リーダーシップがどういうものか一流のテクニックで教えましょう

第10話

 彼女の言う通りソファに座った七海は膝に肘をつき前屈みになって手を握った。思いが通じあった二人とは思えぬ重苦しい空気が漂う。今から何を言われるのかと七海は怖かった。やはり無かった事にしてくれと言われるのを避けるためにさっさと帰ろうとしたのに、静止され未だ彼女の家に留まっている。何か言うべきだろう。しかし適切な会話など思い浮かばない。彼女は黙ったまま俯き、ソファに座る七海の前に立ちはだかっている。とにかく、何かしゃべらなくてはと七海は畳の上に敷かれたラグに向かって声を出した。

「約二年……。長い片思いでした。理解できない感情に振り回されて本当に疲れた」

 七海が喋り終えると唐突に彼女が動き出し、食卓と和室を仕切る襖を閉めて不敵な薄ら笑いを浮かべる。どうやらこの部屋に閉じ込められたようだ。そのまま音を立てずに歩いてきて、七海の隣に座る。それから先程とは違った穏やかな笑みを浮かべて七海の方へ向き直って口を開いた。

「私、七海さんに随分失礼な態度で酷いことをたくさん言いました。すみませんでした」

 ぺこりと頭を下げ観念したかのように微笑んでいる。膝の上で重ねられた手の指先には色が戻っていた。

「まあ、私もかなり意地になっていましたし、お互い様でしょう」

 七海は視線だけを彼女へ送り項垂れたまま返事をした。いつもとは随分違う弱々しい声を聞いて彼女は目を細めて笑う。七海がもぞもぞと手を組み直すさまを見て落ち着かないのだろうと思った。

「そう、ね」

 彼女が俯き手で口元を覆って笑う。眉は困ったように下がっている。

「子どもみたいだと思いました。男性ってやっぱり、身体だけ大きくなるんだって」

 呆れたような声で言い終えると目を閉じて足を伸ばし、顎を上げて上を見あげた。彼女の冷やかすようなその態度に七海は少しムッとして目を細める。いつもとは正反対の態度に戸惑いが隠せない。今から何を始めようというのだろう。

「私もその他大勢の男と同じですか。あなただけの特別な存在になりたいのに」
「もうなっていますよ。ムキにならないで。ふふふ。可愛いところもあるんですね」
「からかわないでください……」

 大きな溜息と共に七海が言う。頭を抱えて肩を落とすその姿が先程とあまりに違っていて可笑しいが、そんな七海の事を愛おしく思う気持ちが胸の奥からじわじわと滲み出てきた。彼も一人の男だったのだ。

「ここに来て貰えませんか」

 彼女が自分の太ももを指して言った。

「急に何ですか」

 彼女はいいから横になってともう一度言うと、七海は大人しく彼女の柔らかい大腿の上に頭を乗せた。男のものとは違うそれは、適度に脂肪が付きふくよかで温かい。衣類からは清潔感がある洗濯洗剤の香りがする。この膝枕が何を意図しているのかわからないが、彼女に身を任せてみると思いのほか安心するし気持ちがいい。幼い頃、他の者には視えない異形が自分を追いかけ回すことが怖くて眠れず、母に抱きつき甘えた事を思い出す。彼女に母を重ねているわけではないのに在りし日の光景が目に浮かぶ。

 彼女は七海の少し硬い毛を梳くように撫でた。休日でラフな格好のせいか整髪料は控えめで、指の間を色素の薄い髪が流れていく。子どものように撫でられながら七海は、次第に眉間の皺が緩んで肩の力も抜けていくのがわかり、ぼんやりとした幸福を感じた。いつもの七海とは違うが、こんな姿も悪くないと彼女は思った。

「もう少し頭、上に来て」

 彼女の腕に導かれるまま七海はその身を預ける。どこを向くべきか迷った末に天井を見ることにした。すると予想外に大きな彼女の胸が視界に入り一気に邪な感情が首をもたげる。本当に、これから一体何をしようというのだろう。

 七海の戸惑う視線を感じたのか彼女は目を細めて笑った。ぽってりとした唇が弧を描きゆっくりと開いたと思ったら七海の顔にぐっと近づいて耳元に口を寄せ、それから囁くように言う。

「少しだけ、エッチなことをしてもいいですか」
「今、ここでですか!?」

 慌てて七海が頭を上げると彼女の胸に頬が当たる。わざとでは無いのに何かとんでもなく無作法なことをしたと思い咄嗟に謝るが、彼女は表情を変えることなく人差し指を立てて七海の唇に押し当てた。

「しーっ。そう。今、ここで、このまま」
「あなたにそんな事を言われて断れるわけがないですが、ここじゃまずいでしょう」
「大丈夫。すぐに終わりますから」

 ワンピースのボタンがゆっくり外されていく様子から目が離せず凝視してしまう。一つ、また一つと外れていき彼女の胸元が露わになっていく。何の装飾も無いベージュのノンワイヤーブラジャーに押し込まれた乳房は想像よりもはるかに豊満なもので、全く色気のない下着が更に生々しさを醸し出し七海はあまりの婀娜な姿に目を瞑った。彼女はいつも香水をつけていないはずなのに、どこからともなく甘い匂いが漂って七海の嗅神経を麻痺させる。頭がくらくらしてきた。これ以上はまずいのに、金縛りにあったように身動きが取れない。狭い和室に淫靡な雰囲気が溢れ、空気はねっとりと重く息苦しい。七海は呼吸を整えようと必死に息を吸って、吐いて、落ち着けと自分に言い聞かせるが、媚薬のような彼女の薫りをより深く吸い込んでしまい性的な興奮を高めただけだった。

「随分大胆なんですね……」

 鼻根を揉みながら七海が言う。薄っすら目を開けて手の隙間から彼女を見てみると、胸元はすっかり剥き出しになり彼女がブラジャーのホックを外そうとしているところだった。止めるべきなのに声が出ない。この先を望んでしまっているからだ。

「だってもう言っちゃったんだもの。七海さんのせいで何も怖いものなんて無くなってしまった。女は強いんですよ。繊細な男の子と違って。そうじゃなきゃ、生きていけません」

 指の隙間から盗み見ていた彼女の胸がついにその姿を晒した。ワンピースから出た二の腕よりも生白い肌。しっかりとボリュームのある双丘の先についている乳首は想像よりも控えめなサイズだった。それでも外気に触れたせいなのか出てきた瞬間から少しずつ硬さを増して立ち上がっていく。乳輪はやや大きく広がり色素は濃く、彼女が子どもを産んでその胸で育ててきたこと表していた。

「はあ……?」

 目の前にある信じられない光景を眺めているのが精いっぱいで七海はなんとも間抜けな返事しかできない。指の間から見える胸から目が離せずにいると、彼女が七海の瞳を覗き込んでさらに目を細めた。下半身がみるみる熱を持つ。彼女が七海から視線を外して、膨らみ始めた部分へと目を向ける。

「あら。七海さん、もう大きくしてるの?」

 わざとらしく茶化すような声を出して言うので七海は一体誰のせいでこうなっているんだと思った。膝を立てて抵抗するがどこからどうみても勃起している状態を誤魔化すことができず、手で覆い隠してしまいたかったがその姿を想像するとあまりに情けないのでやめておいた。

「想いを寄せる女性と密着していると誰だってこうなる。じろじろ見ないでください。大体あなたから服を脱いできたくせに――」
「私、よく胸が大きいって言われるんです」

 自分のせいではないと主張する七海を制して彼女が言う。楽しそうな声色に七海は勝手にしてくれと諦めたい気持ちが湧きあがる。いや、して欲しい。この先を。疼く下半身に手を伸ばし上下に擦って吐き出させてくれと心の中で求めた。

「そのようですね。下からの眺めが……。失礼。しかし誰がそんな事を言うんですか。セクハラです。今度言われたら教えてください。ぶん殴ってやりますから」
「もう。触って欲しいって言わないと、してくれないんですか?」

 なかなか手を出してこない七海に堪りかねた彼女は、七海の顔を覆っている手を取ってその胸に押し当てる。柔らかい感触が手のひらに広がり、その瞬間に掴んでしまった。白い胸に七海の手が食い込み、指の間からはみ出すさまを人生で初めて目にした。

「寝ている子がいるのにこんなこと、私の倫理観に反するのですが……」

 口では常識人を装ったが、一体今までそれを誰に向けてきたのだろうと想像上の夫や過去の男にまで嫉妬心が湧く。いつもそっぽを向いて気のない振りをしていたくせに、服の下にはこんなにいやらしい身体を隠していて、こんな風に男を誘うのかと思うと七海は更に腹が立った。

「揉みながら言われても……。それにここ、硬くなってきて、こっちはもっと触ってって言ってるみたい」
「あっ、ちょっと……!」

 彼女の手が七海の股間に伸びる。服の上から擦られただけなのに腰が跳ねた。少しの刺激でも達してしまいそうな程、気持ちが昂っている。

「すごい。七海さん大きいんですね」
「やめてください。日を改めた方がいい。うっ、ストップ……」

 彼女は目を丸くして七海に言った。誰と比較しているのか知らないが、いちいち口に出すなと言ってやりたい。自分以外の誰と身体を重ねてきたのか、比較対象があることを認めたくない。でも彼女は既に小学生にもなる子どもがいて、七海と出会う何年も前にその身体が他の男に暴かれていることは明白だった。ここが彼女の家でなければ、寝た子がいなければ、間違いなく今すぐひっくり返してお前の身包みを剥がし泣かせてやるのは自分の方なのだと心中で鼻息荒く吠えるが、その声が彼女に聞こえることは無い。彼女の眼前にあるのは胸を揉みながら情けなく呻いてもぞもぞと蠢く七海の姿だけだ。口では抵抗しているのに身体の反応はまったく逆で、下着の中には既に多量の先走りが出ている。

 ついに彼女が覚束ない手つきでベルトを外しズボンのボタンに手をかけた。

(もう早く、ジッパーを下げてくれ!)

 叫んでしまいそうになるが、わずかに残った理性がそれを制止した。

「七海さんがすぐ出しちゃえば、帰れます。気持ちいいですか。もう何年ぶりかしら。夫が亡くなって初めてです。こういうことするの……」
「あっ、も、やめてくだい……! うぅ、手を離して」

 服の上から撫で擦るだけだった彼女の手がいよいよジッパーにかけられ、ゆっくりと下ろされた。ズボンを脱がせて下着も下ろしてそのまま直に扱いて欲しいのに、彼女はズボンの中に手を入れて下着の上から陰部をなぞる。もどかしすぎる刺激に七海は腰を浮かせ彼女の手に勃起した陰茎を擦り付けた。その反応を無視して彼女は言う。

「こういう事はあんまり好きじゃない?」
「好きに決まってます。……が、このままじゃ、まずい。わかるでしょう!」
「大きな声出しちゃだめ。聞こえちゃう」

 ふふふ、と楽しそうに笑い声を出してついに彼女が七海のズボンに手をかけた。やっと下ろして貰えるとほっとした七海は腰を上げて胸をぎゅうぎゅうと掴んで離さない手とは反対の手でズボンを下ろすのに協力する。そのまま下着も下ろしたかったのに彼女は直接触ることはせず、再び布一枚を隔てて七海の陰茎の形だけをなぞり始めた。なぜ焦らすのか理解できない。七海の姿を楽しんでいるに違いなかった。

「んっ、下着が、よごれてしまうっ。手を離してッ」
「大丈夫。七海さんはそのまま気持ちよくなってください。最後はちゃんと受け止めて、きれいにしますから」

 彼女は七海の言葉の意図をわかっているはずなのに、何もわからないといった顔をして下着の上から陰茎を掴んで上下させる。七海はもっと強い刺激を求めて腰を浮かせ、彼女の調子に合わせて腰を振った。少しくたびれているのかソファが軋む。音を立ててはいけない。でも動くことを止められない。その様子を見て彼女は更に楽しそうに笑っている。こんなことが許されていいのだろうか。それなのに七海は得も言われぬ満足感を覚えてしまっていた。女の乳房を掴んで揉みしだきながら陰茎をいいように弄られるこの遊びに、どうしようもなく満たされる何かがあるのだ。彼女に悟られてはいけない。情けない男だと思われたくないからだ。

「あなた、こんな事する人でしたか。わかっているくせに、早く直接触ってください。これ以上耐えられない」
「七海さんがあんまり可愛いから、少し意地悪したくなっただけ」

 ようやく彼女が下着をずり下げたので七海は慌てて腰を浮かせた。外気に触れてびくりと陰茎が跳ねる。それを見て彼女は「うわあ」と言った。何か言葉が続くかと思ったが、妖艶に微笑み完全に勃ちあがった七海の陰茎を握りしめると優しく上下に擦り始める。待ち望んでいた強い刺激に耐え切れず吐息が漏れてしまい、七海は恥ずかしさのあまり唇を強く噛んだ。血が出たかもしれない。彼女は無言で陰茎を扱き続けている。徐々に吐精感が高まっていく。すぐにでも出てしまいそうな快楽が身体を突き抜け、七海の思考をどろどろに溶かした。

「あっ、もう、やめてくださいっ」

 先走りが更に溢れてグチグチと音を立てている。彼女は満足げに口元を緩めながら決してその動きを止めようとはしない。最初は優しかった愛撫も徐々に圧が加わったものとなり、カリ首に指がかかると射精しそうになってしまう。もうどうにでもしてくれと快楽を得る為に手の動きに合わせて腰を上下させると、彼女は更に口角を上げて笑った。

「腰浮いちゃって、おちんちん気持ちいいね。でも少し声が大きいですよ。おっぱい吸って静かにしてて」
「えっ、ちょ、んぐっ、んっ、んッ! うぅっ……」

 彼女が七海の頭を抱えて胸に押し付ける。鼻まで塞がれ息が出来ない。それでも目の前にある胸を揉みながら舌先で彼女の突起を探した。一通り周囲を舐めまわしたら七海同様に硬く勃起した乳首が舌に触れた。仕返しだとばかりに反対の手でも乳首を摘まむ。彼女は声こそ上げなかったが息は荒く確実に快感を得ているのがわかる。もっと喘がせて乱したいのに最早七海の方がそれどころではなく、大きな波に飲み込まれようとしていた。出てしまうかもしれないと腰を引くと、彼女は上下運動をやめて亀頭を優しく撫でまわし始めた。射精に直接結びつかないもどかしい快感が確実に蓄積されてゆく。次に彼女が強く握って下から上に擦り上げた時、すぐにでも出てしまいそうだ。もう思いっきり出してしまいたい。七海がそう心の中で呟いたとき、知ってか知らずか彼女はついに再び竿を握って少し圧迫感のある上下の刺激を再開する。

 耐えがたい快楽に身を任せると同時に腰突き出して震わせ、七海はついに射精した。

「えっ、もう出ちゃった」

 びゅるびゅると自らの腹の上に白濁した生温い液体が流れ落ちた。驚いた彼女が咄嗟に手を離したが、逃がすまいと七海が彼女の手を取り陰茎へと導く。

「止めないでッ! それ全部ッ、出すまで、もっと、擦って、うぅ……」

 彼女の手を自らの手で包み込みしっかり握らせ、一緒になって陰茎を扱きあげる。

「やめろって言ったり、やれって言ったり……。ワガママ言わないで」
「ハァ、うぐッ、も、もっと……」

 一滴残らず出してしまいたいと尿道に残った精液が途絶えるまで擦らせた。頭が馬鹿になってしまったような性的快感の余韻に浸りながら、七海は彼女の胸に顔を埋めながら息を荒げて射精を終えた。

「ぷはッ、なんてことを……」

 ゆっくりと手を離すと彼女の小さな手も七海の陰茎から離れていった。途端にひやりと寒く我に返る。あまりにも惨めな姿を見られてしまったと改めて思う。とんでもない屈辱感だ。どこかへ隠れてしまいたい。それと同時に彼女の母性を強く感じられ満たされたモノもあった。女に甘える事などありえないと思っていたのに、それでも、彼女の乳房に吸い付いて射精に導かれたあの時、どうしようも無く充足していく何かがあったのだ。

「ふふふ。可愛かったです。おっぱい吸いながらシコシコされて、気持ちよくなってすぐ出しちゃったね。さあ、今日はもういい子でさようならできますか?」
「できるわけないでしょう。許さない」
「これ以上は、ここじゃ駄目。七海さんの倫理観に反するんでしょう?」

 彼女がティッシュペーパーで七海の腹に出された精液をふき取りながら言う。最後はきれいにします。彼女の言葉通り、排泄物の処理までさせてしまっている。そんな姿を見てまた何かが満たされていく。どこまも浅ましい自分を七海は心の中で嗤う。

「ッ……! 次会った時は覚悟しててください」
「ここ、ビクビクさせながら言われても説得力無いです」

 渾身の宣戦も通じず七海は穴があったら入りたかった。

 事後処理を淡々と終えた彼女は七海を立たせるとズボンと下着を上げた。まるで子どもの身支度を整えるような慣れた手つきだ。もう七海は抵抗は無くされるがままになった。こんな風にされるのも悪くない、そう感じてしまっていたからだ。

「ハアーーーーー。今日は散々です。情けない所ばかり見られてしまった」

 今度こそジャケットを着た七海は少し乱れた髪をかき上げて乱雑に整えた。まだ跳ねている前髪を背伸びした彼女がさっと直してやる。世話を焼いて欲しいわけではないが、彼女から何かを与えられる度に七海の心に温かなものが溜まっていく。

「私だって、誰かとお付き合いするつもりなんて無かったのに。子持ちの女の人生狂わせるなんて、悪い人」
「すべてを欲しいだなんて子どもじみたことは言わない。私をあなたの幸せの一つにしてください。それだけでいい」
「途端にしおらしくなっちゃって。いつもの七海さんも好きですよ」

 何が可笑しいのか、彼女は口元を手で覆ってくすくすと笑った。それはもう、馬鹿にされているのではないとわかる。彼女の愛情表現なのだろう。

「そうですか……。どうも格好がつかない。今日は帰りますが、後日、二人きりで会いたい。彼には悪いのですが、少しでいいからあなたを独占させてください」
「私も四六時中お母さんでいるわけじゃないんです。二人きりの時は私のこと、女として見てくれますか?」

 彼女はそっと七海の胸に身体を寄せる。そのまま強く抱きしめて口付けをしたかったが、止められないかもしれないと自制心が働く。七海はそっと腰に手を回し彼女を引き寄せた。

「どうも調子が狂う。あなた、別人じゃないですか」
「嫌いになりました?」
「いいえ。もっと知りたいと思いました。次に会うときは、抱かれる覚悟をしておいてください。もう離すつもりはありません」
「じゃあ可愛い下着、買っておきますね」

 先程と同じ、欲情を匂わせる微笑みだ。それでも二人は玄関へと向って歩いた。今日、ここでこれ以上はいけない。

「おやすみなさい。また、あなたに会えることを楽しみにしています」
「おやすみなさい。気を付けて帰って」
「最後にキスを――」

 七海が彼女のふっくらとした頬に手を伸ばすと、細い両手がそれを制止した。節の目立つ大きな男の手を少し乾燥気味の小さな白い手が包む。切りすぎた短い爪さえ慈しむように撫で、そのまま頬で七海の手の温もりを感じ取っている。それから少しずつ彼女の顔が腕に沿って降りていったかと思うと、内側の柔らかい部分にリップ音を鳴らしながら唇を押し付けた。彼女は目をしっかりと開けて戸惑いの色を浮かべる七海の瞳を見つめ続ける。まるで蛇に睨まれた蛙のように七海は身動きが取れない。自分は一体、今、何をされているのだと呆然と玄関で立ち尽くす。彼女はそのまま皮膚をきつく吸い、彼の腕の毛細血管を傷つけた。彼女の長い睫毛が瞬いたかと思うと、妖艶な笑みを浮かべ温かな唇がそっと離れていった。それからぼんやりとして動く事が出来なくなっている男の肩を掴み回れ右でドアへと向かせ、手を取ってドアノブへと誘導する。七海はハッとしてなんとかドアを開け彼女の家から出た。七海が振り返り二人の目と目が合ったら彼女は優しい微笑みを浮かべ、先程の答えを告げた。

「唇には、また今度……」

 ゆっくりと団地の古く重い扉が閉まると彼女の気配が途絶え、元の世界へと戻って来たような感覚が訪れる。既に外は真っ暗になっていた。

 七海は大きなため息を吐いて頭を抱える。このまま帰れだなんてとんでもない。中途半端に火をつけられた気持ちが燃え上がり噴火しそうだ。彼女の残した痕が生々しく紅く浮かび上がっている。自分だけのものにしたいと思っていた女から印を付けられ、反対に所有権を主張されてしまった。深呼吸を繰り返してなんとか階段を一段ずつ降り始める。薄暗い照明に蛾や羽虫が引き寄せられ不気味に羽ばたいてコンクリートに影を落とす。ヒビの入った壁にヤモリがゴソゴソと這っていた。まるで異世界だ。この古く薄汚れた団地に美しく気高い女性が存在していると一体誰が想像できよう。

 団地の出口から彼女の部屋の窓を見るとまだ電気がついていた。今、彼女はどんな顔をしているのだろう。腕への接吻は情欲の現れであると何かの本で読んだことがある。彼女はその意味を知っていたのだろうか。

 彼女は扉が閉まった事を確認すると、火照る身体をドアに預けて先程の行為を反芻した。戸惑いながらも快感に身を任せ、腰を浮かせて射精する七海のなんと官能的な事か。バツが悪そうに唸りながらさらなる快楽を求めようとする姿も堪らない。いつもは一分の隙もなく上質なスーツを着込んで肌を隠し真っ直ぐ立っているくせに、女の胸を大きな手で覆って揉みしだきながら乳首を吸い上げ、動物のように呻き声を上げて欲を吐き出したのだ。今更羞恥心が一気に込み上げ耳まで熱を持つ。右手に残る固くなった男根の感覚を思い出し、その場にへたり込んだ。心臓が有り得ないほど早く打っている。身体のすべてが熱を持ち、臍から下はじくじくと疼いた。我ながらとんでもない事をしてしまったと両手で顔を覆う。汗と精液の生々しい匂いが鼻を突き、左手の薬指の金属がコツンと鼻に当たった。七海はどんな顔をしてここから立ち去ったのだろう。どんな気持ちで彼女からの連絡を待っているのだろう。一人の家で思い出した時、どんな顔をするのだろう。

 こうして二人は秘められた気持ちを確認し合ったが、その後何かが大きく変わったわけではない。あの日の翌日もいつもの日課をこなして普段と変わらぬ夜を迎えた。七海がまた連絡してくれと言っていた事を思い出した時には既に二十二時を過ぎていたので、その日はそのまま眠った。

 そんな毎日が何日か続いて、忘れているわけでは無いのにやはり生活の中に新たな事を取り入れる余裕などなかったのかもしれないと考えた時、彼女のスマートフォンに七海からの着信が入る。食器を洗っていた彼女は泡だらけのゴム手袋を慌てて脱ぎ、その電話を取った。

「七海さん。こんばんは」
『……起きていますか』

 どうやら痺れを切らしたらしい七海の拗ねた声が電話越しに聞こえてきて、彼女は思わず笑ってしまいそうになるのを必死で堪えた。なんていじらしいのだろう。

 二人は短い会話を交わし週末に出かける約束をして電話を終える。少し頑張ればやっていけそうだと彼女は考え、この日はいつもより早くに布団に入った。目が覚めたらいつもの日常が待っている。明日こそは週末の逢瀬で行きたい場所を伝えるため、自分から七海へ電話しようと決め瞼を閉じた。