距離を保ち決して近づきすぎないようにする方法

第3話

 からかい過ぎて怒らせてしまったのか、彼女は事務所に引っ込んでそれっきり出てくることは無かった。閉ざされた扉の向こうで何をしているのかはわからない。別に約束をしたわけではないし待つ必要もないのだが、七海はどこか落ち着かない気持ちになって高専内を少しうろついた。先日来た時と変わらず、この時間は静かだ。数年前と何ら変わりのない風景を一通り眺めたあと、自分の行動の不可解さがおかしくなって帰路に着いた。

 左手の薬指についている輪は、その人が既に誰かのものであることを意味する。指輪という物質で対外的に所有権を示すものだ。彼女は既に誰かと婚姻関係にあるらしい。それをわざとらしく訴えかけるためにつけられている。あんな冴えない女に一体誰が。あの指輪はまるで牽制のように思えた。

「今日は見習いとして彼女にも同行してもらいます」

 すっかり頼りになる七海の後輩である伊地知潔高が優しい微笑みを浮かべながら言う。その隣には緊張感を漂わせる彼女がカチコチに固まっていた。小さな声で「よろしくお願いします」と言ったと思ったら、七海を見ようとせず視線をそらしている。復帰後初の仕事に初心者を同行させるとはこの業界の人材不足は深刻なようだ。今日の任務内容が簡潔に告げられ、彼女の手によって後部座席のドアが開けられる。お礼を言ってわざと顔を覗き込むが視線を泳がせ何も言わずにドアは大きな音をたてて閉められた。彼女が助手席に乗ると伊地知はこれからの流れを一通り説明し、車を発進させる。彼女は真剣な表情で伊地知の説明を聞きながらうんうんと頷き、先日と同じ安っぽいノートに古びたブランドものの万年筆でなぐり書きをしていた。伊地知とは気兼ねせずに会話しているようで、時折頬を緩め口元に手を当て笑っている。後部座席から彼女の左手はよく見えなかった。右手首には大きすぎる男物の時計が相も変わらず鎮座している。貧相な身体にサイズの合っていないスーツ、就職活動の時から使っていそうなビジネスバッグ、ごつい腕時計、輝きを失った結婚指輪。彼女が身につけているもの全てがアンバランスで取って付けたようなものばかり。見苦しいのに目が離せず、七海は困惑していた。

「七海さんはどうですか」

 唐突に運転席側の伊地知から声をかけられ、七海は自分がぼんやりとしている事に気づいてはっとした。

「え。ああ、すみません、考え事を。何ですか」
「すみません、復帰後初任務なのに。緊張感に欠けていましたね」

 申し訳なさそうに伊地知が謝った。そこから察するに、今日の仕事とは程遠いなんでもない話をしていたらしい。

「何の話ですか」
「帰ってからご飯を作るのが面倒だという話でした」

 七海と伊地知が話し始めると、彼女は視線をフロントガラスの向こうへやった。何も言わずにじっとしている。雑に結ばれた髪と痩せた頬は見えるが表情はわからなかった。彼女の不自然な様子に運転席の伊地知は気づいているのだろうか。

「確かに。一人分だけ作るのは面倒です。味も決まらない」

 同意を求めるように七海が言うと、伊地知は何度も頷いた。彼女の反応は何も無く、頷かないところをみると一人分だけ作るのではないということかもしれない。窓に彼女の顔がうつっている。うつりかわる景色を眺めて何を考えているのかわからないが、興味がない、もしくは関係ない、そんな表情だった。彼女がもぞもぞと動いたと思ったら、ドアに頬杖をついて小さなため息をひとつ吐く。ドアガラスに銀のリングがぼんやりと映った。七海を遠ざけようとする態度を隠そうともせず、徹底的に拒絶するつもりらしい。そっちがその気なら受けて立とうと七海は決意を固めた。

 一方、伊地知は二人のただならぬ雰囲気に身が縮む思いだった。気づかないわけがない不穏な空気。社会人経験がある二人ならば話も合って上手くやるのではないかと思っていたが、とんだ誤算だったようだ。伊地知の知らないところで何かあったのか、単純に相性が悪いのか、出会って短期間でここまで険悪になろうとは予想だにしていなかった。話題に気をつけ、安全運転で、しかし最速で目的地に到着しなければならない。冷や汗をかきながらも運転を続ける。その間も七海はなんでもない話題を二人に振るのをやめなかった。七海はこんなに空気を読まない人物だっただろうか。社会経験を経て変わってしまったのだろうか。伊地知は無視するか気のない返事をする彼女と七海の間で肝を冷やし続けた。また胃カメラをのむことになるかもしれない。

 七海の復帰後初任務はすみやかに何事もなく終わり、各所の巡視も終え、いつの間にか時刻は十七時を回ろうとしていた。帰りの車内では仕事の進め方や確認方法、公的機関への書類提出など、補助監督を務める二人にしかわからない話ばかりだった。ノートを捲りながら伊地知に色々な質問をしている。困った時はいつでも電話してきてくださいと伊地知が言うと、安心したように微笑んでお礼を言った。ありがとう、嬉しい、頼りになる、そんな言葉を発することもできるのかと、七海は二人の会話を黙って聞いていた。彼女は伊地知をずいぶん慕っているようだ。

「ご飯を作るのが面倒なもの同士、何か食べて帰りませんか」

 二人の会話が途切れた時、七海が問いかける。一瞬の沈黙の後に伊地知が「ぜひご一緒したいです」と答えた。気を使ったわけではなく、久しぶりに先輩と話したい本心だった。彼女はというと途端に黙りこくり、呼吸音さえ聞こえなくなった。七海が返事を催促しようと思った時、彼女が小さな声で返事をした。

「私は、すみません」
「何かご予定が」
「いえ、帰らないといけないので」
「ご主人もご一緒にいかがですか」

 七海が試すように言うと、彼女の纏う空気が途端に冷えきった。もともと七海への態度は氷点下だったが、猛吹雪の雪山で遭難したかのように冷たい怒気が車内に吹き荒ぶ。間が悪いことに信号は赤になり停車した。小さなエンジン音だけが車内に響く。伊地知は身を切られるような思いでハンドルを握ったまま何も言えずにいた。七海は何事も無かったのように表情を変えないでいる。彼女は微動だにせず、しばらく言葉を発することは無かった。長い沈黙が続いたが信号が青に変わった時、彼女は助手席から後部座席の七海を鋭い眼光で睨みつけ、強い口調でこう言った。

「夫とは五年前に死別しています」
「それは失礼。立ち入ったことを聞いてしまいました。ご気分を害してしまいすみません」
「そうですね。次の信号待ちで降ろしてください。自宅近くなので、お先に失礼します」

 それっきり誰も何も言わなくなり、次の信号待ちで彼女は本当に車を降りていった。頭を下げて車が発進するまでは見送っていたが、信号がかわって車が動き出すと反対方向へと歩き出す。七海は後部座席からバックミラーでその様子をじっと見つめていた。

 もう一歩踏み込む前に逃げられてしまった。

「ふぅ、手厳しいですね」

 大きな交差点で停車中に七海が呟く。いつもと変わらない淡々とした調子で話すので伊地知は少しほっとした。何かとんでもない事態に巻き込まれてしまったが、七海は彼女の態度については全く意に介さないらしい。それでも伊地知は突然の出来事に戸惑っていた。二人の険悪さは今後の業務に支障が出そうだ。

「あのォ、お二人の間で何かあったんでしょうか」

 伊地知が恐る恐る口を開く。困らせるつもりは無かったが、結果的に間に挟んでしまい、相当心を痛めたことだろう。心優しい彼の心労を想い、七海は申し訳なさでいっぱいだった。しかしここで撤退するわけにはいかない。

「何も。最初から私に対して感情的でした」
「そうですか。普段はとても穏やかな方なんです。よく気が付きますし仕事は早いし、冗談に笑ってくれたり手作りのおやつもおすそ分けしてくれて――」

 そこまで言って伊地知は七海の冷たい視線に気づき口を閉ざした。フォローのつもりが逆効果だったようだ。やはり二人の間に何かあったに違いないと、これ以上言葉を発するのはやめておくとこにした。

「伊地知君。一杯付き合ってくれますよね」
「は、はい、もちろん……」

 夫は既に鬼籍に入っているらしい。それは彼女にとって知られたくないことだった。七海に対して強い拒絶を示す理由は何なのか。亡くなった人物との絆はそう簡単に捨てられないものなのだろうか。

 あの指輪は愛を誓った証などではない。それはもはや呪いだ。