「ありがとうこざいます」
彼女は目的地に着くなり気持ちのこもっていないお礼の言葉と共に会釈をすると、さっさとシートベルトを外した。返事を待たずに出ていこうとするので、七海は無作法だと思った。礼儀というものを知らないのか、知っていてわざとなのか、先程の事務所でみた伊地知への態度とまるで違う事が腑に落ちない。
「ここから自宅は近いんですか」
「……はい」
ドアから半身を出しながら、また彼女は眉間に皺を寄せ鋭い目付きで七海を見据えた。もう一度会釈をすると、足早に校門へと向かって行ってしまった。無愛想で言葉足らずな彼女の振る舞いに七海は肩透かしをくらったような気持ちになる。親切心からした事がかえって彼女には迷惑だったのかもしれない。それでも、社交辞令としてもう少しましな言動をとった方が彼女のためになる。あの愛想ではこれからこの業界で苦労しそうだ。まだまだ古い体質のこの世界で、これからうまくやっていけるのだろうか。もう少し笑えばいいのに。
そこまで考えた時、七海は無意識に「女性とはこうあるべき」という固定観念にとらわれ、彼女に強要していることに気づいた。そんな自分に驚きつつも、やはり先程の彼女の態度にも問題があるだろうと思い、後味の悪いまま車を出す。
女にあれほど冷たい態度をとられたのは初めてだった。
三日後に書類を揃えた七海は再び高専を訪れていた。草木が風になびく音だけが聞こえ、風が止むとしんとしている。学生達は任務に出ているのか、大人しく授業を受けているのか、校舎から少し離れたこの場所からでは様子はわからない。事務所に進む道を歩いていると廊下で誰かと電話している例の彼女が見えた。七海には気づいていないようだ。ちらりと見えた横顔は優しそうに微笑み、あんな顔もできるのかと七海は驚いた。そのまま歩みをすすめると革靴の乾いた足音が廊下に響き、彼女は七海に背を向け身を縮め小さな声で「じゃあ切るよ」と囁き電話を切った。
「書類を持ってきました」
彼女は七海の方を向くなりその表情を途端にかたくして、小さく会釈した。身体にも力が入り緊張感を漂わせている。
「先日は送っていただきありがとうございました」
静かに深呼吸をしてから、一気に言い立てた。
「いえ。かえってご迷惑だったようで」
「……そんなことありません!」
彼女は一瞬言葉に詰まり、悲しそうに眉を下げる。叱られた小さな子どものようにがっくりと肩を落としている姿を見て、七海は少々嫌味っぽく言いすぎたと後悔した。しばらく静寂が流れる。艶のない髪に色気のない髪飾り。耳元にピアスホールがあるようだが何もつけてはいない。先日と同じ黒いスーツに身を包み、ヒールに慣れないのか踵に絆創膏がみえる。色白な彼女に合わない濃い肌色のストッキングがボトムの裾から見え、ちぐはぐで可笑しかった。頭の先からつま先まですべてが不揃いで不格好だ。七海の舐めるような視線に気づいたのか、うつむいていた彼女が顔を上げおずおずと口を開いた。
「あの」
「何か」
その態度こを自信なさげだが、刺すような視線はどこか七海を咎めるような色合いをしていたので、七海はじっと見ていたことを非難されたかのような気持ちになった。彼女はまたうつむいて視線を泳がせると、決意したように拳を握りしめ、なぜか悔しそうに歯を食いしばり、ゆっくりと口を開く。
「七海さんに、お渡ししたいものが。受け取ってください」
「何でしょう」
イエスの返答を待つ前に、彼女はきびすを返して事務所に入るとすぐに戻ってきた。その手には百貨店のロゴが書かれた黒く細長い紙袋を携えている。おずおずとその袋を差し出し、七海を見上げた。妙に不服そうな表情をしている。
「先日のお礼です」
七海はなかなか手を出さず受け取らなかった。何も言わずじっと彼女を見ていると、口をへの字に曲げ一歩七海の方へ近寄り紙袋をさらに突き出した。これでチャラです、とでも言いたげに三白眼で睨みつけられる。お礼を渡そうとする振る舞いではないが、どうにか受け取らせようと七海の手元に紙袋をよせた。その余裕を無くした表情と子どものような必死さがおかしいような、可哀想なような、七海の心を落ち着きなくさせた。
「気を使わなくてもよかったのに」
「お酒がお好きだと、先輩に聞きました」
あの日不本意ながら七海に送られてしまった彼女は、それを精算するため誰かにわざわざ七海の喜びそうなものを聞き出し、いつかまたやってくるであろう七海を待ち、ようやく見つけて今、待ち望んだ任務を完了しようとしている。
いちいち大層な反応とともに実行される彼女の重大案件を快く遂行させてやることにした七海は、思春期の中学生のような態度も許してやることにした。彼女の手に触れないよう注意しながら、贈り物を受け取ると上から中を覗く。青い瓶だった。
「ありがとうこざいます。日本酒ですか」
「故郷の地酒です。お口に合わなければ捨ててください」
七海の方を見ることなく、そっぽを向いてぶっきらぼうに言い放つ。コミュニケーションをとるつもりがないのか、人擦れしていないのか、先日同様七海への当たりはきつかった。何が彼女をそこまでさせるのかはわからないが、ほのかに紅く染まった耳介を見る限り嫌われているわけではないとわかった。
「今夜さっそくいただきます」
「海の見える酒蔵で造られたので、きっと、魚が合うと思います」
ついには頬までりんごのようにあかくなり、もごもごと口篭りながら覇気なく答える。七海はわずかに口角を上げ小さく頷いた。
「それは楽しみです。何がいいと思いますか」
「料理は、あまり得意ではありませんから……」
「仕事を辞めて時間だけはあるので、煮魚でも作ります」
「そう、ですか……」
返事に困ってうろたえている。掘り下げようという気は無いらしい。それでも適度に相槌を打って流せばいいものをつくづく立ち回りが下手くそだ。とにかく、先日の件が帳消しになり、これで彼女の肩の荷は降りただろう。ほっとしたのか彼女は身にまとったかたい空気を少し和らげ、小さく深呼吸していた。やれやれほっとしたと事務所へ向かうその背中に七海が声をかける。
「書類をお渡ししてもいいですか」
「あっ……。お預かりします。えっと、ななみ、さん」
「はい」
「中身を確認しますので、少しお待ちください」
人が変わったように突然事務的に話しだすので呆気にとられていると、その場でチェックしはじめた。右へ左へ動く瞳。一枚、また一枚と捲っていく。しばらくすると顔を上げた。ほんの少しゆるんだ表情をしている。
「特に問題ありません。お預かりします。お疲れ様でした」
頭を少し下げて早々に立ち去ろうとする姿をみて、そのいたいけな不器用さをほんの少しだけ好ましく思った。打算的に動けないのだろう。人に頼ることが下手で、なんでも一人で抱え込み、感情をうまく言葉にできず口下手。しかし彼女の態度から察するに、七海に向ける感情は悪いものでは無さそうだ。自分に都合よく解釈しているだけかもしれないが、七海はそう思っておくことにした。
彼女のふるさとはどこだろう。どこで産まれ育ち、どんな人生を歩んできたのか。高専で働くことになった理由は。七海は人付き合いが上手いとはいえない彼女の今までを自分勝手に想像していた。何か事情があってここにいるらしい。一体何があったのか。
「何もとって食いやしません。肩の力を抜いてください」
「そんなつもりは……」
「今日もお送りしましょうか」
「けっこうです!」
顔を茹で蛸のように真っ赤にして叫ぶ彼女の姿を見て七海は思わず吹き出し笑いをしてしまった。すると彼女は恥ずかしさで強く目を瞑り、また下を向いて両手で顔を覆った。少し荒れた彼女の手。その左手の薬指に古ぼけた銀の指輪がはまっていた。石のないシンプルなものだ。傷だらけで輝きを失っていたが、確かにそこに、はめられている。七海はその指輪を食い入るように見てしまい、なぜか目を逸らせずにいた。