自分に嘘をつき他人にも嘘をつく方法
第7話
「おはようございます!」
期待と冒険に満ちた表情を浮かべその男児はよく通る大きな声で挨拶し、深々と頭を下げた。事務所中に明るく生命力に溢れた声が響き渡ると、職員らは席から立ち上がり背筋を伸ばして反射的に頭を下げる。小さな拍手が聞こえてきて徐々にその音は大きくなり、皆笑顔で歓迎した。その隣で彼女も深々と頭を下げながら「本日は皆様に大変なご迷惑を……」云々述べている。男児とは違い可哀想になるくらい身を縮めていた。万年人手不足に輪をかけて繁忙期かつ遠方への出張が重なり、呪術師も補助監督もかつてないくらい手薄になってしまっていた今日この頃。季節外れのインフルエンザが流行して彼女の息子のクラスは学級閉鎖となり子連れで出勤せざるを得なかった。本当はこんなことをしたく無かったのだが頼れる者は無く仕事は山積みで殆どの関係者が休みなく働いている中、自分だけ家でぼんやり過ごすことなどできるはずがない。在宅からのリモートワークを考えないわけではなかったが、機密事項や個人情報を多く扱う仕事であるためどうにもやり辛く出勤した方が勝手は良い。彼女の一人息子はもう小学三年生なのでしばらく一人で過ごせないわけではないとは思う。しかしいつ帰れるかも知れぬ今の状況で長時間自宅に置いておくことはできなかった。事務所の一角に小さな机を出してもらい、彼はそこに座って意気揚々と教科書を読み始める。最初とても元気よく大きな声で音読を始めたので、慌てた彼女は顔を真っ青にして子に駆け寄ると「シィーーーーーッ!! みんな、仕事中だからっ!」と注意した。その姿を見て事務所の空気は一瞬でほんわかと緩んだ。普段の彼女は物静かで落ち着いた雰囲気があり、初対面ではどちらかというと取っ付きにくささえある。しかし子どもと一緒にいるとこんなにも感情豊かで柔和な空気を出すのだと知り、同僚たちは二人を心から歓迎して温かい目で見守ろうと決めた。
皆がしばらく仕事に没頭していた時、緊急要請の連絡が入り高専に待機している術師を至急現場派遣しなければならなくなった。途端に緊張した空気が流れ事務所はピリピリし始める。一名の術師をなんとか手配しその送迎をしなければならないのだが皆それぞれの対応でばたついておりそれどころではない。手が空いているものは自分しかいないと、彼女はその役割を買って出た。子は事務所に置いていくという。猫の手も借りたい程忙しい今日、伊地知は申し訳ないと何度も頭を下げた後に彼女を派遣することに決めた。
「お母さんちょっと出てくるから、プリントしっかりやって、静かにしててね。ご飯はお弁当があるから一二時になったら食べて、それから……」
「僕、もう三年生だから一人で大丈夫だよ。トイレどこ?」
「一回一緒に行ったら後は一人でいけるよね?」
「だから大丈夫だって」
心配そうな視線を子に向けながら彼女は事務所を後にした。子はそんな母を気にも留めず机に向かっている。まったく一人で大きくなったような顔をしているとはこのことだと思った。彼女がここでの仕事に慣れたように、子もまたいつの間にか成長していた。身体はどんどん大きくなり、母の知らぬ交友関係も増えている。こうやって少しずつ親の手を離れ自立していくのだろうと思うと感慨深い。
気持ちを切り替えた彼女は各方面の連絡先を確認しながら廊下を駆ける。一分一秒でも早く現場について事を片付けなくてはならない。
公用車を待ち合わせ場所まで回すと見慣れたスーツ姿の男が既に待っていた。よく見るカフェの紙袋を抱えている。寄り道をする余裕があったらしい。
「あなたですか」
七海が口角を上げてにやりと笑う。今日はやけに機嫌がよさそうだと彼女は思った。
「事前にお伝えしていませんでしたか? 生憎ですがここのところの忙しさは七海さんもご存じのはず。私としても不本意ですが今回の任務に同行させていただきます」
彼女は一礼するとすぐに運転席の扉を開けた。乗り込もうとする背中に七海の低い声がぶつかる。
「一体何が不本意なんですか?」
「七海さんの補助監督を務めることです。一級呪術師である七海さんのサポートは、私如きでは少々荷が重いと感じておりますので」
顔だけ七海へ向けて彼女が言う。感情を全て消し去ったかのような平坦な音だった。なんともわざとらしいその態度を久しぶりに体感した七海はむず痒さを感じた。彼女は恐らく動揺しているはずだった。あの日から時は経ったが、かつて初心者マークをつけた車から出てきた彼女のことを思い出す。今日のこの状況はあの時と似ている。お互いにそう感じていた。
「仕事に対して選り好みをするのは感心しませんね」
更に七海はつついてやろうと思いからかうような声を出す。彼女は挑発に乗るだろうか。
「選り好みではありません。私の力不足で七海さんにご迷惑をおかけしてしまうのが心苦しいのです。しかし、今日は急を要すること。致し方ありません。今回の任務ですが、想定外だった複数の呪霊が発生し現場は混乱を極めているようです。先行して潜入していた術師二名は一旦帳の外へ退避して応援待ち。至急の報告を簡単にまとめたものが端末に入っていますので後部座席でご確認ください」
つらつらと言いたいことを述べ、「もうよろしいでしょうか」と言って尖った声を出す。どうやら少し感情的になってきているらしい。
「運転できるんですか。睡眠は十分ですか。空腹ならばこれを食べてください。現場に着く前に死にたくない」
紙袋を差し出して七海が言う。中身を見るとホットドリンクの紙カップが二つとベーグルサンドが一つ入っていた。彼女は自分の為にわざわざ買ってきたであろうそれらを受け取ることなく突き返す。
「運転はできます。十分寝ました。今日はキャンディを持っています。運転の評価は後ほどお聞かせください。では、参ります」
更なる煽りに屈すること無くさらりと言いのけると、昔とは違うのだとでもいうような勝ち誇った表情で七海の目を真っ直ぐ見つめている。そして、わざとらしく先程の七海を真似て口角を釣り上げた。
「自信たっぷりじゃないですか。良いサポートを期待していますよ」
「今後のサポートについては上司に相談させていただきます」
そういってさっと運転席に乗り込み勢いよく扉を締めた。助手席には荷物が複数積んであり七海の座る場所は無い。仕方なく後部座席の扉を開けるとタブレット端末を渡される。それと交換に後部座席からコーヒーの紙カップが渡された。彼女は仕方なく受け取り全く感謝を感じさせない声色で短い礼を述べるとカップホルダーに納め、すぐに車を発進させた。街中でも思いの外スピードを出して走る車に七海は一瞬ひやりとしたが、彼女の運転は安心できるものだった。初心者マークはもう外されている。あれから一年も経ったのかと七海は感慨深く思った。
あの日以降二人は同行することは無く淡々と日常をこなしていた。そもそも一級ともなれば単独任務も多く補助監督と一緒になることは少なくなる。彼女は日々、七海より下級の術師や学生達のサポートを行っているようだった。高専内で見かける度に七海は挨拶をしたり土産を渡したりしてやったが、一応礼は述べるもののその場で喜んでいる姿を一度も見た事が無かった。むしろ迷惑そうな顔をして何度も断り、いつも最後には七海が押し付けて立ち去る。不服そうにしながらも渡された差し入れを無言で受け取った後は、誰もいないのを見計らってデスクで食べながら頬を緩めているのを知っている。彼女はどうやらチョコレート菓子が特に好きなようだった。だから七海は彼女の気に入りそうなものを見つけては分け与えてやったのだ。見かけたら声をかけずにはいられない。いつしか七海はこんな関係でさえも居心地よく感じてしまうようになっていた。彼女が自分にだけ見せる姿を知っているという優越感があったからだろう。他の誰にも見せない不機嫌な顔と高慢な態度。たまに彼女は七海へ故郷の地酒を渡した。いつも貰ってばかりでは悪いと言いつつ、七海の施しを相殺するためだ。その度に七海はあの日の居眠りの事を蒸し返し、まだあの時の貸しが残っているんだと脅すように言う。二人はずっとそんな調子だった。もうそれが当たり前になっていたのだ。
七海が現場に合流して再び帳を下ろしてからものの二時間で今回の任務は無事遂行された。彼女もまた迅速に働き、仕事を終えた術師達が戻った時には事後処理さえもほとんど終わろうとしていた。七海と他二名の術師を乗せた車は凄まじいスピードで高速道路を突っ切って高専へと戻る。各々解散となり、彼女は足早に事務所へと去っていく。七海はそんな後ろ姿を見ながら帰りも二人きりが良かったと一瞬考えた自分にもう驚くことは無い。
一年前の彼女の後姿を思い出す。あの頃は何もかもちぐはぐで不格好だったのに、今ではしっかり背筋を伸ばして自信に満ち溢れている。頬はふっくらとして血色はよく、身体に合ったパンツスーツを身に着けていた。ピンクゴールドのマジェステで纏められた髪は艶を取り戻している。大きめのヒップは相変わらずだったが健康的なエロスを感じさせるその後ろ姿に七海は息を呑んだ。
彼女が勢いよく事務所の扉を開けると子は机に向かって何か作業をしていた。その姿を見て微笑み控えめに手を振ると、子は心待ちにしていた母を見つけて笑顔をはじけさせる。彼女は室内で事務作業をしていた伊地知に謝罪と共に感謝も述べた。
「とってもいい子でしたよ。お弁当も全部食べたんだよね」
伊地知がそういうと、子は誇らしげに胸を張り弁当袋を高らかに掲げる。それから合間にやるように伝えていた宿題もすべて終わらせ、今は無地の封筒に高専の住所が入った判を押すのを手伝っていたのだと言う。彼女は申し訳なさそうにもう一度深々と礼をした。伊地知は恐縮しながら迷惑なことなど何も無い、今日はもう上がってもよいと伝えて封筒を片付けるのを手伝った。彼女はタイムカードを押すと子と共に事務所を後にする。二人は一度振り返り、事務所の中の人々に手を振った。子は笑顔でさようならを伝えスキップをしながら出ていった。その場にいた職員達は顔を見合わせて満面の笑みを輝かせる。子どもというものは素晴らしい。元気で、明るく、エネルギーに満ち溢れている。そんな子ども達の未来を守るべく気を引き締めよう心に違う。それでもやはり、いつもとは違った気遣いをして少々疲れてもいた。少しほっとしながら残りの仕事へ取り掛かろうと皆が再び一斉に机に向かう。時刻は午後六時四十五分。定時はとうに過ぎている。
彼女とその息子は二人でバス停へと続く道を歩く。黄昏時の高専はなんだか少し切ないような、懐かしいような気持ちにさせた。彼女はここで学んだわけでは無かったが、夕暮れ時の学校というものは青春時代をを想起させる場所なのだろう。母の職場に一日中いてやや興奮状態の子は何やら色々と話しながら楽しそうに駆け回った。そんな姿を見て彼女は微笑む。職場に迷惑をかけてしまったが、皆に受け入れられほっとしていた。気持ちを切り替えて元気な声を出し階段に差し掛かろうとする子に声をかけた。
「今日は特別に外で食べちゃわない?」
彼女がそう伝えると子は「やったあ!」と声を上げ大喜びして、今日はハンバーガーがいいと言う。彼女は「今日もでしょ」と言って笑った。それから子は軽やかな足取りで階段を一段飛ばしながら駆け下りていく。彼女は一瞬慌てて引き止めたが、もう下りてしまった後でその背中を足早に追いかけた。
「ちょっと待って! もう、早すぎるよ!」
彼女が花が咲いたように笑うと、子は声を上げてケラケラと笑いながらさっさと更に下まで降りてしまった。
そんな彼女の横顔を七海は少し離れたところから見ていた。すぐに彼女が見えなくなってしまった事を残念に思うと同時に、いつも七海に見せる表情とは異なりまるで違う人間のように声を弾ませて笑いかけているその相手は誰なのだろうと思った。階段を降りるローヒールパンプスの音が遠ざかるのを聴きながら七海は不思議な感情に包まれる。
彼女の事が気になって仕方がない。個人的な用事など皆無なのにその声を聴きたいがために近づいてしまう。今だって本当は追いかけたい。この感情はどこからきて、どこへ行こうというのだろう。彼女にいったい何を求め、自分に何を与えて欲しいと願っているのか。彼女に出会ってから不可解な感情ばかりが湧き上がってくる。あんなに冴えなかったはずなのに今では立派に仕事をこなし、毎日はつらつとして働いている。七海はこの一年で何か変わったのだろうか。会社員時代から生活は大きく変わり呪術師として昇級もしたが、自分自身の成長というものをあまり実感できないでいた。それに、未だ得体の知れない年上の女に気持ちを乱されている自分に驚くばかりだ。本当のところ、七海はこの想いの正体を知っている。それでもなぜか素直に認めることが出来ず、今日もまた彼女の背中を追いかけて突き回すことしかできない。そんなことを延々と繰り返し続ける自分の馬鹿らしさに七海は心底呆れていた。それでも今までの関係を壊すことを恐れ、次もまたきっと、彼女を見つけたら飲み物や菓子を差し入れてしまうのだろう。邪険に扱われてもその隣に無理矢理座ってなんでもない世間話をするのだろう。あの日の“貸し”にかこつけて彼女との繋がりを留め続けるのだろう。聞いているのかいないのかわからない適当な相槌を打つ彼女の姿を思い出し七海は自嘲した。
彼女の足音はもう聞こえない。あのまま駆け足でバス停に向かったはずだ。未だに左手の薬指には呪いの指輪がはめられている。どうにかそれを外してしまいたいのに、彼女は決して七海の方を向くことは無いのだ。