゼラチンを入れて混ぜるだけなのだから大丈夫だろう。
「七海さん、今日は驚くだろうなぁ」
美味しいと言い頬を緩ませる七海を想像するだけでうきうきと嬉しい気持ちになってくる。今回は絶対、間違いない。
そしていつもの高専の一室。毎度おなじみ交換会が始まった。今日はデザートを手作りしたので、昼食は七海おすすめのパンだった。総菜パンを中心に十種類ほど用意された中から、彼女はブルーベリーチーズと、トマトとバジルのフォカッチャを選んだ。七海はコーンとベーコンのピザにカツサンド、それからあんバターコッペとクリームパン。もう一つ食べたかったようだが、デザート二種のためにお腹をあけておくことにすると言って四つにとどめ、残りは後ではんぶんこしようと決めた。パン好きの七海が通う店だけあってどれもとても美味しく、彼女はあっという間に二つぺろりと食べてしまった。おいしいおいしいと言いながら嬉しそうに食べる様子を見て、七海の胸には愛おしさが込み上げてくる。パクパクと食べている姿が可愛らしい。にこにこ嬉しそうな笑顔に癒される。七海があんバターコッペにかぶりつこうと口を開けたとき、物欲しそうな顔で彼女がじっと見つめていた。顔には「一口食べたいなあ」と書いてある。
「まだ口をつけていないので、一口いかがですか」
「えっ、いいんですか! でも私がかじっちゃったら七海さんに悪いです」
「私は気にしませんが。半分にしましょう」
「そんな半分だなんて! 三分の一で大丈夫です!」
真っ赤な顔でブンブン首と手を一緒に振りながら遠慮している。それでも目はあんバターコッペに固定されていて、顔にはやはり「美味しそう」だと書いてある。目は口程に物を言うとはこのことだ。それに半分は多いけど三分の一は欲しいという隠しきれない食欲が自然と口から出ているのを聞いて、七海は心の中がじわじわと温かくなっていくのを感じた。彼女のこういったわかりやすいところは非常に好ましい。
――誰にでもこうでなければいいのだが。
給湯室から借りてきたナイフで切り分けてやると、何度もお礼を言った後に三口で食べてしまった。あんことバターの甘じょっぱが最高に合うと言って目を細めている。
「どれも間違いないですね。すごく美味しい。七海さんのセンス、分けてほしいです」
さらりと出る褒め言葉にはいつも嫌味が全くない。きっと彼女の生来の素直さのせいだろう。それ故に、心配になる。他の男にも同じように接しているのではないだろうか、と。勘違いする輩がいてもおかしくない。そういった芽は早めに摘む必要がある。彼女に悪い虫がつく前になんとかしてなくては。もう既についているかも。七海の脳内は忙しい。いるかどうか定かでは無い男の影にさえ嫉妬するほど、彼女に夢中になっている。そろそろ意識してほしい。七海は何の感情も抱いていない相手に時間を割くほどお人好しではないのだ。
「アナタがどんなものを好むのかと考えながら選ぶのは楽しかったです」
「わかります。プレゼント選びなんかも楽しいですよね」
誰かのために何かを選ぶ心当たりでもあるのか、ウフフと言いながらうつむいて笑っている。この様子では、やはり伝わっていない。七海は相手が彼女だからこそ楽しかったと言ったつもりだったのに、彼女は選ぶ楽しさをピックアップしている。相変わらずの打てど響かずっぷりに七海は膝から崩れ落ちそうになった。しかしこれが彼女の通常運転なのだ。それでも七海以外の誰かと二人きりで食事に行ったりだとか、仲良さげにしたりだとかいう噂は聞かない。だから、まだ自分に分があるのだと言い聞かせることでなんとかイスからズッケコ落ちるのを耐え抜いた。
一方彼女はというと、七海の思わせぶりな発言に困惑していた。まるで自分のために選ぶことが楽しかったとでも言っているように聞こえたからだ。近寄りがたいと思っていた七海と、料理を通して仲良くなったとは感じている。しかしこれは、師弟関係であって色恋沙汰ではないのだ。立場も等級も料理の腕前も何もかも違う七海のような男が、その他大勢の一人である自分に特別な感情を抱くわけがないと思い込んでいる。七海は知らないのだろうか。そのルックスと紳士的な態度から数多のファンが存在することを。高専では日々、七海の噂話が繰り広げられているというのに。先日も若手の補助監督に「七海さんとお付き合いされてるんですよね」と探りを入れられてしまった。もちろん答えはNOだ。するとその人物はさっきまでニコニコしていたのに、彼女の答えを聞いたとたんにハテナマークを顔中に浮かべた。何かマズイと思って「私なんかが七海さんと付き合ってるわけない」と弁解したら、気まずそうに視線を泳がせたのだった。彼女は思った。
――この子きっと、七海さんのことが好きなんだ。
しかし、その時の補助監督の胸中はこうだ。
――七海さん、もっと頑張って下さい。全然響いてません。
こうした牽制のようなものは日常茶飯事である。その度に彼女は申し訳ない気持ちになり、これ以上七海と仲良くすべきではないと考えた。それでも七海からの誘いがあると嬉しい気持ちがおさえられず、次の約束をしてしまう。立ち去る補助監督の背中を見つめながら心の中でごめんなさい、と謝ってみる。少し罪悪感は薄れるものの、七海への興味関心はさらに増すばかりだ。繰り返しになるが、それを人は恋と呼ぶ。悲しいかな、本人だけが気付いていない。
「今日はコーヒーゼリーにしたんですよ」
パンを食べ終えた彼女が冷蔵庫から取り出したのは小さなカップだった。いくつか作ったゼリーは表面に消えない泡がそのまま固まってしまったものばかりで冷蔵庫を開けた時悲しい気持ちになった。しかし唯一無傷だった一番美しいものを七海のために選んだ。
「上手にできています。美味しそうだ」
ラップについた玉のような水滴がぽたりとゼリーに落ちる。ふるふると揺れる表面を見るに、今回はうまくいっているに違いないと彼女は心の中で小さくガッツポーズをとった。そもそもゼラチンを溶かして混ぜて入れるだけなのだから失敗のしようがない、絶対に大丈夫だと自分に言い聞かせ、ポーションミルクとガムシロップとスプーンを皿に乗せた。
「七海さんは何を?」
「私はティラミスにしました」
「すごい! パティシエみたい」
「ただの自炊が趣味の独りものですよ」
恋人募集中です、と顔に書いてみたつもりだが彼女は気づいているだろうか。わざとらしさを出さないように意識しつつ、チラリと彼女を横目で見てみる。
「七海さんとお付き合いする方は本当に幸せでしょうね」
きらきらと瞳を輝かせ、目を細めて嬉しそうに七海に微笑みかけている。全くの他人事だとでもいうように社交辞令的な返答をしてきた彼女のことが、ここまで来ると少々憎たらしくもある。なぜ気づかないんだと理不尽な苛立ちを胸に、七海は意地悪く彼女に問う。
「私と交際すると、相手の方は幸せになれるでしょうか」
「そりゃあもちろん間違いなく幸せですよ。七海さんって優しくて包容力があるし、さり気ない気づかいができて穏やかで、お料理も上手いし清潔感もあるし。……それに、どこからどう見てもかっこいいです!」
褒め言葉の連打のあとに「だから大丈夫ですよ」と意味不明の励ましを受けた七海は、脳内で膝と手をついてがっくりとうなだれた。現実世界ではいつも通り振舞っているつもりだが、彼女の度をすぎた鈍感さについ身体が反応してしまう。瞼がピクピクと痙攣し、行き場のないやり切れぬ気持ちが溢れて腕を組み、上半身はゆっくりと椅子の背もたれに倒れていった。天井を眺めてみても答えは無い。
――これは厄介だ。
フゥーと、七海のへの字口からつい大きなため息が漏れた。場の空気が少し固くなったのを感じたものの、態度を改めようとは思わなかった。さすがに鈍すぎる。これ以上待てない。
「……七海さん?」
何かを察したのか、彼女は怖々七海に問いかけた。不安そうな表情をさせてしまい、わずかに申し訳ない気持ちが湧く。それでも。
「私は、貴女が言うように大丈夫だとは思えないんです」
「そんなことありません! 七海さんってかっこよすぎるから、別世界の人だって思われてしまうんじゃないでしょうか」
間髪入れずに彼女が言う。腐敗し狂ったうえに血にも塗れた呪術界において、一般社会を経験してきた男は纏う空気が生粋の呪術師とは明らかに違う。丁寧で品のある身のこなし。規定側だと言いながらも曲がらぬ信念。隠しきれない不器用なまでのまっすぐさ。彼女にとってはすべてが眩しい。本当に別の世界からきたような気がしている。同じ呪術師とは思えない。だからそんな七海が誰からも愛され、慕われているのは何ら不思議では無かった。
一方七海は別世界の人間だなんてとんでもない、と思った。彼の頭の中はそこらの男と変わりなく、煩悩に塗れている。勝手に理想像を作り上げられるのはまっぴらだった。
「私もただの男ですよ」
「七海さんがただの男だったら、私なんかアリンコみたいなもんです」
「よくわからない励ましは結構。ゼリーをいただきましょう」
「あ……、すみません。どうぞ、召し上がってください」
彼女の冗談なのか本気なのかわかりにくい返事はもういい。このペースにハマってはいけない。もしかしたら七海の気持ちを知ってなお、遠ざけようとしているのかもしれない。そんなふうに考えてしまうほど全く手ごたえが感じられず、七海は完全に焦れていた。
一方彼女は、七海の刺々しい言葉と態度に驚いていた。今日の七海はいつもと違ってピリピリしていて、何か思い詰めているような雰囲気がある。様子がおかしいことはわかるのに、その原因が何かわからない。七海がコーヒーゼリーにスプーンを入れると、ゆるゆるとしたゼリーがスプーンから零れ落ちた。分量通りのはずなのに、やけにゆるいよういに見える。何かおかしいと彼女が考えたとき、七海がスプーンをカップの底までつけてひっくり返すように掻き混ぜた。すると下の方からは、ブリブリとした塊になったゼリーが出てきたではないか。
「底の方にダマがありますね。きっとゼラチンがよく溶けていなかったんでしょう」
「……ごめんなさい。やっぱり、私――」
「いいんです。ゼリーの硬さにムラはありますが、良く冷えていて美味しい。良い豆ですね。今度店を紹介してください」
「もちろんです。七海さんきっと気に入ると思いますよ」
揺さぶりをかけてみたものの、彼女はいつもの微笑みで返事をした。そろそろ頃合いかと思って引っ掻き回してみても上手くいかない。そんな現状を表しているかのようなゼリーの出来に七海は内心苦笑した。どうすれば気付いてもらえるのだろう。いっそ、ストレートに告げるべきか。脳内で二人の七海が言い争っている。
――やはりまだ早い。もっと慎重になるべきだ。
――いやこのまま押せ。押して押して押しまくって、既成事実を作るのだ。
どちらの言い分も両極端でアテにならない。七海は考えた。今日は既に一歩踏み込んでいるのだから、彼女は何か感じているだろう。一旦ここまでにしておいて、次に賭けよう、と。
七海はティラミスを皿に取り分け、彼女へとすすめた。嬉しそうに「いただきます」をしてから、一口食べる。いつもならここで、ぱっと表情が明るくなるのだ。でも今日は違った。驚いたように目を丸くして、ティラミスと七海を交互に見た。口をパクパクさせながら何か言いたげにしている。それからしばらくして、おそるおそる口を開いた。
「あの、今日も美味しい、ですけど……」
「けど? はっきりしない物言いは嫌いです」
「うぅ……、ちょっとベチャっとしてるっていうか、妙にマッタリしてるっていうか……」
小さな声で「すみません」と付け足して、もじもじと言いにくそうに上目遣いになった。二口目がなかなか進まず、スプーンを弄んでいる。見た目は普通のティラミスだ。買ってきたと言ってもだれも疑わないくらいには出来が良く見える。しかし今日の七海の料理は何かが違う。彼女が続きをなかなか言い出さないので、しびれを切らした七海が沈黙を破る。
「そうですね。今日は少し失敗してしまいました。私もこのように失敗します。貴女と同じ人間ですから」
早口で責めるような口調に彼女は面食らい、じっとうつむいてまた黙り込んでしまった。七海は少し乱暴な言い方をしてしまったと後悔したが、一度口から出た言葉を取り消すことはできない。静かに彼女の返事を待つ。
「うーん。今日の七海さんは、ちょっぴり手厳しいですね」
予想よりも穏やかな声で彼女が答える。えヘヘとバツが悪そうに眉を下げて笑いながら、手を首元に持っていった。七海は返答に困らせてしまったと思ったが、もっと困ればいいとも思った。なかなかその他大勢のように接する態度を崩すことができないのでじれったい。
「そろそろ次のステップに進みたいんです」
「ありがとうございます。私も少しずつでも前進したいです。次もよろしくお願いします」
ファイティングポーズを取りながら彼女がほほ笑む。
「……料理の腕だけではないのですが」
「材料選びもお片付けも手を抜きません」
人差し指を立て、不敵に笑う。
「そうではありません。本当にわからないんですか?」
「もっと難しい料理にもチャレンジしていきます!」
わかったとでも言うように手を叩き、目を丸くした。
「ハァ……。料理以外のミッションの難易度が高すぎます。まあいい。ゆっくりとステップアップしていきましょう」
「はい、わかりました……?」
小首をかしげ、眉尻を下げた。
「よろしい。次はどうしましょうか」
「うーん……。テーマを決めず、前日の買い物での閃きで用意するのはどうでしょう」
「いいですね。楽しみにしています」
結局何も伝わっていないようではあるが、一石を投じることはできただろうと七海は考えた。焦りから少々つっけんどんな態度になってしまった気がするが、こうでもしないと彼女は何も感じないしこれからの二人が変わることはなさそうだった。心の機微に鈍感ではない彼女のことだから、恐らくわざと色恋から意識を逸らしているのだろう。
一方彼女は、七海の不可解な発言に心がざわめくのを感じていた。いつも穏やかで紳士的な態度を崩さなかった七海から感じた、自分にまつわる不満のようなもの。料理と仕事で繋がってはいるが、それ以外に七海との共通点は一つもない。高専育ちで無い彼女には七海の学生時代や出戻りした詳しい経緯はわからない。ただ七海と過ごす時間を心待ちにしている自分には、もう気づいてしまっている。ただこの感情をどこへ配置すべきか迷っていた。うまく収まりそうな場所の心当たりはあるものの、そこに置いてしまえば後戻りできない気がしているのだ。正解の場所がわかるまで、なんとかこの気持ちを整理しなければならないと思い、ボソボソとしたチーズとゆるゆるしたスポンジが絶妙に合っていない七海の失敗ティラミスをもう一度口へと運んだ。