初めて二人きりで会う日。待ち合わせ時間より十五分も前に来たのに、そこにはしかめっ面で腕時計を眺める七海が既に着いていた。腕を組んだかと思えば解いて、ベンチに座ったと思えば立ち上がり、ついには険しい顔でバス停の時刻表を見に行ってしまった。時間を間違えたかと思って右腕をみたが、今日は時計を置いてきた事を思い出す。スマートフォンを出すが時間にはまだ余裕がある。落ち着きが無い七海の様子にまるで遅刻しているような気持ちになり慌てて駆け出した。
「おはようございます。待たせてごめんなさい。でも、ずいぶん早いんですね」
「ああ、おはようございます。バスで来るのかと……」
時刻表を睨む七海が彼女に気付き表情を緩める。先日見たラフな格好とは違い清潔感のある落ち着いた服装だ。少し厚手のシンプルなシャツは皺ひとつなく整えられていて、上質なものできっと高級ブランドなのだろうと彼女は思った。全く何をしていても、何を着ていても様になる。そんな男の隣に並ぶ自分は一体どのように見られているのだろうかと少々気後れしながら歩みを進めた。
「今日は電車です」
「わざわざここまで来なくても家まで迎えに行ったのに。一秒でも早く会いたかった。五時に目が覚めました」
照れくさそうに口を尖らせて言いながらも、さっと彼女の腰を抱いて引き寄せる。柔軟剤の匂いに混じって花の蜜のような仄かに甘い香りが七海の鼻腔を抜けていく。香水を付けない彼女から香るこれは、この人そのものの匂いだ。至近距離で接する事ができる者しか知りえないその芳香を堪能しようと七海は静かに胸いっぱい息を吸い込んだ。幸せに匂いがあるとしたら、きっとこんな香りなのだろう。
彼女は咄嗟に七海の身体を押しのけた。早朝とはいえ都会のロータリーには人が多い。周りの目が痛い気がする。みんなに見られているかも。七海は少し残念そうな表情を浮かべながら自分よりもふた周りほど小さな手を取ると優しく手引きし誘導する。温かい手だなと二人は同時に思った。
「朝早く迎えに来てもらうなんて悪いですから……」
彼女は肩をすくめて言う。本当は近所の人達の目が気になるし、息子にもまだ秘密にしておきたかった。子は友人の家にみんなで集まって遊ぶという。ほんのわずかな後ろめたさを感じながら夕方には帰ってくると伝えて、彼女は七時に家を出た。誰とどこへ行くのかは聞かれなかったが、嬉しそうににこにこ笑っていたのできっと察していたのだろう。
「全然悪くない。行きましょう」
「どこへ?」
「向こうに車を停めていて、それから、部屋をとってあります」
確かに今日はランチに行く予定しか立てていなかった。全くの予想外というわけでもないが、こんなにストレートに誘ってくる七海が可愛らしくて彼女はつい声を出して笑ってしまった。
「えぇ、朝から?」
「……笑わないでください。いいでしょう別に。大人同士なんですから。いけませんか」
繋がれた手とは反対の手で目元を隠している姿もまた可愛らしく、彼女は七海の前へ回り込んで聞いた。
「いけなくないです。大人同士ですから。お昼は?」
「あなたが行きたいところがあれば、どこへでも」
観念したのか赤みがかった目元を煌めかせ彼女に微笑みかける。今まで見たことのない表情だ。気持ちを解放させるとこんな風に笑ったり照れたりする感性豊かな人間なのだなと知り、彼女は七海のくるくる変わる雰囲気を味わった。その視線はあまりにも愛に溢れていて、出会って数分しか経っていないのに溺れてしまいそうだ。
「パンがお皿になったビーフシチューのお店に行ってみたいんです」
「ブレッドボウルシチューというんですよ」
「……英語に変えただけ」
彼女が左下を向いてふふふ、と笑う。七海は確かにそうだと思い、彼女に釣られて笑った。今日は日が暮れるまでの約束だ。
コインパーキングに向かう道中も七海は彼女の腰を抱き寄せ離さない。行き交う人々に見られている気がする。それはそうだろう。七海の外見は人々の目を引く。きっと今までもこうやって好奇の目に晒されてきたのかもしれない。それを彼が今どのように感じているのかはわからないが、少なくとも土曜日の早朝から女の腰に腕を回してくっつくことにあまり抵抗はないらしい。以前のようなパーソナルスペースを強引に踏み越えてくる距離の近さではなく恋人同士の親密さではあるのだが、始まったばかりの二人にしては少々距離が近すぎるのではないだろうかと彼女は思った。
「今日はいつもに増して綺麗です。私のためにしてくれたんですね」
目を細めて腰を折り彼女の耳元で囁く。背筋がむず痒くなりこれから向かう先で起こるであろう事を匂わせてくる。ここで動揺してはいけない。そもそもあの日の夜、彼女の方がリードしていたはずだ。ここは年上の余裕を見せてやるのだと心の中で奮起して、何でもない風を装った。
「ありがとうございます。久しぶりにお洒落しました。浮かれてるみたいで恥ずかしいな」
「浮かれているのは私の方です。嬉しい。会いたかった。こんな気持ちは初めてです」
負けじと七海も平静を装う。本当は胸の鼓動は速いし身体も熱い。実は手のひらにじっとりと汗をかいてしまったので今は手を繋げない。だがこのままやられっぱなしでは面目丸つぶれである。そのままこめかみにキスをすると、彼女は身を捩って逃げた。こういったスキンシップに弱いのかも知れないと七海は気を良くしてさらに身体を密着させる。お互いの温度が伝わる距離に二人の感情が昂り始めるのを感じた。まだ早い。車にさえ着いていないのに。
「七海さん、人が見てますから……」
「何か問題でも?」
彼女は再び七海を押してみたがびくともせず、明らかな情欲がこめられた手つきで彼女の腰周りを撫で回している。くすぐったいような、気持ちがいいようなもどかしい刺激であったがそれは確実に彼女の欲望に火を付けた。それでも淡々と話し余裕のある女を演じ続ける。
「恥ずかしいです」
「そうですか。それはすみません」
七海は口先だけで謝ってそのまま彼女の匂いを嗅いでみた。汗ばんできたのか先程より香りが強くなっている。そのまま尻の肉へ手を伸ばしてしまいそうになる。太もも同様にきっと柔らかいのだろう。あの日見た乳房のように色白でしっとりと濡れていて、吸い付くような肌触りに違いない。後ろから羽交い締めにして思い切り腰を打ち付けている場面が脳裏に浮かび、七海は慌ててその妄想をかき消した。危ないところだった。また余裕を無くしてきているらしい。
「エッチな手つき、全然やめないんだもん。そんな事されたらその気になっちゃいます」
「どうぞ。どんどんその気になってください」
「部屋に入ったら私、一体何をされるんでしょう」
「ハァ。私を煽るのが上手い」
これでは落ち着く事など不可能だ。既に余裕は一ミリも無い。七海は駐車場へ着くと彼女を助手席へと押し込んだ。「あらあら」と抜けた声を出すくせに耳元や首筋は赤く染って彼女も平静でないことがわかる。そのまま車中でキスをしてしまいたかったが、なんとか思いとどまる理性が僅かに残っていて良かったと七海は思った。
デイユースのチェックインを済ませ部屋の扉が閉まったと同時に彼女の視界がぐらりと揺れる。扉を入ってすぐ、靴さえ脱がぬ間に七海に壁へ押さえつけられ唇を食われた。反射的に目を瞑ってしまったが、目を開けるとそこには唾液を絡めとり舌を侵入させて獣のように貪り食うすっかり余裕を失った男の姿があった。そのあまりの必死さに彼女の腹の底がじくじくと疼き始める。もう忘れかけていた感覚だ。ぼんやりと過去の回想を始めそうになったが、熱く汗ばむ手のひらが直接腰を撫でる快感で現実世界に引き戻された。服の裾から大きな手が入ってきてブラジャーを押し上げられ胸が開放される。そのまま先日同様に胸を掴んでやわやわと揉みしだかれた。途端に身体が反応し始め胸の突起が尖ってその存在を主張する。唾液が溜まって息が苦しくなりたまらず口を開けると、咎めるように唇を噛まれた。
「ぅあ……ななみくん、まって」
「名前で呼んで欲しいと言いましたよね」
「はぁ、だめです……こんな……」
「大人同士だからいいんでしょう」
「へ、部屋に、せめて……外に聞こえちゃう」
足腰に力が入らず壁を背にしたままずるずると下がって行ってしまった。そんな彼女を立たせて再び壁に押し付ける。何とか体勢を整えた所で下着を無理矢理ずらして七海の指が入ってきた。そのまま彼女の陰部を往復したと思うとゆっくりと中に入り膣壁を撫でる。久しぶりの刺激に腰が砕けてしまい七海にもたれ掛かり息を荒らげた。本当に外に聞こえているかもしれない。
「しっかり、立って、ほら」
「あっ、やだぁ」
スカートを捲りあげいつの間にか露になった秘部を確認する。手入れされているのか陰毛は全体的に薄く、やや短めだ。元々そうなのか、今日の為に整えられたのか、それとも本当は他に男がいたのかもしれない。七海の頭の中に一瞬浮かんだ事はすぐに消えた。もしそうであったとしても、自分が上書きして過去の男のことなど完璧に忘れさせてやる。それに、今はもうそれどころではない。
腰を落としてどろどろに溶けた秘部に陰茎をあてがうと入り口付近を少し入ったところで抵抗感はあったが、男のものを奥へ奥へと導こうとうねり始めた。彼女もどうしようもなく欲しがっているのがわかる。これをこのまま、突っ込んでめちゃくちゃにかき回してやりたい。ろくな前戯もなくセックスとしては最低だがそうする以外思いつかない。挿れたい。今すぐに。
「十分そうですので奥まで挿れます」
「えっ、えっ、あっ……、きちゃう……! きちゃったっ、どうしよ、だめ」
「ハァ、う……。動く。もう、いいでしょう」
七海の胸を弱々しい力で押し返してみるが、そんなことはお構いなしにどんどんと奥へと進んでくる。あの日手淫で感じた亡くなった夫よりも大きいそれを自分の中へ受け入れようとしてしまっている。彼女の過去には夫一人しかいない。比べるつもりは無いのに、どうしても思い出してしまい罪の意識が湧きあがる。いいのだろうか。こんなことをしてしまっても。やはり拒むべきでは。自分は彼にふさわしくない。頭の中がぐちゃぐちゃになってしまい涙が出てきた。
「あっ、あっ、まって、お願い、待って!」
「待たない。このまま私を受け入れてください。お願いします」
眼前にあるその眼は嘘や偽りなどないことがわかる。縋るような七海の願いを聞き入れるしかない。彼のものになりたい。ずっと前からそう思ってしまっているのに。
「私、七海くんと……こんな……」
「今はもう何言わないで」
七海は彼女が困惑しているのはわかったが、もう止まれないところまで来ていた。このまま流されて欲しい。そうしたらきっと、過去の事など忘れてしまえるだろう。七海は更に強引に彼女の奥に進んだ。予想以上に狭いそこは、やはり最奥へと導くため蠢いている。
「あ、あの、避妊を……」
彼女の一番の心配事はこの事では無いのはわかっている。ただ一つでも不安要素を減らしてやりたい。このまま結ばれて良いのだと信じて欲しい。
「安心してください。着けてます。絶対に怖い思いはさせません」
七海が答えると彼女の身体の力が抜けて七海の耳元に唇を寄せ震える声で囁いた。
「じゃあ、早く、きて。も、私も、ほんとは、待てないんです」
「ずっとあなたが欲しかった」
そのまま二人は入り口で絡み合った。とにかく一回出してしまわない事には落ち着かないだろうと先ほど脳内に浮かんだ妄想のように彼女を壁に押さえつける。片足を抱え、向かい合い立ったまま夢中で突き上げ続けた。彼女はあまりの快感に震え、途中でやめてくれと頼んだが七海は止まることが出来なかった。すぐにこみ上げてきた射精感を我慢することなく彼女の一番奥で吐き出すと一回目を終える。しかしまだ全然足りない。この溝を埋めたい。
額に汗を滲ませ肩で息をする七海の背中を優しく彼女が撫でる。まるで慰めるような手つきから余裕を感じてなんとも恥ずかしく、何か言われる前に七海は彼女の半開きの唇に齧りついて塞いだ。すぐさま必死で舌を絡めてくる彼女の様子を見て、大切に抱くつもりだったのに満足に気遣えず己の欲望を吐き出す為だけになってしまった行為をひどくみっともなく思った。
「ベッドへいきましょう」
彼女の身なりを少し整えてやると愛想笑いを浮かべるので更に七海はいたたまれなくなり、彼女を抱きしめる。
「すみません。乱暴でした。怖かったですか」
「怖くないよ。七海くんの好きにして」
温かい両手で頬を挟まれ熱っぽい視線が注がれた。ふと下を見ると、片方の紐が解かれた総レースのショーツが片足に残されていた。彼女が自分で外したのだろう。先ほどの言葉と色づいた視線、そしてその光景が引き金となり七海は再び理性を吹っ飛ばしてしまい、息を整えようとしている彼女の身体を抱えてベッドへ放り投げた。
それから時間を忘れ何度も求め合い、二人の関係は確かなものへと変わる。
「もう。髪も服もめちゃくちゃです。いつも余裕たっぷりって感じなのに、今日はどうしたの」
七海の腕の中で呟いたその声は事後の気だるさと少々のからかいを含んでいたが、愛のこもった温度だ。彼女は目を閉じたまま口元を緩めて幸せそうに笑っていた。
「あの日自分がしたことを忘れたんですか?」
まったく呆れたと七海が頭を抱えながら言う。彼女は目を開けると悪戯っ子のような顔をして七海を見上げた。
「我慢できなくなっちゃったんだ」
「そうですよ。悪いですか。あなたのせいでしょう」
「じゃあ全部私が悪いから、七海くんの思い通りにしていいよ」
七海の胸元に手を置いて慈しむように告げる。
「そんな事を言われたら、あなたのその白い肌に麻縄を食い込ませて吊るし上げるかもしれない」
「したいの?」
「……なんでも許容するのはやめて。心配になる」
くすくすと悪戯っぽく笑う彼女を強く抱きしめた。全く笑えない。冗談でも許さないで欲しい。歯止めがきかなくなる。七海は脳内で想像してしまった。むっちりした白い肌に手入れされた麻縄を食い込ませている彼女の姿を。後ろ手で縛って開脚させ、薄暗い部屋で酒を飲みながらじっとりと眺める自分を。そのまま頭を掴んで口淫させ、えずく彼女のぬるぬるした喉の奥に精液を流し込むところを。
「何も心配することなんて無いのに」
「あるんですよ。あなたは魅力的すぎる。理解して」
そんな事を考えている男がいるとは露知らず、彼女はケラケラ笑いながら否定した。全く、何もわかっていない。七海は頭が痛くなってきた。彼女の耳朶を食んでみる。くすぐったそうに身を捩って逃げた。瞼を開けて七海を見つめると、困惑した表情を浮かべて瞳を揺らす。
「そんなこと言ってくれるの、七海くんだけ」
「以前は一見取っ付きにくく見えたからですが、最近は違う。いつかより随分柔和になって周りの男どもの目の色が変わってきている。気付いて無いんですか?」
「でも誰にも誘われたことなんて無いです」
訝しげな表情で言う。全く、本当にわかっていないらしい。
「それは良かった。効果ありと判断します」
「何かしたの?」
「別に。ちょっとした虫除けです」
しばらく二人がベッドの中で他愛もない話をしていたら、彼女がちらりと横目で時計を見た。もうそんな時間かと七海も時計を確認すると午後四時になろうかという時刻になっている。
「次はいつ会えますか」
「再来週の土曜日は?」
「二週間……。長すぎる」
むくれた七海はつい口に出してしまった。あなたの生活を変えるつもりは無い、側にいるだけでいいと確かに自分が言ったはずだったのに早くもそれを覆そうとしている己に呆れてしまう。束縛するつもりは無い。お互いの生活を大切にしたい。会いたい。話したい。抱きしめたい。気持ちの整理がつかない。まるで恋愛初心者だと七海は心の中で自嘲した。
「私にも予定があります」
彼女から当然の答えが返ってきたが、少しツンとしたその言い方に不安が募る。それなのに少しでも一緒にいたい想いが溢れて、再び頭の中そのままの言葉が口から飛び出した。
「明日は日曜日でしょう。仕事は休みのはず。会いたい」
「朝早くから予定があるんです」
「連れて行ってください」
「町内会の清掃当番なんだけど……?」
「手伝いますし、終わったら明日こそどこかへ出掛けましょう」
「ご近所さんになんて説明したらいいの! 絶対噂されちゃう」
「何か問題でも。これであなたに近づく虫がまた減るでしょう」
余裕綽々で答える彼女に弄ばれているような気がして、なんだか居心地が悪くなった七海は少し冷え始めた身体に覆いかぶさって首筋に唇を這わせる。
「あっ、も、おしまいっ……」
「帰したくないのに帰さないといけない。わかってる。私だけの人じゃないことくらい。でも、せめてもう少し一緒にいさせてください」
「七海くんって甘えんぼなんだ」
七海の髪を撫でながら彼女が言う。小さい子どもにするような優しい手つきだった。
「何とでも。はあ、でも、もうスキンが無い」
「フロントで貰えない?」
「ここはラブホテルじゃない。箱ごと持って来るべきでした。そもそもこんなに長居するつもりは無かった。食事もデートも楽しみたかったのに……」
むっとした七海は胸元に顔を埋めて豊満なバストに手を伸ばす。胸をやわやわと揉みながら汗と彼女の匂いを堪能する。官能的だ。温かくて柔らかいし、いい匂いがして気持ちがいい。すぐに悩ましい声が聞こえてきたので彼女も満更でもないのだろう。四捨五入したら三十代になろうというのに四回目を望んで下半身が勃ちあがる。彼女の手を取り硬くなった陰茎を握らせた。
「あなたのせいで……、また……」
「はいはい。私のせいだね。最後は七海くんが大好きなおっぱいとお口でしてあげようか?」
いかがわしい動画でしか見たことがないそれを提案され、嬉しいのに七海はわざとらしく不本意そうな顔をして頷いた。
「ではそうしてください。責任を取ってもらわないといけない。こうなったのは全部、あなたのせいだから」
「ここ、気持ちよくなるのが好きなんだ」
「嫌いな男はいない」
「好きなの? 嫌いなの? はっきり言わないとしてあげない」
「好きです。早く気持ちよくしてください。あなたの口にぶちまけて、今度こそ私のものだと印を付ける。誰にも渡さない」
「素直な方が可愛いね」
七海の上に乗って彼女が笑って言った。
「もうあなたの前で取り繕う必要無いですから……」
ずっと彼女を翻弄してきたのは自分だと思っていたのに、いつの間にか形勢逆転されていたらしい。廊下の隅に追い詰められ、真っ赤な顔をして意地を張る彼女を見ることはもうできないだろう。
柔らかい双丘が七海の陰茎を包み込む。赤い舌から唾液が垂れて白い胸元に落ちた。そのまま彼女が顔を下ろすと唇が亀頭を包み込むように覆う。男に快感を与えるために自分の身体を道具のように扱っている姿を見て、下品な征服感が満たされていく。こんなことを女性にさせてはいけない。そう思っていたのに。ぬるぬると乳房で圧迫されながら扱かれ腰が抜けそうになるほど気持ちがいい。
「うッ、あっ、少し、ゆっくり、してください」
更に先端を吸ったり舐めたり刺激が加わると堪らず声が漏れてしまった。彼女に身も心も骨抜きにされている。このまま帰したくない。ずっと抱いていたい。でもそれは叶わぬ夢だ。独りよがりな我儘で彼女を苦しめたくない七海はさっさと出して彼女を家に帰してやらねばならないと思い、迫り来る快感に身を委ねた。
事後処理をする彼女をぼんやり見つめる。ティッシュを渡してここへ出していいと言ったのに、彼女は首を横に振って喉を鳴らしながら七海の精液を飲み込んだ。元夫にそうするよう言われてきたのかもしれない。嫌なことはしなくて良いと言ったのに、彼女は頬を染めて首を傾げるだけだった。
「掃除が終わった後は何かあるんですか」
「家の事や子どもの学校のこと、おかずの作り置きもしておきたいし……」
「それが終わったら」
「買い物に行ってあの子が友達と遊んでる間に少しボーッとする一人の時間が欲しい」
「それから」
「後は夕飯を作ってお風呂に入って寝て、月曜日はまた仕事です」
彼女の日常を知らない。独身の七海では想像できない世界だった。母も彼が幼い頃、夕方には必ず家にいて食事の準備をしていた事を思い出す。そう、彼女は自分のことだけを考えていればいい七海とは違うのだ。
「夜、何か食べに行きませんか」
「日曜日はカレーかシチューかお鍋って決めてるんです」
「たまにはそうじゃない日があってもいい」
「うーん……」
「あなたに会いたいんです。家事も一つ減る」
何度か同じような問答を繰り返し、彼女は困りきった顔をして七海を見つめた。良い返事では無さそうだと七海は思った。仕方がない。これ以上彼女を困らせる訳にはいかない。
「その、こういうこと、できませんけど、いいんですか」
申し訳無さそうに口を開いた。夕食の誘いはそういう意味では無いのに誤解があるようだ。散々彼女の肉体を好きなようにしてきた自分が言えたことではないと思いつつ、七海は弁解のため口を開く。
「朝からホテルに連れてきておいて説得力が無いかもしれませんが、そんなもの無くてもいい。会いたい。話したい。一緒に居たいと思うのは当然では。あなたのことが好きなんですから」
「じゃあ、夕食を外で、食べる? 三人になるけど……」
更にバツが悪そうに彼女が言う。七海は当然そのつもりなのに彼女はそこに引け目を感じているのだとわかった。
「彼の好きなものを食べに行きましょう。報告もしなければ。今あなたとこうしていられるのは彼のおかげですから。リクエストを聞いておいてください」
「どういうこと?」
「あの日、あなたに想いを告げるようアドバイスをしてくれたので」
七海は彼女がジュースを買いに出ている間のことを掻い摘んで話す。彼女はふんふん言いながら聞いて、最後には照れて赤くなり口角を下げてきまり悪そうにしながら俯いた。
「えぇ〜。あの子、そんな事言うんだ……」
「子どもは大人をよく見てるんですね。驚きましたがその時、吹っ切れたんです」
「ちっちゃい時はママ、ママって泣き虫だったのになあ。急に大人みたいな事言い出すんだもん」
七海の知らない彼女やその息子の話をもっと聞きたい。でもこのままベッドに朝まで彼女を拘束する訳にはいかない。もどかしい思いが七海に湧き上がる。だから明日も同じ時を三人で過ごしたい。少しずつでいいから、彼女とその大切な家族に受け入れられたい。
「あの日は焦っていて彼の名前を聞いていなかった。あなたもわざとらしく呼ばないし」
「本人に直接聞けば?」
「……どうして教えてくれないんですか」
「七海くんの驚いた顔が見たいから」
「まさか……。さとる?」
彼女は大きく口を開けてアハハと笑った。それから目元に溜まった涙を拭って七海の頬に口付ける。それは恋人同士の甘い時間の終わりを告げるものだった。彼女は時計を再びチラリと見ると、ベッドの下に落ちて皺になった七海のシャツをさっと羽織ってバスルームへと消えていく。一人ぽつねんとベッドに残された七海はしばらく動けなかったが、時計の時刻が四時半を指しているの確認したら慌ててバスローブを二着掴んだ。浴室の扉を勢いよく開けると「きゃあ!」と驚く彼女の声が聞こえ、外に放り出された。散々裸でまぐわった後だというのにいまさら何を恥ずかしがる必要があるのだと七海は思ったが、そんな彼女の姿も愛おしく感じて不躾な自分の態度を改めた。
コンコンコン。
バスルームの扉を三回ノックしてから声をかける。
「すみません。一緒に入ってもいいですか」
「いいよ」
中から弾むように笑う声が聞こえた。
団地の手前の路肩に車を停めて別れを告げる。彼女は七海に目を瞑るように言った。今日は別れのキスがあるのだと思い、七海は言われた通りに目を閉じる。するとその瞼に彼女の唇が当たった。七海は彼女に手を出してと言ったら彼女は手の甲を上向きにして差し出したが、七海はそれを裏返して手のひらにキスをして彼女を降ろした。時刻は午後五時をとうに回っている。挨拶を終えて早足で去る後ろ姿を見ながら、彼女はやはり、キスの場所の意味を知っているのだろうと七海は思った。
燃えるような夕焼け空。どこからか漂う夕げの匂い。遠ざかる愛しい人の背中。七海は一人になった車の中でとめどなく溢れる気持ちの行き場を探す。
指輪を贈りたいと言ったら困るだろうか。
時間を知るには腕時計が必要だ。
書き物をするとき万年筆が無いと仕事にならない。
いや、そんなものはどうでもいいか。
私をあなたの人生の一部にしてください。
望むものはそれだけです。