誰かの役に立っていない自分は無価値だと感じてしまう方法

第5話

 七海は目的地に着くと手際よくパーキングに車を止め、完全に寝落ちしている彼女の肩を揺さぶった。彼女は肩に添えられた七海の手を払い、助手席の窓へ顔を向けて腕を組み再び眠りにつこうとしたが、何か大切な事を思い出したのかはっとして目をあけた。身体をびくつかせて飛び起き、至近距離に迫った七海の顔をみて「ひっ」と小さい悲鳴をあげる。それからようやく何が起こったのか理解したようで、その表情から血の気が引き、真っ青な顔で謝罪の言葉を繰り返した。まるでドラマや漫画のような反応がおもしろくて、七海は笑いを堪えるのに難儀した。なんとか平静を装って彼女に声をかける。

「随分とお疲れのご様子ですね」
「……二度とこのようなことがないよう注意します」
「これで貸しは三になった。どんな形であれ必ず返してもらいます」
「私にできることであれば何なりとさせて頂くつもりです」
「その言葉、忘れないでください」

 言質を取った七海は口角を上げて笑い、エンジンを切った。まずは仕事を片付けなければならない。

 彼女はあれから一日中、可哀想になるくらい身を縮めていた。帰りももちろん運転席に座らせて貰えるわけもなく、それも貸しとしてつけておくのだと言う。七海への貸しは合計四つ。さらにその後自宅近くまで送ると七海は申し出たが、彼女は高専へ戻って車を返さなければならないと言い張って譲らない。このまま直帰して自宅に停めておくか付近の駐車場に置いてそのまま翌日車で出勤すればいいのに、首を縦に振ることはなかった。そこまで運転に自信が無いのか、それとも別の理由があるのか。段々と腹を立ててきた彼女は少しずつ身振り手振りがオーバーになり声量も増していった。片足重心になりパソコンを左手で胸に抱え、右の手を腰に当て前傾姿勢になっている。時折額を押さえてきつく目を瞑り、小さな唸り声まで出した。こんなリアクションは映画の中でしか見たことが無い。

「報告書は私で代筆可能な範囲は仕上げますので今日のところはもう帰られては。お疲れだと思いますし」
「そうですね、さすがに今日は疲れました。長距離の運転もしましたし、祓除や巡視にも時間がかかった。早く帰宅してすぐにでも眠りたいところです」

 執拗に責め立てる七海のわざとらしい発言に彼女は一瞬眉間に皺を寄せたがすぐに眉尻を下げて大人しくなった。

「……申し訳ございませんでした」

 結局、押し問答をしばらく続けたが二人とも高専へと戻ることにした。七海は帰りも眠っていても良いと言ったのだが、彼女は少し大きな声を出して「そんなことできるわけがない」と言い、助手席でパソコンを膝に乗せて報告書の下書きを進め始める。日時や大まかな内容を彼女が入力し、運転をしながら七海が詳細を伝えるとそれを打ち込みある程度の形に仕上げた後、七海の端末にデータを送っておくのだという。帰りの車内は仕事の話ばかりだったが、彼女のレスポンスは早く理解力もあり、作業はスムースに終わった。

途中でトイレのために寄った小さなパーキングエリアでその内容を七海が確認したとき、もうこのまま提出しても何ら差し支えないの無い整然とした内容に教養の高さが垣間見えた。確かに彼女が高く評価されていることには納得がいく。しかし周囲の評判とかかけ離れた彼女の姿を七海は知っている。そう思うと、七海は何故か得意げに鼻を鳴らした。

 ハンカチで手を拭きながら小走りで車に駆け寄る彼女は、トイレの鏡で崩れた髪型を直すことはしなかったのだろうか。出発前に見た姿は折り目正しい社会人然としていたが、夕方になるとスーツの背もスカートも皺になっているし結われた髪も化粧も崩れている。少し焦った表情で助手席のドアを開け「お待たせしました」と言いながらドカッと座り込み、勢いよくシートベルトを引き出すものだからロックがかかり引き出せず、何度も強い力で引くのでますます出てこず彼女は少し苛立った。

「ゆっくり引かないと出ませんよ」
「知ってます」

 無表情で指摘する運転席の男を睨みつける目は相変わらず鋭いが、彼女の行動は子どものようで七海はなんとも微笑ましい気持ちで見ていた。車を運転しながら報告書の内容を褒めると、彼女は少し頬を赤らめ窓の外を向いて小さな声で礼を述べた。横目でその様子を見ていると次第に耳まで赤くなり、暑くなったのか彼女はもぞもぞとジャケットを脱いで乱暴に足元の鞄の上に置いた。照れているんだとわかると七海は何ともいじらしいその姿に口元が緩みきっているのを誤魔化せなくなった。そのまま声を出さないように時折様子を伺いながらにやにやと笑っていると、彼女は赤くなった頬を両手で押さえてぎゅっと目を瞑り、細く長く音を立てないように息を吐いた。それがまたなんとも可笑しくて七海は下唇を噛んで笑いを堪えた。このまま腹を抱えて笑いたかったが、きっと彼女はまた機嫌を悪くするのだろう。おかしな顔になっているだろうが、もういい。どうせ彼女の方から七海の表情は見えない。

 高専に着き公用車専用の駐車場に車を止めると彼女はさっさと降りて短い礼を述べた。そして七海の目を真っ直ぐに見据え口を開く。

「先ほどのファイルを七海さんの端末に送りましたので、修正してメールで提出して頂くようにお願いします」
「あなたが運転できないことや、居眠りしていたことが書いてなかったようですが」
「運転できないわけではありません。少し経験は浅いですが、させてもらえなかったんですから。居眠りのことは、本当にすみません」

 彼女は最後に語気を強めて「もういいですか」と付け加えると七海に背を向け立ち去ろうとした。七海は少し待つように言うと、彼女の前へわざわざ回り込んで少し背を屈めて視線を合わせる。

「では私があなたの尻を触ったという、まあ言いがかりなんですが、そのセクハラの報告は別紙に?」
「それは、もういいです。事故ですから」

 七海はふうんと小さな声で言うと、彼女はさっさと歩いて立ち去った。どうしても事務所へ戻らなければならない用があるらしい。七海と離れた途端に背筋はまっすぐに伸びつかつかと歩いている。彼女はこれから事あるごとに七海から責められるのではないかと冷や汗をかいていたので一刻も早くその場を立ち去りたかっただけなのだが、挨拶も無しにそっぽを向いてヒールを鳴らし歩く姿は誰がどう見ても横柄な態度に映るだろう。

 事務所は既に誰もおらず、しんと静まり返っていた。今日は皆が早々に帰宅しているらしい。就業時間は既に過ぎていたのでタイムカードを押して消灯する。もう誰も戻らないであろうその場所を施錠して出ると、七海がこちらへ向かって歩いてくるところだった。報告書を仕上げたので提出しに来たのだと言う。

「メールで送ってくださいとお伝えしたはずですが」
「わざわざ高専に戻って来たついでです。誰もいないなら戻る必要なんて無かったのでは。何度も直帰すればいいと言ったのに」
「忘れ物をしたので取りに戻りたかったんです。七海さんこそ途中で帰ればよかったじゃないですか」
「運転できない人と車を置いてどうやって帰れと言うんですか」
「だから運転はできます。もうこれ以上しつこく言わないでください」

 彼女は七海から差し出された紙を受け取ると、事務所の鍵を再び開けて自分のデスクに報告書を叩きつけるように置くとすぐに出てきた。苛立ちを隠そうともせず大きな音を立てて扉を閉め、再び施錠する。しんと静まり返った廊下にバタンと大きな音が響き渡った。まるで拗ねた子どものようだ。

「お疲れ様でした」

 七海に向かって頭を下げ、出口に向かって歩き出す。すると七海も同じく歩き始め、彼女の横に並んだ。

「ついて来ないでください」
「出口に向かっているだけです」

 彼女は大きなため息をついて歩みを速めるがすぐに追いつかれてしまう。身長差から考えると当然だった。どれだけ彼女が早く歩こうが、七海にとっては微々たる差だ。唐突に彼女は歩みを止めて七海へ道を譲った。掌を上に向け指を揃えて流れるような動きで『お先にどうぞ』とジェスチャーをするが、七海もぴたりと止まって動かない。彼女は七海に向かって強い口調で抗議する。

「嫌がらせはやめてください!」
「そもそも始めたのはあなたでは」

 彼女は肩をいからせて握り拳を作った。それから奥歯を噛み締めて七海から顔を背けると、またツカツカと早足で歩いていく。その後を七海は当たり前のように追う。更に彼女の苛立ちは増していき、出口の扉を勢いよく開けて七海が出ぬ間にバタンと後ろ手で閉めた。その後から出てくる人物を無視すればいいのに振り返って確認すると、平然とした態度で扉を開けて出てくる男の姿を見て更に腹を立てた。音も無く閉まった扉へ七海はちらりと視線を送り、肩をすくめる。それがまた彼女の怒りのボルテージを上げるのだ。

 彼女は小さく唸って七海から顔を背けると石段を駆け下りた。今日おろしたばかりのパンプスのヒールがカツカツと小刻みに鳴る。その後ろを二段飛ばしの大股で降りてくる革靴の音が追う。彼女は更に速度を早めるが二人の距離がひらくことは無かった。やめてくれと言ったのに、なぜ神経を逆撫でするようなことをするのか理解できない。彼女は肩で息をしながら階段の下で振り返ると、怒気を孕んだ声で言う

「やめてください! 駐車場はあっちです!」
「私の何が気に入らないんでしょうか。正直に言うと、女性からそんな態度をとられたことが無かったので驚いています」

 この発言を聞いて彼女は腹立たしさももちろんあったのだが、呆れた気持ちも大きかった。顔をしかめてぽかんと口を開け肩の力はだらりと抜けて、肩にかけた鞄がずり落ちていった。

 七海はというと、階段の途中で立ち止まりポケットに手を突っ込んで静かに立っている。辺りはすっかり日が暮れて、頼りない外灯から放たれる弱々しい光が七海の後ろから射して逆光となり、その表情はわかりにくい。それでも日本人離れした容姿とすらりと高い背が七海の外見の良さを引き立て、ドラマか映画のワンシーンのように感じられた。見た目もよく、丁寧な口調と態度でなんとまあ存在感のあることか。

「平等に接しているようでそうではないのに常識人ぶらないで」
「そういうことを平気で口にするあなたにだけは言われたくない」

 七海はお疲れ様でしたと取って付けたように言い、あと三段だけ残った階段をゆっくりと降りると駐車場の方へと向かい歩いて行く。その後ろ姿まで嫌味なほど様になる。まるで何も感じていないかのように平然とした態度も彼女にはまた腹立たしい。

 近くのバス停まで少し距離があるため、彼女はゆるい下り坂を速足で歩いた。時刻を確認するため時計を見ると、どうあがいても既に間に合わない時間になっていることに気づく。そこからはもう、急ぐことを諦めた。とぼとぼ歩いて野ざらしのバス停に着くと、錆びだらけでぐらつくベンチに腰掛ける。学童の閉所時間は十九時でこのまま次のバスを待っていては到底間に合いそうにない。誰かに迎えに行ってもらうしかないが、こんなことを気軽に頼める人物に心当たりは無かった。両親は早々に他界しているし、夫とも死別。ママ友と呼べる友人がいないわけではないが、お迎えを頼んだことは無いので気が引ける。しばらくベンチで思案してタクシーの配車アプリを探してみる。のろのろとダウンロードされる様をぼうっと見つめていると、見覚えのある車がバス停に停車した。

「送りますよ。急いでいるんでしょう」

 助手席の窓を開け運転席から身を乗り出した七海が彼女に話しかけると、先ほどとは打って変わって覇気の無い声の返事がきた。

「今からタクシーを呼びますから」
「こんなところにすぐ来るわけがない」
「七海さんにもう貸しを作りたくありません。行ってください」
「これは人助けなので無償の奉仕です」

 俯く彼女の顔をなんとか見てやろうと七海は下から覗き込んだ。先ほどの激しさとは異なりほんの少しだけ眉尻を下げていたので、なんだか申し訳なさそうにしているな、と七海は思った。

「本当に、貴方の、そういうところが……」

 そういうと彼女はまた派手に溜息を吐き、勝手に助手席のドアを開けてどかりと座りこんだ。勝手知ったるが如くシートベルトを締めて窓の外を向くと、言うに事を欠いて早く車を出せと言う。七海が今まで出会った人間の中で一番の横柄な態度で送られる人物を横目に、彼は気をよくしていた。あれだけ虚勢を張っても結局、誰かの力を借りて生きていかねばならないのだ。誰しもがそうなのにそれを認めず、自分一人だけで大丈夫だと主張する彼女の考えをぶち壊してやったと勝ち誇った。彼女は七海に屈したのだろうか。七海の方を決して向かず窓越しの景色を見つめる横顔が窓ガラスに映っている。眉間にしわを寄せ眼光は鋭く、口角はぐっと下がり機嫌の悪さを隠そうともせず不穏な空気を纏い、もう一度七海に早く車を出してくれと言った。それからぼそぼそと自信なさげな声で窓に向かって話した。

「私には、お返しするものが何も無いんです。もうこんなことはやめて」
「見返りが欲しくてやっているわけではない。下心などありません」

 かろうじて聞き取れた七海は至極真っ当な返事をしたつもりだったが、反応はなかった。独り言のつもりだったのかもしれない。七海を無視したままの彼女は窓に映る自分の醜悪な姿に気づいたのか、肩の力を少し緩めて無表情になり先ほどよりも更に小さな声で呟く。

「今日は一日中最低の気分です」
「おかしいですね。私は最高に気分がいい」
「七海さんっていい性格されてますね」
「そこだけはあなたと同じです」

 今度は会話が成り立ったようだ。彼女の返事を聞いた七海は口角を少しだけ上げた。逃げられれば追いたくなる本能なのか、彼女が態度を悪くすればするほど七海は無視できないでいた。普段ならそんな相手は放っておくのになぜか彼女だけはそうはいかない。周囲の評価や普段の仕事ぶりから彼女が優秀であることは間違いないだろう。凛とした立ち振る舞いはある種の高潔ささえも感じる。しかし、七海の前だけでは違うのだ。冷たい視線で射抜き、仕事以外では話しかけるなという態度をとってわざとらしく遠ざけようとしている。そうかと思えば今日の車内での出来事のように無防備な姿を晒し、少し褒められれば頬を赤らめ喜んだ。七海は彼女のことが気になって仕方が無かった。初めて女に酷い態度をとられたからだろうか。それとも自分だけに見せる抜けた姿を見たせいだろうか。逃げ惑う鼠を執拗に追う猫のような、本能的なものかもしれない。七海にだけ見せる顔があるのだとしたら、それはいったい何なのか。

 自宅住所を言うように伝えたが、彼女は以前と同じ場所だとだけ言って口を閉じた。七海はカーナビの履歴から小学校を探して入力し、ゆっくりとアクセルを踏み込む。ハイブリッド車のエンジン音は静かだ。車が発進した後に彼女の深いため息が聞こえたきり、二人は一言も交わすことなく目的地へと着いた。