七海が待ちに待った金曜日。今日の時間を作るため、無理難題を言われても全て文句なくこなしてきた。連日時間外労働続きだが今日だけは定時上がりだ。何かのっぴきならない理由があるに違いない。普段とまた違う鬼気迫る様子の七海を見て、職員一同は何かを察していた。それはここ最近の高専で話題になっている、例の彼女の件だろう。堂々とランチを共にしては感想を述べ合っている姿は仲睦まじい以外の何物でも無い。どうやら好意を寄せているのは七海の方らしいという噂が出てからというもの、高専内はかつてない盛り上がりをみせている。日に日に野次馬は増え噂話に尾ひれが付き、やれ付き合っているだの、結婚秒読みだの、実はすでに子どもがいるだのみんな好き勝手に沸いていた。どういうわけか本人たちだけは注目の的になっていることに気付いていないようだ。思いの外、二人は鈍感なのかもしれない。または、野次馬達の隠密行動がうますぎる可能性もある。
それはさておき、今日こそ少し距離を縮めたいところだ。
「お待たせしました!」
改札から全力疾走してくる彼女を見て七海は驚いたと同時に吹き出し笑いをしてしまった。大人になってこんなに早く走ることがあるだろうかと考えたが、悲しいことに呪術師なら待ち合わせに遅刻する以外でもあり得るから困る。そう、つい昨日もボロボロの洋館ですばしっこい鼠のような呪霊を追いかけ回していたのだ。昨日のことを回想しつつ、七海は彼女に向かっていつもよりわかりやすく微笑みかけ、それからわざとらしくちらりと腕時計を確認した。
「一分遅刻です」
「わーっ! ごめんなさい。メッセージにも入れたんですけど、電車が遅延してて……!」
「知ってます。遅刻の事実を述べただけで、だからどうこういうわけではない」
「そ、そうなんですか。時間に縛りを課してる七海さんに遅刻だなんて言われたらドキドキしますね」
焦って手足をバタバタと動かしながら弁解して、七海の表情を覗き込む。七海の返答から怒っているわけでは無いとわかり、ほっと胸を撫でおろした。ひょんなことから料理を通して七海との関係性が発展した彼女は、七海の意外な一面を見つける度に秘密を知ったような気持ちになっていた。これまでそれほど付き合いも無かったころは無表情の堅物だと思っていた七海は、意外にもユーモアがあると知った。少し顔には出にくいものの、美味しいものを食べたときは少し頬が緩む。仕事だけの関係であれば知りえなかった七海を見つけた彼女は、それを素直に喜んだ。いつだって新しいことを見たり知ったりするのは楽しいものだ。
彼女が地面に向かってムフフと笑っていると、七海は「では行きましょうか」と言って肩に優しく触れた。自然な流れで何一つおかしいことなどない。七海はそう自分に言い聞かせつつ、彼女の反応を伺った。全くなんでもない顔をしている。どうやら前途多難らしいと七海は悟る。
そんな七海には全く気づくことなく、彼女はスマートフォンをスワイプしながらとあるサイトを開いて見せた。
「今日はエスニック料理に挑戦しようと思います。先生、いかがでしょうか?」
なぜか得意げに胸を張って言う姿を見て七海はがっくりと肩の力が抜けてしまった。まったくと言っていいほど異性として意識されていない。彼女にとって七海は料理の先生でしか無いらしい。確かに二人がやっていることは料理の練習と講評だ。それ以上でもそれ以下でもない。先は長そうだと七海は心の中でだけ大きなため息を吐いて、現実世界では平静を装い彼女の提案を聞く。
「エスニック、というと」
「トムヤムクンとか、フォーとか、えーっと、パッ、タイ? とかです」
画面の中に表示されているものと同じ名前を並べ「だからナンプラーを買わなきゃだめなんです」と続けた。それにチリオイルもいるし、とスマートフォンを睨みつけながら呟く。家には無い調味料を揃える。これは料理初心者あるあるで最も注意しなければならない行動だ。どんなことにも言えるが、慣れていないことをするときはより慎重になるべきで、事前準備や事後処理についても考えてから行動するほうが良い。例えば仕事でも行ったことがない場所へ行く時にはルートを調べて早めに家を出る。退治したことが無いタイプの呪霊と交戦することが予想される場合は、あらゆる可能性について検討してから現地へと赴く。普段の彼女の仕事ぶりを見ていると、きっちりと準備してそつなくこなす万能タイプだ。だからこそ様々な事例に関わって数多の知識を持っているから、多くの仲間から頼られ、慕われている。
――それなのになぜ、料理となるとこうもポンコツになってしまうのだろう。
七海はどう返事をするか迷った挙句、彼女のエスニック欲を満たしつつ料理のヒントも得て欲しいと考えて提案することにした。
「なるほど。アジア料理というわけですか。しかし材料や調味料を一通り揃えるといつ使い切れるかわかりません。まずは簡単に作れるレトルトやミールキットなどを使って試してみてはどうでしょう」
「名案! さすが七海さん!」
彼女はなるほどと相槌を打ち、快く七海の意見に賛同した。さすが柔軟性と適応力を買われて、あらゆる任務に派遣されているだけある。切り替えが早く受け入れる姿勢が前向きだ。そうと決まれば話は早いと、彼女は輸入食材を多く扱うスーパーマーケットの方へ意気揚々と歩き出す。七海はそんな彼女の一歩後ろからついていった。いつもの黒ずくめとは違って今日はラフな格好をしている。オーバーサイズのラウンドネックシャツにゆるいボトムを合わせており、休日にはこういったスタイルを好むのかとまじまじと眺めた。ワンポイントが入った帆布ショルダーバッグには何が入っているのだろう。もちろん彼女が休日にどんな格好をしていようが自由だ。似合っているしおかしいところなんて一つもない。しかし七海にとってこれはほぼデートなのだが、彼女にとっては少し違うらしい。だって明らかに異性を意識した服装ではない。デートだと思えば女性はもっとこう、身体のラインを目立たせてワンピースの裾をひらひらさせたり、瞼がキラキラしたりするではないか。七海はどうだろう。仕事以外で顔を合わせたことが無いのでスーツ以外の姿も見てほしいと思いながらも、きっちりしたジャケットにシャツを合わせてきた。ボトムは迷ったすえに無難にダークカラーにしたのでまだマシだが、最近購入したテラコッタのボトムをはいてきたら彼女の隣で浮いていただろう。時計も仕事とは別のものをつけ、眼鏡もボディミストもいつもと違うのに、彼女は七海の見た目に一切触れることなくアジアンな食材のことで頭がいっぱいだ。まるで七海だけが大いに期待して気合を入れてしまったようで、恥ずかしいことこの上ない。そして彼女にとって七海は本当にただの料理の師匠でしかないのだろうと突き付けられた現実が心を抉る。
七海は彼女にバレないように、大きなため息を地面に落とした。
――大丈夫。まだ始まったばかりだ。
そうこうしているうちに店に着いた。都内に数店チェーン展開しているそこはあらゆる輸入食品を取り扱っている。広い売り場に所狭しと並ぶ世界各国の食材たち。一体どんなものが売られているのだろう。彼女が店のかごを手に取ったので、七海はそれを持ってやった。こういうさりげないところからアピールしていくしかない。遠慮しながらも「ありがとうございます」と微笑み、七海へかごを手渡しウキウキした足取りで生鮮食品コーナーに吸い寄せられていった。
色とりどりの野菜が並ぶ青果コーナー。心なしか彼女の普段買い物をする店よりも彩りが鮮やかに見える。青菜ひとつとっても茎がカラフルに色づいているし、ピーマンは何色あるのかわからない。そんな野菜たちを目の前に、彼女はぼんやりと立っていた。先ほどまでの威勢がすっかり無くなり呆然としているようにみえる。
「七海さん……、どうしよう。全部、ぜーーんぶ、英語です」
アーリーレッドの前にいる彼女へと七海が追い付いたとき、突然振り返ったと思えば悲しそうに眉尻を下げ、口をぽかんと開けてがっくりと肩を落とす。カートゥーンアニメさながらのリアクションを目の当たりにした七海は目が点になってしまいそうなところをぐっと堪えた。不安そうな顔で七海を見上げる彼女はまるで雨の日に捨てられている子犬のようだ。くるくると変わる表情が可愛らしく、つい頬が緩んでしまいそうになる。
「落ち着いてください。下に日本語も書いてあるでしょう」
「……ホントだ! よかったあ」
シンプルな値札には小さく日本語も書かれてあった。確かにこの街には外国人が多い。インターナショナルスクールもあり、様々な人種の人々が一緒に暮らしている。それなのに不思議と雑多な空気は無く、落ち着いた雰囲気さえあって居心地がいい。もちろんこのスーパーも同様に、値札の基本は英語だが日本語も書いてあるし、商品を陳列しているスタッフは優しく丁寧で買い物しやすそうだ。
「生鮮食品は後回しにして、まずはアジアン食材の棚に行ってみましょう」
「はい。何を作るか決めてから材料を探すことにします」
二人は並んでアジア料理の通路へと向かう。まるで恋人同士のようだと七海は内心喜んだが、彼女はスマートフォンとにらめっこを続けていた。やはり何とも思われていなそうだと七海は少しむっとした。妙齢の男女が待ち合わせをして買い物にでかけるなんて、どう考えてもデートでしかないというのに彼女は平然としているからだ。今日は感情が忙しい。
アジア料理と言ってもたくさんの国の色々な食材が並んでいる。見たこともないスパイス、米粉からできた麺、それからココナッツミルクに珍しいフルーツの缶詰まであった。スパイシーな香りがどこからともなく漂い、異国の地を思わせた。長い通路の真ん中まで進んだところで、トムヤムクンのキットを彼女は手に取った。スープの素とスパイスが入っているので海老やキノコ類を入れて煮込むだけで簡単に作れるらしい。それからひき肉と炒めるだけのガパオライスの素を七海に見せて「これでどうでしょう」と言った。期待に満ちた瞳がきらきらと輝き、彼女が今この瞬間を楽しんでいることがわかって七海は嬉しかった。異性として意識されていなくとも、こうして一緒に買い物をできるだけでも幸せだと感じたのだ。
「あとは鶏ミンチと海老と、きのこ類とトマトがあればいいでしょう」
「たまごは家にあるので、目玉焼きを乗せたらすごいボリュームになりそうです」
「きっと美味しくできますよ。試食できないのが残念です」
「これでうまくいったら、次はアジアン弁当にしますね!」
なんてことのない会話をしながら青果、精肉、鮮魚と渡り歩き必要な食材を買いものかごにどんどん入れていく。海老は奮発して天然のブラックタイガーにした。きのこはえのきを選ぼうとした彼女を止めて、しめじにしておく。その方が食べ応えもあるし、包丁を使わずに簡単に手で割ける。トマトは甘みの強いフルーツトマトよりも、適度な酸味があったほうがトムヤムクンには合うだろう。彼女が買おうとしていたナンプラーやチリオイルはまたの機会にしよう。エスニック料理が口に合ったら、また一緒に買い揃えればいいのだから。二人はああでもない、こうでもないと議論しながらスーパーの端から端まで探索した。珍しい食材がたくさんあるので、その度に彼女は七海に「これはなんですか」と聞いた。七海の知らないものもたくさんあって、値札やパンフレットを手に取り、一緒に調べながら買いまわる。ときおり出る七海の薀蓄を興味深そうに聞いてはスマートフォンにメモをして、今後の参考にするのだという。電源ボタンを押して画面が暗転すると、フフフと目を閉じて口角を上げている彼女の心底嬉しそうな表情が映っていた。それがとても愛おしく思い、七海はつられて緩む自分の口元を隠すため小さく咳払いをした。すると彼女が不思議そうに七海を見上げ「何笑ってるんですか?」と言った。無垢な表情の彼女は、きっと七海の下心を知らない。隠しきれない感情が漏れてしまっていることに驚きつつも、もう少し出してもいいかとも思った。このままでは進展しそうにないこの関係をどこかで変えたい。そう願っているからだ。
「いいえ。なんでもないです。清算しましょう。折角これだけ食材を揃えたのにこのままでは昼ごはんに間に合わない」
「そうですね。今日の私のお昼は今までと一味違いますよ!」
きっと今回は成功間違いない。二人はそう確信し、レジへと向かう。今日はこのまま帰るが、次は食事に誘うつもりだ。七海には大義名分がある。美味しい料理を食べることも勉強だと言えば、彼女はきっとイエスと言うだろう。
七海が自宅で軽い昼食を終えたとき、スマートフォンが新着メッセージありを知らせた。ロック画面に表示された通知を見て、それが誰からかすぐにわかった。すぐにアプリを開くと、まず目に入ったのはガパオライスの画像だった。真っ白なプレートに山盛りのご飯が乗っていて、その上にひき肉とパプリカの炒め物が添えられている。目玉焼きは潰れてしまったようで、黄身と白身がまだらに混ざっていた。それからトムヤムクンは見た目からして少々辛そうだ。具材はなぜかやたらと細かく刻まれているのが少々気になる。どこから出てきたのか、買った覚えは無いのに鷹の爪が丸ごと二本入っているし、スープは真っ赤に染まっている。次に彼女のメッセージが細かく連投されていく。
『背ワタを取ろうとしたらエビがボロボロになりました』
『たまごの黄身は割れちゃうし』
『トマトと一緒に指を切っちゃって』
『最後の一振りの塩が多かったのと、唐辛子を入れ過ぎてすごく辛い』
『やっぱり私、料理の才能無いかもしれません』
そして泣いている犬のスタンプが送られてきて、彼女がとても落ち込んでいることがわかった。慰めてやりたいと思うと同時に、叱られた子犬のような彼女を想像して七海はくすりと笑った。きっとぐずぐず言いながら辛いスープを啜り、山盛りの白米をもそもそ噛んでいるのだろう。そんな姿を想像して居ても立っても居られなくなった七海は、そのまま電話をかけた。声を聞きたい。そう願いながら無機質なコール音に耳を傾ける。しばらくすると、小さな声で「はい」と彼女が出た。予想通り声に元気は無く、きっと俯いているに違いない。それから続けて彼女が言う。
『……七海さん、私、やっぱりダメでした』
「すごく美味しそうです。怪我は大丈夫ですか」
『少しかすっただけで血は止まってるし、痛くもありません』
「それは良かった。今度、アジア料理を食べに行きませんか。プロの作った料理を食べて研究しましょう」
『自分で作るより、お店で食べた方が絶対おいしいですよね』
「家で上手に作るための調査です。技を盗んで舌で覚えてリベンジですよ」
『そういうことなら、ぜひ、ご一緒させてください!』
話しているうちに少しずつ元気を取り戻したようで声に明るさが戻って来た。エビの背ワタを取るのがいかに難しいか彼女が語っているのを聞きながら、七海はなんとか次の約束を取り付けられたとほっと胸を撫でおろす。日に日に彼女を想う気持ちは大きくなっていくのに、どうも一方通行だ。仕事での接点が多いわけでは無いから、顔を合わせる時間は限られている。次こそはなんとしてでも距離を詰めるぞと気合を入れて、七海は通話終了ボタンを押した。