最も愛している人を信用しない方法

第9話

 寝室の扉が閉まると再びエプロンをつけて台所へと向かおうとする彼女の手を七海が取る。少し荒れた小さな手は指先まで冷たい。彼女は強い力で手を振り払い、七海が触った部分を反対の手でさすった。いつかの車内で感じた冷たい態度と同じだ。三人で楽しんだ時とは全く異なるいつもの雰囲気を纏って七海を拒絶している。

「もう帰ってください。いつまでいる気ですか? 図々しすぎます」

 七海が何も答えずにいると、彼女もそれ以上何も言わずに彼に背を向けピンクのゴム手袋をはめて食器を洗い始めた。

「私が片付けると言ったでしょう」

 七海は彼女を押しのけると彼女からスポンジを奪って食器を洗い始めた。そんな七海を再び無視して彼女はテーブルを拭き、和室のラグに粘着カーペットクリーナーをかけた。いつもなら許さない出しっぱなしのゲーム機をテレビの横に戻し、電源を落とす。真っ暗なテレビの液晶画面に映った表情は酷く沈んでいる。水道が止まると家の中が途端に静まり返った。同時に片付けを終えた二人の視線がぶつかる。彼女の方が先に目を逸らして蚊の鳴くような声で言った。

「お願いですから、もう帰って……」

 七海は彼女を追い詰めるように和室へと侵入していった。そして腰を落としたままの彼女の頭上から声を降らせた。

「私と交際してください。あなたの事が好きになってしまった。実を言うと随分前から頭から離れなくて困っています。その責任を取って欲しい」

 何度目かの責めるような口調を七海は少し後悔したが、事実、そうなのだ。いつも頭の片隅にちらついて片時も忘れることが出来ない。高専で見かける度に何をしているのか気になって行動を目で追ってしまう。出張に出ていても彼女の好きそうな土産物を探し、街で良く似た人物を見かけるだけで七海の胸は鼓動を早める。そのせいでずっと苦しめられてきた。それが恋愛感情だと気づくのに随分と時間がかかったものだ。返事が欲しい。彼女の本当の気持ちは恐らく七海の想像通りだろう。しかし、果たしてそれを素直に認めるかどうかはわからない。早くに夫を亡くし、何もかもを一人でこなし生きてきた彼女は他の女達よりも不幸だという決めつけがほんの少しだが七海の中には確実に存在している。しかし本人はよくわかっていないようだ。それが言葉の裏に隠れていて彼女は傷ついているのに、そこに気付かぬまま己の感情を激しくぶつけてくる。そんな男の未熟さを受け入れる余裕が彼女に残されているだろうか。七海のマグマのように滾った剥き出しの感情が怖くてたまらない。絆されてはいけないと必死に自戒する。そもそも住む世界が違いすぎるのに隣へ並ぶことなど誰が許すのだと、彼女は自分に言い聞かせる。

「お断りします」

 右手で左手の肘を強く掴んで身を縮め、震える声で彼女が答えた。

「断る理由を教えてください。私ではあなたに幸せを与えることができないのでしょうか」

 間髪入れずに七海が言う。すると彼女は更に身を固くして小さくなった。先ほどまではピンクだった爪の先の色が薄れていく。怖がっているのかもしれないと七海は思った。だからといって引く気は毛頭無い。

 七海が初めて彼女に出会ったあの日。なんて冴えない女だろうと思ったことを思い出す。頭の先から足の先まで不格好だった。自信なさげな態度で諦めの色を浮かべた瞳。それでもその奥に宿るわずかな光は芯の強さを表しているようだった。誰にも屈しないとでも言いたげに対人距離をとっているくせに、無理矢理にでも足を踏み入れるとその姿勢は途端に崩れて慌てふためく。少し揺らすだけでいとも簡単にバランスを崩すくせに、何でもないのだという顔をして取り繕う彼女を右から左から小突いては煽り続けてきた。いつしかそんな関係が二人にとって当たり前になり、彼女は七海を見つけるとわざとらしく避けるようになった。七海にとってその態度はもっと私に構ってくれと言っているように思えて追いかけ回していたのだが、本当にそうだったのだろうか。逃げられないことがわかっていて背を向けるその後ろ姿に、何度も振り向いて欲しいと願っていたことをこんなになってようやく気づいたのだ。廊下の行き止まりに追い込んで、差し出された土産物屋の小袋を突き返す彼女の手を取り握らせた時に感じた征服感。誰もいない中庭のベンチで一人、頬を染めながら七海に押し付けられた菓子をもそもそと頬張る姿を見つけた時に満たされていく支配欲。ずっと自分に振り向いて欲しくて子どものようなやり方で追い詰めてしまった。それを今更無かったことにはできず、最早残された道は神に祈るしかない。

「七海さんと私では幸せの定義が違います。これからも同じ方向を向くことは無いです」

 うつむいてぼそぼそと聞き取りづらい声で答えた。寝室にいる子を起こさぬよう声を潜めているのだろう。やはり簡単には頷かないらしい。それでも「はい、そうですか」と引き下がるわけにはいかない。この女を自分だけのものにしたいとずっと願ってきたが、今日になって彼女の生きる世界を知り七海の視界は大きく開けた。自分を彼女に捧げたい。その人生の一部にして欲しいと気づいたのだ。

「あなたの今までの生活を変えるつもりはありません。ほんの少しでいい。私の為にあなたの時間をください」
「独りで大丈夫です。今までもそうでした。これ以上私の人生を引っ掻き回さないで……」

 ついに両手で顔を覆いながら脱力してしまった。肩が震えている。涙を必死に堪えているようだ。このまま腕の中に抱き入れて無理矢理にでもイエスと言わせたい。一体何が彼女をそこまで頑なにさせるのか七海にはわからなかった。嫌われているわけがない。それなのに受け入れられぬという理由は何なのか。

 左手の薬指にはまったままの指輪が鈍く輝く。死して尚、自分のものに触るなと牽制しているらしい。それとも彼女が他者の侵入を拒む為に身に着けているのかもしれない。どちらにせよ七海の邪魔をしているに違いないそれを、外して捨てさせてしまいたかった。

「私をあなたの側に置いて欲しい。たまにでいい。気が向いたときだけでも。それさえも許してくれないんですか」

 七海は彼女を引っ張って立たせると両肩を掴んで懇願した。薄い肩を掴む大きな手に力が入る。そのまま瞳の奥にある隠された想いを打ち明けて欲しいと願うが、彼女は目を瞑って顔をそらした。返事は無い。

 いつもの七海と違う気迫と熱視線が容赦なく彼女に降り注ぐ。こんなに真っ直ぐな感情をぶつけられることが今までの人生にあっただろうか。一体何が彼をここまでさせるのかわからない。七海から好かれる理由が思い当たらないのだ。彼女はまるで怒られている子どものような恥ずかしさで居たたまれない気持ちになった。断らなければ。受け入れる訳にはいかない。そんな思いが頭の中を駆け巡る。彼女には自分以外にも考えるべきことが沢山あるし、助けてくれる人などいないのだから。

「いらない。諦めてください」
「私の事が嫌いですか。とてもそうは見えない。本当の事を教えて」

 いつもの軽口や皮肉とは違う、真っ直ぐな七海の感情が身体中に突き刺さり胸が締め付けられるように痛む。気持ちが揺さぶられていることがわかるのに応えられない。出会ってから二年もの間、お互いに気付かぬ振りをして遠ざけてきたモノが決断せよと耳元で囁く。返答次第でこれからのすべてが変わってしまう。それは良い変化なのか、悪い変化なのか、今の彼女にはわからなかった。夫が亡くなってから必死であがいて生きてきた今までの人生観を一人の自分勝手な男に覆されそうになっている。最早ここまで来たら逃げられないとわかっているが、このまま七海の侵入を易々と許すわけにはいかないと防衛本能が警鐘を鳴らす。

「私には子どもがいるし、シングルですし、仕事もしながら恋愛する時間なんて――」
「そんな事が聞きたいんじゃない。あなたの気持ちを知りたいんです。好きだと一言聞けたら、それで、今日は、もう帰ります」

 彼女が言い訳を並べていると七海が制止して首を振る。好きだと言えと、気持ちはもう知っているから答え合わせをさせろと言っているのだ。

そう、答えは間違っていない。後はそれを彼女が口に出すだけだった。だがそれを言ってしまうと、これからの三人が変わってしまう。

いいのだろうか。
好きだと告げても。
言ってしまいたい。
本当の事を。

 彼女は頭の中でこれからの生き方を想像してみる。子ども、仕事、自分。それから、七海と過ごすための時間。今日から先の人生にそれらがあってもいいのかもしれない。側にいてもらってもいいのかもしれない。困った時に助けてと求めたら、彼はすぐにでも飛んできてその身の全てを賭して彼女の力になるだろう。それを望んで許されるのだろうか。今のぎりぎりの生活の中に受け入れる余裕があるのだろうか。七海へ愛を与えることができるだろうか。想いが溢れて感情的になる前に言うしかない。まだ少しでも冷静な今のうちに。これ以上揺さぶられると泣き出してしまいそうだから。

「……私、七海さんのことを、好ましく思ってしまっています」

 腑に落ちないという表情で彼女はついに返事をした。七海はほっとして小さなため息を吐き、肩の力を抜いて眉を開いた。わかっていはいたが答えはやはり合っていた。彼女もそれで正しいと言っている。現時点でこれ以上を望むつもりの無い七海は、彼女の両肩から手を離して帰り支度を整えはじめる。

「良かった。ありがとうございます。夜遅くまですみません。あなたの都合がいい時に会いたい。もちろん、彼も一緒に。またいつでもいいので連絡してください。番号はわかりますよね。帰ります。おやすみなさい」

 早口で言いたいことだけを述べた後、思い出したように「良ければ明日の朝食にしてください」と言ってパンの入った紙袋を指した。それからハンガーに掛けられたジャケットに手を伸ばした。その時。

「待って」

 七海の広い背中に彼女の声がぶつかる。待って。何を。帰るなと言っているのだろうか。

「このまま帰るんですか」
「……何か」

 彼女は不服そうな顔で黙ったままソファを指さした。座れと言いたいらしい。七海がその場から動かずにいると彼女は一歩前へ出て口を開く。

「座ってください」
「今日はもう遅い。日を改めて会いましょう」

 七海は彼女の言葉を無視してジャケットを手に取った。

「あの子は一度寝入ったら朝まで絶対に起きてきません」

 頬を染めているくせに目は据わっている。七海が無理矢理土産や菓子を手に持たせた時と同じ表情だ。

「……どういう意味ですか」
「少しだけ時間をください。駄目ですか」

 次に彼女は自信なさげに俯き自分を抱くように腕を組んでいる。久しぶりに見る姿だった。戸惑っているのかもしれない。しかし、一体何をしようというのだろう。

「私は、構いませんが、でも――」
「気持ちを伝えるつもりなんてなかったのに、七海さんのせいですから、あなたはその責任を取るべきです。そうでしょう?」

 涙で濡れた瞳が揺らめいて七海を引き止めている。もちろん、それを断る理由などない。