それからまた一年後。彼女も七海も大きく変わることなく日々の営みを繰り返していた。二人に仕事以外での接点は無い。それに交わろうにも呪術師と補助監督では共通の話題といえば来る日も来る日も呪いの事ばかり。毎日どこかで発生する呪いを見つけては祓う。それだけだった。こんな毎日の事を穏やかと言っていいのかもしれないが、それが良い事なのかはわからない。時間が経つばかりで彼女と七海の関係は一向に変わらないままだ。
ある日の休日。七海の自宅から少し離れたところに新しくできたパン屋で買い物をした帰り、近道をしようと公園を横切った時のこと。一人の少年が大木の下でうずくまっているのを見つけた。その頭上には四級程度の鳥類を思わせる雑魚呪霊が回遊しており、それが彼を困らせているのだとわかる。あの反応から察するに彼には呪霊が視えていた。七海は少年に目を閉じているように声をかけてからそっと祓い、もう大丈夫だと言って立たせてやった。どこかで見たことのあるような顔つきだったが、初めて会うはずのその子どもは七海を見てこう言った。
「ありがとうございます。おじさんは呪術師なんですか?」
見ず知らずの少年から発された思いもよらない言葉に戸惑い、すぐに返答できず押し黙ってしまう。
「……それは――」
なんとか声を発した時、少年は七海の後ろを見て顔を綻ばせて「お母さん」と言った。七海が振り向いたその先にはよく見知った顔があった。信じられない偶然だ。彼女も驚きのあまり目を見開いている。手には大きな買い物袋が二つ。
「……こんにちは」
彼女は七海の方へ視線を向けて深々とお辞儀をした。普段高専内で見かける姿とは全く違う清楚な服装で髪は緩く巻かれ編み込まれている。可愛らしく年相応のお洒落をした女性の姿がそこにあった。
「鳥みたいなのに突かれてたら、あのおじさんが助けてくれた! 知ってる人?」
二人が並ぶと顔も仕草もよく似ているため、どうやら本当に親子らしい。少年も彼を母と呼んだ。彼女は並んだ少年の肩を抱き親し気に身体を寄せている。この二人は、間違いなく親子なのだ。彼女には子どもがいた。七海は知らなかったことだ。小学校低学年くらいだろうか。活発そうな子だと七海は思った。
「あの木に近づいたら駄目だって言ったのに」
「ボールを拾いに行ったら目があっちゃったんだ」
そういうと少年は友人たちの方へと向かって駆け出した。その場に取り残された二人は数メートルの距離を保ちながらばつが悪そうに見つめ合う。思いがけない場所で軍然の出会いにお互いに何を言っていいかわからない。このまま突っ立っていても仕方が無いと思った七海は彼女の方へと一歩、歩みを進める。すると彼女はそのまま距離を取り再び会釈して立ち去ろうとした。
「子どもがいたんですね。しかも呪いが視えている」
七海は慌てて声をかけた。どうしてもこのまま逃したくない。
「……それが何か」
「隠していたんですか」
非難するような言い方になってしまった事を七海は後悔した。
「わざわざ言う必要無いです」
彼女の言う通りだ。責めているわけではない。子どもがいようがいまいが、彼女の見方が変わるはずなど無いのに。それでも、どうしてか言ってしまった。隠し事をされていたと感じてしまう。別に恋人でもなければ友人ですらない。ただの同僚だった。それも仲がいいとは決して言えない。彼女が七海に子どもがいる事を告げる必要など全く無いのはわかっている。それでも一方的かもしれないがそれなりに会話をしていたと思っていたのに、七海は二年以上何も知らなかったのだ。他の者には出さない態度や言葉を独占していることに満足している場合では無かった。こんな秘密があったとは。他の者達は彼女に子があることを知っていたのだろうか。
「事情があるのなら配慮できました」
「そんな気を使って頂く場面ありましたか。ではこれで」
そう言って会釈をすると彼女は素早く七海に背を向ける。その時に休日の装いにも関わらずいつもの男物の腕時計をつけているのを見つけてしまい、七海は憤った。未だにそんなものを身に着けて未練を撒き散らしているではないか。絶対にこのまま帰さない。そう思った時は既に大きな声を出して引き止めてしまっていた。
「あなたを小学校へ二度も送りました。それに、私にだけ刺がある言い方はなんでしょう。いい加減にしてください」
恐らくあの時計は亡くなったという夫のものなのだろう。あの万年筆も、左手のくすんだ指輪も、それから七海が今の今まで知らなかった息子でさえも。彼女を過去に縛り付けるための呪いをいつまでも身に付けさせている死んだ夫に心の底から嫉妬した。七海と出会う前の姿を知らない。死んだ夫の事を知らない。子どもがいた事を知らない。知っているのは職場で見られるほんの一部分だけだったのだ。
「私のことは放っておいてください。呪術師の方々と仕事以外で関わる気はありません。七海さんにとってもそうでしょう」
彼女はムッとした顔をして振り返り七海を睨みつけた。勝手に自分のことを決めつけられた七海は更に腹を立てる。その身のすべてから拒絶の態度を滲ませているくせに、なぜ七海の言動に頬を染めたり慌てふためいたりするのだろう。どう考えてもなにか特別な感情がきっとあるはずなのに無茶苦茶なやり方で取り繕って隠そうとする。それならいっそ隠しきって気づかせないで欲しい。そんな姿を知ってしまうと彼女を知りたい、もっと近づきたいと願わずにはいられないではないか。七海が呪術師に復職して約二年。その間に女性と親しい仲になることは無かった。彼女のせいだ。いつも頭の片隅にちらついて邪魔をする。
「私はあなたに興味があるみたいです」
心底うんざりしているとでもいうように七海は頭を抱えながら言った。このおかしな想いと関係性は彼女の方にこそ責任があるのだと結論付ける。他人が聞いたらとんだ暴論だが、七海の中ではそうなのだ。八つ当たりをする拗ねた子どものような七海の声を聞いた彼女は眉間に深い皺を寄せて拳を握りしめる。
「他人事みたいにおっしゃるんですね。夫を亡くし子どもがいて苦労していそうな女が可哀想になりましたか。ご心配無く。独りで立てます」
さらに不機嫌な顔で吐き捨てるように言っているのを正に他人事のように七海は聞いていた。
――何が独りで立てるだ。馬鹿馬鹿しい。
そう心の中で悪態をつく。彼女が七海に対してここまで頑なな態度をとる理由がわからない。死んだ男の思い出をいつまでも身に付けているくせに、それで自立しているつもりなのかと呆れ返ってしまう。そんなものは捨てて自分一人の足で、裸で立ってみろと言ってやりたかった。過去に縋って生きているではないかと。それがないと本当は立てないのだろうと。彼女を構成するものをすべて知りたいと思うと同時に、その身に纏う鎧を剥がし、裸に引ん剥いてありのままの姿を白日の元に晒してやりたいとも思う。
そこまで考えた七海は、今の自分は相当頭に血が上っているらしいと気づく。何がなんでも距離を縮めてやりたいという思いが強い上に彼女の煽りを受けて冷静さを欠いていた。自戒のため頭を左右に振って素早く気持ちを切り替える。こんなことでは彼女との距離は縮まるどころか開くばかりだ。どうしても近づきたい。逃げないで欲しい。彼女と良い関係を築きたい。そう願って声をかける。
「失礼な事を言いました。どうもあなたのことになると冷静になれない。すみません」
返事は無い。今更遅いのかもしれない。今日ここで出会ったことで七海はより一層彼女に惹き付けられてしまっていた。これは彼女に対する哀れみの類なのかもしれない。この感情の正体がますますわからなくなる。こんなはずでは無かった。七海の頭の中で過去も現在も未来への想いもぐるぐると巡り、考えが纏まらない。
「よければ、今から食事でもいかがですか。もちろんお子さんも一緒に」
もっと別のやり方があったかもしれないが、とにかく手段は何でもいい。少しでも時間を稼がなければ。このまま逃がしたくない。
「よくありません。夕飯は作ってきていますのでご心配なく」
「そうでしたか。では私も一緒にいただきたいのですが、構いませんよね」
じりじりと距離を詰める七海から逃げようと彼女が少しずつ後ずさりをする。
「二人分しか作っていません」
「どうしても、あなたの事をもっと知りたいと思ってしまうんです」
「夫とは何年も前に死別しました。小学生の息子がいるシングルマザーです。これでよろしいですか。では」
彼女の返事を聞いた七海は駄目だったかと思った。無理もない。こんな険悪な雰囲気で食事を共にしたいと思う女性はいないだろう。ましてや仕事だけの関係で普段から仲も良くない。七海は俯いてふっと声を漏らし自嘲した。万策尽きた。まあ最初から、大それた策など無いのだが。
彼女が再び会釈をして立ち去ろうとした時、遠くから少年が駆け寄ってきた。砂埃にまみれたズボンを叩きながら母に聞く。
「お腹すいたー。今日カレー?」
「日も暮れてきたし帰ろうか」
七海に向ける顔とはまるで違う穏やかな表情で子に微笑む様子を見てしまい、なんて美しいんだろうと七海は思った。春の陽だまりのような暖かな微笑みを自分にも向けて欲しいと願ってしまう。子はその場に留まる七海の方を向いてにっこりと笑った。目元が特に彼女に似ていると七海は思った。
「おじさんも来る?」
七海に向かって発した思いもよらぬ一言を聞いて大人二人は目が点になり固まってしまう。七海はすぐに返答できず彼女を見てみると、明らかに動揺して瞳を揺らしていた。それから断れと言いたげに七海を鋭い目つきで睨みつけた。
「実はお腹がペコペコです」
七海の返事を聞き眉間に深い皺を寄せて彼女が息子に言う。
「オジサンじゃなくて七海さん。七海さんは今から自分の家に帰るの。とっても忙しいんだから引き止めちゃだめ」
子は真顔で母の言い分を聞いて頷きながらも、七海へと向き直ると先ほどと同じ笑顔でこう言った。
「今日は日曜日だよ。七海さんはカレー好きですか?」
「好きです。ほら、彼もこう言ってる。お邪魔します。ありがとうございます」
七海が深々と頭を下げると子も真似してお辞儀をした。随分人懐っこい子だと七海は思った。そんな二人を見て彼女は大きなため息を長々と吐いて、心底嫌そうに呟いた。
「……食べたらすぐに帰ってください」
「もしかして喧嘩してるの?」
子が訝し気な表情で二人の顔を交互に覗き込む。七海は頬が緩むのを必死に我慢している。彼女は不機嫌そうに唇を歪めていた。
「いいえ。仲良しです。君のお母さんはすごく優しい人ですね」
完全にその気になっている息子と七海に押し切られ彼女は折れるしか無く、一応は呪霊に襲われていた息子の危機を救ってくれた恩もあったので渋々七海を家に招待せざるを得なかった。
子は七海の側へ行って見上げると再びニコリと笑う。その笑顔は何度見ても彼女にそっくりで今日初めて会ったとは思えない。七海が彼女の子に招待してくれてありがとうと言って頭を下げると、子は嬉しそうに笑って七海の手を取り引っ張って歩き始めた柔らかい手のひらから溢れ出る若木のような生命力を感じる。。小さなその温かい手を握り返すと家はこっちだと言って誘導した。
その時、七海は想像してしまった。自分にもしも家庭があったら、こんな毎日を過ごしたかもしれない、と。
彼女はもう観念して二人に着いて行くことにした。我が子が七海の何を気に入ったのかはわからない。幼い頃から呪いが視えているせいか元々の性格なのか、物怖じせず人懐こい性格ではある。それでも今日初めてあった大柄な男に一瞬で心を許した事に驚いた。彼女の息子は覚えているのだろうか。七海の背格好は死んだ夫に似ている事を。
かつて彼女の夫が生きていた頃、ヨチヨチ歩きの幼い息子の手を引いて歩く後ろ姿を思い出す。二人の中身はまるで違ったが亡くなった当日見送ったその背中と七海の立ち去る姿がいつも重なるのだ。最後の言葉は何だっただろう。もう忘れてしまった。それなのに七海を見る度、死んだ夫の事を考えてしまう。子を授かり結婚した彼女の生活は思い描いていたものと随分違っていたが、夫への愛情は確かにあったと思っていたのに。七海から生々しい感情を向けられる度、あの幸福感は偽りだったのかもしれないと感じてしまうのだ。だって夫はもういない。彼女と息子を残して呆気なく死んだ。それも何者かに呪い殺されたので良い死に方では無かったし、彼女が思うほど良い人間でも無かったのだろう。
本当はもうこの指輪を外してしまいたい。七海がいるから外せない。自分の前を歩く二人を見て彼女は思う。あの子の父親が生きていればこんな風に家族三人で出掛けることもあったかもしれないと。すぐさま首を振って頭の中に浮かんだ幻想を消し去った。ゆっくりと二人の後を追う。呪いが視える秘密を共有しているからか、七海を見上げて話しかける我が子の横顔は安心しきった表情をしている。このまま家に招き入れて良いのだろうか。何かが変わってしまうかもしれない。それを望んでいないはずなのに強く拒むことができなかった。左手の薬指に嵌まった指輪をそっと撫でてみる。何年もろくな手入れもせず外していないそれは意図的に視界に入れると随分とくすんでいた。
――もう、外してしまってもいいか。
無意識のうちに浮かんだ考えを掻き消すように首を左右に振り、二人との距離を保ったまま力なく歩き続けた。
七海が後ろを振り返ると、真っ赤な顔で涙を堪える彼女が居た。七海が微笑むとすぐに顔を逸らしてワンピースの袖で目元を拭い、歩くスピードを緩めて二人から更に距離を開ける。今からこの関係性を変えてやるのだ野心を燃やしている自分に気づき、七海はふっと小さな声を漏らして笑った。それはまるで手に入らない玩具をねだり続け、粘り勝ちした子どものような気持ちだった。