彼女とその一人息子が二人きりで暮らす家は、先程の公園から十分ほど歩いた住宅街にある五棟が連なる公営団地の三階だった。少し室内を片付けさせて欲しいと言うので七海と彼女の子は広場で待つ事にした。コンクリート作りの古めかしい滑り台とジャングルジムがぽつんと置かれている。広場の端に設置されたベンチに七海が腰掛けると彼女の息子もその隣に座った。何か言わなくてはと思うのに、これくらいの年齢の子どもに話すべきことがわからない。彼女そっくりな子どもが不思議そうな顔をして七海を見上げる。そして目が合うとにっこりと笑った。それは何度見ても七海が密かに盗み見ている、自分では無いものに向ける彼女の笑顔と同じだった。笑った時の目元がそっくりだ。丸っこい鼻はあまり似ていない。父親に似ているのだろうか。
しばらくすると彼女が窓から顔を出し「どうぞ」と言った。この団地は四階建てでエレベーターは無い。まだ陽は落ちきっていないというのに暗く足元の悪い階段を上がると彼女の家に着く。玄関にはWELCOMEと印字された色褪せたボードがかかっていた。まるで十年以上前からずっとそこにあるような気がするものだ。これで一体誰を歓迎しているというのだろう。開けられた玄関扉の内側には最近購入されたのか真新しいマグネット式の傘立てが貼り付けられており、子ども用の青い傘と買い換えた方が良さそうな古いビニール傘が刺さっている。その隣はまだ空いていて、もう一本傘が入りそうだと七海は思った。玄関の端の方に置かれた安っぽいサンダルが生活感を漂わせている。自分以外にもこの家を訪れる者がいるのだろうか。七海はそう考え視線だけで玄関を見渡す。綺麗に整頓されてはいるが、昭和に建てられた古い団地の設備は隠しきれない。小綺麗なストラップパンプスと少年のスニーカーの隣に男物の大きな革靴が並ぶ。この光景を写真に収めたかった。彼女と今を生きているのは自分だという優越感が湧く。
――これからお前の元妻の家に入るが悪く思うな。
七海は見たこともない彼女の夫を想像しながら心の中で挑発的に言った。
少年に手招きされ玄関を入ってすぐの台所に足を踏み入れる。二人暮しにしては大きいダイニングテーブルが置かれていた。隣の和室には大きなソファとテレビがあり、少年は七海をベージュのファブリックソファに座るよう誘導した。日に焼けて黄色くなった畳を隠すかのように毛足が長い緑色の絨毯が敷かれている。窓から夕日が差し込んでいるせいか部屋全体が暖かい。ふと彼女の方を見るとエプロンを付けて壁付けの古いキッチンに向かって立っていた。ウエストがわかりにくいAラインのワンピースだったのに、後ろで結ばれた紐によって女性特有のくびれが強調されているように見える。なぜかその姿が艶かしく思えた。古い団地に一人息子と暮らすエプロン姿の未亡人。あらぬ妄想を繰り広げそうになってしまうシチュエーションだ。
木製のトレーに乗せられて氷の入ったグラスが二つと麦茶のボトルが運ばれてきたと思ったら、とても歓迎しているとは思えない彼女の冷たい声が頭の上から降ってくる。
「狭いですけど適当にしてください」
「突然お邪魔してすみません。ありがとうございます」
「本当に。どうぞ」
迷惑そうに小さなため息をついて彼女がグラスに麦茶を注いだ。氷とグラスが当たってカランと美しい音が鳴る。彼女はさっさとその場を立ち去り、換気扇のスイッチを入れるとカレーが入った鍋を火にかけた。それからまな板を出して野菜室を覗き込んでいる。少し身を屈めた時にタイツやストッキングを履いていない生足の膝の裏がチラリと覗き七海は息を呑む。このまま彼女の後姿を見つめていたかったが、隣に座る彼女の息子がにこにこと七海を見ていたので頭の中に浮かんだ性的な妄想を掻き消した。
この少年の顔は彼女にそっくりだったが、常に口元は緩く微笑み穏やかな笑顔を浮かべている。その様子から何か言いたげにしているのが七海にはわかった。恐らく呪霊絡みの事に違いない。聞いてやるべきだろうと思い、七海はその無垢な瞳を見つめ返して口元を綻ばせると少年は小さな声で囁くように言った。
「七海さんはあのオバケがいつから見えてるんですか」
母の方をちらりと見て、また七海に視線を戻す。この子は彼女からあれが何でどうすれば良いのか具体的に聞かされていないのではないかと七海は感じた。知りたくて仕方がない。だから七海を帰したくなかったのだろう。七海も彼女の様子を見てみる。完全にこちらに背を向けて作業をしていた。恐らく二人の声は換気扇の音で聞こえていないと思うが、家庭の方針を無視して勝手に話を進めることはできない。
七海は自分が幼い頃の事を思い出す。周囲に呪いが視えるものがおらず孤独だった。きっとこの子もそうに違いない。あれが何で、どうすればよいのか知りたいと思うのは当然だろう。
「お母さんはなんと言ってるんですか」
「僕とお母さんにだけ視える悪いオバケだから目を合わせたらダメだって。あれは何なの? 七海さんはやっつけてた。どうやったんですか?」
七海はもう一度彼女を横目で見る。こちらの事は気にしていない様だ。小さな声で少年に答えてやる。その内容は彼の望むものではないかもしれないが知りたいと思う気持ちを尊重してやりたい。それに、彼には知る権利がある。
「君のお母さんの言う通り、よくないもので目を合わせてはいけない。今はそうやって躱すんです。実は他にも視える人はいます。私のように」
「やっぱり……。前にお母さんの会社に行った時も――」
少年が更に言葉を続けようとしたとき、彼女が振り向いてスーパーでよく見かけるドレッシングと共にレタスとトマトときゅうりのシンプルなサラダを配膳した。それから再び後ろを向くと平たい皿にカレーをすくって入れている。さっさと食べさせて帰そうというつもりなのだろう。少年は席を立つといつもしている通りに食器をダイニングテーブルに運ぶの手伝った。すべて違う柄と大きさの食器とコップが不細工に並んでいる。揃いのものは無いようだ。彼女は亡き夫と食事をする時もこれらを使っていたのだろうか。ダイニングテーブルには椅子が四脚あったが、普段使われているのは二つだけのようだった。使われていない椅子に七海が座る。未だ納得していない表情を浮かべた彼女が七海の前に大盛りのカレーを差し出した。
「どうぞ。お口に合うかはわかりませんが」
「いい匂いで美味しそうです。いただきます」
パッケージに書かれた説明通りに作られたそれは、鶏もも肉が入ったオーソドックスな家庭の味だった。それでも少年は、今日のカレーは特別に美味しいと言ってニコニコしながら食べ、おかわりをした。いつもと様子が違う母を気にかけているのだろう。公園で出会った友人の話をしながら母に相槌を求めている。七海はその会話を聞きながら二人の顔を交互に見て、黙々とスプーンを口に運んだ。三人とも少し緊張しながらの食事時間をとても長く感じたが、不思議と気分は悪く無かった。ことのほか三人での食事がしっくりきて、かつてこのような機会があったかもしれないと思わせるほどだ。七海はなんだかおかしくて口元が緩むのを感じた。
食事が終わり各々が食器をシンクに下げる。子は二人の手を取り小学校でちょっとしたブームになっているというカードゲームをしようと誘った。彼女は片付けがあると一度断ったものの、三人いる時にしかできないものがあるのだと言って自分の部屋へ入っていく息子を見ながら困ったように唇を歪めている。始めこそ少しばかりの緊張感を漂わせていた三人だったが、反射神経と思考の瞬発力が問われる流行りのカードゲームを繰り返すうちに徐々にその空気は緩んでいく。七海と息子に惨敗した彼女が悔しがって絨毯に突っ伏した後、涙目になりながら七海に宣戦布告をして三回勝負だと言い渡す。負けた方がジュースを奢るという取り決めをした辺りから決定的に雰囲気が変わった。息子そっちのけで大人として負ける訳にはいかないのだと言ったはいいものの、彼女はあっさり負けてしまう。それはそれは大層悔しがり不服そうにしていたが二人から負けを認めるように諌められ、渋々、財布を手にしたのだった。
子の話に笑いながら相槌を打つ彼女を見つめ七海は再び夢想する。自分にも家庭があれば、このように過ごしたのだろうかと。妻と子と共に食卓を囲み他愛もない話をして、テレビを見たりゲームをしたり、なんでもない夜を過ごす。そんな世界線もあったかもしれないと空想してしまった。そしてそれは、七海が思うよりもずっと温かな世界だと知る。自分には程遠いと距離をとって生きてきたのに、すぐ手を伸ばせば届きそうなほど近くにあるのだ。彼女はそんな七海の頭の中を知ったら笑うだろうか。家族が欲しいと願っている訳では無いのに、人間という生き物は本能から温もりを求めているのだとわかってしまう。望めば手に入るかもしれないそれを目の前にして七海は、自分の中に生まれるはずか無いと思っていた感情が芽生えた気がした。
彼女が二人に奢るためのジュースを自販機へ買いに出た隙を見計らい、少年が七海の方を向く。その瞳は真剣そのもので彼が何か大切なことを言おうとしていると思った。しばらく無言の時間があったが、少年は意を決して口を開く。
「七海さんって、お母さんのこと、好きなんですか」
唐突に投げかけられた核心を突くその質問に七海は驚くと同時に諦めもした。子どもから見てもそうなのだから、きっと本人にも職場の人間にもとっくにばれているのだろう。
「そう見えますか」
吹き出しそうになるのをこらえる為に口元に手を当てながら七海は答える。すると彼女の息子はからかわれたとでも思ったのか、眉を下げてバツが悪そうに口を尖らせ口篭りながら答える。
「お母さんってけっこう美人だし、優しいし、ご飯も美味しいよ」
「それはいいお母さんですね」
「それにゲームも上手いし。あと、足が超早い」
母の良いところを伝えようと必死になるその姿に七海は許されたような気になった。呪いが見えるという共通点が彼の心を開かせたのかもしれない。
「やっぱり、お母さんの事が好きなんでしょ?」
再び聞かれたので七海はその質問に答えることにした。
「実は、そうなんです。私は君のお母さんの事が好きなんです。君のお母さんは本当に素敵です。だから好きになったんですよ」
七海が少年に向けた微笑みは穏やかなものだった。もう観念したのだ。家に上がる前には確かにぎらついた欲望が七海の胸中にはあったのに、三人で過ごした僅かだが親密な時間がその気持ちを温かなものに変えてしまった。
「じゃあ今日告白すれば?」
目を輝かせて少年は七海に言う。自分の母親を好きだと言う今日初めて会った男についてどう思っているのだろう。恐らく、悪い感情は持たれていないはずだ。
「君のお母さんがイエスと言ってくれる自信が無いんです」
「大丈夫だよ、きっと」
母が子に向けるものと同じ笑顔で少年は七海を見つめて微笑んだ。七海は今まで彼女にしてきた揶揄いや揺さぶりが許された気がした。年齢よりも大人びたその顔を見つめ返してみる。どこからどうみても、彼女にそっくりだ。
玄関の古く重い扉が開く音がして、サイダーを二本持った彼女が戻って来た。二人の目の前にペットボトルを差し出すと、先ほどより更に気安くなったような雰囲気の七海と少年が同時に手を伸ばす。
「……何二人でコソコソしてるの?」
彼女は不審そうに眉を下げ二人を交互に見ながら言った。
「男同士の秘密の話です」
七海がそっぽを向いて目を閉じ、口元を緩く綻ばせながら答える。それを見て彼女の息子はくすくすと笑った。
それから三人は少しテレビゲームを楽しんだ。少年の言う通り彼女は昔からある落ちモノパズルゲームがすこぶる上手く、己のフィールドで息子と七海を散々に負かして得意げにした。このゲームで私に勝てるものはいないのだと豪語し、ふんぞり返っている。それから二人に向かって高笑いしながら言う。負けた者は勝者に何か奢る約束だと。少年は明日のおやつをあげると言って、七海は国内には銀座にしか出店していないという有名店のチョコレートを買う約束をさせられた。カードゲームの時と正反対の態度をとっている彼女の姿を見た敗者の二人は顔を見合わせると、先ほどの振る舞いとあまりに違う事が可笑しくて噴き出して笑った。
ふと我に返ったとでもいうように彼女が時計を見ると、午後九時を回ろうとしていた。途端にはっとして、今日はもう寝る時間になっていると息子に言った。続けて明日も学校だ仕事だと言って息子を急かし始める。この三人で時間を忘れるくらい楽しい時間を過ごすことになるとは誰が予想できただろう。
「今日は泊る?」
少年が七海に問いかける。なんとも大胆な提案だった。またもや大人二人は目が点になり返答に困ってしまう。
「そんなわけないでしょ。夜も遅いしお客様用の布団だって無いのに」
さすがにそんなことはできないと七海も断った。彼女は七海が「泊まります」などと言い出したらどうしようかと思っていたが、それを聞いてほっと胸を撫でおろす。それならばと、子は自分が風呂から上がって寝室へ行くまで帰らないで欲しいと七海にお願いして風呂に駆け込み、三分も経たぬうちに上がってきた。彼女はプリプリと怒りながらきちんと洗ったのかと問うが、そんなこと意にも介さぬ様子で子は七海に駆け寄りその長身を見上げて目を輝かせている。
「もう帰る? また来てくれますか?」
「食器を洗ったら帰ります。ご馳走になったお礼に片付けくらいしなくては。また来ます。お母さんさえよければ」
二人で彼女の方を見ると、困ったように眉を下げているだけで何も言わなかった。
「七海さん、……耳貸して」
(今度呪いの倒し方を教えてください。お母さんを守りたいんだ)
少年が耳元で秘密を打ち明けるように囁いた。七海はそれを聞いて静かに頷き彼の肩に手を置いて耳打ちして答える。
(いつか本当の事を知る日が来たら、その時は私が教えましょう。約束です)
それから満足そうに笑った少年はささやかな自室へと一人で入っていった。彼女はその背中に「おやすみ」と声を掛け微笑んだ。慈愛に満ち溢れたその顔を見て七海はどんどんと湧き上がり溢れだしそうな感情を否定することはもう無い。
どういう結末を迎えてもいい。ここまできてしまった自分の気持ちを打ち明けずにはいられない。今夜で決着を着ける。