七海が呪術師への復帰手続きのため高専を訪れた時のこと。事務所の一番奥でパソコン作業をしている見慣れない補助監督を見つけた。歳は同じくらいの、どこか影のある女性。数年この業界を離れていたので七海の知らない人物がいてもおかしくはない。それでも呪いが見える者の絶対数は少ないし狭い業界なので顔くらいは見たことがあってもいいものだが、彼の記憶の中に彼女は存在しなかった。七海がしばらく事務所で立ち尽くしていると、その女性が彼に気づいて会釈する。周囲を見渡すが事務所内にはその女性以外誰もいなかったため彼女は自分が対応すべきであると気付き、 作業を中断して七海の方へそろそろと近づいて来た。
「今、ほとんどの者が出払っていまして、私でわかる範囲であればいいのですが……」
乾燥した艶のない唇をあまり動かすことなく、彼女は小さな声を出した。七海は出戻りである事情を説明し、入職手続きの書類を求める。七海の話すことを頷きながら聞き、小さなノートに書きとめた。学生が使うような安っぽいノートだと七海は思った。そのノートに似つかわしくない、古びてはいるが良く手入れされているブランド物の万年筆で彼女にしか読めないであろう走り書きが続く。紺色のインクが不格好に滲んだ。
「……すみません。私ではわかりかねます。上司に確認します。お時間はございますか」
「今日は特に予定は無いので待てます」
「わかりました。ご連絡先を伺ってもよろしいでしょうか」
七海は改めて名乗り、電話番号を告げる。携帯電話を契約してから一度も番号を変えたことは無い。
「ななみ、けんと、さま」
繰り返しながらメモをとる彼女が下を向くと、意外にも睫毛が長いことに気づく。必要最低限の化粧しかされておらず、せっかくの長い睫毛は生え癖のまま。髪色より薄すぎるアイブロウは流行おくれの細眉を描き、色の付いていない瞼がぱちぱちと瞬いている。
「後ほどご連絡いたします」
顔を上げると二人の目が合った。彼女は何かを諦めたような、感情をどこかへ捨ててきたかのような、そんな色をしていた。女性として最低限の身だしなみは整えているものの、美しさを保つことだとか相手に与える印象を変えようだとか、そういった小細工を一切していないその出で立ちをしばらくじっと見つめてしまった七海は、はっとして目を逸らす。初対面の女性に向けるものではない不躾な視線を送ったことを誤魔化すかのように彼女に話しかける。
「良い万年筆ですね」
「貰い物です」
ぶっきらぼうにそう答える彼女は七海の方を向くことなく、補助監督各々の行動予定が書かれているホワイトボードをぼんやりと見つめていた。
十分ほどしたら見知らぬ固定電話から着信があったので事務所へ戻ると、その扉が内側から開いた。久しぶりに会う後輩はすっかり落ち着いた雰囲気になっていて、七海との再会を喜んだ。先程の女性は不在らしい。必要な書類について伊地知から説明を受けていると、事務所のドアが開き彼女が戻ってきた。はっとした表情をして伊地知に駆け寄り、ノートを取りながら説明をともに聞いている。
「後ほど改めてご説明しますよ」
伊地知が彼女に微笑みながら言うと、小さな声で返事をして自分の席に戻っていった。弱々しい蚊の鳴くような声だった。タブレット端末とパソコンを交互に眺めながら、何やら入力作業をしているようだ。ディスプレイの光が反射してその横顔を照らす。口は真一文字に結ばれていて、その表情から感情は全く読み取れない。しばらく何か作業をしていた彼女がふいに立ち上がり、伊地知に何やら告げて事務所を後にした。就職活動をする学生が着用しそうな、少しくたびれたパンツスーツだった。
七海の復職には健康保険や年金手帳、雇用契約書など多くの書類が必要らしい。書類をそろえて改めて出直さなければならず、わざわざ高専を訪れずとも郵送でよかったかもしれないと七海は思った。ふと気になったので伊地知に先ほどの彼女のことを聞いてみる。特に深い意味はない。この業界に似つかわしくない、不思議な女性だとほんの少しの興味があっただけだ。
「ああ、彼女ですか。七海さんと同じく社会人経験がおありなんです。前職では総務されていたそうで、とても助かっていますよ」
「道理で。この業界らしからぬ雰囲気だと思いました」
「ハハ。彼女はちょっと事情がありまして」
「事情?」
「あ、いや、個人的な内容なので……。すみません」
伊地知が言葉を濁したので、七海はそれ以上深掘りするのはやめた。誰でも大なり小なり事情はあるだろうし、ましてやこんな業界で何も無い方が珍しいだろう。それでもなぜか彼女のことが気がかりだった。深い悲しみに満ちたような、すべてに疲れきってしまったようなその瞳に、希望の光が宿ることはあるのだろうか。
書類は一旦持ち帰り後日提出することになったので、七海は時間を持て余して久しぶりに訪れる高専内をふらふら歩いていた。卒業してから何も変わっていない懐かしい風景。校庭付近のベンチに腰掛け茶封筒に入った書類を取り出してぼんやり眺めていると、先程の彼女が電話をしながら慌ただしくその前を駆け抜けていく。何やら急ぎの用事らしい。その様子を眺めていると唐突に何も無いところで躓き、小脇に抱えた郵便物をバラバラにしてしまった。肩に社用の電話を挟みながら会話をしつつ、郵便物をかき集めている。七海はそばに寄って落とした書類を集めてやった。彼女は驚いた顔をしていたが会釈して、通話を続けながらすぐに立ち上がる。
「大丈夫です、ハイ、すぐ向かいます。では」
通話を終えた彼女が七海の方を向く。手入れをあまりしていないであろう、艶のない髪が一つに束ねられた頭を深く下げた。
「お手数おかけしてすみません」
「お急ぎのようでしたので」
「お気遣いありがとうございます。では」
再度軽く会釈をして、そのまま立ち去ろうと歩みをすすめる姿を見て七海は考えた。これから急いでどこへ行くのだろう。俯きがちなその顔には焦燥と疲弊を浮かべている。車で来ているのだろうか。最寄りのバス停までも遠く、こんな中途半端な時間はバスの本数も少ない。自分には関係ないと思いながらも七海は放っておくことができずについに声をかけてしまった。
「どこまで行かれるんですか」
「……今日はこのまま直帰します」
「お送りしましょうか。貴女さえよければ、ですが」
彼女は眉間に皺を寄せ、睨みつけるように七海を見上げた。ああ、不審がられているな。七海はそう感じた。それでも即答しないところを見ると迷っているようだ。彼女は腕時計をちらりと見ると、焦ったように顔を顰めた。細く白い腕には似合わない、男物の時計。
「バスで最寄り駅まで出ます」
「この時間はしばらく来ないはずです」
彼女は下唇を噛みしめた。もう一度時計を確認し、諦めたように大きなため息をつく。
「ななみ、さん、は、お時間よろしいのでしょうか」
七海の名前を確認しながらつぶやく。どうやら観念したようだ。しかしその表情は悔しそうで、誰の手も借りたくないのに、とでも言いたげにしている。
「大丈夫です。仕事を辞めて暇ですから
「最寄り駅までで結構です」
目的地は頑なに教えてもらえないらしい。七海はふっと笑い声を漏らした。それを聞いて彼女は途端に表情を険しくする。馬鹿にしたわけではない。彼女が意地を張っているようにみえて少し微笑ましかっただけだ。
「そんなに警戒しなくても」
「いえ、失礼しました。よろしくお願いします」
肩の力が抜けたのか、力なく笑う姿を見て七海は知るはずもない彼女の人生を勝手に想った。何か事情があってここにいる、不本意にも誰かの力を借りなければいけないが、それを良しとできず苦しんでいるに違いない。女性一人で立つには厳しいこの業界。ましてや呪力も弱く、後方支援しかできないのであればなおのこと。彼女については何も知らない。それでも自分勝手に彼女の行く先を想像して心痛した。こんな態度でこれからこの世界でうまくやっていけるのだろうか。
彼女はもう一度腕時計を確認し、七海を見上げる。時間が無いと言いたいらしい。
「駐車場に車を停めています」
「申し訳ありません。お手数おかけします」
七海は彼女の少し先を歩き、彼女は七海の少し後ろを歩いた。彼女の歩幅に合わせたつもりが、途中で追い抜かれてしまった。私とても急いでいます。そう背中に書いてあるようだ。電子音が鳴り車のドアロックを解除する。彼女は後部座席のドアの前で立ち止まった。どうぞ、と言われるのを待っているようだ。
「どうぞ」
「ありがとうございます。このお礼は必ず」
素早く後部座席に乗り込み、シートベルトをつけようとしたが、二度装着に失敗した。一度目は強く引きすぎてベルトが伸びなかった。二度目は、ベルトは伸びたがバックルにうまく入らずカチャカチャと音を立てた。その行動から焦りが伺える。
「落ち着いてください。穴はここです」
七海がバックルをトントンと叩くと、彼女は大きな溜息と共に「すみません」と鬱陶しそうに言ってようやくシートベルトを締めることが出来た。高専の最寄り駅を伝えられたが、再度目的地まで送ると伝えると再び大きなため息を吐いて鞄から茶封筒を取り出し始める。端が折れてしまったその封筒の表にはどこかの学校の校章がデザインされていた。
これは見返りを求めての親切ではない。ただ困っている人がいれば手を差し伸べる。それだけのつもりだったのに。
彼女から住所を聞きカーナビに入力する。目的地は小学校だった。