解決可能な苦境に立たされたとき男に従う方法

第4話

「お疲れ様です」

 各地の地酒を取りそろえた小料理屋のカウンターに七海と伊地知は並んで座っていた。白木造りの店内は清潔感があり、食欲をそそる良い香りが漂っている。復帰後初の任務は滞りなく終了し、約束通り食事にやってきたのだ。もう一人夕食を作るのが面倒な同志がいたが、残念ながら一足先に直帰してしまった。

 冷えた小ぶりのグラスがぶつかり、甲高い音を立てる。ビールがなみなみと注がれたそれに口をつけると、きめの細かいクリーミーな泡が口内を快く通過していく。黄金色の液体が喉を通ると、コマーシャルで目にしたような反応をしてしまう。この店はビールサーバーを丁寧に手入れしているのだろう。料理にも期待できそうだ。二人は成人して再開し、こうしてビールをうまいと思える歳になったのだと感慨深げにうなずいた。

「七海さん全くブランクを感じさせませんね」
「ありがとうございます。伊地知君は後輩から慕われているんですね」
「私もこの業界では長い方ですから」

 少し含みのある言い方に伊地知は戸惑った。自分から先ほどの件を蒸し返す勇気はなく、触れないでおこうと決めた矢先のこの発言。七海と彼女の間で何かあったに違いなかったので、今後の業務に差支える可能性がある限り事情を聴いておくべきだろうとは思う。プライベートな理由であれば詮索する気はないと前置きしたうえで、伊地知は七海に尋ねた。間髪いれずに七海が答える。

「本当に何もないんです」
「そうですか。先ほども言いましたが、優秀な方なんです。私情を挟むようなタイプでもないので、ちょっと心配で」
「私も少しむきになってしまったかもしれません。よく知りもしない相手からあんなに感情的に接せられるとは思わなかったので」
「注意しておきます」
「いいですよ、別に。仕事に支障はないでしょう」

 それっきり彼女の話はしなかった。そんなことよりも二人には積もる話が色々とあったので、昔の思い出やこれからのことを話していたら彼女のことは忘れてしまった。あんなこと取るに足らない出来事だ。上品な味付けの料理たちに舌鼓をうち、美味しい酒を飲んでほろ酔いで帰路につく。やはりこの店は当たりだった。駅で二人は別れると、それぞれの自宅へと帰っていった。



***


 復職して半月ほど過ぎた頃。七海に同行予定の者が別件から戻れず、伊地知は空き人員を探して端末とにらめっこをしていた。人材不足甚だしく、七海を一人で向かわせるか自分がいくしかないと諦めかけた時、事務所に一人の女性が静かに入ってきた。これ幸いと思ったが、復帰後初めての任務であった出来事を思い出し二の足を踏む。何か言いたげにしている伊地知に気づいたその女性は「お手伝いできることはありますか」と穏やかな表情で声をかける。どうしようかと逡巡し、話を投げかけることだけはしておこうと思い口を開いた。

「七海さんに同行するはずの人員の都合がつかなくなりまして」
「私でよければ今から出られます」

 予想外の答えに一瞬怯む。事務作業はもちろん、補助監督として同行した任務を数件終えてその仕事ぶりには間違いがない。信頼できる人物だ。ただ、あの日ことが少し気がかりなだけ。数秒の間をおいて断るのも妙な話だと思い、彼女に同行を依頼した。おかしなことは何もしていない。業務上必要なことだったと、伊地知は心の中で弁解した。急いで変更があったことを七海に伝えると、普段通りの返事でほっと胸をなでおろす。

 七海が待ち合わせ場所に着くと既に黒塗りのセダンが止まっていた。運転席から見知った女性が姿を現す。今日はいつものよれよれのスーツではなく、ノーカラージャケットにひざ下のタイトスカートをはいていた。靴は艶のあるローヒールパンプスだ。服を新調したのだろう。真新しいスーツに身を包んだ彼女は初めて出会った日とは打って変わって明るい印象を与える。挨拶を終えても動こうとしないので七海が彼女の表情をちらりと見ると、遠慮がちに口を開く。

「この間は、失礼な態度で、すみませんでした」
「こちらこそ、プライベートを詮索するようなことをして嫌な思いをさせてしまいました。申し訳なかったと思っています」
「個人的な理由で、七海さんに少し苦手意識が。それで、あんなこと」
「まずは仕事を片付けませんか。話はそれからで」
「ああ、そうですね。ごめんなさい。本当に、私、ご迷惑ばかりおかけして、すみません」

 最後は消え入りそうな声で謝り、肩を落として項垂れている。先日見た冷たい怒りに支配された姿からは想像できない弱々しい声だった。しょんぼりとしながら運転席へ戻ろうとする彼女を七海が呼び止めると泣きそうな顔で振り返り、まだ何かあるのだろうかとおびえた表情へと変わる。七海は手に持っていた小さな黄色い紙袋を差し出した。受け取るように促すが、首を横に振って受け取れないと言う。

「ただのチョコレートです。どうぞ」
「そんな、まだ何もお役に立てていないのに頂くわけにはいきません」
「あなたに渡したくて買ってきたんですから、受け取ってもらわないと困る」
「いただく理由がないのでお断りします。それに困られても、七海さんが勝手に持ってきたのに……」

 頑なに紙袋には手を伸ばさず、そのままドアを開けた。やはり何か意地を張っていてつまらないことに頑固な態度をとってくる。負けじと七海もドアの前に立ちふさがった。彼女は降ろした腕を突っ張って拳を握りしめ、七海から顔をそらして声を荒げる。

「まずは仕事を片付けるんじゃなかったんですか!」
「そうでしたね。はい、どうぞ」

 七海は無理矢理彼女の手をとり、紙袋の持ち手を握らせた。少し荒れた温かい小さな手。彼女は強引すぎるとぼやきながらも突き返すことはなく観念して受け取ると素早く車に乗り込み、頬を染めてハンドルに突っ伏した。今回のプレゼントに他意はない。話のきっかけになって、少し気分がまぎれればそれでいいと思ったので渡しただけだ。七海は一連の反応を見届けてから、実際そうなったので満足げに微笑んだ。そして発信前の後方確認のために後ろへ回ると、ナンバープレートの右隣に初心者マークが貼られていることに気付く。途端にその表情は曇った。きびすを返して運転席に戻った七海は、閉じられた窓をコツコツと音を立てて二回ノックした。窓が開けられると涙目の彼女が七海の方へ向き、まだ何かあるのかと言いたげに眉間にしわを寄せる。

「今日が初めての運転だなんてことはないですよね」
「ご安心ください。教習所では一度も失敗したことはありません」

 自身に位置た表情で言うが、ハンドルを持つ手の指は緊張のせいか青白く血色が悪い。それに、震えているように見える。

「ちょっとまって。かわります」
「大丈夫ですから」
「手が震えてる。どいて」
「ぶつけたりしません」

 大丈夫の一点張りで一向に動こうとしないので、ドアロックがかかっていない運転席の扉をこじ開けた七海はそのまま強引に乗り込むと、その身体で彼女を助手席に追いやろうと押しのける。驚いた彼女は間抜けな悲鳴をあげ抵抗したがもちろん勝てるはずはない。首まで真っ赤にして肩で息をしながら何やら文句を言い、七海の身体に半身を乗せたままセンターコンソールに引っ掛かって移動できずにジタバタもがいていた。スリムな上半身からすると少し大きめのヒップが七海の腕に当たると身体をはねさせて驚いた。スカートの後ろを押さえつけ、七海の方を勢いよく振り返ると大きな声で抗議した。

「離してください!」
「あなたが勝手に乗っかってるんでしょう。そっちこそどいてください。邪魔です」
「信じられない! セクハラです!」
「こっちは命を落とすところだったんですよ」

 なんとかヘッドレストを掴んで体制を立て直した彼女は、ようやくセレクトバーにとられていたスカートを取り返した。転がるように助手席へと移ると、続けて物申しているが七海は全く聞く耳を持たずカーナビを確認している。目的地は既に入力されていた。七海はシートベルトをしてエンジンをかけると、彼女の準備を待たずに車を発進させる。驚いた彼女は反射的に慌ててシートベルトを締めてしまい、しまったと後悔した。

「これで貸し一つですね」

 またもや彼女は文句を言っているが七海は気にもとめず、機嫌よく運転を始める。何を言っても無駄だと諦めたのか、さらに一通り七海を責めた後、最後には上司に報告すると捨て台詞のように言って、七海から顔を背け窓の方を向き静かになった。うなじの赤味は引いたが、耳は赤く熱を持ったままだった。

 しばらく運転していると都市部に入り、下道は少し混雑していた。この時間は空いているかと思ったがナビの指示通りに高速道路を使えばよかったかもしれない。予定時刻を過ぎてしまいそうだと七海が時計を見ると、隣で彼女もまた同じように古い男物の腕時計を確認しているところだった。まったく同時に同じ行動をとったことが可笑しくて、七海がこらえきれずに噴き出して笑うと彼女は口元に手を当て控えめに笑った。

「私たち気が合うんじゃないですか」
「ええ、そうかもしれません」

 観念したように彼女は呟き、時計を撫でた。その動作に何か意味があるのかもしれないが七海にはわからなかった。

 最近の車は静寂性に優れている。息遣いや衣擦れの音さえ聞こえてしまいそうな車内で二人は会話なくひたすら目的地を目指していた。七海の運転は非常に安心感があり、彼女はウトウトしはじめていた。前日夜遅くまで自宅に持ち帰った資料の整理をしていたせいなのだが、今は絶対に寝るわけにはいかないと必死に耐える。手の甲を抓ってみたり、深呼吸をしてみたり、どうにかして気を紛らわせようと必死だった。さらに言うと空腹でもあり、七海にもらったチョコレートを今食べるべきかどうか、かれこれ十五分ほど悩んでいる。あれだけ要らないと拒否したくせに、いくら腹ぺこだからといって目の前で食べるわけにはいかない。次のコンビニに入ってくださいと喉元まで来ていたが、これから呪霊討伐へ向かう呪術師に運転をさせた上に指図することなんてとてもじゃないができそうにない。三大欲求の二つが満たされぬ今、限界に近かった。遠くにコンビニの看板が見えたので、もうあそこで停めてもらうしかないと決意したその時、彼女の腹の虫が静まり返った車内に盛大に鳴り響く。

「お腹すいたんですか」
「……すみません」

 聞くと朝も昼も食べていないという。彼女がどんな生活をしているのか知らないが、不摂生をしていることは間違いない。七海はコンビニの手前にあるカフェのドライブスルーへ何も言わずに入った。ホットコーヒーを二つとサンドイッチを一つ頼み、慣れた手つきで支払いを済ませて紙袋を彼女へ手渡す。コーヒーの熱でインクと紙の匂いが際立つ袋の中をのぞいていると七海の左手が伸びてきた。コーヒーの紙コップを一つ持たせてやると「ありがとうございます」と礼を言われてしまった。感謝の言葉を言うのは彼女の方なのだが、そのあまりにもスマートな行動に驚き呆けてしまう。そして彼女は情けなさから助手席で今までよりいっそう小さくなった。

「これで貸し二つ」
「もうそれでいいです。いただきます」

 抗うことに疲れたのか、彼女は素直にサンドイッチを食べ始めた。包みを開けるカサカサした音と咀嚼音が耳に入ってくる。七海は一口コーヒーを啜ると、横目で彼女を盗み見た。思ったよりも大胆に大きな口を開けてパンにかぶりついている。よほど腹が減っていたのだろうと、子どもに食べ物を分け与える母親のような幸福感を感じた。それは訳ありげな女に施しをしてやるという、下卑た欲望が満たされたせいかもしれない。それとも野良猫に餌を与えるような自己満足なのだろうか。どちらにせよあれだけ強い拒絶を示していた者が、いとも容易く手のひらを返して従うさまに七海は情欲に似た感情を抱いていた。

 五分ほどですべて平らげた彼女は口をもぐもぐさせながら七海にお礼を一言だけ述べた。これは貸しなのでいつか必ず返してもらうと七海が言うと、彼女は感情の読み取れない声色で「わかってます」とだけ言ってそれきり何も言わなくなった。やけに静かにしていると思って信号待ちの時に息をしているか確かめようと顔を覗き込むと、なんとぽかんと口をあけて居眠りしていた。

(この状況で寝てるじゃないか!)

 七海は身体の奥底から体温がどんどん上昇するかのように湧き上がる熱を感じた。これは彼女に対する特別な感情なのだろうか。これで貸しは三つになると満足そうに笑い、発進の衝撃で彼女を起こさぬようにゆっくりとアクセルを踏み込んだ。